しあわせさがし~二十歳の君へ・高野悦子を偲んで(3)

作詞・作曲 大西良空

みんな夢を胸にいだき 燃えていたけど
ただ前を向き がむしゃらに走ってただけ
何もかもが過ぎ去り行く 過去の思い出
時だけが むなしく流れて
足下に咲いてる 可憐な花も
白樺のこずえで さえずる鳥も
しあわせという名の いのちの唄を
いつも歌って くれてたのに
何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
忘れられない あの日から 始まっていた
終りのない 果てしのない しあわせさがし
旅はいつまでも つづくのさ

いつも君と待ち合わせた コーヒーショップ
奥の決まった席で 笑っていた君が
今も記憶の片隅に よみがえるのさ
淡い思い 胸にあふれて
黒髪をなびかせ 駆けよる君も
恥じらいうつむいて 見つめる君も
しあわせという名の いのちの時を
いつも刻んで くれてたのに
何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
君と別れた あの日から 始まっていた
君のいない 一人きりの しあわせさがし
旅はこれからも つづくのさ

窓辺に降りしきる 時雨の音も
川面を吹きぬける 風のそよぎも
しあわせという名の いのちを讃え
いつも奏でて くれてたのに
何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
遠く離れた あの日から 始まっていた
終りのない 果てしのない しあわせさがし
旅はいつまでも つづくのさ

二人して歩いた 三年坂も
二人して眺めた 送り火の灯も
しあわせという名の いのちの糸で
いつも結んで くれてたのに
何も知らず 何も見えず 何も聞こえず
涙ながした あの日から 始まっていた
君のいない 一人きりの しあわせさがし
旅はこれからも つづくのさ
君のいない 一人きりの しあわせさがし
旅はいつまでも つづくのさ

旅に出よう

日記は、「旅に出よう」で始まる一遍の詩で終わっているのですが、この「詩」からは、彼女の心の奥底までもが透き通って見えるような透明感と、何ものをも恐れない、死をも超越した、絶対的安心感のようなものが感じ取れます。

旅に出よう
テントとシュラフの入ったザックをしょい
ポケットには一箱の煙草と笛をもち
旅に出よう

出発の日は雨がよい
霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
萌え出でた若芽がしっとりとぬれながら

そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく

大きな杉の古木にきたら
一層暗いその根本に腰をおろして休もう
そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
暗い古樹のしたで一本の煙草を喫おう

近代社会の臭いのするその煙を
古木よ おまえは何と感じるのか

原始林の中にあるという湖をさがそう
そしてその岸辺にたたずんで
一本の煙草を喫おう
煙をすべて吐き出して
ザックのかたわらで静かに休もう

原始林を暗やみが包みこむ頃になったら
湖に小舟をうかべよう

衣服を脱ぎすて
すべらかな肌をやみにつつみ
左手に笛をもって
湖の水面を暗やみの中に漂いながら
笛をふこう

小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中
中天より涼風を肌に流しながら
静かに眠ろう

そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう

最後の詩に込めた彼女の思い

彼女の死は、他人の眼から見れば、鉄道自殺以外の何ものでもありませんが、彼女に「あなたは自殺したのですか?」と尋ねたら、彼女は何と答えるでしょうか。
この詩を読んでいると、「私は自殺したんじゃないよ。この詩に書いたように、旅に出ただけだよ。アッハッハッハッ」という彼女の笑い声が聞こえてくるような気がしてなりません。
この詩には、彼女が旅立った先が、富士山の麓に広がる原始林(青木ヶ原樹海?)と、そこにある湖と書かれていますが、富士山は、かつては不死の山と呼ばれていました。
竹取物語によれば、かぐや姫は、不死の薬と天の羽衣、そして、帝を慕う心をしたためた文を残して月へ帰っていきますが、帝は「かぐや姫の居ないこの世で不老不死を得ても意味がない」と言って、それらを駿河国の日本で一番高い山で焼くように命じられ、それ以来その山は「不死の山」(富士山)と呼ばれるようになったと言うのです。
その不死の山を目指して旅に出ようと、最後の詩にしたためて旅に出た彼女の心境を考えると、かぐや姫が月へ帰っていったように、彼女が帰るべき所(魂のふところ)へ帰っていったのではないかとしか思えません。
その真相は、本人にしか分かりませんが、もしかすると、高野悦子自身にも分からないのかも知れません。真相を知っているのは、彼女が欲した「神様」だけなのかも……。
いずれにせよ、全共闘運動は過去のものとなり、高野悦子という女子学生が自殺したという事実だけが残りました。
あれから半世紀以上の年月が過ぎ去りましたが、今も彼女の自殺は、私の記憶の中から消え去る事はありません。