桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
桜紋の扉 法徳寺の扉 御祈願の扉 汗露水の扉 御法歌 法話の扉 帰郷の扉 升紋の扉
信者を作らない理由法話の小部屋御同行の体験談

日本の立ち位置

―靖国問題解決に向けて(7)―



大国主命一族の怨念を鎮める社


国譲り神話には、勝者側にとって不都合な事実が削除され、都合の良い事実だけが書かれているか、若しくは、事実が勝者の都合の良い形に書き換えられている可能性がある」と申しましたが、そう思うのは、「国譲り神話」が作られた背景に、国譲りに抵抗する大国主命とその一族を、圧倒的な武力によって制圧し、滅ぼしてしまった悲しい歴史が隠されているような気がしてならないからです。

出雲国をめぐって姉弟とその末裔が繰り広げた骨肉の争いを表沙汰にしたくないというのが勝者側の本音でしょうから、「国譲り神話」を作り、大国主命から出雲国を譲られた事にしなければならなかったのではないでしょうか。

出雲大社は、「私たちの為に大きな神殿を建て、末代までも守って欲しい」という大国主命の願いに応えて建立した社という事になっていますが、もし力づくで国を奪い、大国主命とその一族を滅ぼしたのであれば、出雲大社は、大国主命の願いに応えて建てられた社ではなく、その怨念や恨みを恐れた天照大御神側の人々が、その御魂を鎮める為に建てた社という事になり、その意味合いが全く違ってきます。

何故そう思うのかと言えば、もし出雲の国を譲ったという話が本当なら、出雲大社の祭祀は、当然大国主命の一族の人々が担っていなければならないからです。

しかし、いま出雲大社の祭祀を担う人々の始祖は、天照大御神の第二子で、大国主命を説得するため第一の使者として出雲に遣わされた天穂日命(アメノホヒノミコト)とされています。

何故、大国主命の一族ではなく、天照大御神の一族の子孫が出雲大社の祭祀を担っているのかと言えば、祭祀を担える大国主命の一族が滅ぼされ、その血統が絶えたからではないでしょうか。

その事は、大国主命の立場に立って考えてみれば、よく分ります。

もし大国主命が国譲りの条件を出すのであれば、その内容は、「お譲りする代わりに、私共の住む神殿を建てて、末代までも守って頂きたい」ではなく、「お譲りする代わりに、私共の住む神殿を建てて、私たちの末裔に末代までも守らせて頂きたい」となっている筈です。

何故なら、先祖の魂を弔い、慰霊する行為は、他人ではなく、子々孫々が行ってこそ意味があるからです。

いくら勝者側の人々に慰霊されても、子々孫々の絶えた一族の先祖が浮かばれる筈がなく、血のつながった子や孫に守って欲しいと思うのが当然です。

しかし、その為には、子々孫々が末代までも栄え、守られる事が最低条件であり、当然、国譲りの条件もその一点にあったと見なければなりません。

それ故、大国主命が、他者である天照大御神側の人々に慰霊を託したとされている事には、どうしても合点がいかないのです。

この点から見ても、「国譲り神話」は、大国主命一族を滅ぼし、出雲国を力ずくで奪った悲しい歴史を隠すため、天照大御神側の人々によって作り変えられた神話であると考えざるを得ません。

滅ぼされた大国主命とその一族の祟りを畏れたからこそ、「国譲り神話」を作って出雲大社を建て、大国主命を祀らざるを得なかったのではないかと思います。

現に、出雲の国譲りの後、天照大御神の孫である邇邇芸命(ニニギノミコト)が高天原から日向に天下り、その後、邇邇芸命のひ孫である神武天皇が東征して、大和の橿原で初代天皇として即位しますが、 十代目に当る崇神天皇の時に大きな禍が起こります。

疫病が発生して国民の半数以上が死亡し、反乱する者が後を立たないと言う惨憺たる状況となり、出雲の大国主命を祀ったところ、禍が収まったと言うのです。


勝者による敗者の慰霊


このように、支配者が、征服した被支配者の怨霊が祟るのを畏れ、神として祀る例は、過去の歴史を見ても珍しくありません。

例えば、京都の北野天満宮、福岡県太宰府の大宰府天満宮をはじめ、全国にある天満宮に祀られている学問の神様「天神さん」は、藤原一族の策謀によって大宰府に左遷され、非業の死を遂げた菅原道真公の死後、時の権力の中枢にいた藤原一族に次々と災難が降りかかったため、菅原道真の怨霊を鎮める目的で祀られたものです。

奈良の斑鳩にある法隆寺も、蘇我一族によって滅ぼされた聖徳太子一族の怨念を鎮める為に建てられた寺院と言われています。

調略、謀略による裏切りや寝返りが当たり前だった戦国時代、勝者側の武将が敗者となった武将や一族の怨念を鎮める目的で、新たに寺社を建立し、その霊を弔った例は、枚挙に暇もありません。

東京都千代田区九段にある築土神社(つくどじんじゃ)や、千代田区神田にある神田明神に神として祀られている平将門(たいらのまさかど)(注1)にも、様々な怨念伝説が残っています。

その最も謙虚な例が、東京都千代田区大手町にある首塚で、大正12年、平将門の首塚を壊して、大蔵省の仮庁舎を建てる計画が持ちあがりましたが、取り壊そうとした直後から大臣をはじめ、工事関係者が数十人相次いで亡くなるという災難が発生したため、不吉だというので工事は直ちに取りやめとなり、怨霊を鎮めるお祓いがされました。

太平洋戦争直後、再び平将門の首塚を取り壊す計画が持ち上がりましたが、アメリカ軍が、その場所を整備して駐車場にしようと工事に着手したところ、再び、工事中にブルドーザーが横転して、運転手の男性が死亡するという事故が起こりました。

そこで、平将門の祟りの話を聞かされたアメリカ軍は、首塚の取り壊しを中止するに至ったのですが、出雲大社は、どうだったのでしょうか?

大国主命は、国を奪われた神、天照大御神は、国を奪った神であるとすれば、出雲大社は、大国主命の一族の魂を鎮める為に建てられた神社であり、諏訪大社も、建御名方神(タケミナカタノカミ)を滅ぼした後、怨念を鎮める為に建てられた神社という事になります。


大国主命に必要な許しの教え


しかし、このような勝者が敗者の怨念を恐れ、慰霊するという考え方には、大きな問題があります。

何が問題かと言いますと、出雲大社や諏訪大社に大国主命や建御名方命を神として祀るという発想は、怨念を恐れる勝者側の都合によって考え出された鎮魂の方法に過ぎません。

これは、大国主命や建御名方神の気持ちに寄り添って考えられたものではなく、幾ら大国主命や建御名方命を神として祀っても、許しを乞う事はできないのです。何故なら、神には許しの教えがないからです。

神は汚れを忌み嫌い、罪を払い清めはしますが、罪を許し、汚れを受け入れるという教えはありません。

「清濁併せ呑む」という言葉があるように、許すという行為は、汚れ(罪)を含め一切を在るがまま受け入れる事であり、神として祀られても、許しの教えがなければ、許したくても許せないのです。

許しの心を持ち、汚れ(罪)を在るがまま受け入れる為には、仏教に帰依し、み仏の心を知らねばなりません。

そのみ仏の許しの心を象徴しているのが、み仏が座っておられる蓮華の台座です。

み仏が、一切の汚物が流れ込む汚泥の中に根を張りながら、汚れに染まらず、汚泥を糧として世にも清らな花を咲かせる蓮華を台座としておられるのは、その為です。

勿論、仏教に帰依し、み仏の心を知ったとしても、一族を滅ぼした相手の罪を許せるか否かは別で、口で言うほど簡単ではありませんが、少なくとも神の柱だけでは、許しの心に触れる事さえ出来ないのです。


因縁を解く責任


「大国主命とその一族が、天照大御神に対する怨念の心を乗り越える為には、神として祀られる事よりも、許しの心を説くみ仏の教えに触れる事が大切である」と申しましたが、実を言えば、仏教(仏法)に触れなければならないのは、敗者側の人々よりも、むしろ勝者側の人々の方なのです。

何故なら、天照大御神とその一族には、大国主命とその一族との間に作った骨肉の因縁を解く責任があり、それがまた大国主命の願いでもあるからです。

いずれにせよ、神代の昔、姉弟とその末裔によって作られた骨肉の因縁を解くには、仏教(仏法)に頼る以外に道はありません。

その意味で、「国譲り神話」は、許しの教えを持たない「神の柱」だけでは日本民族の繁栄はありえないという、国の在るべき姿(立ち位置)を決定付けた大事件と言っても過言ではないでしょう。

『古事記』や『日本書紀』の編纂者が、このような国の在り方(立ち位置)を意図して「国譲り神話」を作ったのかどうかは分りませんが、少なくとも、日本仏教の父と言われる聖徳太子が目指していた「神と仏の二本柱」からなる国の在るべき姿が、この神話の中に示されている事は間違いないでしょう。

神代の昔、姉弟とその末裔によって作られた骨肉の因縁をそのままにしておいては、日本の繁栄はありえないばかりか、「仏の柱」を欠いたままでは、因縁を解く道も閉ざされ、国が衰退に向かう流れを止める事は出来ません。

「神と仏の二本柱」は、決して変えてはならない日本民族繁栄の礎であり、聖徳太子の時代から脈々と守り伝えられてきたわが国不変の立ち位置である事を、決して忘れてはならないのです。

合掌

2016年5月17日


日本の立ち位置ー靖国問題解決に向けて(1)
日本の立ち位置ー靖国問題解決に向けて(2)
日本の立ち位置ー靖国問題解決に向けて(3)
日本の立ち位置ー靖国問題解決に向けて(4)
日本の立ち位置ー靖国問題解決に向けて(5)
日本の立ち位置ー靖国問題解決に向けて(6)
日本の立ち位置ー靖国問題解決に向けて(7)
日本の立ち位置ー靖国問題解決に向けて(8)
法話の小部屋Topへ


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


サイト内検索 help
 


法徳寺の草花と自然

ソメイヨシノ

石楠花
(花言葉 威厳、尊厳)

 


法話の小部屋Topへ


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注1)平良将(よしまさ)の子。叔父の平国香との相続争いをきっかけに、当時横暴を極めていた朝廷を相手に反乱を起こし、関東地方を治めて独立地方政権を作り上げ、新皇を自称したが、やがて藤原秀郷(ふじわらひでさと)、平貞盛らによって討ち取られた(平将門の乱)。
時を同じくして西日本でも、藤原純友(ふじわらすみとも)が海賊を率いて反乱を起したが、源経基(みなもとのつねもと)らによって鎮圧された(藤原純友の乱)。
この二つの乱(承平・天慶の乱)によって、地方武士の持つ力が注目されるようになり、やがて源氏による武家政権(鎌倉幕府)誕生へとつながっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


高野山法徳寺(たかのやまほうとくじ) TEL:0551-20-6250 Mailはこちらから
〒408-0112 山梨県北杜市須玉町若神子4495-309 FAX:0551-20-6251 お問合せフォーム