なぜーいのちのプレゼント
作詞・作曲 大西良空
生まれ生まれ生まれ生まれて 灯されてきたいのち
あなたが待っていた いのちのプレゼント
しあわせになりたい あなたがいて
しあわせになれない あなたがいる
なぜ なぜ なぜなの
忘れないで しあわせは あなたが決めるのよ
生きてゆくことは つらいけど
生かされてゆくのは しあわせなの
なぜ なぜ なぜなの
忘れないで しあわせは あなたが開くのよ
青い鳥さがして きたけれど
気がつけばいつでも そばにいたの
なぜ なぜ なぜなの
忘れないで しあわせは あなたの心にある
なぜ なぜ なぜなの
忘れないで しあわせは あなたを待っている
なぜ なぜ なぜなの
忘れないで しあわせは あなたのいのちなの
生まれ生まれ生まれ生まれて 運ばれてきたいのち
みんなが待っていた いのちのプレゼント
自殺と深く係わっている人生観
この地上に存在する生き物の中で、自殺するのは人間だけだと言われています。何故、人間は自ら命を絶つのでしょうか。人間が他の生き物と違って、精神的な悩み苦しみを感じる生き物だからでしょうか。
確かに人間には、生きる為の動物的本能の他に、より良く生きたいと願う向上心(真)、善悪を判断する知恵(善)、喜怒哀楽の感情や理性(美)が具わっています。
それらの歯車が、順調に回転している内はいいのですが、空回りしたり、逆回転を始めたりすると、様々なストレスを感じるようになり、それが昂じていったその先に、自殺という一つの選択肢がある事も、事実です。しかし、ストレスを感じている人の全てが、自殺への一歩を踏み出す訳ではありません。同じようにストレスを感じながら、自殺しない人もいるのです。何故かと言えば、苦難な逆境を、ただ自分を苦しめるだけの邪魔者と捉えるか、自らの心身を磨き、進歩向上してゆく上で欠かせないものと受け止めるか、その人の人生観、価値観が、大きく影響しているからです。
昔から「玉磨かざれば光なし」という諺があるように、自分にとって耐え難い出来事であっても、それは、人間がより良く成長していく上で欠かせない研磨剤であり、潤滑油なのだと受け止める事が出来れば、空回りしていた歯車は、順調に回転し始める筈です。その試練のお陰で、魂が磨かれ、人間として成長していけるのだという思い開きが出来れば、耐え難い試練は成長の糧となり、やがて苦難に遇えた事に感謝する心さえ持てるようになるのです。
しかし、それを否定的に捉え、マイナス面だけを見ている限り、幾ら乗り越えられる試練であっても、その眼には、耐え難い只の邪魔者としか映りません。
このように、自殺の背景には、その人の人生観や価値観が深くかかわっており、だからこそ、逆境に直面した時は、もう一度、自分の生き方や人生観を見つめ直し、必要があれば、その生き方を百八十度転換していく勇気を持つ事も必要なのではないかと思います。
自己犠牲と究極の愛(慈悲)の違い
自殺と似て非なるものに、自己犠牲と言われる行為があります。自己犠牲とは、自分以外の者を救う為に自らを犠牲にする行為で、例えば、イエス・キリストが、人類の罪を贖(あがな)うために十字架を背負った行為が、これに当ると言われます。また、菩薩様が代苦者となって苦しむ人々の罪穢れを代って背負われた行為も、親が子を助ける為に命を捧げる行為も、自己犠牲と言っていいでしょう。
では「人類の罪を代って背負われたイエス・キリストや菩薩様や、子供の命を助ける為に命を投げ出す親の心の中に、果たして自分を犠牲にしているという意識があるのか」と言えば、そんな意識は微塵もないでしょう。何故なら、自分の身を捧げて人類の罪を背負ったイエス・キリストや菩薩様にとっても、自分の命を投げ出して子供の命を助けようとする親にとっても、その行動は、そうせずにいられない究極の愛(慈悲心)による自発的な行動であって、決して自分を犠牲にしている訳ではないからです。
他人の眼から見れば、人類を救う為にイエス・キリストや菩薩様がとった行為も、子を救う為に親がとった行動も、自己犠牲のように映るかも知れませんが、もしイエス・キリストや菩薩様や、子を思う親の心の中に、自己を犠牲にしているという意識があれば、それは偽善と言う他はないでしょう。z人類の罪を贖ったイエス・キリストや菩薩様や、子供を助けようとする親心の中にあるのは、自分が人類やわが子の犠牲になっているという思いではなく、人類やわが子を救わずにはおられないという愛と慈悲の心なのです。その証拠が、菩薩様が代受苦の中で最後におっしゃった「有り難い」という言葉です。この言葉の中には、「自己犠牲」という意識は微塵も見られません。
イエス・キリストにしても、たとえわが身は砕け散っても、人類の罪を背負わずにはいられないからその身を捧げられたのであり、だからこそ、人々は、イエス・キリストを神の子と崇めて祈りを捧げるのです。
自殺は救いではない
何故人は、自ら命の灯を吹き消そうとするのでしょうか。死は、苦しみの淵から救ってくれる救世主なのでしょうか。
確かに、生きる事に絶望し、苦しみから解放されたいと願う人にとって、死は救世主と映るかも知れません。
死んでしまえば、何もかもリセットされて、苦しみを永遠に終わらせる事が出来ると考えている人もいるのでしょうが、残念ながら、死は、幸せを運ぶコウノトリでも、苦しみを永遠に終わらせてくれる救世主でもありません。何故なら、永遠の生がないのと同様、永遠の死も有り得ない以上、死は決して苦しみの終わりを意味するものではないからです。死は、ただ永遠に続く時間の流れの中のひとこまに過ぎないのです。
お釈迦様は、果てしなく生死を繰り返している有様を「輪廻転生(りんねてんしょう)」「諸行無常」と説かれましたが、「諸行無常」とは、死ぬ事でも、無に帰する事でもありません。そう誤解している人も少なくありませんが、無常とは、変化するという意味です。つまり、死ぬ事だけではなく、生まれてくる事も、老いる事も、病む事も、全て無常のひとこまなのです。
菩薩様が、
無常とは 無くなるものと思うなよ
春夏秋冬 めぐり来るのに
と詠っておられるように、春に芽吹き、夏に茂り、秋に実り、冬に散って終わりではなく、再び春夏秋冬が繰り返されていくのです。
生まれた者は必ず死なねばなりません。しかし、死は、命の終着点ではなく、再生への新たな出発点であり、死んだ者は、再び生れ変って来るのです。生も、人生のひとこまなら、死もまた人生のひとこまに過ぎません。
ですから、死が、永遠の救いとなる事はありませんし、死は、救いと同意語ではありません。
死を、苦しみから救ってくれる救世主と考えたくなる気持ちはわからないではありませんが、自殺がその人に救いをもたらす事はないのです。何故なら、苦しみから救われるとは、心が救われる事であり、心が救われれば、自殺の道を選ぶ筈がないからです。
生も死も、無常の中のひとこまであって、生死それ自体に、苦しみや救いという概念はありません。生死はあくまで自然現象の一つに過ぎないのです。
お釈迦様が、この世界を四苦八苦の世界と説かれたのかのは、生老病死そのものが苦しみだからではなく、生老病死に執着する心が苦しみを作っている要因だからです。救いとは、その執着心を離れる事ですが、自殺に、一時的な逃避効果はあっても、執着心を離れさせてくれる力はありません。つまり、苦しみから救われたいと願う人にとって、自殺は、何の解決にもならないのです。
大切な事は、不都合な出来事に出逢った時は、まずそれを在るがまま受け入れ、その裏に隠されている真相を悟る智慧を磨く事であり、不都合な出来事を拝めるまでの心に到達する事です。そうすれば、必ず救われた自分に遇える筈です。