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涅槃について(6)

─ 常楽会に寄せて ─



地獄と極楽を見た奥野大阿闍梨


五分足らずという僅かな時間の中で、体験した事の真髄を人々に伝えるという事は至難の業であり、奥野大阿闍梨の講演は、それを実現した稀有な事例と言っていいでしょうが、何故このような前代未聞の講演が生まれたのでしょうか?

思うに、奥野大阿闍梨ご自身が、九日間の「堂入り」を通じ、地獄と極楽を体験されたからではないでしょうか。

奥野大阿闍梨にとって、口を漱ぐはずの水が喉を通ってしまった事は、痛恨の極みであり、地獄に堕されるほどの衝撃を受けられたであろう事は容易に想像出来ます。

勿論、喉を通った水は、たった一滴に過ぎません。その気になれば、「一滴くらいいいだろう」と妥協し、自分を納得させる事も出来ます。

しかし、奥野大阿闍梨は、妥協しませんでした。否、妥協出来なかったと言った方がいいでしょう。

三回も千日回峰行を成満なさった程のお方ですから、自己に対する厳しさも、行に対する真剣さも尋常ではありません。

だからこそ、僅か一滴の水が喉を通ってしまった事にさえ妥協出来ず、悔やみ、生涯をかけて、お不動様にご懺悔していくと言い切られたのです。

しかし、喉を通った一滴の水の味わいが、極楽の味と言ってよいほどの味わいだった事も、想像に難くありません。

「そのお水の味わいは、生涯忘れる事はないでしょう」と言い切られた言葉は、決して誇張ではないでしょう。

「一滴くらいいいだろう」と妥協する気持ちがあれば、お不動様に対するご懺悔の心も、水の味わいも、生涯忘れられないほどにはならなかったでしょうが、喉を通った僅か一滴の水にさえ、自責の念を覚え、生涯をかけて懺悔する事を自らに課す厳しさを持っておられるお方だからこそ、僅か一滴の水の味わいが、生涯忘れられない極楽の味わいにまで高められていったのです。

恐らく、奥野大阿闍梨は、九日間の「堂入り」で、地獄を体験すると同時に極楽(涅槃)をも体験されたのではないでしょうか。

地獄を体験されたからこそ、極楽が見えてきたと言ってもいいでしょうが、そうだとすれば、地獄と極楽を同時に味わった稀有な体験が、僅か五分足らずの言葉の中に凝縮され、言葉を超えた言霊(真言)となって、聴衆の心に飛び込んできたとしても、何ら不思議はありません。

まさにこの講演は、生まれるべくして生まれ、語られるべくして語られ、奥野大阿闍梨だからこそ為し得た講演だったのです。


無常悟れば涅槃に帰る


菩薩様の『道歌集』の中には、三百首余りの法歌(道歌)が収められていますが、私がいつも心に念じている歌があります。

 生死(しょうじ)なく 欲も苦もなく我(われ)もなく
    無常悟れば 涅槃に帰る

お釈迦様のお悟りも、お大師様のお悟りも、道元禅師のお悟りも、菩薩様のお悟りも、そして、奥野大阿闍梨のお悟りも、すべてこの法歌の中に込められていると言っても過言ではないでしょう。

無常の域に到達すれば、そこにはもはや生も死もありません。欲も苦も、個としての我の存在すらありません。

移り変わり行く森羅万象の姿を在るがまま受け止め、当たり前と頷く事が出来れば、自他を隔てている垣根もありません。

もはやそこには、場所という空間的概念もなければ、過去、現在、未来という時間的概念もありません。

在るのは、ただ「一切が我である」と悟り切った涅槃の境地であり、「今ここ」に開かれている極楽(真相)の世界です。

勿論、その世界は今まで存在していなかった訳ではありません。無始以来、ここに存在し続けていたにも拘らず、私たちは、今までその世界に気付かなかったのです。否、気付けなかったのです。

何故なら、心の眼が様々な計らいによって曇らされていたからです。

私たちは、何かを見たり、判断したりする時、知らず知らずの内に計らいや執着、分別などという色眼鏡をかけて見ています。

私たちが見ているのは、物事の在りのままの姿(真相)ではなく、心の色眼鏡を通して見た偽りの姿(仮相)に過ぎません。

お悟りを開かれるまでお釈迦様が見てこられた明けの明星も、お大師様が虚空蔵求聞持法を成就するまで見てこられた室戸岬も、宋へ行くまで道元禅師が見てこられた眼や鼻も、奥野大阿闍梨が今まで口にしてこられた一滴の水さえも、すべて様々な思いや計らい、執着、分別という色眼鏡(フィルター)を通して見たり味わっていたものに過ぎなかったのです。

ところが、六年間に及ぶ苦行、お四国での虚空蔵求聞持法の修行、宋での禅修行、そして九日間に及ぶ断食・断水・断眠・断臥の行によって、その色眼鏡が外れ、今まで見えていなかった物事の真相が在りのままに見えてきたのです。

お釈迦様が、明けの明星と一体であると悟られ、お大師様が、「有為の波風」も自分も同じだと悟られ、道元禅師が、「伝える仏法など何もありません」と喝破され、奥野大阿闍梨が喉を通った一滴の水の中に地獄と極楽を味わったのは、その為です。


何のための信仰か!


よく「信仰とは何の為にするのですか?」と尋ねられる事があります。

世の中には、「信仰は願いを叶える為にするものだ。願いが叶えられなければ信仰する意味がない」と考えておられるお方もおられます。

その方にとって信仰とは、何か満たされないものがあるから、それを神仏の力によって叶えてもらう為の手段に過ぎないのでしょう。

しかし、奥野大阿闍梨の八万枚の護摩行(堂入り)がそうであるように、また私の拙い断食体験がそうであるように、信仰とは、何かを手に入れたり、願いを叶える為の手段ではありません。神仏との取引でもありませせん。

信仰の真髄は、神仏のみ心とわが心を通わせ、神仏に一歩でも二歩でも近づかせて頂きたいと願い、不断の努力を積み重ねながら神仏と合一していくところにあります。

そこにあるのは、神仏に何かを求める心ではなく、神仏のみ心を悟り、その願いに応えてゆく姿勢であり、神仏への懺悔と感謝と祈りの心です。

奥野大阿闍梨が、わずか一滴の水が喉を通った事を悔い、生涯かけてお不動様にご懺悔していくと誓われた背景にあるのは、まさにお不動様へのご懺悔と感謝と祈りの心であり、この言葉を見れば、何かを求めて始められた行ではなく、お不動様にすべてを捧げ、そのみ心に応えんが為の修行だった事が分かります。

一滴の水でさえ「申し訳ない」と悔い、生涯かけてご懺悔していくと誓われたのは、お不動様のみ心に応えんが為の行であったにも拘らず、そのみ心に応えられなかった事への痛恨の思いからなのです。

しかし、その思いが、一滴の水の味わいを極楽の味わいにまで高めた事も間違いありません。

奥野大阿闍梨は、その稀有な体験を通して、我々が願ってやまない極楽とは何か、涅槃(悟り)の境地に通じる道とは何かを示唆してくれているのかも知れません。

合掌

平成28年4月3日


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