もしも
作詞・作曲 大西良空
もしもあの時この僕と 出会っていなければ
もっと素晴らしい人生に 遇えたかも知れないけど
愛し愛され支え合い どんなに辛くても
君と二人で歩きたい 空を見上げて
もしもあの時この道を 選んでいなければ
もっと幸せな人生が 待ってたかも知れないと
誰もが過去を振り返り 悔やんでいるけど
もしもの人生など ありはしないのさ
晴れの日あれば雨の日も あるのが人生さ
二度と遇えない今だから 笑って生きたい
愛し愛され支え合い どんなに辛くても
君と二人で歩きたい 空を見上げて
二度と遇えない今だから 笑って生きたい
もしも」の人生はない
世間には、「もしも他の人と結婚していれば、もっと幸せな人生に出会えただろう」「もしもあの子を産んでいなければ、もっと幸せな人生があっただろう」「あの会社に入っていれば、もっと出世していたかも知れない」と言って、今の不幸の原因を自分以外の何かに求めようとする人がいます。
しかし、そんな「もしも」の人生などないのです。何故なら、今の人と結婚したのは、その人でなければ、救われない因縁を背負っているからです。
仮に「もしも」の人生があり、別の人と結婚していたとしても、因縁を背負っている限りは、形を変えて、その因縁が自分自身を苦しめる事に変わりはありません。因縁を解いて救われるまでは、どの道を選んでも、因縁はどこどこまでも付いてくるのです。
その意味で、人生に二つ道はないと言えましょう。いま歩いている道が、どんなに不幸でも、どんなに辛くても、この道が、救われるためには最良の道なのです。
大切な事は、どんなに辛くても、「救われる為には、いま歩いているこの道しかないのだ」と悟ってゆく事ですが、肝に銘じておかなければいけない事は、「救われる為にはこの道しかない」と納得できるようになる為には、仏法の導きが欠かせないという事です。
仏法の導きを頂いて初めて、「この道しか救われないのだ」という納得が生まれ、今まで歩んできた人生の様々な苦しみや試練の意味が理解出来るようになるのです。
生き地獄が極楽に
進むべき道が二つあり、どちらへ行ったらよいか迷った時、私たちはどうすればいいのでしょうか。
サッカーのワールドカップ南アフリカ大会の勝敗をすべて見事に的中させた蛸のパウルくんが、当時、超能力蛸として全世界の注目を集めていましたが、パウルくんの予想結果を見て、一喜一憂した人々が大勢いました。
勝つと予想されたチームの応援団がパウルくんに大喝采を送っていたのに対し、負けると予想されたチームの応援団がパウルくんに罵声をあびせていた姿が印象的でしたが、まさに霊感や占いというものを象徴する出来事と言っていいでしょう。
勝敗の予想が的中すれば、負けると予想された人々は心穏やかならず、予想が外れれば、勝つと予想された人々の怒りはおさまらず、どちらに転んでも、進むべき道の選択を、占いや霊感にゆだねた人々を待つのは、悲劇でしかありません。
私達はみな、様々な因縁を背負って生きています。因縁を背負っている以上、右へ行こうが、左へ行こうが、因縁は、どこまでも付いてきます。つまり、どちらの道を選んでも、形が変るだけで、結果は同じなのです。
つまり、Aさんと結婚しても、Bさんと結婚しても、背負っている因縁を解かない限り、根本的には何も変わらないという事です。
道は二つに分かれているように見えますが、進むべき道は一本道しかありません。
それは、右の道でも、左の道でもなく、背負っている因縁を解く道です。
因縁が解けさえすれば、進むべき道を変えなくても、場所を変えなくても、相手を変えなくてもいいのです。何故なら、いま自分が座っている場所が、そのまま極楽になるからです。
古歌に、
浪の音 嫌じゃと思うて山ごもり
声色変えて 松風ぞ吹く
と詠われているように、海岸の近くへ家を建てたら、打ち寄せる波の音で眠れないので、山奥へ行ったら眠れるかと言えば、今度は松風の吹く音が騒がしくてやはり眠れないのです。
場所を変えても、相手を変えても、結果は同じです。自分が変らなければ、何も変わりません。
しかし、自分が変われば、海辺であろうが、山奥であろうが、そこが極楽に変わるのです。