ありがとうーひとさし指から奏でるしあわせ(2)
作詞・作曲 大西良空
幼き頃の夢 果たせなかったけれど
私よりしあわせな 人はいないよね
だって私は今 世界一素敵な
お母さんに愛され 生きているから
どんなに苦しくても どんなに辛くても
もう大丈夫だから 心配しないでね
お母さんが私の お母さんでよかった
あきらめも絶望も もう今日でお別れ
二度とないこの日々を 共に生きるよろこび
いつも愛してくれて お母さんありがとう
あの頃の私は 泣いてばかりいたけど
ほら見て今はもう 笑っているでしょう
だって私は今 みんなの優しさと
真心に包まれて 生かされているから
どんなに悔しくても どんなに虚しくても
もう過去をふり返らない 今だけを見つめて
すべてが私にとって かけがえのない宝物
憎しみも後悔も もう永久にさよなら
流した涙だけ 強くなれるからと
いつも励ましてくれた みんなにありがとう
どんなに悲しくても どんなに泣きたくても
明けない夜はないから 涙はもういらない
ひとさし指が教えて くれたの大切なことを
耐えること 微笑むこと すべてを許すこと
世界が輝いて 私を照らしている
今はあの先生に 言えるのありがとう
満天の夜空に きらめく星たちよ
私のこの思い みんなに伝えてね
生きる勇気をくれた あなたにありがとう
大きな転機の訪れ
医療ミスから三ヵ月が経過した平成7年(1995)12月15日、浩子さんが主宰するピアノ教室の発表会が開催され、車椅子に座った明子さんは、多くの教え子たちから暖かく迎えられ、再開の涙が会場全体を埋め尽くしました。
しかし、明子さんを取り巻く現実は厳しく、坂中さん親子の前に立ちはだかる困難な日々は、まだ始まったばかりでした。
その後、坂中さん親子は、全身麻痺という過酷な状況を少しでも好転させようと、幾つもの病院への入退院を繰り返しながら、懸命にリハビリに励んでいましたが、明子さんに大きな転機が訪れたのは、医療ミスから5年後の平成12年(2000)でした。
或る日、何気なく見ていたテレビで、埼玉県所沢市の「国立身体障害者リハビリテーションセンター」が紹介されているのを見た母親の浩子さんは、ここに明子さんを入院させたいと決意され、藁にもすがる思いで、このセンターに一縷の望みを託されたのです。
このセンターは、回復可能な障害を負った人が入院するのが原則で、明子さんのような回復の極めて難しい後遺症を負った人は入院出来ない決まりになっていましたが、様々な伝手を頼りに、平成12年(2000)8月21日、例外的に入院を認められた明子さんは、ここで人生を左右する二つの大きな出来事に遭遇しました。
一つは、「国立身体障害者リハビリテーションセンター」の医師たちが、全身麻痺の明子さんの体の中で、たった1か所だけ動く箇所を発見した事です。
それは、明子さんの左手のひとさし指ですが、もし、このセンターに入院していなければ、恐らく誰も明子さんのひとさし指が動くことに気付かなかったでしょう。
この発見によって左手のひとさし指のリハビリが始まり、やがて涙ぐましい努力の結果、パソコンを使って自分の意志を伝えられるまでに回復したのです。
もう一つは、同センターで同室だった女性患者の息子さんと知り合い、ひとさし指でメール交換を始めた事で、これも、明子さんにとって大きな転機となりました。
このメール交換が、やがてみやざき中央新聞の編集者の耳に入り、明子さんは、同新聞にエッセイを寄稿することになったのです。
明子さんのエッセイは1年半も続き、多くの読者に感銘を与えましたが、このエッセイが、やがて『ひとさし指から奏でるしあわせ』となって、更に多くの読者の下へ届けられる事になったのです。
私が、明子さんの事を知ったのも、この本との出会いがきっかけですから、まさに左手のひとさし指が人生を切り開いてくれたと言っても過言ではないでしょう。
自立に向けて
左手のひとさし指が動くとは言っても、全身麻痺の明子さんにとって、一人暮らしの困難さは想像も出来ません。
しかし、明子さんは、みやざき中央新聞にエッセイを掲載しておられた重度障害者の山之内俊夫さんが、自立に向けて一人暮らしをしておられる事に勇気づけられ、自分も一人暮らしをしてみたいと決心されるのです。
平成15年(2003)4月から、NPO法人障害者自立支援センター「YAH!DOみやざき」の支援を受けながら、自立に向けて一人暮らしを始められましたが、その暮らしぶりが何もかも順調だった訳ではありません。
浩子さんが、
あれほどリハビリをし続けても、予想もしなかった四肢硬直化が進んでいく。
手足があるとはいえ、自分の意思とは無関係に動いてしまう。
それを抱えながらも必死に生活している明子。
と書いておられるように、その前途を妨げるかのように、過酷な試練が次々と明子さんの前に立ちはだかってきたのです。
生きていくという事は、日々何かを一つ一つ失っていく事の繰り返しであり、健康な私でさえ、齢を重ねるに従って、今まで出来ていた事が出来なくなる現実を前にして、暗澹たる気持ちになますが、私には、まだ自由に動く手足があり、行きたいと思えば、自分一人で、いつでも好きな所へ行けるのです。
その事を考えると、重い後遺症を負っている明子さんが生きていく日々の過酷さは、私達の比ではないでしょう。
ありがとう~真のしあわせとは
二十歳という若さで、思いもよらぬ医療事故によって全身麻痺という重い後遺症を背負わざるをえなくなった坂中明子さん。
この過酷な現実を前にして、絶望、怒り、悔しさ、哀しさ、もどかしさ等々、明子さんの胸中を去来した様々な思いは、とても言葉にはならないでしょう。
浩子さんが、
明子はいつもニコニコしていた。まるで天使のように……。夫の前でも泣き顔は見せなかった。
しかし、私と二人でいると、折にふれては泣いた。
泣いては小さな声で「ファイト」と言った。
何度も何度も「ファイト! ファイト!」と言った。
その声はだんだん大きくなり、最後には大きな声で狂ったように「ふぁーいーと!!」と言って泣き崩れるのだった。
と書いておられるように、明子さんは、挫けそうになる気持ちと、頑張らなければいけないという気持ちとの狭間で揺れ動き、その都度、何度も勇気を奮い立たせては、自らを鼓舞し、幾多の試練を克服してこられたのです。
そして、全身麻痺の中でたった一つだけ動かすことのできるひとさし指を使いながら、笑顔を絶やさず懸命に生きておられるその姿は、いまも多くの人々に深い感銘を与え続けているのです。
本を通して坂中明子さんの事を知り、少しでも心の励みになればと思い、応援歌のつもりで作ったのが、『ありがとう~ひとさし指から奏でるしあわせ』ですが、明子さんを見ていて改めて考えさせられたのは、人間にとって幸せとは何かという事です。
私たちがよく口にするのは、幸せになる為には、あれも必要、これも必要、あれが無いから幸せになれない、これが無いから不幸せだと言うように、幸せになるためには、欠けているもの、足りないものを手に入れなければいけないと言う発想です。
しかし、全身麻痺の明子さんが動かせるのは、左手のひとさし指たった一本であり、そのたった一本のひとさし指でさえ、自由自在には動いてくれないのです。
では、重い後遺症を負っている明子さんは、いま不幸なのかと言えば、決してそうではありません。
勿論、医療事故によって、全身麻痺の後遺症を負った時は、不幸のどん底に突き落とされたでしょうし、今も全身麻痺の状況は変わっていません。それどころか、むしろ悪化さえしているのです。
しかし、明子さんは、その状況を不幸とは思っておられないと思います。
結局、最後に幸不幸を決めるのは、自分自身なのです。