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─神仏の絶対不可侵性とは─



「シャルリー・エブド」襲撃事件


ご承知のように、今年1月7日、フランスの首都パリにある新聞社「シャルリー・エブド」が、覆面をした複数の武装犯に襲撃され、12人が死亡、20人が負傷するという痛ましいテロ事件が起き、更に翌8日には、パリ郊外のモンジュールで、前日の事件に呼応した別の男による警察官二人の殺傷事件が発生しました。

事件から2日後の1月9日、フランスの特殊部隊が、2ヶ所に立てこもる犯人3人を射殺し、事件は無事に解決しましたが、17名もの人々が亡くなった今回の事件は、全世界に大きな衝撃を与えました。

この新聞社は、2006年と2012年にも、イスラム教の預言者ムハンマドを題材にした風刺画を掲載して、イスラム団体から批判を受けています。

2006年のムハンマド風刺画掲載以後、シャルリー・エブド関係者は、絶えず殺害すると脅迫され、警察の警護対象になっており、2011年には、同紙の編集部に火炎瓶が投げ込まれ、全焼する事件が起きています。

2012年のムハンマド風刺画掲載前には、フランス政府から同紙に対し、風刺画掲載の自粛要請が行われており、フランス政府が神経を尖らせていた事が分かりますが、
犯人は、逃走する際、「神は偉大なり。預言者の復讐だ」と叫んでおり、ムハンマドを冒涜した出版社に対する報復である事は、間違いないでしょう。

イスラム教を冒涜した報復と思われるテロ事件は、過去にも起きています。

平成18年(2006年)、デンマークの新聞社が、やはりイスラム教の預言者ムハンマドを風刺した絵を載せたとして、デンマークの国旗が焼かれるなど、世界中のイスラム教徒から激しい抗議を受けました。

また、わが国でも、平成3年(1991年)、「悪魔の詩翻訳者殺人事件」というショッキングな事件が起こりました。

これは、インド系イギリス人作家であるサルマン・ラシュディ氏が1989年(平成元年)1月に発売した著書『悪魔の詩』をめぐり、翻訳者である筑波大学の五十嵐一(ひとし)教授(当時44歳)が何者かに殺害された事件で、当時イランの最高指導者であったホメイニ師が、著書のラシュディ氏と、出版に関わった者に対し死刑宣告を行った事がマスコミで大きく報道され、関係者の安否が心配されていた折だけに、日本社会にも大きな衝撃を与えました。


「報道の自由」と「報道の責任」


今回のフランスのテロ事件では、「報道の自由」をめぐり、意見が大きく二つに分かれています。

マスコミ関係者や欧米諸国からは、「報道の自由」は如何なる場合であっても守られなければならず、たとえ風刺画であっても、「報道の自由」として認められており、それを暴力で止めさせる事は出来ないという意見が出ている一方、イスラム社会からは、信仰を冒涜したり、預言者を侮辱したりするような報道は、「報道の自由」として認められないという反対意見も多数出ています。

「報道の自由」については、わが国でも、朝日新聞が、過去の慰安婦報道(注1)や、吉田調書報道(注2)に関する誤報を認め、記事を取り消すなど、報道の在り方を巡って大きな問題になっていますが、今回の事件は、信仰の尊厳性の問題とも複雑に絡み合っている為、信仰の世界に身をおく者としても、他人事とは思えません。

ご承知の通り、「報道の自由」は、「国民の知る権利」を守る為に認められているもので、芝居に譬えれば、主役は「知る権利」を有する国民であり、マスコミは、「知る権利」を有する国民に奉仕する脇役に過ぎません。

「国民の知る権利」とは、国民が、権力を持つ者に対し、すべての情報を明らかにするよう求める権利で、権力者が自分達に都合の良い情報だけを公開し、不都合な情報を隠避する事のないよう、全ての情報を国民が共有し、的確な判断が出来るよう、国民に代って情報を在るがまま伝える役目を担う報道機関(マスメディア)に与えられているのが、「報道の自由」です。

従って、「報道の自由」を担うマスコミは、自ら得た様々な情報を、国民の前に在るがまま包み隠さず正確に伝える責任があると同時に、国民に対し、間違った情報操作や捏造した出来事を伝えてはならない義務を負っている事になります。

マスコミに「報道の自由」(報道の権利)が認められるか否かの判断基準は、ひとえに報道内容が「国民の知る権利」に資するものであるか否かにかかっている事は、言うまでもないでしょう。


「報道の自由」と宗教


問題は、「宗教が国民の知る権利の対象となりうるのか?」という事ですが、原則としては、対象とはなりえません。

何故なら、宗教はあくまで個人の心の問題であって、マスコミといえども、他人の心の問題にまで干渉する事は出来ないからです。

しかし、宗教が、政治(権力)と深く結びつき、国民の暮らしに大きな影響を及ぼす力を持つようになれば、話は別です。

日本にも、宗教団体を支持母体とする政党がありますが、憲法で政教分離が謳われている以上、その是非は別として、現行憲法の下では、宗教と政治が結びつく事は万が一にもありえません。

しかし、イスラム教の国々は、日本と違い、政教一致が建前で、宗教が政治と深く結びついています。

イスラム諸国では、宗教の最高指導者が、国家の最高指導者である事も決して珍しくはなく、イスラム過激派と呼ばれる人々が、世界中で無差別テロを引き起こしている現状を鑑みれば、その行動が「報道の自由」の対象になるのも、やむを得ないでしょう。

問題は、「今回のような風刺画が、専ら過激派を非難する為ではなく、イスラム教の預言者やイスラム教自体を冒涜したり侮辱したりする恐れのある場合であっても、報道の自由として許されるのか?」という事ですが、「報道の自由」には、そこまでの自由は認められていないと思います。

何故なら、先ほども述べたように、「報道の自由」とは、「国民の知る権利」を守る為に、いかなる圧力や暴力をも受ける事なく、自由に報道できる事を保障された「報道の権利」であると同時に、事実を在るがまま正確に報道し、間違った事実や捏造した出来事を報道してはならないという「報道の責任(義務)」を伴うものだからです。

この「報道の責任(義務)」を伴わない「報道の自由」は、「国民の知る権利」に資するものではなく、たとえ「報道の自由」を担うマスコミといえども、許されるものではありません。

それどころか、間違った報道や捏造された報道は、「国民の知る権利」を著しく阻害し、国民の正しい判断をゆがめ、情報を持たない国民を誤った方向に誘導する恐れさえあります。

先ほども述べたように、先般、朝日新聞が、慰安婦報道や吉田調書報道に関する誤報を認めて記事を取り消し、社長が辞任に追い込まれるという、報道機関としてあってはならない前代未聞の不祥事がありましたが、これは、慰安婦報道や吉田調書報道が、間違った情報や捏造した出来事を伝えてはいけないという、国民との約束を違えた裏切り行為であり、「報道の自由」を託されたマスコミとして、その本分である報道の責任(義務)を果たしていなかった事が明らかになったからであり、その事実を自ら認めざるを得なくなった結果と言っていいでしょう。

もし今回の風刺画の内容が、「国民の知る権利」を守る為の報道でも、過激派テロ組織を非難する為の報道でもなく、イスラム教への侮辱や冒涜を含むものであったとすれば、「報道の自由」を認められたマスコミとして、その本分を逸脱していたと言われてもやむを得ないのではないでしょうか?

勿論、暴力で口を封じるなどという事は、断じてあってはならない事ですが、だからと言って、相手への侮辱や冒涜や虚偽を含む内容であっても報道出来る自由が認められている訳では決してありません。


イスラム教と過激派テロ組織との混同


何故、シャルリー・エブド社は、イスラム教徒からムハンマドへの冒涜と受け止められ兼ねない風刺画を掲載したのでしょうか?

思うに、「イスラム過激派」と呼ばれるテロ組織が行っている無差別テロ行為は、いかなる理由があろうとも許されるものではなく、テロに対する抗議の意志を多くの読者に伝え、共有したいとの想いから、あのような諷刺画を掲載したのではないでしょうか?

しかし、問題は、「新聞社側が、過激派と敬虔なイスラム教徒を混同する過ちを犯していなかったのかどうか?」という事です。

いままでマスコミは、過激派テロ組織に「イスラム」の名前をつけて「イスラム過激派」と呼び、私達もその報道を鵜呑みにして、その過激な行動がイスラム教徒の一側面であるかのような印象を抱いてきましたが、よくよく考えてみれば、敬虔なイスラム教徒の中で、罪の無い人々を無差別に殺戮する事を容認している人など一人もいない筈です。

古歌に、
  分け登る ふもとの道は違えども
    同じ高嶺の 月をみるかな
 と詠われているように、全ての人々が幸せに暮らせる世界の実現をめざし、その願いを共有したいという想いは、宗教や人種が違っても、信じる神や仏が違っても、みな同じ筈です。

残念ながら、その中には、三毒煩悩と言われる「貪り、怒り、妬み恨み憎しみ」の鬼に魂を奪われ、神や仏を利用して無辜の人々を弾圧したり迫害している人々がいるのも事実で、宗教者として慙愧に耐えませんが、だからと言って、それら一部の人間と、敬虔な信仰者を混同する過ちを犯してはならないのです。

思うに、いま世界中で無差別テロを繰り返している過激派といわれる人々は、真のイスラム教徒ではなく、ただイスラム教徒が信じる神を利用して無差別テロを正当化しているに過ぎないのではないでしょうか?

「慈悲深きアラーの御名において」実行した事にしないと、彼らは、ただの殺人集団に成り下がってしまいます。それでは、彼らの行動は誰にも支持されませんし、誰も彼らに付いていきません。

そこで、イスラム教徒の仮面をつけ、イスラム教の為に闘っているかの如く装い、無差別テロを正当化するために、イスラム教を利用しているだけではないかと思うのです。


イスラム教徒がISILを批判する理由


先般、過激派テロ組織ISIL(アイシル、所謂「イスラム国」)に捕われていた日本人二人が殺害されるというショッキングな出来事がありましたが、このようなISILの行動がイスラムの教えに添った行動だと思っている人は、一部の過激派を除いては、恐らく一人もいないでしょう。

その証拠に、世界中の敬虔なイスラム教徒(ムスリム)たちはみな、「彼らの行動はイスラムの教えとはまったく違う」と厳しく非難しています。

例えば、「ダマスカス留学生有志による情報ブログ」というウエブサイトには、イスラムの学者達がISILに向けて発信している公開書簡の要点が、24項目に分けて列挙されていますが、それを見ると、ISILの行動が、いかにイスラムの教えに背いているかが分ります。

1、イスラーム法の見解を出す事が許されるのは、イスラーム法基礎学の文献で述べられている「ムフティー(イスラーム法学の見解を出すため、イジュティハード(注3)が可能な者)の条件」を満たす者だけであり、それ以外の者は勝手にイスラームの名のもとに見解を出してはならない
 また、クルアーン(注4)やスンナ(注5)全体を考慮せず、クルアーンの一節或いはその一部を単独で根拠に引用し、独自の見解を出してはならない

2、イスラーム法的見解は、アラビア語に精通している者しか出す事は出来ない。

3、イスラーム法を安易に考え、イスラームの専門的知識の無い者達に任せてはならない

4、イスラームにおいては、ムスリム社会に住む者なら誰でも知っている様な根本的な事以外においては、学者間の意見の相違が許される余地がある(訳注:自分達の意見のみが正しいイスラームで、他の意見は間違っていると見なしてはならない)

5、イスラームにおいては、法的見解を出す際に、適用対象の「現状」を考慮する必要がある。

6、イスラームでは、無実の人を殺す事を禁じている

7、イスラームでは、(訳注:例え敵であろうと)使者を殺す事を禁じている。ジャーナリストや援助団体の職員たちは使者と見なされるので、殺してはならない(訳注:使者のみならず、戦いの際でも敵方の非戦闘員を害する事は禁止)

8、イスラームにおいて、「ジハード」(注6)は防衛的なものであり、且つ、イスラーム法に沿った原因、方法、目的を満たさなければならない。

9、イスラームでは、明らかに不信仰な言動を行った者以外は、不信仰者と見なす事を禁じている。

10、イスラームでは、啓典の民に、害を加えてはならない(訳注:啓典の民のみならず、宗教を理由に、無実の人を害してはならない)

11、ヤズィーディー教徒(注7)は、啓典の民(注8)と見なされるべきである。

12、イスラームにおいては、イスラーム学者達が一致してその放棄を認めた奴隷制を、復活させてはならない

13、イスラームにおいては、宗教の強制を禁じている

14、イスラームでは、女性の権利を尊重しなければならない。

15、イスラームでは、子供の権利を尊重しなければならない。

16、イスラームでは、刑罰を適用する前に、公正さと慈悲を保証する正当な手続きを経なくてはならない(訳注:専門知識があり、公正で慈悲に満ちた見解を出せる裁判官の裁定なくして刑罰は実行されない。イスラームの刑罰は、少しでも疑わしい所があれば実行されない)

17、イスラームでは、人々を拷問にかける事を禁じている

18、イスラームでは、死体を痛めつけることを禁じている

19、イスラームでは、自分が行った悪事を至高なるアッラーのせいにする事を禁じている。

20、イスラームでは、預言者様達(彼らの上にアッラーの祝福と平安あれ)やサハーバ(彼らの上にアッラーのご満悦あれ)(注9)の御墓等を破壊する事を禁じている

21、イスラームでは、統治者が人々の礼拝を許している限り、明確な不信仰の言動以外の理由で、統治者に謀反を起こす事を禁じている

22、イスラームでは、イスラーム共同体の合意(イジュマーウ)なくして、カリフ(注10)を宣言してはならない

23、自分の祖国に属する事は、イスラームにおいて合法である。

24、イスラームでは、預言者様の亡き後、必ずしも全員がヒジュラをしなければならないわけではない

この書簡を見れば、ISILの行動がイスラム教とは全く相容れないものである事は一目瞭然ですが、にも拘らず、一部のイスラム教徒(ムスリム)が彼らの欺瞞を見破れずに過激な行動に走るのは何故でしょうか?

原因として考えられるのは、やはり貧困と、教育を受けられない人々がいまも大勢いるというイスラム社会の厳しい現実ではないでしょうか?

このウエブサイトで、「ムスリムであっても、クルアーン(コーラン)を読んだことがない、イスラームの教えを学んだことがないという人たちが、イスラーム世界に大勢いる」と指摘されているように、少なくとも、イスラム社会をむしばむ無知と無学が、過激派に走る若者を食い止められない大きな要因の一つになっているのは間違いないでしょう。

ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんが、過激派に命を狙われながら、女性の教育を受ける権利を主張し続けている背景にも、やはり貧しさ故に学校に通えず、満足な教育さえ受けられない人々が大勢いるという厳しいイスラム社会の現実を何とか変えたいという想いがある事は言うまでもありません。


賛否が分れる呼称問題


この問題は、イスラム社会だけで解決できる問題ではなく、世界中が一丸となって取り組まなければならない課題である事は言うまでもありませんが、その為には、先ずイスラム圏以外の人々が、マスコミも含めて、イスラム教徒に対する偏見や先入観を捨てなければなりません。

今回の「シャルリー・エブド」事件や、ISIL問題に関して言えば、敬虔なイスラム教徒と過激なテロ組織とをハッキリ峻別する事が必要で、シャルリー・エブド社襲撃事件も、ISILによる人質殺害事件も、その事への警鐘と受け止めるべきではないでしょうか?

「羊の皮をかぶった狼」という言葉がありますが、過激派テロ組織ISILが、殺人を正当化する為に、イスラム教と言う羊の皮をかぶっている狼に過ぎない事は、イスラムの学者達が発信している24の公開書簡を見ても明らかです。

その意味で、ISILが必ず用いる「慈悲深きアラーの御名において」という言葉は、イスラムの名を利用して、無差別テロを正当化する為の隠れ蓑であり、彼らにとって無くてはならない生命線であると言っていいでしょう。

従って、彼らを「イスラム国」と呼ぶ事は、たとえ彼らがそう主張していたとしても、彼らをイスラム教徒の一員と誤解させる恐れがあり、彼らの主張を認めるにも等しい行為と言わなければなりません。

残念ながら、わが国のマスコミは、いまだに「イスラム国」の呼称を、何の疑いもなく使用し続けていますし、それを支持する意見もありますが、ISILにとって、これほど願ったり叶ったりの報道姿勢はないでしょう。

安倍総理が、衆院予算委員会において、「まるで国として存在しているかの印象を与える。国として国際社会から認められている、あるいはイスラムの代表であるかの印象を与え、イスラムの人々にとっては極めて不快な話になっている」と答弁しているように、日本政府が、今まで使っていた「イスラム国」の呼称を止め、あえて「ISIL」に変更したのは、「イスラム国」と呼ぶ事が、結果的にISILを利するだけでなく、敬虔なイスラム教徒への偏見を助長する恐れがある事を危惧したためです。

にも拘らず、何故マスコミが、未だに「イスラム国」という呼称を使い続けているのか、疑問を抱かざるを得ません。

駐日トルコ共和国大使館が、在京報道各社宛に「今回の事件でもイスラム諸国とその国民が様々な形でこの卑劣な蛮行を強く非難しました。しかし、日本のマスメディアが最近の報道のなかで、この蛮行に及んだテロ集団を「イスラム国」と表現していることが非常に残念であり、誤解を招きかねない表現であると強く認識しています。平和を重んじるイスラム教の宗教名を汚すこの「イスラム国」という表記を、卑劣なテロ行為を繰り返す一集団の組織名としてどうか使用されないよう切に願います。」とコメントしておられるように、マスコミが「イスラム国」の呼称を使い続ける事は、敬虔なイスラム教徒への大きな誤解を生む要因となるばかりか、ISILの無差別テロに大義名分を与え、正当化するのを助長している事にはならないのでしょうか?

このような報道姿勢は、もはや単なるテロ組織の呼称問題に留まらず、世界中の敬虔なイスラム教徒に対する冒涜行為と見られてもおかしくないでしょう。

ISILは、敬虔なイスラム教徒とは関係のない、ただのテロ集団に過ぎない事を全世界が共有する為にも、一刻も早く、「イスラム国」の呼び方を使うのは控えるべきではないかと思います。

それは、今回のシャルリー・エブド社襲撃事件の背景に、無差別テロを起こすただの過激派テロ組織と、敬虔なイスラム教徒を、同じ「イスラム教徒」として捉える過ちを犯しているような気がしてならないからです。

もし風刺画を掲載した目的が、無差別テロを許さない為だとするなら、過激派だけを風刺すればよいのであって、イスラム教やムハンマドを風刺する必要性は全くありません。

多くの皆さんがすでに指摘されているように、今回の事件は、この二つをハッキリ峻別する必要性がある事を、改めて私達に教えてくれているのではないかと思います。


「クソコラグランプリ」に見る表現の自由の在り方


ISILに捕らえられた二人の日本人とヨルダンのパイロットが殺害され、世界各地からテロに対する憤りの声が挙がっていますが、ツイッターやフェイスブックでは、ISILが投稿した動画から作ったコラージュ画像(合成画像)をモチーフにした「クソコラグランプリ」が話題になっています。

「クソコラ」とは「クソみたいなコラージュ」の略で、ツイッターで流行している遊びの一種だそうですが、ISILの人質画像を使ったコラージュ画像をめぐっても、賛否両論が分れています。

「テロを助長する恐れがあるから慎んだ方がいい」「人質の命を危険にする恐れがある」など、批判的な意見も見られますが、海外メディアは、全く違った視点から、この動きを捉えています。

「日本人のユーモアはISISの最大の武器である恐怖を無にする。クソコラグランプリが結果的にイスラム国の恐怖を破壊した」「日本人はユーモアを含めた表現の自由で戦っている」「アメリカ政府でさえ成し遂げられなかったことをやってのけた」などと、コラージュ画像を前向きに評価する意見が多く見られます。

この騒動の是非は別として、注目すべき点は、「クソコラブランプリ」と「シャルリー・エブド」のテロに対する対処の仕方の違いです。

「クソコラグランプリ」のコラージュ画像も、「シャルリー・エブド社」の風刺画も、無差別テロに対する抗議の意思を示している点に変わりはありませんが、根本的に違うところが一点あります。

それは、「シャルリー・エブド」の風刺画が、イスラム教の預言者ムハンマドを風刺していると受け取められ兼ねない画像であるのに対し、「クソコラグランプリ」のコラージュ画像は、イスラム教を冒涜したり侮辱する事を意図したものではなく、あくまで無差別テロ行為そのものを非難する為に使われている点です。

これは、いまお話した「イスラム教徒」と「過激派テロ組織」をハッキリ峻別し、テロ組織に、イスラム教徒としての隠れ蓑や大義名分を与えない趣旨とも合致する流れと言っていいでしょう。

「イスラム教徒」と「過激派テロ組織」を混同せず、テロ組織のみをコラージュ画像で非難している点は、明らかにシャルリー・エブド社の風刺画とは一線を画しており、このコラージュ画像が海外メディアから評価されているのも頷けます。

しかも、この点は、ISILの生命線とも言うべきイスラムの名を冠した「イスラム国」の呼称をそのまま受け入れ、今も使い続けているマスコミの姿勢とも全く相反するもので、表現の自由の在り方を考える上でも、「クソコラグランプリ」への海外メディアの好評価は、的を射ているように思います。

このコラージュ画像に批判的な意見もありますが、敬虔なイスラム教徒への偏見や誤解を招く恐れのある「イスラム国」の呼称を使い続けるマスコミの報道姿勢と、コラージュ画像を通じてISILのテロ行為を非難する「クソコラグランプリ」の姿勢と、どちらが在るべき「表現の自由」に適った行動なのでしょうか?

報道の責任を伴わない報道の自由などありえない事を考えれば、どちらの行動がイスラム教徒の方々にとって喜ばしい動きなのかは、火を見るよりも明らかではないでしょうか?

ただの遊びと言って批判するのは簡単ですが、表面的な部分だけを見て批判しているだけでは、問題の本質は見えてきません。

過激派テロ組織の呼称問題は、マスコミにとって、まさに「報道の自由」「表現の自由」の在り方そのものを問われている大問題と言っても過言ではないでしょう。

誤解や偏見にさらされているイスラム教徒に対する誠意ある報道姿勢がとられなければ、朝日新聞の誤報で失われつつあるマスコミへの信頼は更に傷つき、人々の心から遊離していくばかりではないでしょうか?

2015年2月11日


宗教は人にあり(1)ー神仏の絶対不可侵性とはー
宗教は人にあり(2)ー神仏の絶対不可侵性とはー
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(注1)韓国の済州島で慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言などを検証した結果、虚偽である事が判明したとして、16本もの記事が取り消された。

 

(注2)東京電力福島第一原発事故の政府事故調査・検証委員会が作成した、吉田昌郎所長に対する「聴取結果書」。朝日新聞は、政府が非公開としていた「吉田調書」を独自に入手し、2014年5月20日付1面で「東日本大震災4日後の2011年3月15日朝、福島第一原発にいた東電社員らの9割にあたる約650人が吉田所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発に撤退した」と報じたが、これは全くの誤報であった事が判明し、記事を取り消し、謝罪した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注3)イジュティハードとは、コーランとその次に権威のある聖典「ハディース」を解釈し法的判断を下すこと。

 

 

(注4)イスラム教の啓典で、コーランとも言う。

 

(注5)預言者ムハンマドの言行・範例。

 

 

 

 

 

 

 

(注6)本来「努力」「奮闘」の意味であり、ムスリムの主要な義務である五行(信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼)に次いで「第六番目の行」といわれる。日本では一般に「聖戦」と訳されることが多いが、厳密には正しくない。

 

 

 

 

(注7)イラク北部に住むクルド人の一部で信じられている民族宗教。
ヤジディ教徒の女性達は、ISILによってシリアに連れ去られ、改宗を強制された上、戦闘員の結婚相手として売り払われているという。

(注8)イスラームに屈服し、厳しい制約と差別を受け入れる代わりに、イスラーム国家(イスラム世界)に居住することを許される異教徒

 

 

 

 

 

 

 

(注9)預言者ムハンマドと直に接したイスラム教徒を指す語。 日本語では「教友」と訳されるが、狭義ではムハンマドと行動を共にしてイスラームの基盤を作り上げた人物を指し、広義では一度でもムハンマドに接した経験のある全てのイスラム教徒を指す。

 

(注10)預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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