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はじめに

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変わらない人間の本質

いくら科学技術がめざましい発展を遂げても、変わらないものがあります。それは人間そのものの本質です。

科学技術が日進月歩で発展しているにも拘らず、わが国の自殺者が十年も続けて三万人を超え、さらに増え続けている現実は、私達に何を教えているのでしょうか。

それは、いくら科学技術が進歩し、不可能と云われていた事が実現する時代が到来しても、変わったのは眼に見える現象世界だけであって、悩み苦しむ存在としての人間の本質そのものは、お釈迦様の時代と全く変わっていないという事実であります。

お釈迦様が説かれた四苦八苦の教えは、決して過去の遺物でもなければ、死に絶えた教えでもありません。四苦八苦の人生は、今も私達の目の前に厳然と存在し、人間の本質は何も変わっていない事を問いかけているのです。

人類史上、悩み苦しむ人々を救わんがため、お釈迦様やお大師様をはじめ、先覚者と言われる方々が次々とこの世へ出られたのは、決して偶然ではありません。

それは、まさに時代の要請であり、乱れた世が、お釈迦様やお大師様を求めた結果なのです。

伝えるべきか否か

ホームページを開設するに当たり、最後まで悩んだ事が一つあります。

それは、私たちが今まで体験してきた、科学技術では到底解明出来ないであろうと思われる不思議な出来事や、お計らいを悟って初めて明らかになる神秘な出来事を、ありのままに伝えるべきか否かという事です。

何故なら、受け止め方によっては、信仰に対する誤った先入観を与えてしまい、救いの芽を摘んでしまうおそれがあるからです。

しかし、神仏が不可思議を現わしておられるのは、そうする事が人々を救済する上で必要だからであり、それを私達の判断でお伝えしないことは、また別の意味で衆生救済を妨げる事にはならないかという心配もあり、中々結論が出せませんでした。

最後まで悩んだ末、私達は、やはり今まで体験してきた事を、出来るだけありのままお伝えする事にしました。そう決意させたのは、一人の御住職の言葉でした。

あなたがうらやましい

以前、知り合いの御住職から、「あなたがうらやましい」と言われた事があります。

当時、癌を患っておられた御住職は、心の安らぎを求めて私の元を尋ねられたのですが、私は、今まで自分が体験してきた不可思議な出来事についてお話しながら、「見えない世界は確かにございます。み仏様も生きておられます。どうか、見えない世界を信じて下さい。み仏様の救いを信じて下さい」とお話したところ、「あなたがうらやましい」と仰ったのです。

「何故ですか」とお尋ねしたら、「私は長年、住職をしてきましたが、あなたのように不思議な体験をした事が一度もないのです。だから見えない世界があると言われても、み仏様が生きておられると言われても、素直に信じられないのです。数々の不思議な体験をしておられるあなたがうらやましい」と、悲しげな表情で言われたのです。

「不思議な体験をした事が一度もない」という言葉は、私にとって、思いもよらぬ言葉でした。何故なら、それまで、このような体験をしているのは私達だけではないと思っていたからです。

誰も彼もが、神秘体験をしているのではないと知った私は、改めて深い仏縁を頂く幸せを痛感すると共に、一人でも多くの皆さんに、同じような体験をして欲しいと思ったのです。

何故なら、神秘体験は、私達の人生観、世界観、死生観を根底から変える力を持っているからです。

特に次代をになう多くの若者には、是非神秘体験をして、肉眼に見える現象世界の裏に秘められた、無限に広がる見えない世界に触れて欲しいと願っています。夢も希望も持てないと嘆く若者が多い今の世の中だからこそ、そう願わずにはいられないのです。

何を見て何を観ていないか

インターネット網が世界中にはりめぐらされ、あらゆる情報が居ながらにして瞬時に飛び込んでくる今の時代、私達は、もはや情報なしに生きる事など不可能と言わなければなりません。

しかし、だからこそ、私達は、何を見て、何を観ていないか、何を観なければいけないかを、しっかり見極めなければいけないのではないでしょうか。

眼に見える物をこの肉眼で見る事が、見る事の本質ではありません。 見るとは、観る事であり、心で観じ取る事です。

移り変わる現象世界を見るのは肉眼ですが、移り変わりゆく現象世界の背後に潜む真理の声に耳を傾け、観じ取るのは、肉眼ではなく、心の眼であり、観の眼です。悟りの眼と言ってもいいでしょう。

観世音菩薩(観自在菩薩)と名付けられたみ仏様を、皆さんもよく御存知だと思いますが、この仏様はその名の通り、観の眼を持って、あらゆる真理を見通しておられるお方です。

いま私達が見失っているものがあるとすれば、それは観世音菩薩様が持っておられる観の眼ではないでしょうか。

一生に一度でいいから、皆さんに神秘体験をして欲しいと言ったのは、この観の眼を持って頂きたいからです。

私達が法徳寺開創までにたどってきた十四年間、そして開創から今日までの道のりの中で常に心がけてきた事は、観の眼を磨きながら、観の眼で物事の真相を観ることでした。

それは取りも直さず、生き仏である弘法大師様、そして、お大師様と不二一体の生き仏となられ、平成の弘法大師と慕われる普門法舟菩薩様の声なき声を心の耳で聞き、心の眼で観じながら歩む事でもありました。

どこまでその志が実現出来たかは分りませんが、法徳寺の開創や、汗露水の湧出となって結実した事実を見る限り、歩んできた道のりは決して間違っていなかったと確信しています。

今日御縁があってお参り下さった皆様が、一人でも二人でも、このホームページを通して、今まで何を見て、何を観ていなかったのかを考える奇縁として下さるなら、そして、皆様のかけがえのない人生に、生きる喜びと救いの光明をもたらすささやかなきっかけとなるならば、これにまさる喜びはありません。どうぞ心ゆくまでごゆっくりお参り下さいませ。

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自殺防止に向けて

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しあわせさがし~二十歳の君へ・高野悦子を偲んで(1)

高野悦子の自殺と全共闘運動

今から43年前の1969年(昭和44年)6月24日未明、一人の女子大生が、山陰本線の天神踏切付近で貨物列車に飛び込み、自殺しました。

彼女の名前は、高野悦子(たかのえつこ)。立命館大学の三回生。こう言っても、若い人にはピンと来ないかも知れませんが、『二十歳の原点』の著者と言えば、聞いた事がある人もいるかも知れません。

高野悦子は、1949年(昭和24年)1月2日、父三郎、母アイの次女として栃木県西那須野町(現在の那須塩原市)で生まれました。1964年(昭和39年)4月、第一志望だった栃木県立宇都宮女子高校に入学し、高2の時、修学旅行で訪れた京都の佇まいに触れ、憧れをいだくようになります。

高3になり、立命館大学を志望するようになりますが、その動機について、「早稲田の反骨精神もさることながら、立命館の立命館史学、それに京都という場所、また早稲田に似た反骨精神を知り、立命館に行きたくなった」「消極的な意味にしろ、日本史に対しての興味を持っているのだから、それをのばして行こう。そしてやっぱり立命館大学へ行こう。京都は七九四年、桓武天皇が都を奈良から京都へ移して以来明治まで、日本の中心として栄えた歴史のある町だ。街が出きて以来、七、八十年ほどしか経っていない西那須野町にしか住んだことのない私には、歴史(の深さ)に実感を感じたことがない。立命館に入って歴史について考えてみよう」(『二十歳の原点ノート』)と書いているように、高校時代から、立命大の反骨精神と、奈良本教授の立命館史学に惹かれていた事が分かります。

その後、第一志望だった立命館大学に合格し、1967年(昭和42年)4月、晴れて立命館大学文学部史学科に入学しますが、やがて、彼女の運命を大きく左右する全共闘運動の嵐に巻き込まれてゆく事になります。

高野悦子

全共闘とは、「全学共闘会議」の略で、1948年に結成された全学連(全日本学生自治総連合)が民青系(日共系)、中核派系、革マル派系などの各派に分裂して衰退化する中、大学のマスプロ教育の進行や学生管理の強化、学費の慢性的値上げなどに不満を持つ無党派(ノンポリ)の一般学生や政治活動に比較的関心の少ない学生が結集して作られた大学内の連合組織で、当時大学生であった多くの団塊世代が、運動に参加してゆきます。

そして、1968年の日大紛争と東大紛争をピークに、全共闘運動は全国の大学に広がっていきましたが、立命館も例外ではありませんでした。

現在の立命大のキャンバスは、京都市右京区の「衣笠キャンバス」と滋賀県草津市の「びわこ・くさつキャンバス」に分かれていますが、1968年当時は、衣笠キャンバスにあった理工学部、経済学部、経営学部を除く三学部(法学部、文学部、産業社会学部)は、京都御所東側の広小路キャンバスにあり、順次、衣笠キャンバスへの移転が進められているところでした。

大学発祥の地を離れ、新天地へ移ろうとしている過度期に、全共闘運動の嵐が立命館にも波及してきた訳ですが、立命館の全共闘運動は、大学当局の運営に対する学生の不満というより、大学の運営を巡る代々木系(日共系)と反代々木系(反日共系)の学生による主導権争いでした。

当時の立命館大学は、日本共産党の実質的な青年組織とも言える民青(日本民主青年同盟)が主導する「日共王国」でしたが、そんな中で唯一、民青に染まっていなかったのが、学園新聞を発行する「立命館大学新聞社」でした。

日本共産党に対し批判的な新聞社は、民青の学生にとっては、目の上のたんこぶ的存在であった事は言うまでもありませんが、問題の発端は、1968年12月12日、民青所属の学生10名ほどが、立命館大学新聞社に入社申し込みにやってきた事でした。

このような募集は春に行われるのが通例ですが、この季節外れの入社申し込みの目的は、日共に批判的だった新聞社の乗っ取りであった事は言うまでもなく、入社させろ、させないの押し問答の末、窓ガラスを割って進入してきた民青系の黒ヘルメットの一団によって、新聞社員が15時間にわたり監禁される所謂「新聞社事件」が起こったのです。

しかし、この日共系学生による強行突破が裏目に出て、いままで民青による主導を快く思っていなかった一般学生を立ち上がらせる結果となり、ヘルメットを被り、ゲバ棒を手にし、完全武装した数百名の一般学生(ノンセクト・ラディカル)が、民青側の学生に乗っ取られた新聞社の入る校舎を取り囲み、それが全学にまで及ぶ大騒動に発展していったのです。

更に、この新聞社事件に対する大学当局の対応が曖昧だったため、学生の怒りは頂点に達し、1969年1月16日の東大安田講堂の占拠に続く形で、立命大でも無党派学生を主体とする全共闘学生が大学本部の中川会館をバリケード封鎖するに至り、やがて機動隊と衝突する事になるのです。

さらに5月20日には、戦後民主主義運動の象徴ともいうべき「わだつみ像」が一部の全共闘学生によって破壊されてしまいますが、高野悦子が立命館大学に入学したのは、まさに全共闘運動の嵐が吹き荒れようとする前年の1967年(昭和42年)4月でした。

二年後の1969年(昭和44年)6月24日、彼女は鉄道自殺しますが、彼女の死後、下宿先で、十数冊の大学ノートに書かれた日記が発見されます。

そこには、20歳の誕生日である1969年1月2日(大学二回生)から、自殺二日前の6月22日(大学三回生)までの半年間に及ぶ彼女の内面が赤裸々につづられていましたが、彼女の父親、高野三郎氏が、この日記を同人誌「那須文学」に掲載して大反響を呼び、1971年には、新潮社から『二十歳の原点』と題して発行され、瞬く間にベストセラーとなります。

その三年後の1974年には、1966年11月23日(高校3年)から1968年12月31日(大学2年)までをつづった日記が、『二十歳の原点序章』として、更にその二年後の1976年には、1963年1月1日(中学2年)から1966年11月22日(高校3年)までをつづった日記が、『二十歳の原点ノート』として出版され、あわせて350万部ものベストセラーとなりますが、その頃には、彼女の青春時代そのものとも言うべき全共闘運動は、過去の出来事となっていました。

自殺の動機と背景

彼女が自殺するに至った動機や背景については、高校時代に奥浩平の『青春の墓標』を読み、”心の友”と呼ぶほど強い影響を受けていた事や、全共闘運動で挫折した事、失恋した事など、幾つかの要因が挙げられていますが、それらの根底にあったものは、一体何だったのでしょうか。

思うに、彼女自身が、「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」と書いているように、二十歳になった彼女が、名実共に大人に脱皮するために、どうしても乗り越えなければならないと自らに課した二つの命題(孤独と未熟さからの脱却)が、彼女の肩に重くのしかかっていたのではないでしょうか。

その事が象徴的につづられているのが、まさに1969年1月2日の二十歳の誕生日に書かれた次の文面です。

今日は私の誕生日である。二十歳になった。酒も煙草も公然とのむことができるし、悪いことをすれば新聞に「A子さん」とではなく、「高野悦子 二十歳」と書かれる。こんな幼稚なままで「大人」にさせてしまった社会をうらむなあ。未熟であること、孤独であることの認識はまだまだ浅い。

未熟であること。人間は完全なる存在ではないのだ。不完全さをいつでも背負っている。人間の存在価値は完全であることにあるのではなく、不完全でありその不完全さを克服しようとするところにあるのだ。人間は未熟なのである。個々の人間がもつ不完全さはいろいろあるにしても、人間がその不完全さを克服しようとする時点では、それぞれの人間は同じ価値をもつ。そこに生命の発露があるのだ。

人間は誰でも、独りで生きなければならないと同時に、みんなと生きなければならない。私は「みんなと生きる」ということが良くわからない。みんな何を考えているのかを考えながら人と接しよう。

彼女は、社会から大人として扱われる二十歳の誕生日を境に、孤独と未熟さの克服と言う二つの命題を自らに課し、大人へ脱皮するための困難な荒海に船出しようと、勇気を奮いたたせていたのではないでしょうか。

そして、この二つの命題を克服するため、彼女が身を投じて闘いを挑んだのが、まさに全共闘運動であり、恋愛だったのですが、やがて、この挑戦は挫折してゆく事になります。

人間としての主体性を確立し、未熟さを克服して、真の大人に脱皮するため、彼女は全共闘運動に参加してゆきますが、運動に失望する中で自らの未熟さを思い知らされ、主体性を確立できない自分への苛立ちと自虐性を、一層強めていきます。

訪米阻止!のシュプレヒコールを私が叫んだとて、それに何ができるのか。厳として機動隊の壁はあつい。私自身のうけるもの。あせり、いらだち、虚無感(デモの最中の)、ますます広がる混沌さ。(5月30日)

6.15 立命全共闘カンパニア闘争(?)で得たもの──立命全共闘の停滞。集会の混乱。セクトの引き回しとしか感じられぬ全共闘運動。べ平連など市民運動の多様性に対する共感及び学生運動の到達している質的な高さ──それらと、その運動に「参加」という形で加わっている私との違和感。1時から6.15闘争報告集会がある。私はいかない。なぜ?すべてに失望しているから。アッハハハハハ。(6月16日)

また、友人や家族や恋人とのつながりの中で孤独からの脱却を図ろうとしますが、友人との意見の相違や家族や恋人との決別によって、さらに孤独感を深めていきます。

きのう東京にて。姉と話す。父母と話す。決裂して飛び出す。8:00PM京都につく。非常に疲れている。次第に自分に自信をなくしている。(5月31日)

中村にテレをしたがいなかった。……毎日テレしてもいないということ。どこか出歩いているということ。テレを一回もかけてこないということ。誰が考えてもハッキリしている。彼は会いたくないのだ。一抹の期待も抱いてはならないのだ。きっぱり訣別しよう。中村の好きなシャンソンの一曲「アデュー」を暗い部屋に向って歌った。私はあの若人のもつ明るい笑い声をとうとう失ってしまった。そして、再び「結局は独りであるという最後の帰着点」に私はいる。(6月3日)

そして、彼女の心は、生きることへの意欲と、生きることの苦しみとの狭間で、揺れ動くようになります。

生きることは苦しい。ほんの一瞬でも立ちどまり、自らの思考を怠惰の中へおしやれば、たちまちあらゆる混沌がどっと押しよせてくる。思考を停止させぬこと。つねに自己の矛盾を論理化しながら進まねばならない。私のあらゆる感覚、感性、情念が一瞬の停止休憩をのぞめば、それは退歩となる。怒りと憎しみをぶつけて抗議の自殺をしようということほど没主体的な思いあがりはない。自殺は敗北であるという一片の言葉で語られるだけのものになる。(6月1日)

弱い人間。女なんかに生まれなければよかったと悔む。私が生物学的に女であることは確かなのだが、化粧もせず、身なりもかまわず、言葉使いもあらいということで一般の女のイメージからかけ離れているがゆえに、他者は私を女とは見ない。私自身女なのかしらと自分でいぶかしがる。また、前のように髪を肩のへんまで伸ばし、洋服も靴もパリッとかため、化粧に身をついやせば私は女になるかもしれない。しかし、何に対してそうするのか。中村さんも私がそのようにすれば少しは注目するだろうか。女は身ぎれいにしていないと、社会から端的にその人格を否定される。あ──あ。そんな社会はこっちからお断りする。ただ、それだけのことさ。(6月7日)

結局、未熟さの克服も、孤独からの脱却もできぬまま、彼女は次第に絶望感を深め、ついには、自分の生存そのものへの懐疑を抱き始めるのです。

「人間は何故こんなにしてまで生きているのだろうか。そのちっぽけさに触れることを恐れながら、それを遠まきにして楽しさを装って生きている。ちっぽけさに気付かず、弱さに気付かず、人生は楽しいものだといっている。(6月17日)

これらの文面を読むと、こんな未熟な自分がなぜこの世に存在しているのか、なぜ存在しなければいけないのかという、「自己の生存」そのものに対する疑念が、彼女の内面に広がっていったのがよく分かります。

そして、恋人との別れが決定的となり、彼女はますます孤独感を深めていくのです。

みごとに失恋──?アッハッハッハッ。君。失恋とは恋を失うと書くのだぜ。失うべき恋を君は、そのなんとかいう奴とのあいだにもっていたとでもいうのか。共有するものがなんにもないのに恋だって?全くこっけいさ。……そうさ。君にいま残っているものは憎しみさ。こっけいだねえ。(6月18日)

ちっぽけな、つまらない人間が、たった独りでいる。(6月18日)

そこから聞こえてくるのは、生きることの意味も、しあわせの意味も分からなくなってしまった彼女の悲痛な叫びですが、2月1日には、自殺について、次のように書いています。

私は二、三日前からおかしな考えに取りつかれている。カミソリで指を切り血を流そうという考えである。私は、カミソリをもちそれを一気に引くときの恐怖を考えるとゾッとする。体中の力が抜けてワナワナとなる。お前は自分を傷つける勇気がないのかと励ますがダメである
今日、カミソリを買ってきた。スッパリと切り赤い血をタラタラと流し真白なほう帯をしようと考えた途端、ヘナヘナと力がぬけてしまった。おそるおそるやっていたら、チクリと痛みが走った。あわてて手を離したのだが、それでも血が出てきた。真っ赤な動脈血であった。

そして、自殺する二日前の6月22日には、死んだ時の事をこう記しています。

私が死ぬとしたら、ほんの一寸した偶然によって全くこのままの状態(ノートもアジビラも)で死ぬか、ノート類および権力に利用されるおそれのある一切のものを焼きすて、遺書は残さずに死んでいくかのどちらかであろう。(6月22日)

またこうも記しています。

今や何ものも信じない。己れ自身もだ。この気持ちは、何ということはない。空っぽの満足の空間とでも、何とでも名付けてよい、そのものなのだ。ものなのかどうかもわからぬ。(6月22日)

旅に出ようー最後の詩に込めた彼女の思い

そして、最後に「旅に出よう」で始まる一遍の詩で、日記は終わっているのですが、この「詩」からは、彼女の心の奥底までもが透き通って見えるような透明感と、何ものをも恐れない、死をも超越した、絶対的安心感のようなものが感じ取れます。

 旅に出よう
 テントとシュラフの入ったザックをしょい
 ポケットには一箱の煙草と笛をもち
 旅に出よう

 出発の日は雨がよい
 霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
 萌え出でた若芽がしっとりとぬれながら

 そして富士の山にあるという
 原始林の中にゆこう
 ゆっくりとあせることなく

 大きな杉の古木にきたら
 一層暗いその根本に腰をおろして休もう
 そして独占の機械工場で作られた
 一箱の煙草を取り出して
 暗い古樹のしたで一本の煙草を喫おう

 近代社会の臭いのするその煙を
 古木よ おまえは何と感じるのか

 原始林の中にあるという湖をさがそう
 そしてその岸辺にたたずんで
 一本の煙草を喫おう
 煙をすべて吐き出して
 ザックのかたわらで静かに休もう

 原始林を暗やみが包みこむ頃になったら
 湖に小舟をうかべよう

 衣服を脱ぎすて
 すべらかな肌をやみにつつみ
 左手に笛をもって
 湖の水面を暗やみの中に漂いながら
 笛をふこう

 小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中
 中天より涼風を肌に流しながら
 静かに眠ろう

 そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう

彼女の死は、他人の眼から見れば、鉄道自殺以外の何ものでもありません。しかし、その死を彼女の眼から見ると、どうなのでしょうか。「あなたは自殺したのですか?」と尋ねたら、彼女は何と答えるでしょうか。

この詩を読んでいると、「私は自殺したんじゃないよ。この詩に書いたように、旅に出ただけだよ。アッハッハッハッ。」という彼女の笑い声が聞こえてくるような気がしてなりません。

この詩には、彼女が旅立った先が、富士山の麓に広がる原始林(青木ヶ原樹海?)と、そこにある湖と書かれていますが、富士山は、かつては不死の山と呼ばれていました。

竹取物語によれば、かぐや姫は、不死の薬と天の羽衣、そして、帝を慕う心をしたためた文を残して月へ帰ってゆきますが、帝は「かぐや姫の居ないこの世で不老不死を得ても意味がない」と言って、それらを駿河国の日本で一番高い山で焼くように命じられ、それ以来その山は「不死の山」(富士山)と呼ばれるようになったと言うのです。

その不死の山を目指して旅に出ようと、最後の詩にしたためて旅に出た彼女の心境を考えると、かぐや姫が月へ帰っていったように、彼女が帰るべき所、つまり魂のふところへ帰っていったのではないかとしか思えません。

勿論、他人があれこれ考えたところで、その真相は、本人にしか分からない藪の中と言えましょうが、もしかすると、高野悦子自身にも分からないのかも知れません。真相を知っているのは、彼女が欲した「神様」だけなのかも……。

いずれにせよ、全共闘運動は過去のものとなり、私の記憶には、高野悦子という女子学生が自殺したという事実だけが残りました。あれから43年経った今も、彼女の自殺は、私の記憶の中から消え去る事がありません。

それどころか、彼女の死を無駄にしたくないという思いが、心の片隅でくすぶり続けているのも事実で、その思いは、年月を経るにしたがって強まりこそすれ、弱くなる事はありません。

そんな思いになるのも、もしかすると、彼女と同じキャンバスで、同じ空気を吸って学んだ人間の一人として、彼女の死に何らかの形で報いなければ申し訳ないという贖罪意識のようなものが、心の奥底に沈殿しているからかもしれません。

個人的な事をお話すれば、富士山の見える地に救済道場を建立したいとの夢をいだき、8年前、その夢が叶い奈良から移り住んだ地が、彼女が旅に出ようと書いた富士の裾野に広がる原始林と湖のある山梨であったという事に、不思議な因縁のようなものを感じています。

今この文章を書きながら、「何故私は、彼女の自殺から40年も経った今になって、彼女の事を思いながら、詩を作り、歌を作ったのだろう。もしかすると、高野悦子が私にこの文章を書かせ、歌を作らせて、何かを伝えようとしているのではないか」、そんな何とも言い表せぬ不思議な感覚に襲われているのも、事実なのです。

彼女が残したメッセージ

60年安保デモによって22歳の若さで亡くなった樺(かんば)美智子。彼女の死に触発されて高校生ながらデモに参加し、後に自らも活動家となって、21歳の若さで自殺した奥浩平。そして、彼の残した『青春の墓標』に強い影響を受け、やがて自らも学生運動に身を投じて鉄道自殺した20歳の高野悦子。

この三人の生き様を見ていると、学徒動員によって戦地に赴き、散っていった若き学生達の事が思いだされます。

勿論、その頃、私はまだ生まれていませんし、その時代の空気も知りません。しかし、戦後生まれの「戦争を知らない子供たち」の一人である私には、戦中の学徒動員と、戦後の学生運動という、相反するかのように見える彼らの行動の底に、共通する一つの思いが流れているような気がしてならないのです。

それは、国を思い、国の将来を憂い、「わが同胞よ安かれ」と祈る若者の真摯で純粋な思いです。その思い(願い)が、戦中は学徒動員という形で、戦後は学生運動という形で出てきたのは、時代状況が大きく違っていたからですが、問題は、それが彼らの意思だけでそうなったのかという事です。

学生の本分が、学問研究にある事は言うまでもありませんが、学生が持つべきペンを、戦中の学生は銃に、戦後の学生はヘルメットとゲバ棒に持ち替え、空しい闘いに挑んでいかざるを得なかったのは何故か。

いま思えば、それは彼らの意思でも望みでもなく、一人の人間の力ではどうする事もできない巨大な歴史のうねりの中に巻き込まれていかざるをえなかった結果ではないでしょうか。

出征したある学生が、「これから人殺しをしなければならないと思うと、残念でした。いま俺は、そういう時間と空間の流れの中にいるんだ。 俺はいやだというわけには行かない。一つの諦めでした」と語っているように、ひとたび巨大な歯車が動きだせば、時間は怒涛のごとく流れ出し、もはやいかなる力を以てしてもくい止める事はできず、否が応でも、そのうねりの中に引きずり込まれてゆかざるを得ないのです。それが、先の戦争であり、形を変えた戦後の学生運動という闘いなのではないでしょうか。

戦中の学徒動員や戦後の学生運動を見れば、そこには形こそ違え、国を思い、国の将来を憂いながらも、決して逆らうことの出来ない巨大な時代のうねりに翻弄されていかざるを得なかった当時の若者の悲しい姿があります。高野悦子も、そんな学生の一人だったのではないでしょうか。

入学当初、彼女は立命館史学にあこがれ、希望を抱いていました。しかし、やがて、自分の意思とは関係のないところで動き出した安保闘争や学生運動の流れの中に、否応なく巻き込まれていったのですが、その時の彼女の心の動きが、日記には克明に記されています。

ヘルメットの学生がマイクを口にあててアジテーションをしている。彼らには歴史がある。彼らは、現実そのものに歴史がある。私は私の歴史をもっていない。ノンセクトから無関心派への完全なる移行、激しい渦の前でとまどいを感じる。動け?(1月17日)

民青を支持したとしても、反民を支持したとしても、どっちにしろ批判と非難はうける。絶対に正しく、絶対に誤っているということはないのだ。どっちかを支持しなくては行動できないのかもしれないが。(1月23日)

「君は代々木系か反代々木系か」という問いを不信な敵意に満ちたまなざしで投げかけられる。しかも一年間、同じ机で学んだクラスの友達からその眼ざしを受けると私は寂しく悲しくなる。真剣に不信も無力感も感じてはいるが、何の態度も表明できずにいる無力な私、どっちもどっちだと考えることで辛うじて己れの立場を守っている私。ああ──!そんなセンチメンタリズムは捨て去ってしまえ!強くなるのだ!強くなれ!「もうこうなっては傍観者ではいられない」この言葉をまた今あらためて言わざるを得ない。そういえばいつもそう言って来たっけ。でも今度こそ!傍観は許されない。何かを行動することだ。その何かとはなんなのだろう。(2月1日)

こうして彼女は、行動しなければいけないと、何度も自らに言い聞かせながら、学生運動という大きな流れの中に呑み込まれていったのですが、それは、彼女の意思というよりも、彼女を取り巻く時代の空気であり、その空気の中では、行動する以外の選択肢はないと思いつめたのかも知れません。

最初の内は、彼女なりの抵抗も試みますが、やがてその空気は彼女の体内を覆いつくし、彼女の意思をがんじがらめにしばってゆきます。彼女を自殺に追いやったものが何かは、神ならぬ身に分かる筈もありませんが、少なくとも学生運動という1970年代の大きな時代のうねりが、彼女を翻弄した事だけは否定できないでしょう。

勿論、私のように、どちらにも属さなかったノンポリ(無党派)の学生が大勢いた事も事実であり、全共闘運動が全国の大学に拡大していったとは言え、戦中の学徒動員のように、すべての学生を巻き込むほどの巨大なうねりになりえなかった事も事実です。

しかし、巨大なうねりも、最初はたった一滴の波紋から始まるのです。最初はいくら小さくても、次第に大きなうねりとなり、ついには誰も止める事のできないほどの大きさに膨れ上がるのが、時代のうねりというものではないでしょうか。

東日本大震災で、三陸沿岸から関東沿岸の広い範囲にわたって押し寄せた巨大津波をみれば分かるように、時代のうねりも、放置すれば、必ず私達に災いをもたらします。その証が、過去に何度も繰り返されてきた戦争です。

いまわが国を取り巻く世界情勢が、日々緊迫化しつつあることは、もはや周知の事実です。尖閣諸島、竹島、北方四島などの領土問題をはじめ、ギリシャ国債に端を発したヨーロッパ経済の金融危機問題、深刻化する温暖化問題、やむ事のない無差別テロによる大量殺戮と貧困飢餓問題、そしていじめ問題や自殺問題等々、国内外に山積する難問は増加の一途を辿り、負のうねりが、少しずつですが、その大きさを増して迫りつつあるのは、誰の目にも明らかです。

将来、この負のうねりが、どのような形で私達や子々孫々に災禍をもたらすかは、誰にも分かりません。しかし、いかに小さなうねりであろうと、それを放置すれば、必ず禍根を残す結果を招くでしょう。だからこそ、禍根の種は、小さい内から、摘み取っておかねばならないのです。そして、それができるのは、私たち一人一人の平和を願う心であり、絶え間ない努力しかありません。

1969年、一部の立命館全共闘学生の手によって破壊された、戦没学生記念像「わだつみ像」の台座には、末川博立命館大学総長の手になる碑文が刻まれています。

未来を信じ未来に生きる。そこに青年の生命がある。その貴い未来と生命を、聖戦という美名のもとに奪い去られた青年學徒のなげきと、怒りと、もだえを象徴するのがこの像である。
 なげけるか いかれるか はたもだせるか
 きけ はてしなきわだつみのこえ

ひとたびは破壊されたものの、「わだつみ像」は、1976年に再建され、平和を願って散っていった戦没学徒の声なき声を、いまも発信し続けています。

「平和の大切さ 」──言いふるされた言葉ですが、戦争の悲惨さを伝える体験者が減少の一途を辿り、戦争体験の風化が叫ばれている昨今だからこそ、高野悦子の自殺の意味が、改めて問い直されてもいいのではないかと思います。

合掌

平成24年8月23日

ありがとう~ひとさし指から奏でるしあわせ

坂中さん親子の生きるための闘い

坂中明子さん。

皆さんは、このお方をご存じでしょうか? そう言う私自身は、残念ながら、つい最近までまったく存じ上げませんでした。

私が坂中さんの事を知ったのは、Facebookで紹介されていた『日本一心を揺るがす新聞の社説』(ごま書房新社)という、「みやざき中央新聞」の社説をまとめた本を通してですが、坂中さんは、20歳の時、予期せぬ医療事故によって、全身麻痺という重い後遺症に見舞われました。

『ひとさし指から奏でる♪しあわせ』(新水社)には、明子さんと、母親の浩子さんが、全身麻痺という想像を絶する困難な現実と真正面から向き合って来られた壮絶な日々が赤裸々に綴られています。

明子さんは、3歳の頃からピアノを習い始め、地元の宮崎女子高の音楽科から、宮崎女子短大の音楽科に進学し、浩子さんが主宰するピアノ教室で子供たちの指導をしながら、ピアニストを目指していました。

ところが、短大を卒業し今まさに夢の実現に向けて船出しようとしていた矢先の1995年(平成7年)9月5日の夕方、微熱があるというので、掛かりつけの医院に点滴を打ちに行ったところ、その最中に突然呼吸困難となり、心肺停止状態に陥るという思いもよらぬ医療事故に見舞われたのです。

明子さんには、元々喘息の持病があり、高校2年の時、飲んだ錠剤が原因で呼吸困難に陥った事があったため、掛かりつけの医師から「その錠剤だけは絶対に飲ませないように」と固く釘をさされ、家にもその錠剤だけは置かないようにしていたのですが、その医師自身が、不注意から、使ってはいけない錠剤を処方するという初歩的な医療ミスをおかしてしまったのです。

その前日にも喘息の発作が起きて点滴を受けていたので、常識的には起こりようのない医療事故ですが、その起こりえない事故が起こってしまったのです。

結局、明子さんは、一命を取り留めたものの、20歳にして、全身麻痺という重い後遺症を背負わなければならなくなり、この瞬間から、人生のどん底に突き落とされた坂中さん親子の壮絶な闘いの日々が始まったのです。

思いを伝えられない悔しさに涙する日々

心肺停止状態によって、すべての臓器がやられ、脳もかなりダメージを受けていると考えられていたため、入院した病院の医師をはじめ、関係者の誰もが、明子さんに何を話しても理解できないだろうと考えていました。

しかし、明子さんは、全身麻痺によって、自分の意志を伝える手段を失ったため、 相手に自分の気持ちを伝えられなかっただけで、何もかもすべて分かっていました。

私は思ったことがスムーズに伝えられない。
緊張していると言葉が出ないのだ。
 話しかけられても「ウン」とも「スン」とも言わないでいると、相手から「こちらの言ってること、わかるの?」、なんて言われたりする。
そんなとき、「わかってるよぉーーーーだ!」と大声でわめきたくなる。

自分の思いを伝えられないもどかしさ、哀しさ、悔しさに、明子さんがどれほど涙されたかは想像に余りあります。

また若干20歳で、全身麻痺という絶望的な境遇に突き落とされた明子さんが、生きる希望を失くし、死を考えるようになったとしても不思議ではありません。

母親の浩子さんは、

その頃よく、明子は私にこう言うのだった。
「お、か、あ、さ、ん、こ、ろ、し、て!」
「いっ、しょ、に、し、の、お!」
明子や私にとって、この過酷な現実を認めることは、あまりにもつらかった。私も『死』について、真剣に考えることがよくあった。

と書いておられますが、全身麻痺という後遺症を、生涯背負っていかなければならないという過酷な現実を前にすれば、いくら頑張ろうと懸命に自らを鼓舞しても、やはりやり場のない憤りと悔しさと悲しさの余り、挫けそうになるのも無理はありません。

お母さんが私のお母さんでよかった

それだけに、坂中さん親子の胸中は察するに余りありますが、明子さんを支え、その心を救ったのは、やはり浩子さんの深い愛情でした。

チューブにつながれた明子さんは、水をガーゼに含ませて飲ませても、むせて飲むことが出来ませんでした。

もし口から水を飲めなければ、鼻から管を通して栄養を送り込むしか方法はありませんが、それをすると、次第に体力も弱り、寝たきりになってしまう恐れがあります。

出来れば、自分の意思で水を飲んだり食物を食べたりした方がいいのですが、主治医は、「鼻腔栄養にしないと、また元の状態(心停止)になります。明子さんには何を言ってもわかりません」と言って、口から食物を入れる事を最初から諦めているような口調でした。

しかし、母親の浩子さんは、決して諦めず、何とか口から美味しいものを食べさせたいと、一人黙々と明子さんに水を飲ませる練習を続けられたのです。

そこには、親子だから必ず通じ合えるという浩子さんの強い信念がありました。

私たちは親子だ。わかり合えないこともあるが、わかり合えることもいっぱいある、と私は強く信じている。だから、私の気持ちは明子には通じるはずだ。なのに知識だけの世界で生きている人には、目の前の現実だけがすべてなのか。人間にとって心の占める割合がどんなに大きいか、この知識人は知らないのだろうか。
明子の心に刺激を与えることにしよう。
このまま医者の言うことだけを聞いていては、何一つかわらない。
明子には音楽がある。少なくとも明子にはこの二十一年間、魂で聴き続けた音楽があるのだ。私の気持ちが伝わらないはずがない。

浩子さんは、カーゼに水を含ませて飲ませても、むせて飲めないのは、看護師が明子さんに、水を飲むという事を意識させていないからだと見ぬき、その意識を持たせる努力を続けられたのです。

浩子さんのこの深い愛情と、必ず通じ合えるという強い信念がついに実を結び、明子さんは、やがて水を飲むという意識を取り戻し、水を飲むようになったのです。

そればかりか、おもゆや裏ごしした梅干し、具なしの茶碗蒸し、差し入れのシチューまで食べられるようになり、浩子さんの一念は、不可能を可能にしたのです。

そのお母さんの深い愛情が、明子さんの心に響かない筈がありません。

母娘2人で八ヶ岳のペンションに泊まった夜、余り声が出せない明子さんが、改まった口調で、浩子さんに「お、か、あ、さ、ん、が、わ、た、し、の、お、か、あ、さ、ん、で、よ、かっ、た。か、ん、しゃ、し、て、い、ま、す」とおっしゃったそうですが、この片言の言葉は、明子さんのお母さんに対する精一杯の感謝の叫びだったに違いありません。

大きな転機の訪れ

医療ミスから三ヵ月が経過した1995年12月15日、浩子さんが主宰するピアノ教室の発表会が開催され、車椅子に座った明子さんは、多くの教え子たちから暖かく迎えられ、再開の涙が会場全体を埋め尽くしました。

しかし、明子さんを取り巻く現実は厳しく、坂中さん親子の前に立ちはだかる困難な日々は、まだ始まったばかりでした。

その後、坂中さん親子は、全身麻痺という過酷な状況を少しでも好転させようと、幾つもの病院への入退院を繰り返しながら、懸命にリハビリに励んでいましたが、明子さんに大きな転機が訪れたのは、医療ミスから5年後の2000年でした。

或る日、何気なく見ていたテレビで、埼玉県所沢市の「国立身体障害者リハビリテーションセンター」が紹介されているのを見た浩子さんは、ここに明子さんを入院させたいと強く決意されるのです。

藁にもすがる思いで、このセンターに一縷の望みを託されたのですが、このセンターは、回復可能な障害を負った人が入院するのが原則で、明子さんのような回復の極めて難しい後遺症を負った人は入院出来ない決まりになっていました。

しかし、様々な伝手を頼りに、2000年8月21日、例外的に入院を認められた明子さんは、ここで人生を左右する二つの大きな出来事に遭遇します。

一つ目は、「国立身体障害者リハビリテーションセンター」の医師たちが、全身麻痺の明子さんの体の中で、たった1か所だけ動く箇所を発見したのです。

それは、明子さんの左手のひとさし指でしたが、もし、このセンターに入院していなければ、恐らく誰も明子さんのひとさし指が動くことに気付かなかったでしょう。

この発見によって左手のひとさし指のリハビリが始まり、やがて涙ぐましい努力の結果、パソコンを使って自分の意志を伝えられるようになったのです。

二つ目は、同センターで同室だった女性の息子さんと知り合い、ひとさし指でメール交換を始めた事で、これも、明子さんにとって大きな転機となりました。

このメール交換が、やがてみやざき中央新聞の編集者の耳に入り、明子さんは、同新聞にエッセイを寄稿することになったのです。

明子さんのエッセイは1年半も続き、多くの読者に感銘を与えましたが、このエッセイが、やがて『ひとさし指から奏でるしあわせ』となって、更に多くの読者の下へ届けられる事になったのです。

私が、明子さんの事を知ったのも、この本との出会いがきっかけですから、まさに左手のひとさし指が人生を切り開いてくれたと言っても、過言ではないでしょう。

自立に向けて

左手のひとさし指が動くとは言っても、全身麻痺の明子さんにとって、一人暮らしの困難さは、私には想像も及びません。

しかし、明子さんは、みやざき中央新聞にエッセイを掲載しておられた重度障害者の山之内俊夫さんが、自立に向けて一人暮らしをしておられる事に勇気づけられ、自分も一人暮らしをしてみたいと決心されるのです。

2003年4月から、NPO法人障害者自立支援センター「YAH!DOみやざき」の支援を受けながら、自立に向けて一人暮らしを始められましたが、その暮らしぶりが何もかも順調だった訳ではありません。

浩子さんが、

あれほどリハビリをし続けても、予想もしなかった四肢硬直化が進んでいく。手足があるとはいえ、自分の意思とは無関係に動いてしまう。それを抱えながらも必死に生活している明子。

と書いておられるように、その前途を妨げるかのように、過酷な試練が次々と明子さんの前に立ちはだかってきたのです。

生きていくという事は、日々何かを一つ一つ失っていく事の繰り返しであり、私でさえ、齢を重ねるに従って、今まで出来ていた事が出来なくなる現実を前にして、暗澹たる気持ちになる事がありますが、たとえそうであっても、私には、まだ自由に動く手足があり、行きたいと思えば、自分一人で、いつでも好きな所へ行けるのです。

その事を考えると、自分で出来る事がほとんどない重い後遺症を負っている明子さんが生きていく日々の過酷さは、私達の比ではないでしょう。

ありがとう~真のしあわせとは

二十歳という若さで、思いもよらぬ医療事故によって全身麻痺という重い後遺症を背負わざるをえなくなった坂中明子さん。

この過酷な現実を前にして、絶望、怒り、悔しさ、哀しさ、もどかしさ等々、明子さんの胸中を去来した様々な思いは、とても言葉にはならないでしょう。

浩子さんが

明子はいつもニコニコしていた。まるで天使のように……。夫の前でも泣き顔は見せなかった。しかし、私と二人でいると、折にふれては泣いた。
泣いては小さな声で「ファイト」と言った。
何度も何度も「ファイト! ファイト!」と言った。
その声はだんだん大きくなり、最後には大きな声で狂ったように「ふぁーいーと!!」と言って泣き崩れるのだった。

と書いておられるように、明子さんは、挫けそうになる気持ちと、頑張らなければいけないという気持ちとの狭間で揺れ動き、その都度、何度も勇気を奮い立たせては、自らを鼓舞し、幾多の試練を克服してこられたに違いありません。

そして、全身麻痺の中でたった一つだけ動かすことのできるひとさし指を使いながら笑顔を絶やさず懸命に生きておられるその姿は、いまも多くの人々に深い感銘を与え続けているのです。

本を通して坂中明子さんの事を知り、少しでも心の励みになればと思い、応援歌のつもりで作ったのが、『ありがとう~ひとさし指から奏でるしあわせ』ですが、明子さんを見ていて改めて考えさせられたのは、人間にとって幸せとは何かという事です。

世間の人々がよく口にするのは、幸せになる為には、あれも必要、これも必要、あれが無いから幸せになれない、これが無いから自分は不幸せだと言うように、幸せになるためには、欠けているもの、足りないものを手に入れなければいけないと言う発想です。

しかし、全身麻痺の明子さんが動かせるのは、左手のひとさし指たった一本であり、そのたった一本のひとさし指でさえ、自由自在には動いてくれないのです。

では、いまの明子さんは、重い後遺症を負っているから不幸なのかと言えば、決してそうではないと思います。

勿論、医療事故によって、全身麻痺になった時は、不幸のどん底に突き落とされた心境だったに違いありませんし、全身麻痺の状況は今もまったく変わっていません。それどころか、むしろ悪化しているのではないでしょうか。

にも拘らず明子さんは、決して不幸のどん底にはおられないと思います。

全身麻痺の体を不幸と思えば、不幸であり、不幸でないと思えば、不幸ではないのです。幸不幸を決めるのは、結局自分しかいないのですから…。

体の障害と心の障害

先天性四肢切断(生まれつき両腕と両脚がない)という障害を背負って生まれた乙武洋匡(おとたけひろただ)氏は、その著書『五体不満足』の中で、「障害は不便です。しかし、不幸ではありません」とおっしゃっておられますが、まさに名言ではないでしょうか。

「障害は不便ですが、決して不幸ではありません」と、言い切れるのは、乙武氏が、心の障害者になっていないからだと思います。

「大阪堀江の六人斬り事件」によって両腕を失くされた大石順教尼は、多くの障害者にこう言っています。

身体の不自由、これはね、そういう因縁なのだから仕方がないが、私達は心の障害者になってはいけないのだよ。

心の障害者、そんな障害があるのですか?

あんたね、片足が悪いだけでよく転ぶでしょう。どうしてか分りますか。

わかりませんが、悲しいです。

転ばなくても歩ける方法を教えてあげよう。それはね、悪い足をかくさないことだよ。心の障害というのはそれをいうのだよ。忘れなさいという事は無理かもしれないが、片足が悪いくらいのことに心をうばわれてはいけないのだよ。

どうしたら、その心の障害を取り除く事が出来るのですか?

自分のことは自分で出来るようにする、それだけの小さな生き方でなしに、世の中のために感謝と奉仕の心をもって、心の働きを生かすのだよ。たとえ、何にも出来ずにベッドにふせっていても、微笑みひとつでも、やさしい言葉ひとつでも、周囲の人々に捧げる事が出来たら、その人は社会の一隅を明るくすることが出来るのだよ。
私はね、障害というのは、身体の自由、不自由とは別ではないかと思う事さえあるのだよ。
たとえ健全な肢体に恵まれていても、それを人のために生かす心を持たず、五欲のほしいままに、お互いが傷つけあうことしか知らないとしたら、大変な心の障害者ではないかと思うのだよ。
此の頃、私は、両手を無くしたこと、何も知らない無学なものであったこと、そして、お金にたよらずに貧乏してきた事が、本当に私の眼に見えない大きな財産なのではないかと、しみじみとその幸せを味わっているのだよ。

先生、もう少しわかりやすく教えて下さい。

そうね、生きてゆくための、幸福になるための、条件とか資格とかいうものは、何一つないのだ、とでも言ったら分るかい。禍も福もほんとうは一つなのだよ。

また2歳の時に、足のしもやけがもとで突発性脱疽(とっぱつせいだっそ)という病気に侵され、両手両足を失くされた中村久子さんも、同じような事をおっしゃっておられます。

私自身に最も深く思わせられたことは、障害をむしばむものは障害ではなく、自らの精神によるものであるということです。

こんな手や足で電車や自動車の通るこんなこわい所が歩かれるだろうか、などと不安の念がちょっとでも頭に浮かんだらもうおしまいです。足も体もすくんでしまって、一歩たりとも前進はできません。障害が難物というよりは、心の障害が一番の難物なのであります。

人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。

勿論、思い方は人それぞれですから、両手両足を失くした事を、不幸と考える人も、世の中にはいるでしょう。

明子さんのように、医療事故によって全身麻痺の後遺症を負った事も、見る人によっては、確かに不幸に見えるかも知れません。

しかし、全身麻痺の後遺症を負ったからこそ得られたもの、後遺症を負わなければ絶対に見えなかったものもあるのではないでしょうか。

明子さんは、全身麻痺によって、すべてを失った訳ではありません。失ったものもある代わりに、明子さんが新たに得たもの、見出したものも、決して少なくないのです。

この10年余に失ったものは大きかった。しかし、与えられたものも、また大きかった。人の優しさや人の心の深さ。そういったものを持ちあわせる人たちが現実に存在するという驚き! 家族の絆というもの……。
健康であれば、お互いにお互いの大切さや幸せに気づくこともなく通り過ぎてしまっただろう。

と、浩子さんも書いておられるように、今まで気づかなかったこと、見えなかったものが見えるようになった喜びは、困難や挫折や絶望に直面して、大切な何かを失った経験のある人でなければ、実感できないでしょう。

失って初めて得られたもの、見えてきたものこそ、全身麻痺という後遺症が明子さんに与えてくれた本当の幸せであり、後遺症を負っていなければ、得る事も見る事もできなかった、輝ける人間の在るべき姿なのではないでしょうか。

中村久子さんの次の言葉が、その事を雄弁に物語っています。

良き師、良き友に導かれ、かけがえのない人生を送らせて頂きました。今思えば、私にとって一番の良き師、良き友は、両手両足のないこの体でした。

イツモココニイルヨ

全身麻痺の中で、唯一動かせる左手のひとさし指。何故、左手のひとさし指だけが動かせるのか。

勿論、これはただの偶然でしょう。しかし、その偶然にも、意味があるとすれば…。

確かに、パソコンで文字を打ち込んだり、メールをしたりする事が出来るように左手のひとさし指だけが使えるよう、神様が残して下さったのかも知れませんが、私には、もっと深い意味があるような気がします。

ひとさし指と聞いて、先ず私の脳裏に浮かんだのは、スティーブン・スピルバーグ監督が制作して大ヒットした1982年公開のユニヴァーサル映画「E.T.」です。

遥か宇宙の彼方から地球探査にやってきた地球外知的生物「E.T.」。ところが、その中の一人が宇宙船に乗り遅れて地球に取り残されてしまいます。

ある夜、10才のエリオット少年は、奇妙な姿をしたE.T.と遭遇しますが、いくら家族にE.T.を見たと言っても誰も信じてくれません。

ETとエリオット少年はテレパシーで心を通わすことができますが、NASAの科学者がE.T.を見つけ出し、ETとエリオットは科学者達によって隔離されてしまい、エリオットは助かったものの、ETは治療の甲斐無く死んでしまいます。

エリオットが、「酷い目に合わせてごめんね。君が死んで僕はもう何も感じられない。君はどこへ行っちゃうの?君の事は一生忘れないよ。ET、君が好きだ」と、別れを告げて出て行こうとすると、ETの胸元が赤く光り、枯れていた花が元気を取り戻します。

それを見たエリオットが急いで、亡くなった「E.T.」が入っているカプセルの扉を開くと、そこに生き返ったETがいたのです。

「ET、デンワシタ。ウチニデンワ」
「迎えが来るの?!」
「ソウ、オウチニデンワ」
「静かにして!」

エリオットは、兄に車を運転してもらい、ETを公園まで連れて行き、そこから自転車で仲間と一緒にETを森へ連れて行きます。

途中、捕まりそうになっても、ETの不思議な力で自転車は大空へ舞い上がり無事に森へたどり着くと、そこにはETを迎えにきた宇宙船が待っていました。

二人は、左手のひとさし指で胸を撫でながら「イタイ」と言って、泣きながら抱き合い、別れを惜しみます。

そして、最後にETが、光る左手のひとさし指をエリオットの額に当てながら、「イツモココニイルヨ」と言って別れを告げ、綺麗に咲いたエリオットの花を持って宇宙船に乗り込み、空の彼方へと去っていくのです。

この「E.T.」が公開されたのは、明子さんが医療事故に遇う13年も前の1982年ですが、最後の別れのシーンは、とても感動的で、何度見ても目頭が熱くなります。

自分とは全く違う世界から来たETが、一人だけ地球に取り残されて困っている姿を見て、素直に家に帰してあげたいと思う、何の計算も打算もないエリオット少年の優しさ(愛)と、優しさに裏付けられた勇気と強さ、そしてエリオット少年をあたたかく包むETの優しさが、見る者の胸に迫ってくるからでしょう。

ETは最後に、少年の額に、光る左手のひとさし指を当て、「イツモココニイルヨ」と言って別れを告げるのですが、体の中で、唯一動かせる左手のひとさし指を使って、懸命に生きている明子さんの姿が、多くの人々に感銘を与えている事を知った時、私の脳裏に浮かんだのは、このシーンでした。

ETが「イツモココニイルヨ」と言ったのは、エリオット少年の額の奥、つまり記憶や思い出のことを指しているのでしょうが、私は、記憶や思い出の事ではなく、光るひとさし指の先なのではないかと思ったのです。

この時、私の心の中では、様々な不思議な力を発揮したETのひとさし指と、多くの人々に感銘を与えている明子さんのひとさし指が、重なっていました。

ひとさし指から生まれる幸せの輪

このひとさし指は、仏教では、真理に譬えられる「月」を指し示す指とされている、とても大切な指です。

またお釈迦様が生まれてまもなく七歩歩まれ、「天上天下唯我独尊」とおっしゃった時に、天と地を指し示された指でもあります。

つまり、明子さんの体の中で唯一動く左手のひとさし指は、仏教では、真理を指し示す指であると同時に、自分の足元(自分の使命)を見つめなさいと教えてくれる指でもあるのです。

その指だけが動かせるという事は、明子さんにとって、とても深い意味が込められているような気がします。

涅槃経の中に「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という言葉があります。

これは、すべての人に仏性という永遠のいのちが具わっているという意味ですが、勿論、全身麻痺の明子さんにも、この仏性(仏のいのち)が具わっています。

でも、この仏性には、姿かたちがありません。

どういう事かと言いますと、肉体を生きる明子さんは、いま全身麻痺という重い後遺症を負っておられますが、姿かたちのない仏性を生きる明子さんには、全身麻痺という後遺症もなければ、傷つく事も病む事も老いる事も死ぬ事もないという事です。

大切なのは、どちらの明子さんが、本当の明子さんかという事ですが、勿論、仏性を生きる明子さんが、本当の明子さんであって、全身麻痺の明子さんは、仏性を生きる明子さんが宿っている仮の器に過ぎません。

いまその肉体が、全身麻痺という後遺症を負っていますが、後遺症を負っているのは、あくまで肉体という器だけであって、仏性を生きる明子さんそのものには、何の後遺症もありません。

その明子さんは、姿かたちがなく、肉眼で見る事は出来ませんから、この世に生まれてきた使命を果たしておられても、私達には分りませんし、見えません。

そこで、み仏は、肉眼には見えない、仏性を生きる明子さんの姿を、誰の眼にも見えるよう、一つの手立てを用意して下さったのです。

それが、全身麻痺の体の中で、唯一動かせる左手のひとさし指です。

このひとさし指は、私達にとって、日常生活の中で、意識する事もなく当たり前に使っているただのひとさし指であり、肉体の一部に過ぎません。

しかし、明子さんにとっては、全身麻痺の中で唯一残った肉体の一部ではなく、後遺症もなければ、傷つく事も病む事も老いる事も死ぬ事もない、仏性を生きる明子さんが、この世へ生まれてきた使命を果たす為にみ仏が選ばれた、明子さんの魂(仏性)を映す聖なる鏡なのです。

明子さんは、いま左手のひとさし指一本を使い、多くの人々に、感銘と生きる希望と勇気を与えておられますが、これこそ、左手のひとさし指が、仏性を生きる明子さんの真実の姿を映し出す鏡である何よりの証ではないでしょうか。

肉眼には見えませんが、明子さんのひとさし指は、きっとETのひとさし指のように光り輝き、多くの人々に幸せの輪を広げているに違いありません。

平成25年6月8日

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御本尊について

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弘法大師様と不ニ一体の生き仏様

世界にあまたの霊山ある中で、生き仏様を御本尊としてお祀りする霊山は、世界広しといえども、紀州高野山をおいて他にはありません。

高野山は、平安の昔より悩み苦しむ人々と共に生き続けておられる弘法大師様(お大師様)御入定の聖地であり、生き仏様の御霊光に満ちあふれる世界に二つとなき霊山と言えましょう。

そのお大師様より「入定せよ」との示現をいただかれ、平成二年四月十三日、御年七十一歳を以て御入定され、お大師様と不二一体の生き仏と成られたお方が、当山御本尊の普門法舟大菩薩様(ふもんほうしゅうだいぼさつさま)です。

高野山法徳寺は、弘法大師様(お大師様)と不二一体の生き仏と成られた普門法舟大菩薩様御入定の聖地であり、苦しむ人々の魂を救済する仏法の根本道場であります。

救世主を待望する時代状況

平安の世に彗星の如く現れ、仏法を根本として悩み苦しむ人々に救済の御手を差し伸べられたのが、お大師様です。

お大師様が出世された平安時代は、人心が乱れに乱れ、庶民は塗炭の苦しみをなめていましたが、残念ながら平成の世も、お大師様が出られた平安の時代状況と非常によく似ています。

家族関係は崩壊の一途をたどり、親子、夫婦、兄弟姉妹間での殺傷事件もめずらしくなく、親殺し、子殺しも当たり前という暗澹たる状況にあります。

また幼児虐待、児童誘拐殺害事件、通り魔による無差別殺傷事件など、常軌を逸した事件が相次ぎ、人心は乱れる一方です。

学校でのいじめ、会社での人間関係の悪化、避けられぬ健康問題など、私たちを取り巻く様々な要因に起因する自殺者の増加も社会問題となっています。

他方で天変地異が地球規模で頻発し、大地震や津波によって多くの尊い人命が失われ、地球温暖化の影響と考えられる異常気象によって、農作物をはじめ、様々な分野への悪影響が懸念されています。

更に無差別テロや内戦によって大量の難民が流出し、まるで地獄絵さながらの修羅場が世界中で繰り広げられています。

まさに今の世は、平安時代の地球的規模での再現ではないかとさえ感じられる様相を呈していますが、それは裏返せば、乱れた人心をただし、苦しむ人々に救済の御手を差し伸べられたお大師様のようなお方が出られても何ら不思議ではない状況にあるという事です。

夢殿の秘仏御本尊

法舟菩薩様は、お大師様と不二一体の生き仏として、今も悩み苦しむ人々と共に生き続けておられますが、御入定七年前の昭和五十八年五月二十四日未明、突然激しい頭痛に見舞われ、滝のような汗を流す日々が何日も続きました。

床に就くようになってから三十七日目の六月二十九日未明、菩薩様は、霊夢にて、全身からほとばしる灼熱の汗を流しながら、升の中に凛とたたずむお地蔵様を御感得され、升よりあふれた御汗が十方普く光り輝く光景をご覧になられました。

その光景は余りにも神々しく、言葉に尽くし難いものでしたが、不思議にも、その霊夢をご覧になってから菩薩様のお体は快方に向かい、原因の分からぬまま床に就かれてから数えて四十九日目の七月十一日未明、ようやく床を離れる事が出来ました。

この時、ご感得なさったお地蔵様が、菩薩様御廟所「夢殿」にお祀りしている秘仏の身代り升地蔵尊で、苦しむ人々を救済する為に代受苦(人に代わって苦しみを背負う難苦行)をしておられる法舟菩薩様ご自身のお姿に他なりません。

こうして高野山法徳寺では、普門法舟大菩薩様を、弘法大師様と不二一体の生き仏と仰ぎ、菩薩様の代受苦行の御姿である身代り升地蔵菩薩様を、菩薩様御廟所「夢殿」の秘仏御本尊様としてお祀りしているのであります。

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山号

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法徳寺の山号を「高野山」とせよ

菩薩様が御入定しておられる法徳寺に、生き仏様を御本尊としてお祀りする世界で唯一の霊山である紀州高野山と同じ山号が付けられているのは、「法徳寺の山号を高野山(たかのやま)とせよ」との、菩薩様の御遺命によるものであります。

御入定されるに当り、菩薩様が、法徳寺の山号を高野山(たかのやま)と御遺命されたそのみ心は、ただ神秘なお計らいによるものという他はありませんが、一つだけ確かなことがあります。

それは、「高野山(たかのやま)」の山号を付けられるお方がいるとすれば、紀州高野山に御入定しておられるお大師様以外にはおられないということです。

お大師様しか付けられない、「高野山(たかのやま)」の山号を、菩薩様が付けられたとすれば、理由は一つしかありません。

それは、菩薩様が、お大師様と不二一体の生き仏様であるという事であります。

汝たちを利益することを忘れず

菩薩様は『御遺告(ごいこく)』の中で、

「紀州高野山と共に弘法大師の仏慈仏徳を拝し奉り、報恩の誠を尽すべし。ゆめゆめ弘法大師の御名をはずかしむることなかれ。われ肉身亡きあとといえども、常に汝たちを利益(りやく)することを忘れず」

と御遺命され、お大師様と一体になって末代までも生き続け、悩み苦しむ人々に救済の利益を施すとの御誓願を立てられました。

お大師様は、
 虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば
   わが願いも尽きなん
との御誓願を立てられ、今も悩み苦しむ多くの人々に救済の利益を施していて下さいますが、菩薩様の御誓願もまた、お大師様と不二一体の生き仏となって、末代までも悩み苦しむ人々を救済していくとの御宣言に他なりません。

そして、その御誓願にたがわず、今も救済の御手を差しのべていて下さる証が、高野山法徳寺の開創に至るまでの数々のお計らいであり、汗露水の湧出をはじめとする開創以後のお計らいの数々であります。

まさに、菩薩様が御入定しておられる高野山(たかのやま)法徳寺は、お大師様御入定の聖地・紀州高野山と共に、救いを願う人々にとって、身も心も癒される慈悲のおやざとであり、宗教人種のへだてなく救われるこの世の曼荼羅浄土と申せましょう。
 曼荼羅の 世界をえがく高野山
   これぞこの世の 浄土なりけり

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年間行事

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ご縁日と法要のご案内

1月1日~3日 新年初法要
一年間の世界平和、国家安泰、衆生救済を祈願する新春初法要
1月21日 初大師法要と法話会
お大師様、菩薩様に報恩感謝の誠を捧げる一年最初の報恩法要
2月3日 節分法要
節分を境に干支が変り、万物が息吹く季節を迎えて、その年の無病息災・五穀豊穣を祈願する法要(寺内関係者のみ)
2月21日 月並報恩法要と法話会
節分後に迎える最初の報恩法要
3月21日 春季彼岸法要と法話会
お大師様が御入定なさった三月二十一日を偲んで、報恩感謝の誠を捧げる報恩法要
4月13日 法舟大菩薩御入定春季大法要と法話会
普門法舟大菩薩様が御入定なさった平成二年四月十三日を偲び、代苦者として今も苦しむ衆生を救済していて下さる菩薩様に、報恩感謝の誠を捧げる春の報恩大法要
5月21日 月並報恩法要と法話会
6月21日 月並報恩法要と法話会
7月21日 月並報恩法要と法話会
8月15日 盂蘭盆法要
8月21日 月並報恩法要と法話会
9月21日 秋季彼岸法要と法話会
10月20日 法舟大菩薩御誕生秋季大法要と法話会
菩薩様が御誕生された十月二十日を偲び、報恩感謝の誠を捧げる秋の報恩大法要
11月21日 月並報恩法要と法話会
12月13日 納め菩薩法要(汗露水報恩法要)
初めて汗露水を頂いた平成十七年十二月十三日を記念し、代受苦の御汗を流して御苦労していて下さる菩薩様に、報恩感謝の誠を捧げる報恩法要(寺内関係者のみ)
12月21日 納め大師法要と法話会
お大師様、菩薩様の御苦労を偲び、一年間の御加護に感謝する納め法要

ご縁日における法要時間のご案内

毎月の法要は、午前十時より始まります。法要の後、休憩をはさみ午前十一時より、御法嗣様の御法話がございます。
昼食(お弁当は各自で御持参下さい)の後、午後一時過ぎより、御法嗣様のキーボード演奏に合わせて、全員で聖歌(御法歌)を御奉納(歌唱)いたします。午後二時過ぎには、全日程が終了する予定です。
当山は宗教宗派を問いませんので、お気軽にお参りくださいませ。

お問合せ先

何かご不明な点がございましたら、下記までご遠慮なくお問合せ下さい。
寺  名  高野山法徳寺
住  所  山梨県北杜市須玉町若神子4495-309
メールを送る電話をかける
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発行著書・授与品

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法徳寺発行著書

1、『慈悲の海(上・下)』 普門法舟著

 著者が、昭和51年5月に出版し、好評を博した『涙の渇くひまもなし』の改訂版。Amazonよりプリント・オン・デマンド(POD)にて絶賛発売中。
  四六判 158頁 各巻1,400円(税抜き) 1,512円(税込み) 

2、『四国遍路体験記ー大悲の御手に抱かれて(改訂版) 大西良空著

著者が、遍路旅の徒然に書き留め、平成12年4月より平成17年4月までの5年間に亘り、高野山法徳寺の同行誌『救済』に連載された『四国遍路体験記』を、『大悲の御手に抱かれて』と改題して、平成26年4月13日、Amazonよりプリント・オン・デマンド(POD)にて発行された初版の改訂版。
初版に加筆訂正し、「同行二人の心」「自己を捨てる—托鉢に寄せて」の二章を新たに付け加えたもの。絶賛発売中。
四六判 214頁  1,700円(税抜き) 1,836円(税込み)

3、『道歌集』(改訂版) 普門法舟著

菩薩様が残された御法歌三千首余りの中から、三百余首を集めて編集された第一集の改訂版。文庫判 163頁 \1000円

3、『救済』(第1号~第44号)

春と秋の大法要に合せて発行される同行紙。B6判 約60~70頁 無料配布

 お札・授与品

1、身代り升地蔵尊御守護札

ご家庭でお祀り頂く御本尊様の御札。一体2,000円

2、玄関魔除け札

人が出入りする玄関などに貼って頂く御札。一体500円

3、汗露升

汗露水をお飲み頂く升。一体1,000円

4、半袈裟

山号・寺号・寺紋入り。一領3,000円

5、写経用紙

お手本入り・写経用紙2枚セット
500円
お手本無し・写経用紙10枚セット
1,000円

6、御朱印帳

一冊 1,000円

 お問合せ先

何かご不明な点がございましたら、下記までご遠慮なくお問合せ下さい。
寺名  高野山法徳寺
住所  山梨県北杜市須玉町若神子4495-309
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ご祈祷について

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一般参拝日のご祈祷のご案内

ご縁日以外の一般参拝日におけるご祈祷は、午前9時00分より午後4時まで、随時執り行っております。

受付にて、申込用紙に、願い事や必要事項をご記入下さい。受付を済まされたお方から、随時、ご祈祷をさせて頂きます。

一般参拝日のご祈願料料は、3千円からとなっておりますので、受付の際にお支払い下さい。

一般参拝日のご祈祷の流れ

1、受付をする(随時)

2、ご祈祷を受ける。

3、お札をいただく。

4、夢殿にて、四国八十八ヵ所霊場のお砂踏みをする。

5、汗露臺にて、汗露水を頂く。

ご縁日のご祈祷の御案内

4月13日の春季大法要、10月20日の秋季大法要、毎月21日の弘法大師御縁日におけるご祈祷は、午前10時から始まる大法要の中で執り行います。

3月21日と9月21日のご縁日は、春季彼岸法要、秋季彼岸法要と重なりますので、午前9時30分より、納骨堂「帰郷庵」にて納骨者の供養を執り行い、その後、本堂にて、御縁日法要を執り行います。

また8月15日の盂蘭盆法要は、午前9時30分から「帰郷庵」にて厳修し、その後、本堂にて執り行います。

いずれの場合も、法要の後、休憩をはさみ午前11時より、住職の法話がございます。

昼食(お弁当は各自で御持参下さい)をはさみ、午後1時過ぎより、参拝者全員で聖歌(御法歌)を斉唱(御奉納)いたします。

午後2時過ぎには、主な日程が終了する予定ですが、その後、住職を囲みならが、参拝者の体験談などを語り合う「御法座(みのりざ)」が催されます。ご参加は自由です。

ご縁日のご祈祷料は決まっておりませんので、皆様のお気持ちをお供え下さい。

当山は宗教宗派を問いませんので、どなたでもお気軽にお参りして下けます。

ご縁日のご祈祷の流れ

1、受付をする(午前10時まで。但し、春秋のお彼岸の時は午前9時30分まで)

2、春秋のお彼岸と盂蘭盆の時は、帰郷庵にて御供養を受ける(午前9時半より法要開始)

3、本堂にて、ご祈祷を受ける(午前10時より)

4、住職の法話を聞く(午前11時より)

5、客殿にて昼食(午後0時より)

6、聖歌(御法歌)を斉唱(御奉納)する(午後1時より)

7、夢殿にて、四国88ヵ所お砂踏み回廊めぐりをする

8、汗露臺にて、汗露水を頂く

ご祈祷は、御本尊様の御宝前にてお受け頂きますが、諸般の事情によりお参り出来ないお方の為に、郵送でのご祈祷、ご供養の受け付けも行っておりますので、お気軽にお問合せ下さい。

お問合せ

ご不明の点があれば、お気軽にお問い合わせ下さい。

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ご供養・ご葬儀・ご納骨について

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来る者は拒ます、去る者は追わず

菩薩様は常々、「信者を作ってはならないし、信者は要らない。法徳寺は、来る者は拒まず、去る者は追わずのお寺でなければいけない」とおっしゃっておられましたが、諸行無常、諸法無我を説く仏教の立場から言えば、菩薩様がおっしゃる通り、いかなるご縁であっても、一期一会のご縁と受け止め、信者や檀家を作る事への執着心を離れるのが、本来の在るべき姿ではないかと思います。

それは、医師と患者の立場によく似ています。医師の役割は、病んでいる人を治療する事であり、治療が終われば、そこで医師の果たすべき役割は終わりです。それ以上、患者を縛り、「あなたは私の患者だ。他所へ行ってはいけない」などと強要するのは、執着以外の何ものでもありません。

寺院と信者、檀家の関係も同じで、救いを求めて来られたお方が救われれば、寺院の役目は終わりです。それ以上、信者や檀家として縛るべきではありません。

勿論、救われたお方が、これからも信者や檀家となってみ仏を信じて生きて行きたいと思われるなら、その意志は尊重されなければなりません。寺院側がそれを拒否すれば、「来る者は拒まず」の趣旨に反します。

しかし、一旦、信者や檀家になると決められても、再びそのお方が、信者や檀家をやめたいと思わるなら、その意志もまた尊重されなければなりません。いつまでもそのお方に執着し、その信仰を縛る事は、「去る者は追わず」の教えに反する事になります。

大切な事は、寺院やみ仏を選び、信仰をするか否か、信者や檀家になるか否か、信者や檀家をやめる否かを決めるのは、救いを求める人々自身であって、寺院ではないという事です。

菩薩様が「来る者は拒まず、去る者は追わず」とおっしゃった言葉の裏には、寺院がそれらの人々を信者や檀家として縛ってはならないという深い意味が込められていたのです。

一期一会のご縁を大切に

一期一会のご縁と言えば、生きている人々を済度するご縁だけではなく、ご葬儀のご縁もまた、故人とご遺族を済度する一期一会のご縁と言わねばなりません。

済度のご縁である以上、高額な葬儀費用やお布施をめぐる問題も、ご遺族の救済と無関係ではありえません。

世の中には、高額化する葬儀費用に疑問を抱き、遺骨さえも引き取らない「0(ゼロ)葬」を提案する意見さえあります。

時代の流れとはいえ、今までのような寺院側の常識だけが通用する時代ではなくなっている現れの一つと言えましょう。

法徳寺でも、「来る者は拒まず、去る者は追わず」の教えに従い、一期一会のご縁を大切にして、ご遺族の負担を出来るだけ軽減する意味から、今後ともご葬儀費用の低額化と明瞭化に努めてまいりたいと思います。

ご供養・ご葬儀・ご法要のお布施

このような経緯を踏まえ、施主様のお気持ちを現わすというお布施本来の趣旨には反しますが、主な法要のお布施をご提示させて頂く事にいたしました。
対応可能地域は、山梨県全域と、東京都、神奈川県、埼玉県、長野県、静岡県の主要都市です。地域によっては対応が出来ない場合もありますので、予めご了承下さい。
なお、別途、現地までの交通費(一日5千円)をお願い致します。ご不明な点があればお気軽にお問合せ下さい。

ご葬儀内容(戒名なし) お布施
本葬儀一式
(通夜あり)
90,000円
一日葬
(通夜無し)
60,000円
直葬/炉前葬
(炉前読経のみ)
25,000円

戒名を授与する場合 戒名料
嬰児・孩児・童子(1~15歳) 10,000円
信士、信女 10,000円
居士、大師 30,000円
院信士、院信女50,000円
院居士、院大師 80,000円

ご法要内容 お布施
満中陰法要その他 25,000円

※ 注 意 事 項

1、施主様の宗教宗派は問いませんが、葬儀は、真言宗の式次第に則って執り行います。

2、一期一会のご縁を大切に、檀家への勧誘などは致しません。

3、掲載されている費用(お布施、交通費)以外は一切かかりません。

4、檀家寺がないお方、檀家寺があるが遠方のお方、檀家制度に縛られたくないお方、宗派指定にこだわらない皆様からのお申し出をお待ちしております。

5、祀り手のない無縁仏様の葬儀、法要などにつきましても、所定の費用に拘らずご相談に応じます。その他、ご葬儀、ご法要についてご不明な点があれば、お気軽にお問合せ下さい。

「帰郷庵」へのご納骨について


ご納骨のご案内

「帰郷庵」へは、法徳寺のご本尊様を尊崇されるお方であれば、宗旨・宗派を問わず、どなたでもご納骨いただく事が出来ます。

お預かりいたしましたご遺骨は、一座の納骨供養を勤めた後、「帰郷庵」へお納めいたします。

ご納骨は、分骨(喉仏)、全骨を問いませんが、納骨スペースに限りがありますので、納骨していただけるご遺骨は、原則として骨壺容器に納まるご遺骨のみとさせていただきます。

ご納骨の際には、戒名(法名)、戒名の読み方、俗名(ご生前の名前)、ご命日、行年(享年)が必要となりますので、紙に控えてご持参下さい。

下記の「帰郷庵納骨許可申請書フォーム」にご記入頂き、ネットからお申し込み頂いても結構です。

分骨、全骨いずれの場合も、粉骨処理をした後「帰郷庵」へお納めいたします。

ご遺骨は合祀するため、後日ご遺骨の返還のお申し出がありましても返還には応じかねますので、あらかじめご了承ください。

ご納骨料・永代供養料について

ご納骨には、ご生前にご納骨の予約をされる「生前帰郷(せいぜんききょう)」と、死後にご納骨のお申し込みをされる「死後帰郷(しごききょう)」がございます。ご納骨料は下記の通りです。

分骨容器でのご納骨 納骨料
生前帰郷(生前予約) 50,000円
死後帰郷(死後納骨) 70,000円

全骨容器でのご納骨 納骨料
生前帰郷(生前予約) 100,000円
死後帰郷(死後納骨) 130,000円

※ 注 意 事 項

永代供養を希望される場合は、生前帰郷、死後帰郷を問わず、ご納骨料とは別に、一霊につき30万円をお納めいただきます

永代供養を申し込まれたご遺骨は、『永代供養過去帳』に戒名を記載し、法徳寺が永代に亘り、護持供養してまいります。

「生前帰郷」「死後帰郷」を申し込まれた施主の皆様には、「帰郷庵納骨許可証」を発行し、毎年の盂蘭盆会と春秋の彼岸会へのご案内を差し上げます。

春の彼岸会は、三月の月並み法要と兼ねて三月二十一日、盂蘭盆会は八月十五日、秋の彼岸会は、九月の月並み法要と兼ねて九月二十一日に執り行いますので、是非お揃いでご帰郷下さいますようお待ちしております。

祀り手のおられない無縁仏様のご納骨につきましても、所定の納骨料に拘わらずご相談に応じますので、お気軽にお問合せ下さい。

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不思議は世々に新たなり

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掘削工事と共に始まった不思議な出来事

昔から「不思議は世々に新たなり」と言われますが、生き仏様のお計らいは人知をはるかに超えており、摩訶不思議という他はありません。

高野山法徳寺が開創された若神子(わかみこ)の聖地は、八ヶ岳の南麓に位置し、その地下には八ヶ岳を源流とする、とても口に優しくて美味しい軟水が流れているというお話を聞いておりましたので、お参りされる方々に飲んで頂けたらと思い、平成17年8月早々、地下水の掘削に着手いたしました。

ところが、掘削を始めた8月初め、不思議な出来事が起こったのです。

庫裏にある二台の洗面台の内、向かって左側の洗面台に置いてある歯ブラシ立ての中に、深さ一センチ程の水が溜っていたので、不思議に思ったのですが、最初は、誰かが歯ブラシの水を切らずに立てておいたのだろうと、余り気にも留めていませんでした。


しかし、8月初めと言えば、夏の暑い盛りです。毎日水を切らずに立てておいたとしても、それだけで一センチほども溜るとは考えられず、不思議に思っていたところ、同じ事が日を置いて二度続きました。

そして、8月22日の朝、四度目となる水が溜っていたので、念のため家族全員に確かめたところ、当然の事ながら、全員から、歯ブラシの水はちゃんと切っているとの返事が返ってきました。

勿論、洗面台の棚の上に置いてある歯ブラシ立てですから、それより下方にある水道の蛇口から水が入る事はあり得ず、家族一同が不思議に思っていたところ、その二日後の24日の朝、五度目となる水が溜っていたのです。

そこで、二台の洗面台に置いてある歯ブラシ立てを左右入れ替えてみてはどうかと思い、今まで水が溜った歯ブラシ立てを右の洗面台へ移し、右の洗面台に置いてある歯ブラシ立てを左に移したのです。

もし次も左側に溜るようなら、左側でなければならない理由があることになりますが、さてどちらに溜るかと注目していたところ、その日の夕方に、六度目となる深さ一センチほどの水が溜っていました。

溜っていたのは、やはり左側の洗面台にある歯ブラシ立てでした。右の洗面台に移した歯ブラシ立てには全く溜っていなかったのです。

これで、左側でなければならない理由がある事が分ったのですが、その理由が何なのか、その時は見当もつきませんでした。

何とも言えない水の味わい

それまで歯ブラシ立てに溜った水は全部捨てていたのですが、どんな味がするのか一度頂いてみようという事になり、夕方に溜った六度目の水を家族全員でいただいたところ、今まで飲んだことのない味わいのお水でした。

無味無臭なのですが、とても柔らかくて口に優しく、心の芯まで癒されるような味わいのお水なのです。

その後で水道水をいただいたところ、その違いは明らかでした。塩素消毒されているからか、少し舌を刺す様な感じがするのです。と言っても、若神子の水道水が美味しくない訳ではありません。地元でも美味しいと評判の水で、私達も毎日「美味しい、美味しい」と言いながら頂いていたお水なのです。

ところが、歯ブラシ立てに溜ったお水を頂いた後では、水道水独特のカルキ臭さがどうしても鼻に付いてしまい、不味く感じるのです。

それだけ溜ったお水の美味しさが際立っていた訳ですが、折角美味しいお水を頂くのだから、歯ブラシ立てに溜ったのを頂くのもどうかと思い、歯ブラシ立てのすぐ横に、グラスを置く事にしました。

どちらに溜るのか見てみたいという好奇心と、グラスの方に溜って欲しいという期待感もありましたので、グラスに蓋をして置いておいたところ、その日の夜に、七度目の水が溜ったのです。

結局24日は、一日に三度溜った訳ですが、驚いたことに、今度は歯ブラシ立ての方ではなく、蓋をしたグラスの方に溜っていたのです。

家族全員が、世の中にこんな不思議な事があるのだろうかと、顔を見合わせながら驚喜した事は言うまでもありませんが、好奇心と期待感を裏切られなかった喜びと感動が胸の奥から込み上げてきて、暫く震えが止まりませんでした。

菩薩様にお伺いを立てる

8月24日にグラスに溜ったお水は、その後もグラスの方に溜り続け、歯ブラシ立ての方には二度と溜りませんでした。

ところが、9月9日の夜に二十回目となる水が溜ったのを最後に、何故か溜らなくなったのです。

9月に入ってから掘削作業も一段と進み、水が少しずつ湧き出し始め、掘削業者の方から水脈が近いようだと聞かされていたので、多分その事と関係があるのではないかと思ったのですが、問題は、どこまで掘ればいいのかという事でした。

一般的には、業者の方が今までの経験と勘で決められるのでしょうが、私達は、全てを見抜き見通しの菩薩様にお伺いする事にしました。

「どうか、ここまで掘ればよいという所まで来たら、もう一度お水を溜めてお教え下さい」

そうお願いしたのは、水が溜らなくなってから三日後の9月12日でしたが、翌々日の14日に、再び水が溜っていたのです。

早速、業者の方にお話して、掘削作業を終えた事は言うまでもありませんが、この日は、8月初めから始まった掘削作業が漸く終って安堵すると共に、家族全員が驚きと感動を新たにした一日となりました。

溜まった水の正体

それにしても、何故このような不思議な現象が起ったのでしょうか。

悟らなければならない事は山ほどありました。

先ず一つ目は、この水の正体です。水道水でない事は明らかでしたが、では一体この水は何なのか。

私の脳裏に浮かんだのは、この水が、地下水の掘削工事が始まるとほぼ同時に溜り始めた事でした。

という事は、この水が掘削中の八ヶ岳の伏流水である可能性が非常に大きくなりますが、常識的に考えれば、その可能性は限りなくゼロに近いと言わざるを得ません。

何故なら、まだ湧いてもいない地下水を溜める事など、絶対に不可能だからです。

しかし、飲んだ水の味わいは、まさしく軟水そのものであり、八ヶ岳を源流とする伏流水と考えざるを得ませんでした。そこで私達は、この水は、掘削中の地下水に間違いないとの結論に至ったのであります。

誰が溜められたのか

二つ目は、もしこの水が掘削中の地下水だとしたら、一体誰が溜めておられるのかと言う事です。

思うに、この様な不可思議を現せるお方は、私の知る限り、世界広しといえども、お二人しかおられません。

それは、生き仏となって紀州高野山に御入定された弘法大師様(お大師様)と、お大師様より「入定せよ」との示現をいただかれて御入定され、お大師様と不二一体の生き仏となられた普門法舟菩薩様(菩薩様)です。

生き仏様の神通力を以てすれば、まだ湧いていない地下水を歯ブラシ立てやグラスに溜める事など、いとも容易いでしょう。

菩薩様は常々「仏の通力を譬えれば、小指で富士山を持ち上げるようなものだ」と仰っておられましたが、まさにそのお言葉通り、通力を以て、まだ湧いていない地下水を前以て溜めて下さったに違いありません。

それは、次の数字を見ても、明らかでした。掘削した井戸の深さはちょうど百十三メートルでしたが、これは菩薩様が御入定なさった十三日に相通じる深さであり、また水が溜った二十一回という数は、お大師様が御入定なさったご縁日だからです。

この二つの数字を見れば、この度のお計らいが、お大師様と不二一体の生き仏となられた菩薩様によってなされている事は明らかでした。

体に起きていた異変

しかし、これで疑問がすべて解けた訳ではなく、まだ大きな疑問が残っていました。

それは、何の為にこのようなお計らいをなさったのかという事です。実はその疑問を解く手がかりが、二つありました。

一つは、その時、私の体に起っていた或る異変です。

井戸を掘り始めてから半月ほど後の8月18日頃から、左側の首から背中、肩、左腕にかけて、夜も眠れないほどの痛みと疼きが起きていたのです。

病院で調べていただいたところ「多分首のヘルニアでしょう」との診断でしたが、首のレントゲン写真を見た時、そこに映っている頚椎と脊髄液が、私の眼にはまるで、いま掘削して頂いているボーリングのパイプのように見えたのです。

そこで、「この首の痛みは、いま掘って頂いている地下水と深い関係があるに違いない」と直感したのです。

汗をかいていた屋久杉の寺紋額

二つ目の手がかりは、私の体の異変と相前後して起きたもう一つの不思議な出来事でした。

首が痛くなり始めてから三日後の8月21日の朝、昇龍閣(客殿)にある屋久杉で作られた桜の寺紋額のガラス一面に、汗を流したような雫がいっぱい付着しているのを、偶然発見したのです。

否、それは偶然と言うより、見つけさせられたと言った方がいいかも知れません。何故なら、もし雫が一面に付着した寺紋額を見ていなければ、グラスに溜った地下水の秘密を悟る事が出来なかったからです。

菩薩様は、霊夢にて、灼熱の御汗を流しながら升の中に凛とたたずむお地蔵様(身代り升地蔵菩薩様)を感得され、衆生の代苦者となられたお方です。

法徳寺の寺紋の一つに桜が使われているのは、桜が菩薩様を象徴する花だからですが、その寺紋額のガラス一面に、汗を流したような雫が付着しているのを見た時、私には、まるで菩薩様が衆苦の御汗を流しておられるように感じられました。

翌22日、雫を拭かせて頂こうと額を外して調べたところ、その雫はただの水ではなく、六千年前の屋久杉で作られた桜紋から出たと思われる油(樹脂)でした。

しかし、油なら桜紋より下に滴り落ちなければならない筈ですが、油は、まるで桜紋から上下四方に飛び散ったかのように、ガラス一面に隈なく付着していたのです。

常識的に見れば、水であろうが油であろうが、寺紋から下に滴り落ちる事はあっても、上に飛ぶ事はまず考えられませんが、摩訶不思議な事に、その油は上下四方に満遍なく付着していたのです。

代受苦の御汗

私の体に起こった首から肩にかけての激しい痛みと疼き。汗を流したかの様な雫が、ガラス一面に付着していた桜紋の額。 そして、グラスに溜り続けた地下水。

この三つの出来事が、すべて地下水の掘削作業と並行して起っていた事から、私は、「この首の痛みと疼きは、菩薩様が受けておられる代受苦の痛みに違いない。その事を教える為に、菩薩様を象徴する桜紋を通じ、代受苦の御汗が飛び散っている様を見せられたのだ」と悟らせて頂いたのですが、最大の疑問は、菩薩様が受けておられる代受苦の痛みを、何故いま私が頂かなければいけないのかという事でした。

実はこのお計らいの中に、地下水が二十一回も溜り続けた謎を解く鍵が隠されていたのですが、それは、代受苦を抜きにしては考えられなかったのです。

先ほど述べたように、菩薩様は霊夢にて、灼熱の汗を流しながら升の中に凛とたたずむお地蔵様を感得され、その汗が升から溢れて十方に光り輝いている光景をご覧になられたのですが、代受苦に関係のあるお水と言えば、菩薩様(身代り升地蔵菩薩様)が代受苦によって流しておられる灼熱の御汗しかありません。

だとすれば、相前後して起った二つの異変と、グラスに溜り続けた地下水を結び付ける結論は一つしかありえません。

即ち、菩薩様がグラスに溜められた水は、ただの地下水ではなく、菩薩様が代受苦によって流しておられる衆苦の御汗を意味する聖水であるという事です。

一口飲んだ時に、心の芯まで癒されるように感じたのは、ただ口に優しい軟水だからではなく、お大師様と不二一体の生き仏となられた菩薩様が流しておられる衆苦の御汗を意味する聖水だったからです。

もし、そのような尊い聖水だとしたら、そう易々と頂ける筈がありません。何故なら、菩薩様の代受苦の苦しみを誰かが代わって受けなければ、その聖水の裏に隠された菩薩様のご苦労の大変さを悟る事が出来ず、そのご苦労を悟らぬままで、衆苦の御汗とも言うべき聖水をお授け頂く事は、余りにも勿体ないからです。

そこで私は、「首に頂いている激しい痛みと疼きは、医学的にはどうであれ、菩薩様の衆苦の御汗であるこの聖水を授けて頂く為には、どうしても受けなければならない痛みであり、耐え抜かねばならない行なのだ」と確信したのです。

罪を漉して洗い流した聖水

このお水が、代受苦によって流しておられる菩薩様の衆苦の御汗を意味する聖水であるとすれば、これ以上清らかで尊い水は、世界中どこを探してもない事になります。

何故なら、生き仏となられた菩薩様の衆生救済の一念で満たされた、まさに永遠なる命(仏性)の結晶とも言うべき聖水だからです。

以前、寿法様が「人の罪や苦しみをすべて受けていたら、体が幾つあっても足りませんね」とお尋ねしたところ、菩薩様は「一旦苦しみや罪を受けるけれども、ざるで漉すように洗い流すから大丈夫だ」と仰ったそうです。

このお言葉からも分かるように、菩薩様は、ただ私たちの罪や苦しみを代って受け、汚れたまま御汗として流しておられるのではなく、ざるで漉すように、罪や苦しみを生き仏となられたその清らかな御法体で濾過した後、御汗として流しておられるのです。

み仏の徳を象徴するあの蓮華が、一切の汚泥に染まらず染められずに、世にも美しい花を咲かせるように、菩薩様もまた、いかなる罪穢れや苦しみを代わって受けても、決してそれに染まらず染められず、あらゆる罪穢れを御法体で漉し、清らかな御汗として流しておられるのです。

何故左側なのか

こうして、聖水にまつわる数々の疑問が一つ一つ解けていったのですが、この聖水を飲ませて頂く為には、まだまだ悟らなければならない事や、実践しなければならない事が幾つもありました。

最大の疑問は、何故首の痛みも、溜った水も左側なのかという事でした。

この首の痛みが、菩薩様の衆苦の御汗を意味する聖水を頂く為には、どうしても受けていかなければならない代受苦行である事は分ったのですが、何故首の左側だけなのか、何故二台ある洗面台の内の左側だけにしか地下水が溜らなかったのか、そのお計らいの意味がどうしても分らなかったのです。

右ほとけ 左凡夫と合わす手の
  内にゆかしき 南無の一声
と歌われているように、右側はみ仏を現わし、左側は私たち衆生を現わしますから、左側に溜った地下水も、左側に頂いている首の痛みも、悩み苦しみを背負う人々の救いと関係があるに違いないとは思ったのですが、具体的にそれが何を意味しているのか、そしてその為に何をすればいいのかが分らなかったのです。

ところが平成17年10月20日に高野山法徳寺へ帰郷され、十三ヶ月間に渡って私達と共に行をされた御同行のFさんから、救われなければならない御縁者がおられ、その御縁者はすべて女性であるというお話をお聞きしたのです。

昔から、右側は男性を現わし、左側は女性を現わすと言われている事から、私は、「左側の洗面台にしか溜らなかった地下水も、首の左側の痛みも、Fさんを通して御縁者の因縁を解き、それを、苦しむ人々が背負う因縁を解く手本としたいとのお計らいに違いない。その為に菩薩様は、御同行の中からFさんを選ばれたのだ」と直感したのです。

初めてお水を頂いた納め菩薩

その後、様々なお指図やお計らいをいただき、最終的にお水を飲ませて頂けたのは、掘削を始めてから四ヶ月余りが経過した平成17年12月13日の納め菩薩でした。

勿論、飲ませて頂いたお水の味わいは、まぎれもなく歯ブラシ立てとグラスに溜ったあのお水と同じでしたが、当然の事ながら、味わいは同じでも、お水の意味を悟らせて頂く前と、悟らせて頂いた後とでは、お水に対する思いが全く違っていました。

聖水の真相を悟らせて頂くまでは、ただ口に優しくて美味しい天然水に過ぎませんでしたが、悟らせて頂いた後は、ただ美味しいだけの天然水ではありませんでした。

菩薩様をお大師様と不二一体の生き仏と信じる私達にとって、このお水は紛れもなく、苦しむ人々の罪穢れを代わって背負い、ご苦労していて下さる菩薩様の代受苦の御汗であり、この上もなく尊い、世界に二つとなき生き仏様の命の聖水なのです。

昔から、生き仏と成られるお方は、千年に一人出るか出ないかと言われており、その意味で、生き仏様の代受苦の御汗を意味するこの聖水も、生き仏様が世に出られた時にしか頂けない、まさに千年に一度頂けるか否かと言われる聖水と言っても過言ではないでしょう。

聖水の呼び名─汗露水

この尊い聖水を、ただ地下水と呼ぶのは余りにも勿体ないと思い、菩薩様が流しておられる代受苦の御汗に相応しい呼び名を考える事にしました。

一度聞いただけで心に残るような名前を付けたいと思い、色々思案しましたが、中々相応しい名前が浮かびませんでした。「示現水」「お加持水」「お身代り水」などの名前が次々と浮かんでは消えてゆきました。

自らが計らいをしている内は駄目だと悟った私は、「どうかこのお水に相応しい名前をお授け下さい」と菩薩様にお伺いする事にしました。

すると、平成18年1月14日の午前4時過ぎ、ふと目が覚め、その瞬間、「かんろすい」という名前が頭に浮かんできたのです。しかも、名前だけではなく、漢字まで浮かんで来たのです。

今まで私が知っている「かんろすい」は、甘い露の水と書く「甘露水」でしたが、その時、頭に浮かんできた「かんろすい」は、「甘露水」ではなく、汗の露と書く「汗露水」でした。

最初は、「今まで色々と計らいをしてきたから、こんな名前が浮かんだのだろう」と思いましたが、「汗露水」の意味を調べていく内に、「これは私が付けた名前でも、付けられる名前でもない」と確信したのであります。

甘露水の意味

「汗露水」と言っても何の事か分かりませんので、先ず「甘露水」について調べてみたところ、色々な事が分かりました。

お釈迦様がお生まれになったインドは、ご存知のように、ヒンズー教(バラモン教)の盛んな国ですが、ヒンズー教の根本経典であるヴェーダによると、インドにあるソーマという植物の汁は神々の飲料で、不死の霊薬とされており、そのソーマの液汁の事を、ヒンズー教では甘露水と呼んでいるのだそうです。

また仏教では、仏法の事を甘露水と呼んでいますが、そう呼ぶのは、仏法が永遠で滅びないものだからです。

更に中国古来の伝説では、王が徳のある政治を行えば、竜神がそれに感応し、その瑞祥として甘い雨を降らすと言われており、その雨水の事を甘露水と言うのだそうです。

いずれにしても、甘露水というのは、不生不滅の霊薬と見做されているばかりか、滅びる事のない仏法そのものに譬えられており、法徳寺の地下から湧いた聖水の呼び名として、これに勝る呼び名はない事を確信したのであります。

汗露水と名付けられたみ心

問題は、何故「甘露水」ではなく「汗露水」なのかという事ですが、まず考えられる理由は、この聖水が、菩薩様の代受苦の御汗を意味する聖水である事を現す為ではないかという事です。

「甘露水」と書いたのでは、このお水が菩薩様の代受苦の御汗である事が分かりません。

しかし、呼び名は「かんろすい」でも、使われている漢字が「汗露水」であれば、文字通り、代受苦の御汗の露を意味する聖水である事が誰の目にも明らかですから、「汗露水」という漢字が使われているのではないかという事です。

しかし、これだけの理由では、まだ何か納得出来ないものを感じたので、更に調べてみたところ、この「汗」という文字には、私達が知っている汗の他に、もう一つ別の意味がある事が分かったのです。

最近、角界では、朝青龍や白鵬、日馬富士など、モンゴル出身の力士が大活躍して人気を集めていますが、モンゴル系遊牧民の間で王者の称号として用いられているのが、実は「カン(ハン)」と言う文字で、漢字で「汗」と書くのです。

モンゴル帝国を築いたテムジンは、王であるカン(ハン)の位に就き、ジンギスカン(チンギスハン)と名乗った事は、よく知られていますが、ジンギスカン(チンギスハン)は、漢字で「成吉思汗」と書きます。

また、お尻に、蒙古斑という青あざを付けて生まれて来るのは、世界中で日本人とモンゴル人だけだそうです。

ですから、モンゴルで王者を現す「汗」という言葉が、同じ蒙古班を持つ日本人である菩薩様の御汗の呼び名に使われていたとしても、何ら不思議はありません。何故なら、菩薩様もまた、仏の王である大日如来の覚位を得られたお方だからです。

菩薩様は、四国第二十一番札所の太龍寺で、お大師様より「普門法舟」という名前を授けられましたが、この「普門」という名前は、お大師様が頂かれた「遍照金剛」と同様、仏の王である大日如来の別名なのです。

その名前が菩薩様に与えられたという事は、菩薩様がまさに仏の王である大日如来の覚位を得られた証と言えましょう。

モンゴル帝国を築いたテムジンに王者を意味する「汗」の称号が冠せられたように、大日如来の覚位を得られた菩薩様が流しておられる代受苦の御汗の呼び名に、王者を意味する「汗」の文字が使われていた事が分かった時、私は初めてこの聖水に「汗露水」の名前が名付けられた事に納得がゆきました。

つまり、「汗露水」という名前には、「代受苦の御汗」という意味の他に、「仏の王者の御汗」という意味も込められていたのであり、「汗露水」という呼び名は、仏の王者である大日如来の覚位を得られた菩薩様が流された衆苦の御汗である聖水を現すのに最も相応しい呼び名だったのです。

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汗露臺の御本尊

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汗露地蔵菩薩様をお迎えする

夢殿には、升の中に立って灼熱の御汗を流しておられる身代り升地蔵菩薩様がお祀りされていますが、この身代り升地蔵菩薩様こそ、衆生を救う為にご苦労していて下さる菩薩様の代受苦の御姿に他なりません。

本来なら、菩薩様の代受苦の御汗である汗露水は、菩薩様が立っておられる升から直々にお授け頂かなければなりませんが、身代り升地蔵菩薩様は秘仏であり、夢殿の扉が開かれる事はありません。

そこで菩薩様は、汗露水をお授け下さる汗露臺(かんろだい)の建立を示現されましたが、問題は、汗露臺にお祀りするお地蔵様です。

平成18年1月30日、汗露臺建立について大工の棟梁と打ち合わせをした時には、まだ、どの様なお姿のお地蔵様をお祀りすればいいのか、皆目見当もつきませんでした。ところが翌31日、思いがけないお計らいを頂いたのです。

夢殿の周囲に四十九基の歌碑が完成したのに引き続き、御同行の皆様から御奉納して頂く歌碑を境内参道の両側に建立したいと考え、打ち合わせのため石屋さんに来て頂いたのですが、打ち合わせが終わって車に戻られた石屋さんが、何やら両手に抱えて持って来られたのです。

歌碑に使う石材の見本でも持って来られたのかと思いながら目を凝らして見ていると、何とそれは、石で作られた高さ三十センチほどのお地蔵様でした。

見れば見るほど何とも言えない可愛らしい童顔のお地蔵様で、いかにも嬉しそうにニッコリ微笑みながら合掌しておられるそのお姿に、心の底まで癒されるような想いが致しました。

私達は、そのお地蔵様を一目見た瞬間、「このお地蔵様を汗露臺にお祀りしなさいという菩薩様のお計らいに違いない」と確信しました。

今まで菩薩様のお計らいの絶妙さを何度も体験してきましたが、前日、大工の棟梁に、汗露臺にお祀りするお地蔵様のお話をしたばかりだけに、早速その翌日石屋さんを通じて、汗露台にお祀りするお地蔵様をお授け下さった菩薩様の間髪入れぬお計らいに、改めて感動した事は言うまでもありません。

菩薩様がこのお地蔵様を選ばれた訳

一言にお地蔵様と言っても、子安地蔵、子育て地蔵、水子地蔵など様々なお地蔵様がおられますが、菩薩様がお授け下さったのは、いずれのお地蔵様でもなく、心の底まで癒されるような愛らしい童顔のお地蔵様でした。

しかし、私達がこのお地蔵様を見て強く心を引かれたのは、愛らしい童顔よりも、むしろ首を少し左側に傾けられたそのお姿でした。

そのお姿を見た瞬間、私達には、菩薩様がこのお地蔵様をお授け下さった本当の理由がすぐに分りました。

汗露臺にお祀りされるお地蔵様は、どうしても首を左側に傾けたお姿でなければならなかったのです。

「不思議は世々に新たなり」をお読み頂いた皆様は、すでにお分りだと思いますが、汗露水が授けられた経緯の中で、三つの不思議な出来事がありました。

一つ目は、庫裏にある二台の洗面台のうち、左側の洗面台に置いてある歯ブラシ立てとグラスに、まだ湧いていない地下水が二十一回溜まった事。

二つ目は、それと相前後して法嗣様の首の左側に起った激しい痛みと疼き。

三つ目は、菩薩様を象徴する桜の寺紋額のガラス一面に、汗を流したかのような雫が付着していた事です。

湧出した地下水が菩薩様の代受苦の御汗を意味する聖水である事を悟らせて頂く上で欠かせなかった三つの出来事の内、洗面台に溜まり続けた地下水と、法嗣様が首に頂かれた痛みが、いずれも左側に起っていた事を考えれば、汗露水を授けて下さるお地蔵様は、どうしても首を左側に傾けたお姿でなければならなかったのです。

汗露臺の御本尊様は、菩薩様の代受苦の御汗である汗露水を授けて下さるお地蔵様として相応しいお姿でなければなりませんが、どのようなお姿がふさわしいのか、私達には分りません。

しかし「按ずるより産むが易し」の諺通り、すべてを見抜き見通しておられる菩薩様が、汗露臺にお祀りするに相応しい首を左側に傾けたお姿のお地蔵様を、石屋さんを通じてお授け下さったのです。

首を少し左に傾けながら何ともいえぬ愛らしい笑みをたたえたそのお顔を拝見していますと、生き仏と成られた菩薩様だからこそ現す事の出来た汗露地蔵菩薩様だと、感嘆せずにはおられません。

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御法歌とは

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御法歌「頼め彼岸へ法のふね」は、普門法舟大菩薩様が、老若男女のへだてなく、誰もが日々の暮しの中で口ずさみながら、仏法のみ光に触れていただけるようにと、三千首余りの道歌の中から撰んで編集されたものであり、日々の勤行や御縁日法要でお唱えされている高野山法徳寺の根本経典とも言うべき道歌です。

「仏教経典は、漢字ばかりで読みづらく、難解で何が説かれているのかよく分らない」という巷の声をよく聞きますが、この四十九首の御法歌は、平易な中にも意味深く、まさに現代人必携の仏教経典と言っても過言ではありません。

わずか四十九首の道歌の中に、み仏の教えの真髄が平易に説かれ、格調高き七五調の文体とあいまって、必ずや悩み苦しむ人々の心の依りどころになるものと確信してやみません。

御法歌の一句一偈を深く味わっていただき、人生を心豊かに生きる糧としていただければ幸いです。
  み仏の 一句一偈の御法(みおしえ)は
    衆生を照らす 光なりけり



頼め彼岸へ法のふね

天は神なり 地は仏
   天に祈りて 地に懺悔
   合わす両手に 神守る

目には見えねど 神仏
   案じ疑い するけれど
   信じることこそ 救いなり

神を恐れぬ 人間の
   所業の様を 見るならば
   来世の様が 見えるなり

老いも若きも 人よ人
   わが身を愛する ものならば
   一度はめざめて 世のために

わが身の人生 可愛いくば
   人の人生も 大切に
   共に咲かそう 徳の花

人間言葉の つかいよで
   成り立つことでも 成り立たぬ
   和顔愛語で 暮らしましょう

口・耳・目・鼻 それぞれに
   正しい役割 しないとき
   やがては不自由な 身とぞなる

怒りねたみに 愚痴嫉妬
   そんな心で 日を暮らしゃ
   業の毒素で 身がほろぶ

若いうちから 手を合わせ
   壮んで信心 深くして
   老いて仏の 中に住む

四十・五十に なったなら
   仏跡めぐりを 喜べよ
   明日もわからぬ 人の身は

人生死生の 橋渡り
   八十年と するならば
   何年何して 来たのやら

六つの道が めぐるから
   しあわせばかりと 思うなよ
   人生廻り 舞台なり

因果の道理を 知らなけりゃ
   流転生死を するうちも
   業をつくって 業に泣く

名誉も地位も 財産も
   わが身ばかりか 人の身も
   無常の中に 消えてゆく

昨日見た人 今日はなし
   残る桜も 散る桜
   待ったないのが 人生だ

この世は無常の 仮の宿
   惜しい財も 人の身も
   一夜泊りの ときもある

富士の高嶺の白雪も
   やがては溶けて 水となる
   人の心もそれに似て
   嶺の雪ではなけれども
   仏の情と慈悲で解く

地獄極楽 後生とは
   死後の世界と いうけれど
   この世があの世と いうことさ

極楽往生 することも
   地獄に堕ちて ゆくことも
   己が所業が 因となる

死出の山路が 恐いなら
   徳を積め積め 山と積め
   積んだ功徳が 身を照らす

金の世界は ゆきづまる
   徳の世界に つまりなし
   貪欲はこの世の 死出の旅

宿世の罪も 善根の
   種蒔き終えて 法のふね
   三途の川も 夢のうち

施し人の ためじゃない
   善根功徳は 己がため
   積めよ積め積め 徳の山

欲は苦の因 悔の元
   長者三代 続かない
   残るは悪業の かたまりだ

欲ほど恐い ものはない
   因果応報に 責められて
   わが身ほろぼす 死出の旅

心に進歩の ない人は
   肉体百まで 生きたとて
   罪業を背負った 死人なり

自己の仏に あいたくば
   人に尽して 業垢除け
   仏像つくるも 木垢とる

人みな凡夫と いったとて
   精進するなら みな仏
   きたえみがけば 御神刀

この世はみんなの 組み合わせ
   役目役目の 働きで
   生きているより 生かされる

苦楽互いに もつ身なら
   助け合うのが 人の道
   わが身ばかりじゃ 罪つくる

この世につまらぬ ものはない
   この世に足りない ものはない
   つまらぬ足りぬは 己れなり

夫婦のうつわは ちがっても
   足りないところは 辛抱して
   助け合うのが 人の道

春・秋彼岸の 墓参り
   先祖のご恩に 感謝して
   手向けの花に 菩提心

先祖供養は 生き供養
   死んだ供養じゃ ありませぬ
   生きた先祖を まつるのだ

諸行無常と 鳴る鐘の
   音のはかなさ きくときは
   移り変わりを 知れという

夕べを告げる 鐘の音に
   暁の鐘の音 きくたびに
   生の尊さ かみしめる

朝日に感謝は するけれど
   沈む夕陽に 知らぬ顔
   今日も一日 ありがとう

昨日を背負った 今日の日は
   明日をはらんで 過ぎてゆく
   大事にしよう 今日の日を

子供の魂 育てずに
   学問だけが 身につけば
   老後は知識で 責められる

子供に背かれ 嘆く親
   あなたは一体 どのように
   子供を育てて 来たのやら

子供に拝まれ 敬われ
   子供が自慢の 出来る親
   そんな親なら 神仏

慈悲で育てた 子供なら
   憂いも辛いも わかるけど
   情ばかりじゃ 仇となる

朝な夕なに 親と子が
   南無と両の手 合わすなら
   弥陀の心の 中に住む

親より先逝く 子があれば
   発心せよの 仏ごころ
   先逝く子供は みな仏

死を見て悲しむ ことよりも
   明日なきわが身の ことも知れ
   残る桜も 散る桜

何がなくとも 人生は
   心の破産を するじゃない
   人間破産は 物じゃない

他人のために 損しても
   それで前生の 借り果たす
   天地の計算 くるいなし

損をしたとて 怒るじゃない
   前生の借りが 済んだのだ
   損を拝めよ 人拝め

無常の中の 人の身は
   波にただよううき世舟
   頼め彼岸へ 法のふね
   頼め彼岸へ 法のふね

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歌碑の御奉納

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仏法(歌碑)のある御寺

境内参道の両側に歌碑(うたひ)を建立する事は、菩薩様御在世中よりの悲願であり、仏法の道しるべ「歌碑」のある御寺としての高野山法徳寺を実現する上で最も大切な整備事業の一つであります。

歌碑に刻まれるのは、花鳥風月を詠んだ和歌や短歌ではなく、移り変わりゆく人の世、人の心の有様をそのまま歌にあらわし、人間はこうあってはならぬ、こうあらねばならぬという、人生の正しい道しるべを綴った道歌(御法歌)であります。

歌碑の御奉納と言えば、御奉納される方が自ら作った短歌や俳句を石に刻んで奉納するのが一般的ですが、法徳寺へ御奉納して頂く歌碑は、菩薩様が作られた道歌(御法歌)の中から一首を撰んで頂き、それを御奉納して頂くのであります。

何故菩薩様の道歌を御奉納して頂くのかと申しますと、この道歌(御法歌)は、『道歌集』の序文にも書いておられますように、菩薩様が自ら思考して作られたものではなく、あらゆる苦難の中から、知らず知らずのうちに口をついて魂の奥底から湧き出て来た御真言(仏法)であり、まさに生き仏となられた菩薩様の仏性の息吹そのものだからです。

参道の両側に建立される歌碑は、菩薩様の仏性の息吹とも言うべき道歌(仏法)によって、悩み苦しむ人々を、この世の曼荼羅浄土(夢殿)へ導く道しるべであり、御奉納される皆様は、歌碑を通して苦しむ人々の心の闇を照らす灯人(あかしびと)となり、悩み苦しむ人々を、曼荼羅浄土へ誘う道先案内人となられるのであります。

歌碑は永遠なる命の象徴

菩薩様は、平成2年4月13日、御歳71歳をこの世の一期として御入定なさいましたが、その菩薩様の永遠なる命を象徴するのが、数々の道歌(仏法)を刻んだ歌碑であります。

しかし、この歌碑は、ただ生き仏となられた菩薩様の永遠なる命を象徴するだけではなく、歌碑をご奉納された皆様の永遠なる命を象徴するものでもあります。何故なら、御奉納される皆様もまた、歌碑を通して生き仏となられた菩薩様と共に末代までも生き続けていかれるからです。

お釈迦様は、弟子たちに、

「われの死は肉身である。肉身は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、患い、傷つき、こわれてゆくものである。
それゆえに、われの肉身を見るのではなく、われの法を知る者こそ、真のわれを見るのである」

と説いておられますが、菩薩様が数々の不可思議を通して、死んでも死なない命を得られた証をお示しになっておられるのは、仏法を心のともし火として生きる人は、いつまでも菩薩様と共に生きる事を教えんが為です。

道歌(仏法)を刻んだ歌碑は、まさに永遠を生きておられる菩薩様の命そのものであると同時に、末代までも菩薩様と共に生きてゆかれる御奉納者の皆様ご自身のお姿でもあるのです。

子々孫々に残す真の財産とは

人はみな亡くなれば墓石の下に葬られ、その墓を子や孫が代々守り伝えてゆくのが古来からわが国に伝わる先祖供養の在り方ですが、その墓を拝み供養するのは子や孫だけであり、血縁以外の人々から拝まれる事はまずありません。

しかし、道歌を刻んだこの歌碑は、苦しむ多くの人々の心を照らし、浄土へ導く法のともし火そのものでありますから、道歌に心を癒され、苦しみから救われた人々は、歌碑に手を合わせ、感謝の祈りを捧げるに違いありません。

つまり、歌碑を御奉納された皆様は、子や孫や親族からは勿論のこと、苦しみから救われた多くの人々から、歌碑を通して末代までも拝まれてゆかれるのであります。

その功徳の果報は、ご奉納されたご本人は勿論のこと、ご先祖や子々孫々に報われ、回向されてゆく事でしょう。

何が有難いと申しましても、子や孫はおろか、苦しみから救われた多くの人々に、歌碑を通して拝まれてゆくこと以上に有難い事はありません。これこそ、人間として最高の幸せであり、ご先祖に手向ける真の供養であり、子々孫々に残してゆける唯一の財産ではないでしょうか。
 いつの日も 叶わぬときはただ頼め
  歌碑をわれの 墓と思いて
 勧進の 縁の糸にみちびかれ
  往くも帰るも 弥陀の浄土へ
 ありがたや 奉納寄進の導きで
  いま積徳の よろこびを知る

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信者を作らない理由

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信者は要らない

お参りされた皆様からよく「法徳寺は信者寺ですか」とのお尋ねをいただきます。

その都度、「いいえ、法徳寺には、一人の信者もいませんし、檀家もございません」とお答えすると、不思議そうな顔をなさいます。

菩薩様は、常々「法徳寺には、信者は一人もいないし、作らない。これからも信者は作らないし、作ってはならない。ただご縁の方々にお参り頂き、一人でも二人でも救われて帰って頂いたら、それでいいのです」と仰っておられました。

近年、子供を虐待する親の話をよく耳にしますが、自分の子供だと思うから、子供に粗相をしたり、乱暴したりするのであって、「この子は神仏からの預かり子だ。お預かりしているだけだ」と思ったら、決して乱暴や粗相は出来ません。

それと同じように、信者を作ると、「わが信者だ。わが弟子だ」という思いから、信者や弟子に執着し、その自由や行動を縛るようになるのです。それは、様々な事件を起した数々の宗教団体を見れば明らかではないでしょうか。

菩薩様が「法徳寺には、信者は一人もいないし、信者は作らない」と仰ったお言葉には、非常に深い意味があるのです。

救われる上で、信者であるか否かは、全く関係ありません。大切な事は、苦しみから救われる事であり、一刻も早く苦しみの因縁を解く事です。

来る者は拒まず・去る者は追わず

法徳寺は、「来る者は拒まず、去る者は追わず」で、誰でも自由にお参りして頂いたらいい御寺です。

「来る者は拒まず、されど去る者は許さず」と云って、信者の自由を束縛し、様々なトラブルを起した宗教団体が多々ありますが、これは、信者を作ると必ずそうなっていくという戒めであり、救いを求める人々への良い教訓です。

お釈迦様が『法句経』というお経の中で、「茅(かや)をつかみそこぬればその手を傷つくるが如く、誤れる求道は人を破滅にみちびく」 と、厳しく戒めておられますように、悩み苦しみの中で、藁(わら)をもつかむ思いですがった教えが茅であったら、何といたしましょう。それこそ、迷路に入るばかりか、人生の破滅となるでしょう。

宗教というものは、自己の旨(むね)とすべき教えですから、仏法以外に何かを求めて救われるものでは決してありません。

教えを求め、救いを求める時には、念には念を入れ、正しい教えを求めなければならないとのお釈迦様のお諭しです。

私がしたいのはそんな事ではない

以前、九州へ行かれたお方が、菩薩様に、「九州へ行きましたら、新興宗教がたくさんの信者さんを集めて活動してみえました。私、それを見て、うらやましくて仕方がありませんでした。早く法徳寺さんにもそうなって頂きたいと思います」という電話をして来られた事があります。

その時、菩薩様は、

「私はそんなつもりで、法を説いているのではありません。私がしたいことはそんな事ではありません。
どれだけ信者を作ったとか増やしたとか、そんな事は一切関係ありません。
増やしたい教団があれば、どんどん増やして頂いたらいいのです。
私は、ただご縁のあった方が一人でも二人でも、ここへ来て頂いて、救われて帰って頂いたらそれでいいのです。信者を作ろうとか、そんな事は一切考えておりません。
作りたい教団があったら、どんどん作って頂いたらいいのです」
とおっしゃって、その方を厳しく戒められましたが、そのお言葉で、その方は、もう二度と、信者を作るとか増やすというような事を仰らなくなりました。

菩薩様が、信者というものに一切執着しておられなかった事を物語るエピソードの一つですが、今も私達の脳裏に深く刻まれています。

人みな同行二人

よく「信者を作らないし、一人の信者もいないとすれば、毎月お参りされている方々は一体どういうお方なのですか」と聞かれますが、法徳寺に御縁があってお参りされる人々は、すべて御同行(ごどうぎょう)であります。

御同行とは、文字通り、救いを求めて共に修行する仲間という意味です。

昔から、「旅は道連れ、世は情け」と言われますが、私達はみな救いを求めて共に旅をする道連れであり、法徳寺は、互いに助け合い、励まし合いながら一緒に求道の旅をしている人々が集う憩いの場所であります。

四国八十八ヶ所霊場へ行きますと、道行くお遍路さんの菅笠に「同行二人」(どうぎょうににん)と書かれているのをご覧になった事があると思いますが、これは、四国霊場の険しい山坂を、お大師様と共に、そしてお遍路さん同士が互いに道連れとなって、苦しい試練の山坂を越えて行きましょうという意味です。

しかし、同行二人は、四国霊場だけの道連れではありません。

私達の人生で、ご縁となった方は、みな同行二人、つまり御同行(ごどうぎょう)なのです。

夫婦、親子、兄弟姉妹、親戚、友人は勿論、電車で袖触れ合った人でさえ、みな御同行の一人です。御縁があって法徳寺へお参り下さった皆様も、みな御同行です。

勿論、そこには、上も下もなく、誰もがみな御縁に導かれて法徳寺へお帰り頂き、法のみ光に触れて救われて帰って行かれる御同行なのです。

ですから、法徳寺には、御同行はおられても、信者は一人もいないのです。

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法話の小部屋

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法徳寺の節分

法徳寺の豆まき

2月と言いますと、大きな仏教行事が二つあります。一つは2月3日の節分、もう一つは2月15日の涅槃会(ねはんえ)です。

ご承知のように、立春、立夏、立秋、立冬という大きな季節の節目の前日を、節分と言います。

ですから、本来、節分は年に四回ある訳ですが、現在は、一年の節目という意味合いから、立春の前日だけを節分と言っています。

季節の節目は、人間の体にとっても大きな節目となるため、昔から私達のご先祖は、一年間の無病息災を祈って、様々な厄除け行事を行ってきました。

その一つが節分の豆まきですが、どのお宅でも、今日は恒例の豆まきをされる事でしょう。

昔からの慣わしに従えば、その年の恵方(縁起の良い方角)向かって「福は内」と唱え、次に恵方に背を向けて、「鬼は外」と言いながら豆まきをする事になりますが、勿論、それも間違ってはいません。

「鬼」や「魔」というのは、人間のいのちを脅かす様々な禍や病気、災難の事(外魔)であり、人間の心に巣食う執着や貪り、怒りの心(内魔)でもあります。

「鬼は外」と言う呼びかけには、様々な禍や災難を追い払い、「心の中に巣食う執着や貪り、怒りという悪魔を追い出して、福の心(慈悲心)を呼び覚まそう」という祈りが込められているのです。

「鬼も内」とお唱えする理由

しかし、法徳寺では、あえて「福は内、鬼は外」とは唱えず、「福は内、鬼も内」とお唱えしながら豆まきをします。

「鬼に入って来られては困ります」と言われるお方もいるでしょうが、困る事など何もありません。

「福は内、鬼も内」と言って豆をまく理由は、二つあります。

一つは、鬼も衆生の一人だという事です。

衆生済度をしなければならない使命のあるお寺にとって、救われなくてもよい衆生など一人もいません。

たとえ鬼であっても悪魔であっても、法徳寺に救いを求めてくる者は、すべて救わなければならない衆生です。

鬼だ、悪魔だと言って分け隔てしていては、衆生済度は出来ません。

それでは、お寺の使命を自ら放棄しているようなものですから、本末転倒です。

むしろ鬼や悪魔ほど救いを求める心が強く、一刻も早く鬼や悪魔を呼ばれる身分から救われたいと願っている筈です。

菩薩さまも常々、「すべてが救わなければならない衆生だ。鬼も悪魔も衆生の一人だから、分け隔てなくお寺に招いてあげなさい。仏法を施し、救ってあげなければいけない」と仰っておられましたが、節分が来るといつも、この言葉が脳裏に蘇ってきます。

お大師様は、
 虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば
  わが願いも 尽きなん
というお誓いを立てておられますが、鬼も餓鬼も悪魔もみな衆生の一人ですから、鬼だけを追い出していては、お大師様の御誓願も成就しません。

福と禍は表裏一体である

二つ目は、福と鬼は別々のものではないという事です。

吉祥天と黒闇天(こくあんてん)の話をご存じでしょうか。

吉祥天は福の神、黒闇天は厄病神ですが、全く敵対しているように見えるこの二人は、実は姉妹でもあります。

吉祥天が姉、黒闇天が妹で、一心同体ですから、どこへ行くのもいつも一緒です。

こんな話があります。或る日、美しい女性がやって来られ、「私は吉祥天と言う福の神です。お宅に福を授けにまいりました」と言ったので、家人は大そう喜び、「有り難うございます。どうぞお入り下さい」と言って招き入れました。

すると、その後ろから、みすぼらしい姿をした女性が入って来ようとするので、「あなたはどなたですか?」と尋ねると、「私は黒闇天という疫病神です」と名乗ったので、「疫病神に入ってもらっては困ります。どうぞお帰り下さい」と言うと、黒闇天は大笑いしながら、「先ほど入っていった吉祥天は私の姉です。私達はいつも一心同体で、どこへ行くにも一緒なのです。もし私を追い出せば、姉も一緒に出て行かねばなりません」と言って、黒闇天を追い出したら、吉祥天も一緒に出て行かれたというのです。

「吉凶禍福はあざなえる縄の如し」と言う言葉がありますが、吉も凶も禍も福も、すべて表裏一体ですから、福だけを招く事は出来ません。

おめでたい福だけを招きたいと思っても、福の裏にはいつも禍が付いて回っているのです。

福を招きたければ、禍も一緒に招く心にならなければ、本当の福は招けません。

本当の福の神は誰か?

更に深く悟ってゆけば、何が見えてくるでしょうか?

福も鬼も分け隔てなく、すべてを在るがまま受け入れ供養させて頂く心になった時、「本当の福とは何か、本当の福の神は誰か」という事が、少しずつ分ってきます。

あなたは、今まで知らなかった節分の本当の目的に気付かれるでしょう。

禍(黒闇天)と一心同体の福(吉祥天)が、あなたの求める本当の福ではありません。禍(黒闇天)と一体の福(吉祥天)は、まだ借りの福に過ぎません。福と一体の禍(黒闇天)もまた借りの禍に過ぎません。

自分にとって不都合な事も、好都合な事も、禍も福も分け隔てなく、すべてを在るがまま受け入れようという心になった時、本当の吉祥天がそこに現われます。

その吉祥天こそ、実はあなた自身であり、あなたの本当の姿なのです。

その心を成就した時、あなたは、人々に福を授ける福の神として生まれ変わっている事に気づかれるでしょう。

あなたにとって都合の良い吉祥天という福の神も、不都合な黒闇天という疫病神も、実はあなたを福の神に生まれ変わらせる為の借りの姿だったのです。

節分は、あなた自身の中に眠る福の神を目覚めさせるための年に一度の大切な儀式であり、一年が始まる立春の前日こそが、福の神に生まれ変わる日(節が分れる日)に相応しいと考えたからこそ、我々のご先祖は、親から子、子から孫へと、節分の行事を伝え、お祝いし、祈りを捧げてきたのです。

菩薩さまが、あえて「法徳寺は、”鬼も内”だ。鬼もお招きしなければいけない」と仰ったみ心の裏には、深いお悟りと、「節分は福の神に生まれ変わる日である事に気付いて欲しい」という祈りが隠されていた事が、今になればよく分ります。

合掌

平成28年2月3日

法徳寺のお餅つきは何故29日なのか!

9に対する人間の様々な思い

今日は、毎年恒例の餅つきの日です。

「昔ながらの臼と杵を使って」と言いたいところですが、フル稼働しているのは、二台の餅つき機です。ご本尊様へのお鏡餅を沢山つかないといけないので、この日ばかりは、餅つき機様々です。

さて、29日は「苦餅」につながるからと言って、この日を避けるお宅が多く、世間の一般常識ではそうなっているようですが、法徳寺では、毎年12月29日を餅つき日と決めています。

何故敢えて「苦餅」につながる29日を選ぶのか?

答は簡単です。「9=苦」とは考えていないからです。

例えば、陰陽師・安倍晴明でお馴染みの陰陽道では、万物を奇数(陽)と偶数(陰)に分け、陽の極数(最大奇数)である9は、最も縁起の良い数字と言われています。

相輪

五重塔や三重塔や多宝塔の天辺に、天に向かって立っている相輪(そうりん)に付いている輪も、九つあります。

九輪(くりん)とも言われるのはその為ですが、もし「9=苦」であるなら、み仏をお祀りする塔の天辺に、わざわざ縁起の悪いものを据える道理がありません。

陽の極数が二つも重なる9月9日は、五節句の一つ「重陽の節句」で、古来お目出度い日とされています。

また、「苦餅」につながるという理由で避けられる29日を、「ふくび(福日)」と読み替える事も出来、29日につくお餅は「苦餅」ではなく、逆の「福餅」という事になります。

もし29日は「苦餅」につながるから避けた方がよいと思うなら、29日のお餅つきは、「苦を尽く」、つまり「苦しみを尽きさせるお餅つき」という意味合いを込めて行えばよいのです。

このように、苦につながると考えられている29日が、見方を変えれば、お目出度い数字に大変身するのです。

何故そうなるのかと言えば、「9=苦」とは決まっていないからです。

と言うより、9はただの数字の9に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもありません。

それは、7がただの7であり、8がただの8であるのと同じです。

しかし、世間では、7はラッキーセブン、8は末広がりで、共に縁起がよいとされ、9は苦につながるから縁起が悪いとされているのです。

一体誰が、ただの数字に過ぎない7や8はお目出度くて、9は苦につながるから縁起が悪いと決めたのでしょうか。

勿論、私達人間です。犬や猫が、9を嫌がったり、8を目出度いと言って喜んでいる姿を見た事がありませんから、人間だけと断言してもいいでしょう。

ている訳では、勿論ありません。人間が、勝手に「9=苦」と考えて、忌み嫌っているだけなのです。

幽霊の正体

勿論、苦を避けたいという気持ちは、万人共通の思いであり、それを否定するつもりはありません。そういう私自身が、実は誰よりも苦を避けたいと願っている一人でもあるのです。

しかし、幾ら苦を避けたいと願っても、苦の方から避けて通ってくれる訳ではありません。

もし苦の方から避けてくれるなら、この世で苦しむ人は一人もいないでしょう。

それどころか、現実は、苦を避けたいと思っている人のところにこそ。望まぬ苦が近寄ってきているのではないでしょうか。

その証拠に、長年29日に餅つきをしてきましたが、「9=苦」と思っていない私達のところへは、何故か疫病神も近づいてきてくれません。

何故なのでしょうか?

この答えも簡単です。9という数字が、苦を招いている訳ではないからです。

苦を引き寄せているのは、実は、「9=苦」と考え、9を忌み嫌う私達の気持ちなのです。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という俳句があります。怖い怖いと思っていると、何でも怖いものに見えてくるという譬えです。

「苦でも何でもお越し下さい」と思っている人のところには、苦はやってきたくても来れません。何故なら、その気持ちがある人にとって、苦はもはや苦とはなりえない無害なものとなっているからです。

お化け屋敷に入っても怖がらない人がいますが、幽霊役の人にとって、これほど嫌なお客はいないでしょう。怖がらせなければいけないのに、怖がってくれないのですから、幽霊の出る幕がありません。

「苦でも災難でも、どんなに不都合な事でも全て受け入れます」と腹をくくった人の勝ちです。何事も在るがままを受け入れられる気持ちを持った人ほど、強いものはありません。

疫病神は、そんな人の所にはやってきません。

疫病神に魅入られるのは、それを恐れ、苦を忌み嫌っている人の方なのです。

お鏡餅を供える心構え

ご存じのように、お鏡餅は、三種の神器である鏡を模したもので、年神様(としがみさま)が宿る依り代(よりしろ)です。

年神様は、新しい年の幸福をもたらす福の神様で、その福を頂くという意味から、お正月には、家族揃って、年神様の福が宿る鏡餅をお雑煮にして頂くのが、古くからの慣わしです。

お鏡餅

天照大神の依り代である鏡は、福の神の象徴であると同時に、私達の心をありのままに映し出すものでもありますから、鏡を象徴する鏡餅を作り、お供えする心構えが、とても大切なのです。

つまり、「疫病神はお断りです。福の神様だけお越し下さい」という自己中心の分別心ではなく、「疫病神様も福の神様もすべて受け入れますからどうぞお越し下さい」という大いなる慈悲の心、無分別の心を込めてお供えするのがお鏡餅であり、その心を待っておられるのが年神様なのです。

何故なら、それこそが、福を呼び寄せる心だからです。

29日は、その大切な気持ちを再確認させて頂く日であり、お餅つきは、その気持ちをお鏡餅に込めて、ご本尊様にお供えする準備をする大切な行事なのです。

世間では「苦餅」につながるから避けた方がよいと言われる29日のお餅つきですが、法徳寺では、いまお話した理由から、新しい年を迎える心の準備をする為にも、29日にするのが最も相応しいと考え、毎年この日にお餅つきをしているのです。

合掌

平成27年12月29日

いのちあるうち いのちあるうち─お彼岸に寄せて

お彼岸の意味

9月23日の中日を挟んで一週間が秋のお彼岸になりますが、お彼岸中は、ご先祖を偲んで法要を勤めたり、お墓参りをされる皆様も、大勢おられると思います。

お彼岸とは、「此岸(しがん)」に対する言葉で、救いの世界を現しています。

昔から、此岸と彼岸の間を流れる川を「三途(さんず)の川」と名付け、亡くなられたお方は、みな三途の川を渡って彼岸へ行くと説かれていますが、これは譬えであって、実際にこのような川が、この世とあの世の間に流れている訳ではありません。

仏教を「内道」と言い、仏教以外の教えを「外道(げどう)」と言うように、心の救いを説いているのが仏教ですから、此岸も彼岸も三途の川も、すべて私達の心の中にあります。

三途とは、六道(六つの迷いの世界)の中の「地獄、餓鬼、畜生」の事を言います。

六道とは、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」の六つの世界を指し、三悪道と言われる地獄、餓鬼、畜生の世界から救われる事を譬えて、「三途の川を渡る」と言うのです。

昔から、三途の川を渡る時の為にと、棺に六文銭を入れるのが慣わしになっていますが、この六文銭には、迷いの世界である六道から救われて欲しいという願いが込められています。

お彼岸に込められた願い

お彼岸は、ご先祖供養の為に設けられた行事である事は言うまでもありませんが、それと同時に、生きている私達を彼岸に渡したいという願いの下に作られた行事である事を忘れてはなりません。

地獄は怒りの心、餓鬼は貪りの心、畜生は自分さえよければいいという自我我執の心によって作られる世界で、怒りと貪りと自我我執の心を制御しなければ、彼岸に渡る事は出来ません。

お彼岸と共に大切な仏事であるお盆は、釈迦十大弟子の一人、目連尊者が、餓鬼の世界に堕ちた母親を救った故事に由来しますが、目連の母親は貪りの心が強く、「惜しい欲しい」で生涯を送った為に餓鬼道に堕ちました。

菩薩様が作られた聖歌『救済和讃』の中に、
 この世の業が 分かれ道
 万苦が尽きる 地獄道
 欲しい惜しいが 餓鬼の道
 わが身ばかりが 畜生道
と詠われているように、「欲しい惜しい」という貪りの心で生きた人が堕ちる世界が、餓鬼の世界です。

餓鬼にも、「無財餓鬼」と「有財餓鬼」があります。

「無財餓鬼」は、あれも欲しい、これも欲しいと、飽くなき貪りの心に支配された強欲な人が堕ちる世界です。

「有財餓鬼」は、有り余るほどの財産があるのに、それを人に施すのが惜しいという、自分の財産に対する執着心の強い人が堕ちる世界です。

また貪り、怒り、愚痴嫉妬の三つを「三毒煩悩」と言いますが、仏教では、貪りの心は餓鬼の世界、怒りの心は地獄の世界、愚痴嫉妬の心は修羅の世界へ堕ちてゆくと決まっています。

地獄、餓鬼、畜生の三つに、自我我執の心で作る畜生の世界を加えて、「四悪道」といいますが、要するに地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六つの世界(六道)を心の中に作って苦しんでいるのが今の私達であり、その迷い苦しみの世界から、救いの世界である彼岸へ渡って欲しいという先人の願いが、お彼岸の行事に込められているのです。

決してご先祖供養の為だけに作られた行事ではないという事を、忘れないで頂きたいと思います。

吉祥天と黒闇天

こんな話が、経典に説かれています。

或るお家に、気品ただよう美しい女性が訪ねて来られ、「私は吉祥天という福の神です。お宅に、福徳を授けにまいりました」と言って、家の中に入って来られました。

ところが、吉祥天の後から、見るからにみすぼらしい女性がもう一人入って来られたので、家人が「どなたですか?」と尋ねると、「私は黒闇天(こくあんてん)という疫病神です」と名乗ったので、「疫病神に入ってもらっては困ります。どうぞお帰り下さい」と言って、追い返そうとしました。

すると、黒闇天は大笑いして、「先ほど入って行った吉祥天は、わたしの姉です。わたしたちはいつも一心同体ですから、わたしを追い出せば、姉の吉祥天も一緒に出て行かねばなりません」と言って、黒闇天を追い出したら、せっかく入って来られた吉祥天も黒闇天と一緒に出て行ってしまったというお話です。

とても示唆深い話ですが、この話が教えようとしているのは、吉も凶も、此岸も彼岸も、地獄も極楽も、幸も不幸も、苦も楽も、結局同じものだという事です。

つまり、吉凶禍福、幸不幸というものは、一枚の紙の裏表のようなもので、同じものを、どちら側から見るかの違いに過ぎないのです。

例えば、東京の空より、山梨の空の方が澄んでいて、空気も綺麗ですが、では、東京に住んでいる人は不幸で、山梨に住んでいる人は幸せだと言えるのでしょうか?

そんな事は断じてありません。

東京は山梨に比べ、都市機能も充実していて、暮らすにはとても便利で、山梨より優れた点が多々ありますが、では、山梨に住んでいる人は不幸で、東京に住んでいる人は幸せだと言えるのでしょうか?

これもまた違います。

東京は空気が汚れているから、山梨へ行けばきっと空気も美味しいし、快適な暮らしが出来るだろうと思って山梨へ来ても、やがて不満が出てくるでしょう。

また山梨は不便だから東京へ行けば便利で快適な毎日を送れるだろうと思って、東京へ引っ越しても、やはり不平をもらすようになるに違いありません。

何故なら、東京にも山梨にも、それぞれ優れた点もあれば、劣った点もあるからです。

私が申し上げたい事は、幸せばかりの世界(彼岸)も、不幸ばかりの世界(此岸)もないという事です。

「吉凶はあざなえる縄の如し」で、幸福のある所には必ず不幸が隠れ、不幸がある所にも必ず幸福が潜んでいます。

お釈迦様が、この世の有様を「四苦八苦」と説かれたように、この世が、苦しみ多き世界(此岸)である事は間違いありません。

しかし、苦しみだけの世界では、決してありません。この世が四苦八苦の世界であるなら、苦しみから救われる世界(彼岸)も、必ずこの世にあるのです。

よく、此岸はこの世、彼岸はあの世の事と誤解し、信心すれば、あの世の極楽浄土へ往生できると信じておられるお方がいます。

これは、先の例でいえば、東京は空気が汚いから、山梨へ行けば幸せに暮らせると言っているのと同じで、間違いではありませんが、正確ではありません。

何故なら、三途の川も彼岸も、地獄も極楽もすべて、この世にあるからです。

何故、この世にあると断言出来るのかといえば、地獄も極楽も、三途も彼岸も、苦しみも幸せも、すべて私達が作りだす世界だからです。

地獄も極楽も、私達が生きている所にしかありません。

ですから、私達が此の世にいれば、地獄、極楽もこの世にありますし、私達があの世に往けば、地獄、極楽もあの世に付いてきます。

地獄のようなこの世だから、あの世へ往けばきっと極楽浄土があるだろうと、信じたくなる気持ちは分かりますが、生きる世界を変えても、場所を変えても、何も変わりません。

苦しみから救われるのに、生きる世界を変える必要などないのです。

 浪の音 嫌じゃと思うて山ごもり
    声色変えて 松風ぞ吹く
という古歌があるように、生きる世界を変えても、場所を変えても、自分が変わらなければ何も変わりません。

もし私達が生きるこの世に苦しみ(地獄)があるなら、苦しみから救われる道(極楽)も必ずこの世にあります。

救いの道もないのに、苦しみだけが与えられる事は絶対にありません。

何が言いたいのかといいますと、いま何らかの苦しみを与えられていても、何ら悲観する必要はないという事です。

苦しみが与えられたという事は、ようやく救われる時期が来たというだからです。

苦しみが与えられた時が、まさに救われる時なのです

ですから、苦しみが与えられた時は、苦しむ為に与えられたのではなく、救われる為に与えられたのだと悟り、苦しみに感謝して、救いの道を求めればいいのです。

救いを求める事を「発心(ほっしん)」と言いますが、発心しなければ、救いの舟に乗って彼岸へ渡る事はできません。

 苦しみが あるから菩提の花が咲く
    苦を持つ人こそ しあわせなりけり
です。

吉祥天と黒闇天の話は、その事を教えてくれているのです。

お彼岸が教える真理とは

さて、われわれ日本人に馴染みの深いお彼岸ですが、数ある仏教国の中で、お彼岸の行事があるのは日本だけです。

一説には、聖徳太子が始められたとも言われていますが、芽の出る春と、散ってゆく秋にお彼岸の行事を作られた先人の叡智には、いつも感心させられます。

ご先祖を敬い、四季折々の美しい大自然に抱かれて生きてきた日本人だからこそ作り得た行事と言っても過言ではありませんが、お彼岸が教えている仏教の真理をご存じでしょうか?

一つは、「諸行無常」です。

「無常とは死ぬ事だ。死んでしまえば全て帳消しになる。だから、好きな事をして生きなければ損だ」とおっしゃるお方もいますが、無常とは、ただ死ぬ事ではありません。

文字通り、無常とは、移り変わる事を意味します。死んで終わりなら無常とは言いません。

 無常とは なくなることと思うなよ
    春夏秋冬 めぐり来るのに
という歌があるように、果てしない生死の繰り返しが無常であり、その中に居るのが私達です

いま私達は、親から子、子から孫へと受け継がれていく命のリレーの真っ只中にいます。

私の命は、無数のご先祖から受け継がれた命であると同時に、無数の子孫へとつながっているかけがえのない命でもあります。

その事を考えると、ご先祖への感謝の念と、後に続く次世代に命を守り伝えていかなければならない責任の重さを痛感します。

もう一つは、「中道の精神」です。

昼と夜の長さがほぼ同じである春分の日と秋分の日を彼岸の中日と定めているのは、苦にも楽にもとらわれず、右にも左にも偏らず、常に真理を見つめながら進んで欲しいという願いが込められているからです。

いつ願いに答えるのか?

この二つの真理を悟って、苦しみの原因である執着と分別心から自由になり、晴れて三途の川を渡って彼岸(極楽)へ到達して欲しいというのが、お彼岸を作られた先人の願いですが、その願いに答えるのはいつなのでしょうか?

その時は、生きている此の世の今をおいて他にはありません。

「いつやるの?今でしょう」と言って有名になった学習塾の先生がいましたが、まさに今がその時なのです。

「生きている内に渡れなければ、死んであの世へ往ってから彼岸へ渡ればいいじゃないか?」と言われるかも知れませんが、残念ながら、私達には、今という時しか与えられていません

頭で考えれば、確かに明日も明後日も、あの世もあるように思えますが、明日になっても、明後日にあっても、あの世になっても、私達が生きられるのは、明日の今、明後日の今、あの世の今だけなのです。

100歳の双子の姉妹として有名になった金さん、銀さんだって、100年を生きた訳ではありません。生きたのは、今という一瞬です。

その今の積み重ねが、結果として100年なり80年なりの人生になるだけに過ぎませんから、幾らあの世へ往ってから彼岸へ渡ろうと思っていても、あの世は永遠にめぐって来ないのです。

ですから、此岸から彼岸へ渡るのは、生きているこの世の今をおいて他にはありません。
 人の身は 咲いて散るこそ桜花
    いのちあるうち いのちあるうち

平成26年9月27日

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汗露水に額ずく僧侶の群れ

限りない慶びに満たされて

平成の弘法大師様と仰がれ、生き仏様であらせられる普門法舟大菩薩様が御入定なされて早や16年、菩薩様の悲願である救済の御寺「宗教成合の郷・高野山法徳寺」が若神子の聖地に御開創されて3年、威厳ある客殿「昇龍閣」、白鶴が翼を広げて舞っているかの如き優美な姿を見せる菩薩様御廟「夢殿」、その夢殿を廻る救済の御法歌を刻んだ四十九基の歌碑、そしてその周囲に造られたお大師様のお救いの足跡をたどる「お四国八十八ヶ所お砂踏み霊場」の御回廊と、次々に厳粛な開眼法要が営まれ、菩薩様のお慈悲の広大さを御示現なさいました。

そして平成17年は、菩薩様の衆苦(代受苦)の御汗、心身を清め癒す御聖水である尊い「汗露水」を賜わり、4月13日、春の大法要におきまして「汗露水湧出記念法要」が昇龍閣にて厳修されました。誠に勿体なく、限りない慶びでございました。

この汗露水の尊さは、救済誌にもございましたように、御法嗣様をはじめ、ご家族や御同行の皆様が、菩薩様の通力に敬意を持って心身に感知し、御心に添った御行をなさり、賜わったものでございます。勿体なく存じ上げます。

私もこの「汗露水」の尊さを体験させて頂きましたので、その一端をお話させて頂きたいと存じます。

汗露水を賜わる感謝の祈りの行

平成17年10月20日、魂のおやざと「宗教成合の郷・高野山法徳寺」に勇み帰らせて頂き、生き仏様の尊い法の光を心身に賜わり、誠に勿体ない限りでございました。

その折に「汗露水」掘削にまつわる不思議なお計らいと、御法嗣様の御行の厳しさを目の当たりにし、尊く有難く、私も何かお役に立たせて頂かねば申し訳ないと思いました。

私をはじめ多くの人々の心身の罪を一身に受けての代受苦のお姿を拝し、この耐え難い痛みの御行が早く終り、お大師様、菩薩様からの衆生救済のための御聖水「汗露水」が賜われますように願わずにはおられませんでした。

そして、懺悔滅罪の千巻経を唱える祈りの行をはじめました。
雑念が入らぬようイメージして心経を唱えつつ、夢殿の御回廊を素足で廻らせて頂きました。
結願しても、もっともっと行をさせて頂きたい気持ちが治まりませんでした。

来る日も来る日も欠かすことなく続けて半年、その祈りの行の中で、不思議な夢を見させて頂きました。

汗露水をひれ伏し拝む僧侶の群れ

仏壇に向かいイメージして感謝の般若心経を、紀州高野山奥の院御廟のお大師様に奉り、夢殿の御回廊を廻って法舟菩薩様に奉り、昇龍閣に奉り、庫裏に奉り、そして庫裏の左側の「汗露水」掘削の聖地に奉る頃、ウトウトとなると、萌黄色の法衣を召された御法嗣様が私の前にお立ちになり、掘削中の聖地に合掌なさるところでございました。後方にひざまずき、心経を唱え終ると目覚めました。

その後、何回となく同じ夢を見て、毎日の行に熱中して行きました。

ある時、夢の中で、「汗露水」湧出の聖地を拝む御法嗣様の法衣が金色に輝き、大きなお姿になられたのです。

前方の空があかね色に染まり、御法嗣様のお姿は夢殿におわします身代り升地蔵菩薩様にお成りでございました。光り輝く神々しい後姿にひれ伏し、合掌の手がふるえていました。

そのお姿の影を避けようと後を見て、飛び上がるほど驚きました。

法徳寺の広い広い境内が、墨染めの僧衣を召されたお坊様で、隅から隅までぎっしり埋めつくされ、「汗露水」湧出の聖地に向かい、深々と額ずくお姿でございました。

「この汗露水が如何に尊いか、決して忘れるでないぞ」と菩薩様が仰せられる様に、湧出の聖地をひれ伏し拝むお坊様のお姿を、何度も何度も夢に見ました。

夢の中で、お坊様のひれ伏し拝む前に私がいては恐れ多いと思い、法徳寺境内の入口あたりでお坊様方をお迎えし、お見送りしようと座しておりますが、お一人として私の前をお通りになりません。

目覚めて思いました事ですが、高祖弘法大師様のおわします紀州高野山と同様、高野山法徳寺には法舟大菩薩様を敬い、お慕いし、仏法を学ぶ修行僧が、私たち凡人にはそのお姿こそ見えないけれど、大勢お住みになっておられる事をお知らせ下さったのでございます。

大勢のお坊様もひれ伏し拝む衆生救済の御寺、「汗露水」の湧き出ずる霊験あらたかな御寺は、「高野山法徳寺」ただ一寺でございます。

私が歩んできた道

わが身の幸せを感じる日々

平成16年4月13日、高野山法徳寺が山梨に発足してより今日まで、毎月ご縁日には法徳寺へ帰らせて頂き、尊い仏法に遇わせて頂いておりますが、今の世の人々の姿を見ていますと、同じ人間でありながら、こうして億劫にも遇い難き仏法に遇わせて頂ける我が身の幸せに、何時も感謝の気持ちでいっぱいです。

以前の私は、「幸せとは何か。どうしたら幸せになれるのか。悩みや苦しみはどうすれば解決するのか」と、あれこれ思案しておりましたが、今では、森羅万象全てに感謝をし、お大師様、菩薩様を信じ切って、在るがままを受け入れる心になれば、そこがもう極楽である事が、自分の心の中に少しずつ見えて来たように思います。

しかし、在るがままを受け入れると言いましても、そこはやはり仏法のお導きがなければ、中々その心には成り難いもので、毎月ご縁日に頂ける尊い仏法のお導きのお陰と感謝しております。

菩薩様との御縁の始まり

私が、菩薩様にご縁を頂きましたのは、今から23年余り前の昭和61(1986)年12月21日の納め大師でした。

この時は、山梨の法徳寺ではなく、奈良県桜井市にある法楽寺というお寺でしたが、ちょうどその年の9月頃から体調が悪くなり、特に首の周辺の凝りがひどく、毎日がとても辛いものでした。

仕事にも熱中できず、憂鬱な毎日が続いていましたが、この苦しみから何とか救って欲しいという、ただそれだけの思いで法楽寺へお参りしたことを、今でも覚えております。

菩薩様は、「ここは病気を治すところではありません。病気が治るところです。」と仰いましたが、当時の私にはその意味がまったく分からず、ただ病気を早く治して欲しいだけの一心でした。

ある出社の朝、体調が特に悪くなり、菩薩様にこれからお会いしたい旨のお電話をさせて頂きましたところ、「私はこれから、大勢の苦しんでいる人の前で説法をしないといけないので、あなただけに会う事は出来ません。」と断られました。

そしてその時、「あなたも、仏に見込まれて仏の道に入ったのかなー」と仰いましたが、当時の私には、その言葉の意味が理解出来ず、心に受け入れる事が出来ませんでした。

初めてのお四国参りと退職

昭和62年9月21日、法楽寺へお参りさせて頂いたその夜、急に四国八十八ヶ所霊場をお参りしたくなり、今は亡き叔母のF・E様に同行をお願いしたところ、快く引き受けて下さいました。

翌22日から24日までの三日間で、第1番札所・霊山寺から第23番札所・薬王寺までお参りすることが出来ました。

その後、体調は更に悪化し、鍼灸治療を試みても治らず、頭部の精密検査をしても異常は見つからず、姓名判断(今から思えば邪教と同じ) にも相談に行きましたが、良くなりませんでした。

ただ不思議な事に、法楽寺や高野山からの帰りは、とても体が楽になっていました。

その後、家族四人揃って、平成元年5月3日から5日までの三日間、第24番札所・最御崎寺から第36番札所・青龍寺までと、第75番札所・善通寺にお参りすることが出来ました。

その頃から徐々に体調が回復して来ましたが、平成14年春頃に再度体調不良となり、会社を辞めようと思案しておりましたところ、選択定年制度 (早期退職制度) が発足し、その年の12月に50歳で退職致しました。

私が進むべき道

今から思いますと、昭和61年9月頃に体調を崩した事がきっかけで、その年の12月21日に菩薩様とご縁を結ばせて頂いた訳ですから、今の私があるのは、その時の苦しみのお陰と言わなければなりません。

その時は、首の周辺の凝りがひどくて、毎日がとても辛いものでしたが、今考えてみますと、お大師様と不二一体の生き仏となられた菩薩様の衆生救済のお手伝いをさせて頂く為、お大師様に襟首を掴まれていたのではないかと思うのです。

鍼灸治療を試みても、頭部の精密検査を受けても、姓名判断に相談しても良くならなかったのは、私の進むべき道がもうその時に決まっていたからではないでしょうか。

法楽寺や紀州高野山の帰りは体がとても楽だった事や、何処へ行っても良くならなかったのは、その事を私に教える為だったに違いありません。

当時は何も分からず、「Kさんも仏に見込まれて仏の道に入ったのかなー」と仰った菩薩様の言葉を素直に受け入れる事が出来ませんでしたが、今になれば、その言葉の意味がよく解ります。菩薩様は、すでに私が進むべき道を見通しておられたのです。

在るがままを受け入れよ

現在55歳ですが、会社を辞める事により、微力ながら法徳寺発足のお手伝いをさせて頂けました事は、私にとりまして何よりの光栄であり、また毎月菩薩様にお導き頂き、法徳寺へ帰らせて頂ける事が何よりも有難く、この上ない喜びとなっております。

今の私は、悩みや苦しみが全くありません。
お大師様、菩薩様を信じ切って、在るがままを受け入れるという思いになれば、心は穏やかで、今が極楽なのです。

最近感じている事ですが、法徳寺にご縁が有ってお参りされている人(御同行) は、全て彼岸(極楽) にいると思います。

しかし、その事に気付かれていない人も、大勢おられるのではないでしょうか。

森羅万象全てに感謝し、在るがままを受け入れるだけでいいのです。不都合な事でも感謝するだけでいいのです。決して難しい事ではありません。

そういう思いになれば、自分のいるところが彼岸 (極楽) だという事が分かって来ると思います。

勿論、「在るがままを受け入れる」という事は、簡単な様で、実はそう容易な事ではありません。在るがままとは、自分に都合の良い事だけでなく、都合の悪い事も受け入れていくという事だからです。

人間は都合の悪い事が起きると、それを受け入れることが出来ず、悩んだり苦しんだりしますが、その心を超えるには、菩薩様の仏法を頂く以外にはありません。

ですから、在るがままを受け入れられる心を作らせて頂く為にも、自ら仏法を求め、教えを受ける事が大切だと思います。

一年365日の内の13回の御縁日は、み仏が決められた仏法に遇える日です。たった13回、仏の都合に合わせて頂くだけでいいのです。

私も昔はそうでしたが、自分の都合でお参りするだけでは、中々悟りは得られないと思います。

何時かは悟らせて頂けるとは思いますが、無常の中にいる人の身である以上、いつ命の時間切れとなるやも知れません。ですから、命のある内に一回でも多く仏法を聞き、超えた心を作らせて頂かなければならないのです。

菩薩様が代受苦という大変な行をなさって私達衆生に残された道歌(仏法)を、ただ俳句や川柳の様に詠むだけではなく、一つ一つ心に噛み締め、それを信じ切って実践していく事が大切だと思います。

菩薩様の様な大変な行をしなくてもいいのですから、こんなに有難い事はありません。

今は自分や家族の幸せを願うだけではなく、悩み苦しんでいる人を、真心を以て救済出来ればいいと思っています。

その為にも、お大師様、菩薩様の衆生救済のご誓願が一日も早く成就されるよう、今以上に精進し、微力ながらお役に立てればと、誓いを新たにしております。

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自家用車を使う

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東京・名古屋・大阪方面から御帰郷

中央自動車道・須玉インターで降り、インター出口の信号を右折(清里・小諸方面)して国道141号線を北上、三つ目の信号(北杜市須玉総合支所前)を左折し、株式会社リガク山梨工場を通り過ぎた所に立っている「法徳寺」の看板の所を右折、さらに突き当たりを右折し、道なりに沿って進み、二軒の民家の前を通って進めばお寺に至る。(インターからの距離約2.5キロ、所要時間約5分)

清里・小諸方面から御帰郷

国道141号線を南下し、「北杜市須玉総合支所前」の信号を右折、株式会社リガク山梨工場を通り過ぎた所に立っている「法徳寺」の看板の所を右折、さらに突き当たりを右折し、次の角を左折して二軒の民家の前を通って先へ進めばお寺に至る。

法徳寺周辺地図

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高速バスを使う

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東京方面から御帰郷

(1)新宿駅西口⇔諏訪・岡谷駅

新宿駅西口の安田生命第2ビル1階「新宿高速バスターミナル」から中央自動車道の「中央道須玉」バス停までの所要時間2時間16分

(2)運行バス会社

京王高速バス予約センター諏訪バス予約センター富士急行予約センター

※「ハイウェイバス ドットコム」にアクセスしてインターネットから予約する事も出来る。

ハイウェイバス ドットコム

※「中央道須玉」バス停から法徳寺までのタクシー料金は、約1,000円。 所要時間は約5分。地元のタクシー会社に前もって連絡しておくと、バス停で待っていてくれる。
▼三共タクシー
(北杜市須玉町若神子1384番地)
(フリーダイアル)0120-372-328 又は0551-42-2328

大阪・京都方面から御帰郷

(1)大阪・京都⇔甲府駅前

梅田からの所要時間は、約7時間

(2)運行バス会社

山梨交通バス近鉄バス

※「ハイウェイバス ドットコム」「(株)日本旅行・バスぷらざ」「(株)JTB・高速バスチケット」にアクセスしてインターネット乗車券を予約購入することも出来る。

ハイウェイバス ドットコム(株)日本旅行・バスぷらざ(株)JTB・高速バスチケット

名古屋方面からの御帰郷

(1)名古屋駅⇔甲府駅

所要時間は4時間3分

(2)運行バス会社

山梨交通バスJR東海バス

※「ハイウェイバス ドットコム」「(株)日本旅行・バスぷらざ」「(株)JTB・高速バスチケット」にアクセスしてインターネット乗車券を予約購入することも出来る。

ハイウェイバス ドットコム(株)日本旅行・バスぷらざ(株)JTB・高速バスチケット

※各バス会社の運行時間や乗車料金は、変更になっている場合がございますので、お参りの際は、必ず前もって各バス会社のホームページでご確認いただくか、直接お電話でお問合せ頂きますよう、お願いいたします。

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JRを使う

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東京方面から御帰郷

(1)新宿~韮崎・日野春

JR中央本線・松本行き特急「スーパーあずさ」「あずさ」、甲府行き特急 「かいじ」が、ほぼ30分おきに運転されている

(2)所要時間 1時間50分

中央本線時刻表(新宿~韮崎・日野春)

大阪・名古屋方面から御帰郷

(1)大阪~名古屋~塩尻(乗り換え)~日野春・韮崎

 ①大阪~名古屋
  新幹線  新大阪~名古屋
   所要時間1時間
  近鉄 名古屋行き特急 難波~名古屋
   所要時間2時間

※大阪駅8時58分発・JR長野行き特急「(ワイドビュー)しなの9号」を利用すれば、塩尻まで直行できる(3時間51分)

 ②名古屋~塩尻
  JR中央本線
  長野行き特急「(ワイドビュー)しなの」
   所要時間 1時間50分
 ③塩尻~日野春・韮崎
  JR中央本線
  新宿行き特急「スーパーあずさ」「あずさ」
   所要時間57分
中央本線時刻表(塩尻~日野春・韮崎)

静岡・富士方面から御帰郷

(1)静岡・富士~甲府(乗り換え)~韮崎・日野春

JR東海道本線静岡駅から特急「(ワイドビュー)ふじかわ」が、JR身延線を経由して甲府まで1日7往復、直通運転している。

(2)所要時間 静岡~甲府 2時間10分

身延線時刻表(富士~甲府)
中央本線時刻表(甲府~韮崎・日野春)

清里・小諸方面から御帰郷

(1)小諸~小淵沢(乗り換え)~日野春・韮崎

(2)所要時間 小諸~小淵沢 2時間12分

小海線時刻表(小諸~小淵沢) 中央本線時刻表(塩尻~日野春・韮崎)

※各列車の運行時間は、ダイヤ改正により変更される場合がありますので、事前にJR東日本のホームページ等でご確認頂くか、最寄の駅にお電話でお問合せ下さい。

乗り換え案内検索

駅から時刻表乗換え案内

JR韮崎駅・日野春駅時刻表

JR韮崎駅時刻表JR日野春駅時刻表
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駅からお寺へ

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JR韮崎駅からバスで御帰郷

(1)路線バス 韮崎(にらさき)駅で「増富(ますとみ)温泉郷行」に乗車 「若神子中」(わかみこなか)バス停で下車 所要時間25分 運賃530円

(2)バス時刻表

山梨交通バス時刻表案内

(3)若神子中バス停から法徳寺へ

 バス停から徒歩で20分~30分かかるので地元タクシーを利用した方が便利。タクシー料金は、バス停から法徳寺まで約700~800円。韮崎駅から前もって電話しておけば、バス停で待っていてくれる。

 三共タクシー tel:0120372328

JR韮崎駅からタクシーで御帰郷

 韮崎駅前タクシー乗り場からの所要時間約25~30分、料金約3000円

JR日野春駅からタクシーで御帰郷

 JR日野春(ひのはる)駅からの所要時間約10分、料金約1500円

 北杜タクシー tel:0120322055
 旭タクシー tel:0551262624

駅から法徳寺までの地図

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周辺の宿泊施設

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韮崎市

よろづや旅館

・よろづや旅館(0551-22-0104)
JR中央本線・韮崎駅から徒歩2分

清水屋旅館

・清水屋旅館(0551-22-0024)
JR中央本線・韮崎駅から徒歩約10分

ホテル・ルートインコート韮崎

・ホテル・ルートインコート韮崎(0551-23-1011)
JR中央本線・韮崎駅から徒歩約15分

穴山温泉「能見荘」

・穴山温泉「能見荘」(0551-25-5011)
JR中央本線・穴山駅から徒歩約15分

旅籠屋

・旅籠屋(0551-25-4858)
JR中央本線・新府駅から約2.3Km、韮崎駅から約5Km

北杜市須玉町

おいしい学校

・おいしい学校(0551-20-7300)

予約又はチェックインの時に会員登録(2,000円必要)すると、会員割引が受けられる。一部屋に一人の会員がいれば、他の宿泊客も会員と同様、会員割引価格で宿泊出来る。

北杜市明野町

ハイジの村 クララ館

・ハイジの村 クララ館(0551-25-2601)
JR中央本線・韮崎駅からタクシー15分

清里・八ヶ岳高原

伊予ロッジ

・伊予ロッジ(0551-48-2334)
JR小海線「清里駅」から徒歩10分 マイクロバス(9人乗り・29人乗り)有り

ロッジこすもす

・ロッジこすもす(0551-48-2941)
JR小海線「清里駅」から徒歩10分

清里ユースホステル

・清里ユースホステル(0551-48-2125)
JR小海線「清里駅」より徒歩5分

清泉寮(キープ協会)

・清泉寮(キープ協会)(0120-88-2099・0551-48-2111)
JR小海線「清里駅」から清里ピクニックバスで6分、バス停「清泉寮」下車、徒歩すぐ

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おわりに

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王様と象の譬え話

このホームページをご覧になられた皆さんは、今どのような感想を抱いておられるでしょうか。

「まだ湧いていない地下水が、歯ブラシ立てやグラスに溜る筈がない。作り話だ」と言って、不信感をつのらせておられるお方、「自分も不思議な体験をした事があるから、信じられる話だ。奇蹟は存在する」と頷いておられるお方、「自分には関係のない話だ」と無関心を決めておられるお方など、様々なご感想をお持ちだろうと思います。

しかし、ここで皆さんにご感想をお聞きしたのは、どのお方のご感想が正しくて、どのお方のご感想が間違っているなどと言いたい為ではありません。

また、ここに書かれている事を素直に信じて欲しいと願っているからでもありません。

百人のお方が読まれれば、百通りの思い方があり、千人のお方が読まれれば、千通りの感じ方があるのは当然であり、誰もが同じ感想を抱かれる筈がありません。

もし百人が百人、千人が千人とも同じご感想を抱かれたとすれば、その方が不自然であり、それこそ奇蹟ではなく、異常と言わなければならないでしょう。

しかし、次のような譬え話があるのを、ご存知でしょうか。

王様が、目の見えない人々を集めて象を触らせ、「象とはどのようなものか」とお尋ねになったところ、象の牙に触った人は「細長くて湾曲し、先のとがった丸い棒のようなものです」と答え、象の鼻に触った人は「くねくねと動く丸い筒のようなものです」と答え、象の足に触った人は「太い柱のようなものです」と答え、象の耳に触った人は「平べったくて、パタパタと揺れる大きな団扇のようなものです」と答えたのです。

そして、自分が触った部分を象だと思い込んでいる彼らは、自分こそが正しいのだと主張して互いに譲らず、ついに争いが始まったと言うのです。

二つの視点

この話は、非常に示唆に富んだ譬え話だと思いますが、目の見えない人々の答えを正しいと見るか、間違っていると見るか、これもまた人それぞれであろうと思います。

象の牙も象の鼻も象の足も象の耳も、象の一部である事に間違いはありません。そして、象の牙は、細長くて先のとがった丸い棒のようであり、象の鼻は、くねくねと動く丸い筒のようであり、象の足は、太い柱のようであり、象の耳は、平べったい大きな団扇のようなものですから、目の見えない人々の視点に立てば、象の牙を触った人の答えも、鼻を触った人の答えも、足に触った人や耳に触った人の答えも、みな正しい事になります。

しかし、それは、一つの真理ではあっても、象の全体像を捉えたものではありませんから、象の全体像を見ている王様の視点に立てば、どの答えも、みな間違っている事になります。

つまり、彼らの答えは、正しいとも、間違っているとも言える訳ですが、正しいと見るか、間違っていると見るかは、ひとえに目の見えない人々の視点に立つか、全体を見ている王様の視点に立つかにかかっています。

目の見えない人々は、自分だけが正しく、他はみんな間違っていると主張して譲らなかった為、争いが始まったのですが、目の見えない人々の視点に立っている限り、何が正しくて、何が間違っているかの正しい判断は不可能といわねばなりません。

何故なら、彼らには、象の全体像が見えていないからです。

彼らの答えが正しいか、間違っているかの判断は、象の全体像が見える王様の視点に立って初めて可能なのです。

ですから、彼らが「自分の答えは正しい」と主張しているのは、間違いではありませんが、「自分の答えだけが正しい」と言うのは、彼らの思い込みに過ぎません。

象の全体像が見えれば、「自分の答えも正しいが、他のみんなの答えも正しい」という答えが返って来るからです。

しかし、哀しいかな、目の見えない彼らには、それが分りません。そこが、彼らの思い込みの最大の原因であり、全体像が見えない人々の悲劇です。

この視点を乗り越えられない限り、真相は見えて来ませんし、いつまで経っても争いが終わる事はありません。

対立を乗り越え、争いを鎮めるには、どうしても全体像が見渡せる王様の視点に立つ以外にありません。王様の視点に立つ事が、真相を明らかにし、争いを鎮める唯一の道なのです。

王様の願い

目の見えない人々の答えが正しいか、間違っているかの判断は、象の全体像が見える王様の視点に立って初めて可能だと言いましたが、確かに、王様の視点に立てば、誰の答えが正しく、誰の答えが間違っているかは一目瞭然です。

しかし、王様の真意は、彼らの答えの正否を明らかにする事ではありません。ましてや、象の全体像が見える自分の答えだけが正しい事を主張したい為でもありません。目の見えない人々に正しい答えが出せない事は、最初から分かっている事であり、自分だけが正しい事を主張しても何の意味もありません。

では何故、わざわざ目の見えない人々に象を触らせ、象とはどのようなものかを問われたのでしょうか。王様の真意は、一体どこにあるのでしょうか。

王様は、目の見えない人々が互いに、自分の答えだけが正しく、他の答えはみな間違っていると主張するであろう事を見通された上で、そう問われたのではないでしょうか。つまり、王様は、最初から争いが始まる事を承知の上で、そう問われたのです。争いが始まるのを期待していたと言ってもいいでしょう。

そして、目の見えない人々は、王様が意図した通り、自分の答えだけが正しいと主張して譲らず、ついに争いを始めたのです。

争いの種を蒔いて罪もない人々を争わせるとは、何と非情な王様だと、非難する声が聞こえてきそうですが、確かに争いが始まるきっかけを作ったのは王様であり、争いがこれからも永遠に続くようなら、王様は非難されて然るべきでしょう。

しかし、王様の願いは、彼らの争いが永遠に続く事ではない筈です。王様は、彼らを争わせる事によって、誰の答えが正しいかを言い争うより、もっと大切な事がある事を悟って欲しかったのではないでしょうか。

つまり、何故、人は争い、憎しみ、傷付け合わなければいけないのか、そして、争いを鎮め、憎しみから救われる為にはどうすればよいのか、解決の糸口は何なのかを、争いの中から悟って欲しいから、敢えて争いの種を蒔かれたのではないかと思うのです。

勿論、争いの種を蒔くのは、口で言うほど簡単ではありません。一歩間違えば、彼らを永遠に争いの渦中に埋もれさせ、子々孫々までも破滅に導く恐れがあるからです。幾ら偉大な王様でも、躊躇するに違いありませんが、王様は、敢えて種を蒔かれたのです。

何故、争いの種を蒔く決心をされたのでしょうか。王様にそう決心させたものは何だったのでしょうか。

その理由は、一つしかありません。即ち、王様は、目の見えない人々の叡智を信じたのです。否、信じる事が出来たと言うべきでしょう。

何故、信じる事が出来たのかと言えば、彼らが、王様にとってかけがえのない、わが子も同然の人々(王国を支える民)だったからです。親だけがわが子を信じられるように、わが子同然の人々だからこそ、信じる事が出来たのです。

「わが民なら、争いを始めても、必ずそれを乗り越え、争いを終らせる事が出来る筈だ。彼らにはその叡智が具わっている」

そう信じる事が出来たから、王様は敢えて争いの種を蒔く決心をされたのです。

井の中の蛙、大海を知らず

もうお気付きだと思いますが、この譬え話に出てくる王様と目の見えない人々とは、み仏と、私たち衆生(人類)の事です。

この譬え話は、私たちが、自らの眼で見、耳で聞き、学び、教えられ、体験してきた事以外の事を理解し、受け入れる事がいかに難しいかを教えています。

目の見えない人々が、自ら触った象の一部分を、象そのものと思い込んだように、私たちもまた、自分の身の丈のものしか、見る事も理解する事も出来ないのです。

所詮、私たちはみな、知ると知らざるとに拘らず、「井の中の蛙、大海を知らず」の蛙であります。

勿論、かく言う私も、井の中の蛙の一人である事は言うまでもありませんが、大切な事は、自分が井の中の蛙である事に気付いているか否かという事です。

それによって、大いなる世界へ飛躍できるか否かが決まると言っても過言ではないでしょう。

井の中の蛙である事に気付く事が出来れば、狭いちっぽけな世界から、無限に広がる大海原に飛び出す道が開けてきますが、気付く事が出来なければ、井の中で一生を暮らさなければなりません。

井の中の蛙で思い出すのは、西遊記(注1)に出てくる孫悟空です。この話は、皆さんもよくご存知だろうと思いますが、孫悟空にとって最大の転機となったのは、三蔵法師との出会いです。

不老不死の仙術を会得し、一瞬にして十万八千里を飛ぶキント雲に乗り、伸縮変幻自在の如意棒を駆使して向かうところ敵なしであった孫悟空も、お釈迦様の掌から一歩も飛び出す事が出来ず、とうとう「五行山(ごぎょうざん)」という山の中に閉じ込められてしまいますが、その孫悟空を救ったのが三蔵法師です。

お釈迦様に高慢な鼻っ柱を圧し折られ、漸く自分の愚かさに気付いた孫悟空は、改心して三蔵法師のお供をする決心をするのですが、三蔵法師(仏法)との出会いが、狭い世界で有頂天になっていた孫悟空の心眼を開き、無限の大海に導いたのです。

この物語を読むと、いつも思うのは、目の見えない人々を信じて、争いの種を蒔かれた王様の深い慈悲心です。

きっとお釈迦様も、孫悟空なら、この試練を乗り越えて、大海原へ飛躍出来るであろうと信じて、孫悟空を五行山へ閉じ込められたに違いありません。

そして、お釈迦様の願い通り、孫悟空は大きな試練を乗り越えて心眼を開き、三蔵法師のお伴をして天竺へ向かうのですが、この孫悟空の話は、私たちにとって決して架空の物語ではありません。

孫悟空は、架空の物語の主人公ではなく、実は私たち自身の姿でもあるのです。

無限の大海原へ

このホームページを読まれ、「まだ湧いていない地下水が、歯ブラシ立てやグラスに溜る筈がない。作り話だ」と感じられたお方も、「自分も同じような不思議な体験をしているから、信じられる話だ」と頷かれたお方も、「自分には関係のない話だ」と思われたお方も、みなそのお方にしか出せない答えやご感想を出して下さったと思います。

そして、どのお方のご感想もみな、あなたがあなたとして生きて来られた証であり、それぞれの思い方、感じ方の中には、皆さんが今まで学び、教えられ、体験してきた事の全てが凝縮されているに違いありません。

しかし、それが、あなたがあなたである事の全てかと言えば、そうではないと思います。

あなたの心の奥底にはまだ、あなた自身も知らない、今まで一度も掘られていない無尽蔵の宝物が埋もれている筈です。あなたの目の前には、無限に広がる真理の大海原が広がっているのです。

そして、その無尽蔵の宝物を掘り当てるか否か、大海原に漕ぎ出すか否かを決めるのは、あなた自身です。

勿論、あなたの背後には、片時も離れずに、あなたを信じ、見守っておられるみ仏がおられます。たとえあなたがみ仏の気配を感じられなくても、み仏はあなたを信じ、その行く末を見守っておられます。あなたがみ仏から信じられている一人である事は、疑う余地がありません。いついかなる時も、その事を忘れないでいて下さい。

かく言う私も、皆さんと同じように、み仏から信じられている一人です。だからこそ、少しでもその願いにお応えしなければと思いつつも、まだ私には、無限に広がる大海原のほんの一滴しか観えていません。

しかし、お大師様、菩薩様という生き仏様のお導きによって、いま無限の大海原の真っ只中にいる事だけは間違いありません。

そして、この心眼に観えたものが、たとえ真理の大海のほんの一滴であったとしても、それは、想像を絶する素晴らしい感動の世界を垣間見せてくれる一滴である事もまた間違いありません。

このホームページを通して、どこまでその感動の一端をお伝え出来たかは分かりませんが、今日ご縁があってお参り下さった皆様が、一人でも二人でも、何かを感じて下さり、明日に向って生きる糧として下さるなら、これにまさる喜びはありません。

本日は、「救いの扉」へお参りいただき、有難うございました。またのお参りを心よりお待ちしております。

心拝

宗教成合の郷
   高野山法徳寺

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