ねずみ講式文明の限界
疫病神か福の神か
物事には必ず表と裏の両面があり、どちら側から見るかによって、全く異なる風景が見えてきます。
例えば、アメリカのサブプライムローンに端を発した金融危機によって、百年に一度と言われる未曾有の大不況の嵐が全世界を覆い、苦境の真っ只中で喘ぐ人々の声が巷間に満ち満ちたのは、まだ記憶に新しいところです。わが国でも、バブル経済の崩壊によって、中小零細企業はおろか、大企業までが膨大な赤字を計上して倒産の危機に瀕し、派遣労働者のみならず、正規労働者までもが雇用調整の波に飲み込まれました。国や地方自治体も例外ではなく、過去に無い大幅な税収不足に見舞われ、青息吐息の状態に陥りました。
巷には大量の失業者があふれ、路頭に迷う人々の姿を見て、未曽有の大不況を疫病神のように感じた人もいるでしょうが、人類を不幸のどん底に陥れる疫病神としての表の顔だけを見ていては、福の神という、人類に幸福をもたらすもう一つの顔が見えてきません。人類にとって大切な事は、いかにして裏側に隠されている福の神を表舞台に呼び出せるか否かであり、人類の未来は、その一点にかかっていると言っても過言ではないでしょう。
そもそも、疫病神のように嫌悪されている不景気の正体とは何でしょうか。
好景気と聞けば、私達に幸福をもたらす福の神のように受け止められ、不景気と聞けば、不幸をもたらす疫病神のように考えられていますが、実は私達が贅沢をするようになったか、無駄をなくして節約をするようになったかを反映しているのが、好景気、不景気の正体なのです。
つまり、好景気とは、人々が新しい物を次々と買っては大量に消費し、古い物をどんどん捨てている浪費社会の姿であり、不景気とは、人々が欲しいものを我慢するようになり、新しい物を買わなくなった節約社会の姿を象徴しているのです。
ねずみ講式文明
何故、社会が贅沢にならなければ景気がよくならないのかと言えば、私達が生きている今の文明が、贅沢を奨励し、大量消費、大量投棄によって成り立っている文明だからです。
譬えれば、今の文明は、ねずみ講式文明と言っていいでしょう。
ねずみ講というのは、新規会員がどんどん増えている内は破綻しません。新規会員から入ってくるお金を、他の会員に回していくからです。しかし、いつまでも新規会員が増えていく筈がありませんから、やがて、新規会員が頭打ちになる時が来ます。そうすると、他の会員に回すお金がなくなり、一夜の内に破綻するのです。
ねずみ講というのは、仕組みそのものが、最初から破綻するようになっているのですが、それでも騙される人が一向になくならないのは、「必ず儲かります」という甘い謳い文句に騙されるからです。
贅沢を奨励して、大量消費、大量投棄によって成り立っている今の文明も、物を大量に消費し、どんどん使い捨てていかなければ、好景気を維持していけない点で、まさにねずみ講式文明と言わねばなりません。
大不況が来る前は、好景気が続いていましたが、それは、人々が次々と物を買っては、大量に消費し、大量に投棄していたからです。しかし、いつまでも、大量消費が続く筈がなく、文明の仕組みそのものが、ねずみ講と同じですから、必ず破綻する時が来ます。バブル経済がはじけて倒産が相次いだのも、そうですし、金融危機に端を発した世界同時不況もまさにその好例と言えましょう。
世界同時不況の直接的な引き金になったのは、アメリカのサブプライムローンの焦げ付きですが、元々今の文明の仕組みそのものが、ねずみ講と同じ仕組みですから、サブプライムローン問題がなくても、遅かれ早かれ、破綻する事は決まっていたのです。
「災難は忘れた頃にやってくる」と言いますが、人類が何度も不景気の嵐に翻弄され続けてきたのは、今の文明が、贅沢による大量消費、大量投棄によって成り立っているからであり、今の文明の在り方そのものに起因している以上、避ける事の出来ない宿命なのです。
以前、某コメンテーターが、「今の金融のあり方を抜本的に変えなければ、これからも同じような事が起こる」とコメントしていましたが、変えなければならないのは、金融のあり方ではなく、贅沢を奨励して大量消費、大量投棄を続けなければ繁栄を維持していけない今の文明のあり方そのものなのです。
仏教の教えに、「少欲知足」という教えがありますが、今の文明はこの「少欲知足」に逆行する文明と言っていいでしょう。つまり、「足りる事を知る文明」ではなく、有っても有ってもまだ欲しい、作っても作ってもまだ足りないという「足りる事を知らない文明」であり、大自然の摂理に逆らっている文明なのです。私達を毒する三つの心「貪欲(むさぼり)、瞋恚(いかり)、愚痴(むち)」を三毒煩悩と言いますが、今の文明は、この「貪瞋痴」に支えられた文明と言ってもいいでしょう。