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涅槃について(2)

─ 常楽会に寄せて ─



涅槃でお聞きなさい


涅槃という言葉でいつも思い出すのは、菩薩様が人生のどん底から救いを求めて、四国霊場へ行かれた時の体験談です。

四国第二十一番札所・太龍寺で出会った旅の御僧に、救いの道を求められたところ、「分らない事や、苦しい事があったら、涅槃でお聞きなさい。涅槃が何もかも教えてくれます」と言われたので、「涅槃というのは何処にあるのでしょうか?」と尋ねると、「何処にでもございます」と言われ、「次の札所にもありますでしょうか?」と尋ねると、「ございます」とのお返事でした。太龍寺

そこで、お参りした札所で涅槃について尋ねたところ、「涅槃というのは、ここにはありません」という札所もあれば、「涅槃というのは、お釈迦様が死んだ事だ」という札所もあり、その言葉を聞いた時は、「涅槃で聞けという事は、あの世へ行って、お釈迦様に聞きなさいという暗示なのか?」と思い、背筋が冷水を浴びたようにゾッとしたと仰っておられました。

結局、涅槃で聞けという言葉の意味が分らぬまま、巡り巡って四国八十八番札所・大窪寺に着くと、三月末というのに、かなりの冷え込みでした。

みやげ物店の店先を借りて休んでいると、見る見るうちに、あたり一面積雪となり、まるで真昼を思わせるような明るさでしたが、涅槃の事が気になり、まんじりともせぬまま夜明けを迎えると、昨日から降り続いていた雪もすっかりやみ、あたり一面が真っ白な銀世界となっていました。

誰も踏みしめていない大窪寺の雪の階段を登ってゆくと、奥の方から、70才近いと思われる遍路姿の正装をした、背の低い女のお遍路さんが降りて来られました。大窪寺

「このお方に、気がかりになっている涅槃の事を尋ねてみよう。このお方にお尋ねして分らなければ、”涅槃はどこにでもあります”とおっしゃった御僧の言葉は何だったのかという事になるが…」と思いながら、「お尋ねいたしますが、このお寺には涅槃というのがございますでしょうか。私は、人生のどん底から、四国霊場に救いを求めて巡拝して来た者ですが、実は二十一番札所・太龍寺で、旅の御僧様にお会いして救いを求めたのですが、苦しいことや、わからないことがあれば涅槃でお聞きなさいと教えられ、何ヶ所かの札所で涅槃というのはございますかとお聞きしたところ、こちらには涅槃というのはないというお寺もあれば、涅槃というのは、お釈迦様が死んだ事だというお寺もあり、この八十八番札所に着くまでに、私のいのちが終わるのではないかと思いながら、ようやく大窪寺に着かせていただく事が出来たのです」と尋ねると、お遍路さんは、「涅槃で聞けということは、あなたに悟れという事です。苦とか楽とかは、みんな心の動き次第なのですよ」とおっしゃいました。

そこで、「御僧様は、涅槃はどこにでもあると申されましたが?」と問うと、「涅槃はどこにでもございます。このきれいな雪景色も、みんな涅槃のすがたなのですよ。あなたもご信仰を深めてゆかれますと、この世一切が涅槃の姿と心に映るのです。その御僧様は、きっとお大師様でしたね。この大雪では、高野山も雪でしょう」と言って、去って行かれました。


降る雪も悟れば涅槃のすがたかな


無事結願を済ませ、御礼詣りに高野山に登ると、案の定、四月初めというのに、山もお寺も一面の銀世界でした。高野山

四国霊場を 巡りつつ
 仏縁奇縁に 助けられ
   大師みもとに 帰り来りゃ
   雪降りしきる 高野山(こうやさん)

お大師様に結願の御礼を済ませ、雪の参道を踏みしめながら御廟橋まで戻って来た時の様子を、菩薩様は、「奥の院の大師御廟に、結願の御礼と、菩薩行の誓いを立ててお詣りをすませ、白雪に覆われた、山やお寺の有様を眺めていたとき、今まで閉ざされていた無明の心が、いっぱいに開かれて、これが涅槃のすがたか、極楽の様かと、思わず歓喜せずにはいられなかった」と述懐しておられますが、その時、口を突いて出てきたのが、次の歌でした。

降る雪も 悟れば涅槃の すがたかな
   山もお寺も 法衣(ほうえ)まといて

きっと菩薩様には、「やがて溶けてゆくこの白雪もあなたも、同じなのですよ。有るようで無く、無いようで有る、移り変わりゆく儚い存在なのですよ」と語りかけるお大師様の声なき声が聞えてきたに違いありません。

降る雪も、肉眼で見れば、ただの溶けてゆく儚い雪でしかありません。

しかし、悟りの眼(心眼)を開けて見れば、無常の真理を説法してくれている真理の雪(法雪)そのものとして鮮やかに映し出されてくるのです。

全山白雪に覆われた有様も、悟ってみれば、真理の衣(法衣)をまとった涅槃・極楽の姿そのものであったと詠われた菩薩様の心は、無明の闇も消え、一点の曇りも迷いもない、まさに晴れ渡った快晴の青空の如く、どこまでも澄み切った境地だったのではないでしょうか。

後日、菩薩様は当時を振り返り、「大窪寺に来るまで、涅槃の意味を教えられなかったのも、すべてお大師様のお計らいだ。そのお陰で、修行の大切さを悟る事が出来た。涅槃の意味を教えるため、あのお遍路さんが、凍てつく大窪寺で、私の来るのを待っていて下さったのだと思うと、有り難いやら、勿体ないやらで、胸がいっぱいになった。旅の御僧様と別れる時、”あなたが帰られる頃は、高野山も雪でしょう”と言われたが、お遍路さんも同じ事を言われた。お二人は、私を導く為に待っていて下さったお大師様の変化身だったに違いない」とおっしゃっておられましたが、涅槃という言葉を聞く度に、菩薩様の体験談が今でも脳裏に蘇ってきます。


「汚れた」という意味のお袈裟


菩薩様が法歌に詠まれた「降る雪」と同様、一切が移り変わるという狂いの無い無常の真理を教えてくれているのが、皆さんもよくご存じのお袈裟です。

昔から僧侶が持つべき必需品とされているのが、「三衣一鉢(さんねいっぱつ)」と言われるお袈裟で、「三衣」とは、大衣(僧伽梨・ソウギャリ、晴着のこと)、中衣 (鬱多羅僧・ウッタラソウ、普段着のこと)、小衣(安陀会・アンダエ、作業着のこと)の三つの衣を意味し、また「一鉢」とは、托鉢用の鉄鉢のことです。

お袈裟は、一枚一枚の小さな布切れをつなぎあわせて、大きな一枚の布にしたもので、阿弥陀くじのような形をしていますが、その一枚一枚の小さな布切れの縦のすじを「条」と言い、条の数が五つあるものが五条(五条袈裟)で「小衣」と言い、七つあるものが七条(七条袈裟)で「中衣」と言い、九本から二十五本あるのが九条(九条袈裟)、二十五条(二十五条袈裟)で「大衣」と言います。

お袈裟は、私たち僧侶が身に付ける衣装の中で、法衣と共に大切なものですが、元々このお袈裟は、インドの猟師が着ていた衣服で、カサーヤ(Kasaya)と呼ばれていました。

カサーヤを音写して「袈裟」という漢字を当てはめたのですが、カサーヤの本来の意味は、「汚れた」「壊色(えじき)」「濁色(じょくしょく)」(注1)という意味で、いま私達がお袈裟に抱いている「尊いもの」「清らかなもの」「きらびやかなもの」というイメージはまったくありません。

ご存知のように、お釈迦様は、出家するため、お城を出て修行者の森に行かれたのですが、その時、身に付けておられたきらびやかな衣服は、これから出家するお釈迦様には相応しくありませんでした。そこで、たまたま通りかかった猟師の衣服と、ご自身の衣服を交換なさったのです。


お袈裟が教える無常の真理


自分が着ていたきらびやかな衣服を猟師に与え、ご自分は猟師が着ていた粗末で汚れた衣服(カサーヤ)を身に着けて修行の衣とされ、それ以来、カサーヤが出家者の衣となったのですが、本来「汚れた」という意味しかないカサーヤが、何故僧侶が身にまとうこの世で最も尊いお袈裟に変わったのでしょうか?

今も言ったように、カサーヤの本来の意味は、「汚れた」「壊色」「濁色」という意味で、私たちが抱いているような「この世で最も尊い衣」という概念はありません。

お袈裟は、別名「糞掃衣(ふんぞうえ)」とも呼ばれ、文字どおり、糞を掃く衣で、この世で最も汚れ、使い捨ててもいいようなボロボロの衣という意味ですが、仏教では、この糞掃衣が、この世で最も尊い衣と言われているのです。

お袈裟には、人に菩提心を起させる功徳、自分が菩提心を起す功徳、魔を除く功徳など、十種の功徳があると言われていますが、何故元々猟師が着ていた汚れた衣であり、糞を掃く衣という別名まであるお袈裟が、十種の功徳があると言われるほど尊い衣に変わったのでしょうか?

それは、この衣が真理を説法する衣に変わったからです。

私も、紀州高野山で修行している時、如法衣(にょほうえ)と呼ばれるお袈裟を自分で縫って作ったことがあり、今でも毎日の修法に着用していますが、この一枚一枚の布切れは、買ったばかりの時は、新しく綺麗でし た。

しかし、今は少しずつ変色し、擦り切れている箇所もあります。これから何十年と使ってゆけば、次第に擦り切れてボロボロになってゆく事は間違いありません。如法衣

幾ら新しく綺麗な布であっても、やがて古くなり、汚れたものへと変わってゆかねばなりません。何故なら、それがこの世の真理だからです。

このお袈裟を私たち僧侶が身に着けるのは、着飾って美しく見せる為でも、尊く見せる為でもありません。

このお袈裟を形作る一枚一枚の布切れが、無常の真理を説法している事を、一人でも多くの皆様に悟って頂きたいからです。

「あなたも私たちと同じ無常の中にある身なのですよ。最初はみな若くてたくましい若者であり、麗しい乙女かも知れませんが、やがて年をとり、皺も増え、白髪も増えて、ボロボロになっていくのですよ。ボロボロになってゆく布切れの私達とあなたと、一体どこが違うのですか!」

そう言って、お袈裟を作っている一枚一枚の布切れが、移り変わり行くこの世の真理を私達に説法してくれているのです。

この世で最も汚れ、使い捨ててもいいようなボロボロの布切れをつなぎ合わせて作られた糞掃衣が、この世で最も尊い衣と呼ばれているのは、その為です。

お袈裟を形作っている一枚一枚の布切れは、もはやただの布切れではありません。

まさに菩薩様が法歌に詠われた「降る雪」であり、限りある命を生き、老い、病み、やがて死んでゆかねばならない私たち一人一人の姿でもあるのです。

合掌

平成28年2月28日


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