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生きる目的を見失っているあなたへ(4)



奇跡を起す為に欠かせないものー菩提心


六道輪廻の人生に終止符を打ち、仏(お悟り)の世界に生まれ変わるという奇跡を起こす為には、どうしても欠かせないものが二つあります。

一つは、前回お話した菩提心(お悟りを求める心)です。

但し、この菩提心を発す為には、どうしても避けて通れない道があります。

それは、楽ばかりで苦しみのない天上界では菩提心を発す事が非常に難しいように、菩提心を発す為には、人生における様々な試練が欠かせないという事です。

苦しみや挫折、絶望などと言うものは、私達にとっては甚だ不都合ですが、菩提心を発す為には、どうしても必要不可欠なものなのです。

あなたは、自分の思い通りに行かなかったり、夢に挫折したり、絶望して、「生きる目的」が分らなくなったと思い込んでおられるかも知れませんが、「生きる目的」を見失ったのではなく、ただ目前の苦しみに嫌気が差し、逃避しようとしているだけです。

「生きる目的」は、あなたがどんなに苦しく困難な立場に置かれようとも、あなたから離れる事はありません。

離れるどころか、菩提心を発し、「生きる目的」を成就して欲しいが為に、あなたを更なる窮地に陥れるでしょう。

お釈迦様が説かれたように、この世は「四苦八苦」に満ち満ちた世界です。

しかし、もしこの世に「四苦八苦」がなかったとすれば、私達は永遠にお悟りの世界に生まれ変わる事など出来なかったでしょう。

私達が遠ざけたい「四苦八苦」は、実は、私達をお悟りの世界に導いてくれる、かけがえのない導き手であり、手引き仏でもあるのです。

でずから、仏の世界に生まれ変わるという奇跡を起すまでは、どこまでもあなたの後を追いかけてきます。

勿論、それは、あなたを苦しめたいからではなく、苦しみを救いに変える悟りの智慧を磨き、六道輪廻の人生に終止符を打って欲しいからです。

それが、六道輪廻の人生に終止符を打ち、お悟りの世界に生まれ変わる為に人間の身を与えられた私達の宿命なのです。

ですから、絶対に逃げてはいけません。逃げれば逃げるほど、様々な試練はあなたの後を追いかけてきます。

大切な事は、逃げるのではなく、在るがままを受け入れ、それを悟りに変える智慧を磨く事です。

例えば、女性の誰もが憧れる宝石も、元はただの石に過ぎません。その原石が何度も磨き上げられ、様々な加工を施されて、ようやく光り輝く宝石として生まれ変わるのです。

それと同じように、人間に生まれた者にしか起せない奇跡を起こす為には、悩み苦しみや挫折や絶望と言った心の研磨剤が欠かせません。

様々な試練は、私達の智慧を磨き上げる心の研磨剤なのです。

もし「これほどの悩み苦しみがあるなら、人間になど生まれなければよかった」と本気で考えておられるなら、それは間違いです。

それはまるで、「研磨されて宝石になるのが嫌だから、原石になどならなければよかった」と言っているようなもので、本末転倒と言わねばなりません。

人間に生まれたくてもなれず、見向きもされない生類が数多いる中で、六道輪廻の人生に終止符を打てる人間として生まれて来れた事が、どれほど有り難いかを考えてみて下さい。

たとえ今どんなに苦しい境遇にいても、どんな苦境に立たされていても、六道輪廻の人生に終止符を打てる又とない機会を与えられた事に自信と誇りを持ち、先ず一歩を踏み出して頂きたいと思います。


奇跡を起す為に欠かせないものー仏法


いま菩提心を発す為には様々な試練が欠かせないと申しましたが、欠かせないものが、もう一つあります。

挫折や絶望や様々な悩み苦しみを味わったお方は、誰でもみな菩提心を発し、お悟りの世界に生まれ変われるかと言うと、そんな保証はどこにもありません。

人生における様々な苦しみは、お悟りの世界に生まれ変わる為に必要不可欠なものですが、だからと言って、苦しみを頂いたお方がすべてお悟りの世界に生まれ変われる訳ではないのです。

その証拠に、悩み苦しみを背負っていない人などこの世に一人もいませんが、悩み苦しみを背負ったまま、菩提心を発す事も、お悟りの世界を知る事もなく、生涯を閉じるお方も決して少なくありません。

挫折や絶望や様々な悩み苦しみを頂いても、それだけでは、人生を変える事は出来ないのです。

それは、譬えれば、原料のお野菜やお肉や様々な調味料を揃えただけでは、美味しい料理にはならず、それらを調理して美味しい料理に仕上げる手間隙をかけなければいけないのと同じです。

つまり、原材料(挫折、絶望、苦しみという不都合な事柄)を、美味しい料理(成功、希望、幸せという好都合な事柄)に作り変えてくれるシェフの智慧(お悟りの智慧)が必要なのです。

このシェフの智慧こそ、奇跡を起す為に欠かせない二つ目の仏法です。


億劫にも遇い難きは仏法なり


しかし、ここに一つ問題があります。

それは、奇跡を起す為に欠かせない仏法に遇わせて頂く事が、至難の業だという事です。

苦しみを頂いたお方がすべてお悟りの世界に生まれ変われる訳ではないと申し上げたのは、その為です。

「万劫にも受け難きは人身なり。億劫にも遇い難きは仏法なり」と言われるように、人間の身に生まれさせて頂く事は、奇跡と言っても過言ではありませんが、仏法に遇わせて頂く事は、人間に生まれてくるよりも遥かに難しい、まさに奇跡の中の奇跡なのです。

ありとあらゆる生類がいるこの世界に、人間の身を与えられただけでも奇跡と言わねばなりませんが、同じ人間の身を与えられても、誰も彼もが等しく仏法にご縁を頂ける訳ではありません。

何故かと言えば、お悟りを開かれるお方が滅多に出られないばかりか、世に出られても、そのお方に遇わせて頂ける事が容易ではないからです。

例えば、お釈迦様やお大師様が出られた時代は、まさに奇跡の時代と言ってもいいでしょうが、そのようなお方は、数百年に一人か、千年に一人しか世に出られません。

仮に同じ時代に生まれさせて頂けたとしても、そのお方にご縁を頂けるとは決まっていません。

現に、お釈迦様やお大師様が出られた時代においても、ご縁を頂けたお方より、頂けなかったお方の方が多かったでしょうから、「億劫にも遇い難きは仏法なり」という言葉は決して誇張ではないのです。

その当時でさえそうなのです。現代ではむしろ、仏法に遇う事もなく、お悟りの世界を知らぬまま生涯を終えるお方の方が圧倒的に多いのではないでしょうか。

勿論、お正月になれば、大勢の皆様が、全国の神社仏閣に初詣に行かれます。それぞれの御家庭には神棚や仏壇があり、ご先祖への供養がなされています。

しかし、それだけでは、仏法(覚者)とのご縁を頂けた事にはならないのです。


正像末三時説


仏教に「正像末三時説(しょうぞうまつさんじせつ)」と言う教えがあります。

お釈迦様が御入滅なさった後の仏教の姿を予言したもので、仏教は正法(しょうぼう)、像法(ぞうほう)、末法(まっぽう)という三つの時代を経て、衰退していくと言う予言です。

お釈迦様が亡くなられてから五百年間を正法の世と言い、お釈迦様の教え(教)も、お釈迦様の教えを実践する修行者(行)も、悟りを開く者(証)もまだ存在する時代で、お悟りを開くには勝れた時代であったと言われています。

次の千年を像法の世と言い、お釈迦様の教えと、教えを修行する修行者はいるけれども、お悟りを開く者は稀になると言われています。

次の一万年を末法の世と言い、お釈迦様の教えが残っているだけで、お悟りを開く者はおろか、修行する者さえいなくなると言われています。

更に末法の一万年が終わると、お釈迦様の教えさえも残らない法滅の世が到来し、その時代が永遠に続くと言うのが、「正像末三時説」と言われる予言的思想です。

この教えが、正しいかどうかは別として、平安末期の永承7年(1052)から末法の世に入ると信じられ、末法思想を取り入れた鎌倉仏教が誕生する契機となった事は周知の通りです。


末世というもみな心


1052年から末法の世に入ったと仮定すれば、現代はまさに末法の渦中にある事になりますが、果たして今の世は、教えだけが残り、修行するものも、お悟りを開く者(覚者)も居ない末法の世なのでしょうか?

私達が仏法(覚者)とのご縁を頂く事は、今の世ではもはや不可能なのでしょうか?

もし不可能だとすれば、私達の「生きる目的」である六道輪廻の人生に終止符を打ち、お悟りの世界に生まれ変わる事を断念しなければならない事になります。

その時は、「もう生きる目的も、生きる希望もなくなりました」という嘆きの声が巷に溢れ、末法の世である事が現実味を帯びてくるでしょう。

しかし、菩薩様は、『涙の渇くひまもなし』の中で、「末世というもみな心」と題して次のように説かれ、その事を否定しておられます。

現代は、末法末世の時代だといわれておりますが、それよりも正法によって支えられていかなければならない人間の心が末の末であって、釈尊をはじめ、多くの先覚者が残された法(おしえ)は少しも衰えることなく、燦然と光りかがやいています。

そして罪深きわたくしたち人間の魂を浄め、苦悩を救い、正しい人生の道しるべを示していて下さるのです。

しかし、人間の心が衰え世の中が乱れてくると、すべて法が衰えて来たかのように思うのですが、法とは狂いのないさとりであり、未来永劫衰えることも滅びることもないのです。

もし、末法末世と感じることがあれば、それはみ仏の思召しによって、感じさせられるのであって、正法に目覚めよ、正法(おしえ)を知れということのお諭しであると思わせていただかなければなりません。

み仏はつねに苦しむ衆生を救わんとして、あの手この手で一生懸命ご苦心をしていて下さるのでありますから、末法の世だと感じれば己が心の愚かさと信心の浅きを悟り、急いで法を求め教えをうけなければなりません。

正像末の三時説というのがありますが、正法の世とは釈尊滅後五百年といわれ、その仏陀の余光が強く、修行する者にとって証果を得るには、まさにすぐれた時代であったといわれております。また、像法の世とは次の一千年をいわれており、釈尊の示されたきびしい菩薩道より外れた甘い修行であるため、真実の修行が出来ず、そのため証果を得る者は極めて稀であるといわれております。

末法の世とは、さらに次の一万年といわれており、それが現代であって、正法はあってもこれを求めようとする者は少なく、修行はしていても、その証果を得る者はないとさえいわれております。

しかし、こうした正像末の三時説もすべてはみ仏のはからいであって、後の世までも仏法の衰退を来たすことのないようにと、わたくしたち人間に対して警告の意味に於いて示されていると思うのであります。

道元禅師さまは、「末法の世であるから真実の修行が出来ないとか、証果を得られないということはない。証果を得るも得られないも、その時代で論ずべきものではなく、むしろ人によって論ずべきものである。正法時代に遇っても、法を求めない愚かな人間ならば証果を得ることは出来ないし、末法時代であっても求道の精神に燃え菩薩道を極めんと欲する人ならば必ず証果を得る」と、教えておられます。

従って、末法末世というも、みんな己が心で感じとることであって、正しく生きる法を知れば、そこには正法のみで末法はなく、人の心の衰えと愚かさを知ることが出来るのであります

釈尊滅後二千五百年以上過ぎた今日、仏教は驚くべき発達をしていることは事実であります。

しかし、それにもかかわらず、人の心が衰えて世の中が乱れていくということは、何といっても、それぞれの人間が法があっても法を求めず、法の尊さを知らないという余りの無関心さが大きな原因といえましょう。

また、せっかく法の縁の導きがあっても疑い深くて信じることの出来ない人があり、寄せ集めの知識を以て法を批判する人あり、理屈をいっては法を聴けない人ありで、み仏の救いもないままに業をつくって業を背負い、かけがえのない人生を流されてゆくのが、強情傲慢で気の毒な人間の哀れな姿であります。

 末法末世と いうけれど
    人の心が 末の末
    正しく生きる 法を知れ

要するに、世が乱れ、人の心が失われている今の世にこそ、六道輪廻の人生に終止符を打ち、お悟りの世界に生まれ変わる為の智慧(仏法)が必要とされ、仏法が衰える事などあり得ないのです。

しかし、菩薩様が述べておられるように、幾ら菩提心を発す事の大切さを説き、迷える人々を導くべく法を説いても、聞く耳を持たず、信じようとせず、法に反発して、折角頂いた仏法とのご縁を、自ら断ち切っている人々がいる事も事実です。

たとえお釈迦様でも、縁なき衆生を救うのは難しいとの道理を示した「縁なき衆生は度し難し」という言葉がありますが、残念ながら、「縁なき衆生」は、お釈迦様御在世中だけではないのです。

合掌

平成28年2月24日


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