幸せさがし─青い鳥の行方(1)
何故人は幸せになれないのか?
人は誰でもみな、幸せになりたいと願っています。
恐らく、幸せを願わない人など一人もいないでしょう。
でも、世の中を見れば、誰も彼もが、様々な悩みを抱えながら生きています。いまは悩み苦しみがなくても、明日からの事は誰にも分かりません。
お釈迦様が、悩み苦しむ人々に救いの御手をさしのべられたのは、2500年以上も前ですが、今もなお四苦八苦の人生は、私達の目の前に大きく立ちはだかっているのです。
四苦八苦とは、生老病死(しょうろうびょうし)の四苦に、愛別離苦(あいべつりく・愛する人と別れなければならない苦しみ)、怨憎会苦(おんぞうえく・憎むべき人と会わなければならない苦しみ)、求不得苦(ぐふとっく・欲しても思うように得られない苦しみ)、五陰盛苦(ごおんじょうく・様々な欲望に縛られて生きなければならない苦しみ)を加えたもので、私達の人生は、苦そのものであると説かれた教えですが、万人が幸せになりたいと願っているのに、何故幸せになれないのでしょうか?何故私たちの人生には悩み苦しみが付いてまわっているのでしょうか。
この疑問に対し、「幸せなど、もともと存在しないのだ。実体のない陰を追い求めているようなもので、幸せは、人間が描いた幻想に過ぎない」という人もいますが、果たして幸せは、人間が勝手に思い描いた幻想なのでしょうか。
ベルギーの詩人で、劇作家、随筆家、哲学者でもあるモーリス・メーテルリンクが書いた戯曲『青い鳥』は、皆さんもよくご存じだろうと思いますが、この戯曲は、クリスマスイブの夜、貧しい木こりの家に生まれた兄のチルチルと妹のミチルが、夢の中で、魔法使いのおばあさんから、娘の病気を治してくれる幸せの青い鳥を見つけてきて欲しいと頼まれ、パンの精や砂糖の精や、イヌやネコや火や水や光の精と一緒に、青い鳥を探す旅に出かけるところから始まります。
二人は、夢の中で、青い鳥を求めて「思い出の国」「夜の御殿」「森の中」「墓地」「幸福の花園」「未来の王国」へ行きますが、「思い出の国」で見つけた青い鳥は、鳥かごに入れると黒い鳥に変わってしまい、「夜の御殿」でつかまえた青い鳥は死んでしまい、「森の中」では青い鳥をつかまえる事が出来ず、「未来の王国」で見つけた青い鳥は、赤く変わってしまい、結局、青い鳥を持ち帰ることが出来ずに家へ帰ってきたところで、二人は目を覚まします。
そこへ、隣のおばあさんがやってきて、病気の娘が、チルチルの飼っている鳥を欲しがっていると言うので、チルチルが部屋にある鳥カゴの中を見ると、驚いたことに、飼っていたキジバトが、いつの間にか青い鳥に変わっていたのです。
作家の五木寛之氏は、『青い鳥のゆくえ』の中で、「安易に手に入る幸福とか希望とかいうものは、この世にはないんだ。希望とか幸福とかいうものがどこかに存在しているもののように考えるのはまちがいだ。そんなものはこの世の中どこにもないんだ。人生に希望なんかはじめから用意されてはいないんだ。じゃどうすればいいか。人間は希望がなくては生きていけない。しかしいま、希望の青い鳥は飛んで行ってしまった。じゃ、どうするか。人間は自分の手で青い鳥をつくらなきゃいけない。ひとりひとりが自分の青い鳥を自分で作る。それしか道はないんだ。そうメーテルリンクは、教えたかったのではないか」と書いておられますが、果たして幸せは何処にも存在しないのでしょうか。
もし存在しないとすれば、人々が求めている幸せは一体何なのか。ただの幻想に過ぎないのでしょうか。
チルチルは、遠くまで探しに行ったけれど、幸せの青い鳥はこんな所にいたんだと言って喜び、その鳥をおばあさんにあげるのですが、おばあさんが青い鳥を持って家に帰ると、不思議な事に、娘の病気がすっかりよくなり、二人で、チルチルのところへお礼にやってくるのです。
ここで終われば、この物語はハッピーエンドとなりますが、喜んだのもつかの間、チルチルが餌をやろうとすると、青い鳥はどこかへ飛んでいってしまいます。そして、チルチルが、こう呼びかけるところで、この物語は幕を降ろします。
「どなたかあの鳥を見つけた方はどうぞ僕たちに返して下さい。僕たちが幸福に暮らすために、いつかきっとあの鳥が必要になるでしょうから」
青い鳥の行方
世間では、この戯曲は、万人の願う幸せは遠くにではなく、身近な日常生活の中にある事を教えるハッピーエンドの物語であるかのように受け止められていますが、折角見つけた青い鳥が飛び去ってしまう幕切れを見ると、決して世間で言われているようなハッピーエンドの物語ではなく、むしろ幸せを手に入れることの難しさを教えているのではないかとさえ思えてきます。
戯曲の中では、青い鳥が飛び去った理由や行方については何も触れられていませんが、この最後の結末については、様々なとらえ方があります。
「幸せは、いくらつかまえても、手に入れた瞬間、飛び去ってしまうものなのだ」という人もいれば、「幸せの青い鳥にとらわれていると、本当の青い鳥が見えなくなってしまう。目先の青い鳥よりも、もっと大切なものがあり、そこに本当の青い鳥がいるのだ」という人もいます。
また「青い鳥がいることが幸せではなく、青い鳥(幸せ)を求めている事が幸せなのだ」という人や、「自分が幸せと感じたら、それが幸せなのだ」という人もいます。
作家の五木寛之氏は、『青い鳥のゆくえ』の中で、「安易に手に入る幸福とか希望とかいうものは、この世にはないんだ。希望とか幸福とかいうものがどこかに存在しているもののように考えるのはまちがいだ。そんなものはこの世の中どこにもないんだ。人生に希望なんかはじめから用意されてはいないんだ。じゃどうすればいいか。人間は希望がなくては生きていけない。しかしいま、希望の青い鳥は飛んで行ってしまった。じゃ、どうするか。人間は自分の手で青い鳥をつくらなきゃいけない。ひとりひとりが自分の青い鳥を自分で作る。それしか道はないんだ。そうメーテルリンクは、教えたかったのではないか」と書いておられますが、果たして幸せは何処にも存在しないのでしょうか。
もし存在しないとすれば、人々が求めている幸せは一体何なのか。ただの幻想に過ぎないのでしょうか。
幸せは有るのか無いのか?
幸せが有るにせよ無いにせよ、一つだけ確かな事があります。
それは、幸せになりたいという願いは、生まれた時から具わっている万人共通の願いだという事です。
そうだとすれば、万人が等しく願っている幸せが、どこかに存在しなければなりません。
何故なら、食欲を満たす食べ物が、この世に全く存在しないのに、食欲という本能だけが与えられる事がないように、求める幸せがないのに、幸せを願う心だけが与えられる筈はないからです。
しかし、存在している筈の幸せが、中々見つからないのも事実であり、だからこそ、ある人は「青い鳥など、元々存在しないのだ。幸せは、人間が勝手に思い描いた幻想に過ぎないのだ」と言い、またある人は「幸せは自分で作らなければいけないのだ」と言っている訳ですが、幸せが有るのか無いのかを考える前に、一つだけ確認しておかなければならない事があります。
それは、万人が求めている幸せの正体です。
人々は、何を幸せと考え、その幸せを手に入れる為に、何が必要だと考えているのでしょうか。
その確認をしておかなければ、青い鳥の行方を探す旅を始める事は出来ません。
幸せになる為の条件
ご承知のようにお正月になると、全国各地の神社仏閣には、大勢の参拝者が初詣に押し寄せますが、この参拝者の中に、不幸を願ってお参りしている人は、恐らく一人もいないでしょう。
すべての参拝者が、幸せになりたいと願い、ご利益を求めてお参りしている筈です。
求めるご利益の中味は、百人いれば百通りの願いがあり、千人いれば千通りの思いがあるように、限りがありません。
一方、その限りない願いに応えるかのように、神社仏閣の受付所には、「身体健全、家内安全、商売繁盛、交通安全、病気平癒、厄除け、子授け、学業成就、合格祈願、諸願成就」などの文字が所狭しと並び、幸せを願う人々が、その前に長蛇の列を作っています。
このお正月風景を見れば、人々が何を幸せと考え、その為に何が必要と考えているのかが、よく分ります。
要するに、人々は、幸せになる為には、何らかの条件が満たされる必要があり、その条件が満たされなければ幸せになれないと考えているのです。
その条件とは、身体が健康であること、家族が平穏無事であること、商売が繁盛すること、交通事故に遇わないこと、病気が治ること、厄年を無事に乗り越えること、子供が授かること、子供の成績が上がること、その他諸々の願いが叶うことです。では、めでたくこれらの条件が満たされ、願いが叶えられれば、あなたが願う幸せは間違いなく訪れるのでしょうか。
残念ながら、これらの諸条件が満たされても、幸せになれるという保証はどこにもありません。
何故なら、それらはみな、諸行無常の世の中では、常に移ろい行くものであり、そこに幸せの依りどころを求めている限り、真の幸せを得る事は絶対に不可能だからです。
例えば、子供のいないご夫婦に、子供が授かれば、今まで欲しいと願っていた子供が授かったのですから、生まれた子供は、ご夫婦にとって、まさに幸せを運ぶ青い鳥と言ってもいいでしょう。
では、ご夫婦が思い描いた通り、生まれた子供は、将来必ずご夫婦に幸せを運んでくれるのでしょうか。
以前、酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)と名乗る14歳の中学生が、児童を次々と殺傷した事件がありましたが、10代の少年が加害者となる殺傷事件が、もはや珍しくない昨今、子供が必ず幸せの青い鳥になるという保証はどこにもありません。
平成24年4月23日、京都府亀岡市で、通学途中の小学生と付き添いの保護者の列に、無免許の18歳の少年が運転する軽乗用車が突っ込み、小2年と小3年の児童、そして妊娠中の保護者の3名が死亡、7名が重軽傷を負うと言う悲惨な交通事故がありましたが、 この少年の親も、子供を授かった時は、わが子がこのような悲惨な事故を引き起こすとは、夢にも思わなかったことでしょう。
これらの事例を見れば分るように、授かった子供が、幸せを運ぶ青い鳥となる保証はどこにもないのです。
つまり、子供のいない夫婦に子供が授かったとしても、それは、ただ子供がほしいという欲望が一時的に叶っただけで、幸せになれるという保証が得られた訳では決してないのです。
六道輪廻の人生
人間には、さまざまな欲望があり、その欲望には、限りがありません。
人々は、様々な手立てを講じて、その欲望を叶えようとしますが、欲望が叶っても、それで欲望が無くなる訳ではなく、欲望が叶えば叶ったで、また新たな欲望が湧いてきます。
つまり、欲望を追い求めている限り、人間は、永遠に欲望の呪縛から逃れる事が出来ず、欲望が叶ったり、叶わなかったり、浮き沈みを繰り返しながら、怒りや憎しみや貪りの世界を作って、苦しまなければならないのです。
しかも、欲望の追求によって作る苦しみの世界には、終わりがありません。
叶っても叶わなくても、欲望は、それに満足しませんから、欲望を追い求めている限り、苦しみから逃れるすべはありません。
欲望が叶っても、叶わなくても、苦しみ続けなければならない人間の生き様を、お釈迦さまは「六道輪廻(ろくどうりんね)」と説いておられますが、六道とは、欲望を追い続ける人間が、心の中に作る苦しみの世界を六つに分けたもので、地獄、餓鬼、畜生、修羅(しゅら)、人間、天上の六つを指しています。
六道の中で最も苦しい世界が地獄界で、悉く自分の思い通りにならず、怒りや憎しみや争いが渦巻き、あらゆる苦しみによって身も心もさいなまれる極苦の世界で、怒りや憎しみの心を抑える事ができない人間が堕ちる世界です。
次の餓鬼界は、有っても欲しい、無くても欲しい、人にあげるのは惜しいという、欲しい惜しいの貪欲(むさぼり)の世界で、足りる事を知らない強欲な人間が堕ちる世界です。
畜生界は、自分が欲しいと思ったものは、どんな手段を使ってでも手に入れようとする自我我執(じががしゅう)の世界で、自分の事しか考えない利己的な人間が堕ちる世界です。
修羅界は、人の事が妬ましく、不足不満の心で愚痴ばかりこぼしている愚痴、嫉妬の世界で、許す心を持たない人間が堕ちる世界です。
人間界は、欲望が叶ったり叶わなかったり、泣いたり笑ったり、苦もあれば楽もある世界です。
天上界は、欲望が満たされて、何もかも自分の思い通りになり、有頂天になっている世界で、一見すると、他の五つの世界に比べ、いかにも幸せそうな世界のように見えますが、天上界に居られるのは、欲望が満たされている間だけで、欲望が満たされなくなれば、たちまち他の五つの世界に堕ちてゆかなければなりません。
つまり、そこで得られる幸せも楽しみも、因縁によっていつ不幸や苦しみに変わるかも知れない一時的な幸せに過ぎませんから、天上界も、決して幸せが永遠に続く安楽な世界ではないのです。
有っても無くても苦しみ
四苦八苦の中に、求めるものが得られない「求不得苦(ぐふとっく)」という苦しみがありますが、求めるものが得られたら、もう苦しみはなくなるのかと言えば、そんな事はありません。
求めるものが得られたら得られたで、またそこから新たな欲望が生まれ、果てしない苦しみの連鎖が続いてゆくのです。
このような人生を称して、お釈迦様は「四苦八苦」と説いておられますが、病気になればなったで苦しみ、病気が治って健康になればなったで、またそこから新たな欲望が生まれ、果てしない苦しみの人生が始まるのです。
子供のいないご夫婦は、子供が欲しいと言っては苦しみ、子供が生まれたご夫婦は、子供が病気で亡くなったと言っては苦しみ、事故や事件で大怪我をしたと言っては、また苦しまねばならないのです。
結局、私たちの人生は、無くても苦しみ、有っても苦しみ、得られなくても苦しみ、得られても苦しみ、果てしのない六道輪廻の連鎖から抜け出さない限り、本当の幸せを得ることは出来ないのです。
此岸の幸せから彼岸の幸せへ
『法句経』の中に、次のような言葉があります。
数多き人々のうち、彼岸に達するは、まこと数少なし。
あまたの人は、ただ此の岸の上に、右に左に彷徨(さまよ)うなり。
幸せになる為には、あれも必要、これも必要と考え、欲望の赴くままに罪を作り、右往左往しているのが、六道を輪廻している人々の姿と言えましょうが、果たして、幸せになる為には、あれもこれも必要なのでしょうか。
実を言いますと、幸せになる為に必要なものなど何もないのです。
何故なら、私たちはすでに、幸せになる為に必要なものを神仏から過不足なく授けられているからです。
にもかかわらず、幸せになるには、まだあれも必要、これも必要と、欲望の赴くままに貪り追い求め、あらゆる罪を作り、果てしなく続く苦しみの世界をさまよい続けているのです。
だとすれば、苦しみの原因は一つしかありません。すなわち、まだ迷いの夢から目覚めていないのです。
勿論、迷いの夢の中にも、幸せは存在します。それは、先ほどからお話している、様々な条件が満たされて得られる幸せです。
しかし、迷いの夢の中で得られる幸せなど、諸行無常の嵐の前では、たちどころに崩れ去るまぼろしのごとき幸せ(此岸の幸せ)に過ぎません。
私達が求めるべきは、迷いの夢の中で見る陽炎(かげろう)のような此岸の幸せではなく、決して崩れ去ることのない彼岸の幸せであり、永遠で普遍的な幸せです。
そして、その幸せを得る為には、迷いの夢から目覚める以外に道はないのです。
目覚め(気付き)の大切さ
チルチルとミチルが、「思い出の国」や「夜の御殿」「森の中」「未来の王国」で見つけた青い鳥が、黒い鳥や赤い鳥に変わったり、死んでしまったりしたのは何故でしょうか。
それは、見つけた青い鳥がみな、諸行無常の嵐によって崩れ去る此岸の幸せであり、迷いの夢の中に一時的に生まれたまぼろしのごとき幸せに過ぎなかったからです。
メーテルリンクが、青い鳥を探す二人の旅を、あえて夢の中の出来事として描いたのには、深い意味があります。
つまり、彼は、迷いの夢から目覚めなければ、本当の幸せ(青い鳥)は永遠にみつからない事を教える為に、まずチルチルとミチルを夢の世界へ行かせたのです。
この戯曲の最大の山場は、夢の中では青い鳥を見つけられなかった二人が、夢から目覚めてはじめて、鳥かごの中のキジバトが青い鳥に変わっている事に気付く場面ですが、メーテルリンクがここで伝えようとしているのは、「夢から目覚める(気付く)事の大切さ」です。
チルチルとミチルが、夢から目覚めるまでは、鳥かごのキジバトは、まだキジバトのままでした。
この時の二人はまだ夢の中にいて、キジバトの真相に気付いていません。
ところが、二人が夢から目覚めると、キジバトは、目の前で青い鳥に変わっていったのです。
二人が青い鳥を見つける物語最大の山場ですが、二人が青い鳥を見つけられたのは、夢から目覚めたからです。
つまり、メーテルリンクは、ここで、幸せの青い鳥を見つける為には、迷いの夢から目覚めなければいけない事を、読者に伝えようとしているのです。