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「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(2)



現実を無視し理想だけを説く者は無責任である


私達の社会は、お互いへの信頼関係がなければ成り立ちません。毎日、どこの誰が作ったのか分らないお米やお野菜やお肉や果物やお菓子を食べて生活してゆけるのは、誰も農薬を入れたり、異物を混入したりしないと信頼しているからです。

しかし、この信頼が100パーセント守られるという保証はありません。残念ながら、テレビをつければ、毎日のように信頼を裏切る事件や事故が、相次いで報道されている事は、皆さんもご承知の通りです。

つい先日も、スーパーの商品に異物を混入している映像を、動画サイトに投稿したとして、19歳の少年が逮捕されたばかりですが、いまや食物への異物混入や悪戯は珍しくありません。

私が「現実を無視し理想だけを説く者は無責任であり、理想を持たず現実だけを語る者は無知である」と言ったのは、このような現実があるからです。

私達が生きている社会は、相互の信頼関係がなければ成り立たないと同時に、その信頼関係が100パーセント保証されていない社会でもあります。

この相反するジレンマ(二律背反)の中で生きていかなければいけない私達が取りうる道は、一つしかありません。

それは、お互いが信頼し合える社会を築いていく努力を忘れてはならないと同時に、信頼を裏切られた時のリスクを最小限に抑える努力も欠かしてはならないという事です。


取り戻せない尊い命


昨年7月13日、北海道小樽市の海水浴場近くの道路で、女性4人が車にはねられ、3人が死亡、1人が重傷を負うという痛ましい事故が発生しました。

見通しの良い直線道路であるにも拘らず、飲酒運転をして、おまけに携帯電話に気を取られて前方をよく見ていなかった事が事故の原因ですが、ご家族のお気持ちを思うと、言うべき言葉もありません。

もしこの道路にガードレールが設置されていれば、事故は防げなくとも、女性達の命はガードレールに守られて助かったかも知れない事を考えると、命を落とされた三人の女性やご家族がお気の毒でなりませんが、失われた命はもう二度と戻りません。小樽のひき逃げ事故現場

平成24年、京都府亀岡市で登校中の児童や引率の保護者の列に、無免許の少年が運転する軽乗用車が突っ込み、3人が死亡、7人が重軽傷を負うという痛ましい事故があったばかりだけに、一層憤りを覚えますが、残念ながら、どちらの事故現場にも、命を守ってくれるガードレールは設置されていませんでした。

ガードレールがあれば助かったかも知れない事を考えると、「事故に遭った人たちは運が悪かったのだ」では済まされません。

勿論、ドライバーへの信頼が100パーセント保証されている車社会であれば、ガードレールなど必要ありません。

景観は悪くなり、お金もかかり、道幅も狭くなり、歩いている人がぶつかって怪我をする危険性のあるガードレールなど、設置しない方がいいに決まっています。

しかし、ぶつかってこないという保証がない限り、命を守るガードレールは欠かせません。

私達が考えなければいけないのは、「ガードレールがあれば助かったかも知れない命が、無かったがために失われたという現実をどう受け止め、今後にどう活かしてゆけばよいのか」という事です。

皆さんは、飲酒、居眠り、挑発などを繰り返して暴走してくる車の前を、ガードレールも何もないと分っていて、安心して歩けるでしょうか?

恐らくそんなお方は一人もいないと思いますが、このような事が国レベルで起こったらどうでしょう。

強大な軍事力を背景に周辺国を挑発し、わがもの顔で暴走を繰り返している国があり、その国への信頼がどんどん崩壊している中で、何の防御もせず、口先でただ「戦争を放棄しているから攻めて来ません。安心して下さい」と言っているだけでは、安心どころか、国民は益々不安になるだけです。

それは、暴走する車が後ろから来ると分っていながら、ガードレールも何もない道路を「交通安全のタスキをかけているから、ぶつかってきません。安心して下さい」と言われているようなものです。

それでもあえて「大丈夫です。絶対にぶつかってこないから、安心して下さい。事故など絶対に起きません。事故のない社会を目指して活動している私達に、ぶつかってくる筈がありません」と言う人がいたら、その人は、間違いなく大嘘つきであり、無責任な人と言わねばなりません。

私達が生きている社会は、相互の信頼関係が100パーセント保証されている社会ではない以上、「絶対大丈夫」という事はありえないのです。


命を救った過去の教訓


全知全能の神ならぬ人間社会では、事故は必ず起きるものと考えておかなければなりません。

東京電力福島第一原発事故が起きた際、「想定外」という言葉を何度も聞きましたが、この言葉に違和感を抱いたお方も少なくないと思います。

東京電力は、「このような大地震さえ起こらなければ、事故は起きなかった。これほどの大地震は誰も予想出来なかった」と言いたいのだと思いますが、仮に想定外の大地震であったとしても、問題の本質は、想定を超えていたかどうかではなく、「結果として事故が起きてしまった事を、どのように受け止め、今後にどう活かしていくべきか」という事です。福島福島第一原発事故

つまり、原発の安全であれ、国の安全保障であれ、日常生活の安全であれ、私達は、「事故はいつか必ず起きる。100パーセント安全という事はありえない」という事を常に念頭に置き、事故が起きないよう、出来るだけ万全の体制を敷いておくと同時に、事故が起きた時のリスクを最小限に抑える準備を常に整えておかなければならないという事です。

「想定外」という東電の発言は、「想定内だったら事故は起きなかった」と言う意味でしょうが、これは全く逆で、「想定内であっても事故は必ず起きる」という認識にたって万全の体制を整えておく事が、「100パーセント安全という事はありえない」社会に生きる私達の用心であり、責任ある立場にいる者が、常に心得ておかなければならない事ではないでしょうか?

東日本大震災で1200人を超す死者と行方不明者を出した岩手県釜石市では、3000人近い小中学生のほとんどが高台に避難して無事でしたが、それは、古くから津波に苦しめられてきた三陸地方の言い伝えである「津波てんでんこ」(「自分の責任で早く高台に逃げろ」という意味)の教訓が生きていたからです。

釜石市北部の大槌湾を望む釜石東中学校(生徒数222人)は、同湾に流れ出る鵜住居(うのすまい)川から数十メートルしか離れていないため、津波が来たらひとたまりもありませんが、古くから津波に苦しめられてきたこの地方では、「津波てんでんこ」の言い伝えを守り、万が一の時を想定して、日頃から防災訓練を実施してきました。

地震が発生した時は、ちょうど各教室で下校前のホームルームが行われていましたが、揺れが一段落した後、担任教師が「逃げろ」と叫ぶと、みんな一斉に校庭に飛び出し、教師の指示を待たずに、高台に向かって走りだしました。

途中で、隣接する鵜住居小学校の児童361人も合流し、中学生が小学生の手を引きながら、みんなで高台に向かって走りましたが、いつも防災訓練で集まる高台まで来たものの、誰かが「まだ危ない」と言ったので、さらに高台にある老人施設まで避難しました。

学校から走った距離は、1キロにもなりましたが、教師たちが点呼をとって確認したところ、登校していた両校の児童562人全員が無事でした。両校の校舎が津波にのみこまれて壊滅したのは、そのたった5分後でした。

「津軽てんでんこ」の言い伝えを忘れず、「大地震は必ず起きる」事を念頭において、日頃から実施してきた防災訓練の賜物であり、「100パーセント安全という事はありえない」事を想定して、万全の体制を整えておく事がいかに大切かを物語る貴重な教訓と言っていいでしょう。


安全神話の崩壊?


大事故が起きると、よく「安全神話の崩壊」という言葉が新聞紙上を賑わしますが、この言葉ほど世の中を欺瞞する言葉はないでしょう。

100パーセントの安全が保証されている社会なら、「安全神話」も成り立つでしょうが、我々の社会では、崩壊する安全神話そのものが、最初から存在しないのです。

これが、好むと好まざるとに拘らず、相互の信頼が100パーセント保証されていない社会に生きていかなければならない私達の宿命です。

もし「100パーセント安全です。交通事故も起きません。原発事故も起きません。非武装をしても攻めてきません。世界に誇る平和憲法さえあれば、国民の生命も財産も領土も守られますから安心して下さい」と、耳障りの良い事ばかり言う人がいたら、絶対にその人を信頼してはいけません。

当然の事ながら、事故が起きた時、その人は責任を負えません。失われた命を、どうして取りかえすのでしょうか?汚染された故郷を、どうして回復するのでしょうか?奪われた領土をどうして取り戻すのでしょうか?

そこに待っているのは、私達が願う世界平和、戦争放棄、無事故、無違反とは真逆の世界です。

だからこそ、事故が必ず起きる事を念頭においた上で、事故が起きる前に、出来るだけ起きないよう様々な手立てを講じておくと共に、起きた時のリスクを最小限に抑える万全の体制を整えておかなければならないのです。

私達に出来るのは、それだけです。

しかも、それは平和な内、事故が起きる前にしておかなければ意味がありません。事故が起きてしまってからでは、手遅れなのです。

そして、そのリスクを最小限に抑え、取り返しのつかない結果が起きる前に、万全の体制をとっておく責任は、組織が大きくなればなるほど大きくなります。

原発事故を起した東電の責任の大きさは言うまでもありませんが、それがもっと大きな国レベルになれば、1億2千万人の生命と財産を守る責任を負わされる訳ですから、その責任の重さは計り知れません。

個人レベルであれば、鷹巣さんのようにいくら理想論を語っても一向に構わないと思いますが、国家レベルとなれば、いくら理想だけを追い求めても、それは絵に描いた餅にしかなりません。

一国の指導者ともなれば、完全とは行かないまでも、可能な限りリスクを最小限に抑え、国民の生命と財産が守れるだけの万全の体制を整えておく大きな責任(義務)を負っているのです。

わが国は、その責任を果たし、国の命運と国民の生命財産を守ってくれると信じられる人物を、選挙というフィルターを通して選ぶ権利が保障されている民主主義国家ですが、もし非常時に備えて万全の体制を整えておく責任を放棄し、ただ耳障りの良い理想論だけを振りかざす指導者がいるとすれば、私達は絶対にその人物を国民の代表に選んではいけませんし、その人が掲げる理想論も信用してはいけません。

この運動を発案した鷹巣さんは 「非武装中立」を主張されているようですが、残念ながら、現実を見る目を持たず、ただ耳障りの良い事ばかりを言うお方を信用する事は出来ません。

何故なら、理想は、現実を見据えて初めて実現出来るものだからです。「戦争反対、戦争放棄、非武装中立」を叫んでいるだけでは、その理想さえ実現出来ないのです。

その事はすでに歴史が証明していますが、それは過去の歴史のみならず、近隣国で、今も現在進行形で推し進められている現実でもあります。

度重なる忠告を無視して潜入した二人の日本人を人質にとり、多額の身代金を要求している「ISIL(所謂イスラム国)」なるテロ組織も同様で、何の罪もない無辜の子供や女性をはじめ、数多くの一般市民を無差別に虐殺している彼らに、幾ら非武装中立を叫んでも、犠牲者が更に増えるだけで、何の解決にもならない事は明らかでしょう。


理想を持たず現実だけを語る者は無知である


我々の社会が、お互いを100パーセント信頼出来ない社会であるという事は、言い換えれば、お互いを疑わねばならないという事です。

言い方を換えれば、現実だけを見ていると、誰も信頼できない世の中になる恐れがあるという事です。

ご承知のように、一党独裁体制が敷かれている近隣の共産主義国家では、秘密警察が絶えず監視の目を光らせ、政権に不満を抱いたり批判したりする人々を逮捕し、徹底的に排除する恐怖政治が堂々とまかり通っています。

密告者も大勢いますから、国民は、自分以外の人間が信じられず、毎日相手の顔色を伺いながら、戦々恐々と暮らしています。

近隣国から送られてくる映像を見ると、みな国家主席の前で感動の涙を流し、満面の笑みを浮かべ、さも幸せそうにしていますが、そうしないと生きてゆけないからです。

これが、100パーセント信頼出来ない社会に生きる人間が行き着く最も不幸な姿ですが、民主主義社会に生きる私達といえども、現実だけを見ていると、そうなる恐れがないとは言い切れません。

ですから、そうならないように、どうすればお互いが信頼し合える世の中にしてゆけるかを、みんなで知恵を出し合っていかなければならないのです。

これが、「理想を持たずに現実だけを語る者は無知である」という意味ですが、先ほどお話した交通事故の例で言えば、「どうすれば、ガードレールを設置しなくても安心して歩ける世の中に出来るか、どうすれば暴走を繰り返す人の心を改めさせ、事故を未然に防ぐ事が出来るかを、みんなで知恵を出し合っていきましょう」という事です。

ガードレールなど必要のない安全な社会の実現こそが最終目標であり、そのような社会の実現を目指す心を忘れてはなりません。

しかし、その一方で、ガードレールの設置も忘れてはならないのです。

いつ実現出来るか分からない理想の為に、交通事故で大勢の人を犠牲にする訳にはいかないからです。これが現実です。

勿論、交通安全のタスキやスローガンも、平和を目指す運動も大切であり、無意味とは言いません。

しかし、交通安全のタスキもスローガンも、ガードレールの設置など、万が一の事故を想定した様々な防御策と相まって、初めてその効果を十二分に発揮できるのであって、タスキやスローガンだけで実現できるほど、世の中も人の心も単純ではありません。

もしこの運動が、ガードレールの設置も認めない、人の命を軽視する、掛け声だけの絵に描いたタスキやスローガンだけに過ぎなかったり、国民の生命と財産を危うくする無防備の一国平和主義を推し進める運動なら、とても賛成する事はできません。

私達は、相互に信頼し合える世界の実現に向けて努力する事を、憲法前文に誓い、世界平和の実現の為、憲法9条を設けましたが、いま日本を取り巻く状況は、前文に掲げた信頼し合える世界とは真逆の方向に進んでおり、悪化の一途を辿っていると言わねばなりません。

先ほど、「私達が生きている社会は、相互の信頼がなければ成り立たない社会であると同時に、その信頼が100パーセント保証されていない社会でもあります」と言いましたが、まさに私達は、いまその現実を目の当たりにしているのです。

私が、「この運動が『諸国民の公正と信義に信頼して』という憲法前文の理念を含めた上での申請なら意義深いが、ただ戦争放棄を宣言した憲法9条だけを申請する運動なら疑念を抱かざるを得ない」と言ったのは、このような状況があるからです。

もし現実を無視して、一方的に非武装中立を宣言し、平和という理想を追い求めるだけの一国平和主義運動なら、「戦争放棄、世界平和の実現」とは真逆の結果を招き、大勢の国民を危険に陥れる恐れがあると言わざるを得ません。

そればかりか、憲法違反の疑いがある運動と言わざるを得ないでしょう。


憲法9条の活用方法への疑問


この運動の主催者がノーベル委員会に提出した申請文には、次のように書かれています。

「日本国憲法は前文からはじまり、特に第9条により徹底した戦争の放棄を定めた国際平和主義の憲法です。特に第9条は、戦後、日本国が戦争をできないように日本国政府に歯止めをかける大切な働きをしています。そして、この日本国憲法第9条の存在は、日本のみならず、世界平和実現の希望です。しかし、今、この日本国憲法が改憲の危機にさらされています。
 世界各国に平和憲法を広めるために、どうか、この尊い平和主義の日本国憲法、特に第9条を今まで保持している日本国民にノーベル平和賞を授与してください。」

この申請文を読めば、この運動の目的が、改憲を阻止し、憲法9条を、日本に戦争できないようにするための足かせとして活用しようとしている事が分ります。

勿論、改憲がすべて正しいとは思いませんし、日本に足かせをはめることによって、戦争が未然に防げる場合もあるかも知れません。

しかし、いま問題なのは、「近隣国から軍事的挑発や、様々な中傷と圧力を受けている状況で、日本だけに足かせをはめる事が、果たして日本の安全と国民の生命を守り、世界平和を実現する最良の道であり、憲法9条の正しい活用方法なのか?」ということです。

よく「歴史に学ばなければならない」と言われます。

ご承知のように、これは、日本を挑発している近隣国が日本に言い続けている言葉でもありますが、私達は、その近隣国が、120万人のチベット人を虐殺し、いまなおチベットやウイグル(東トルキスタン)で多くの人々を弾圧し、強引に民族浄化政策を推し進めている有様を、つぶさに見ています。

中国に侵略されたチベット出身のペマ・ギャルポさんは、衆議院憲法調査会の公聴会で、次のように証言されています。

憲法9条の一方的な戦争放棄に対して何らかの国際社会においての保証もなければ、それを尊重するような環境もないのが現実です。
 私が生まれた祖国チベットは、7世紀以来仏教を信仰し、生命の尊重を願って他に危害を加えない平和を一方的に信じてきたが、残念ながら、1950年代にはその平和な生活は、中国によって一方的に侵略され、固有の価値観を否定され、約600万人の5分の1の人たちが、尊い命が奪われた。
 国連の機関である国際司法裁判所は、これを大量虐殺(ジェノサイド)と判定し、国連総会において3回にわたって非難決議がされたが、結局、チベットは侵略されたまま、何の救済にもならなかった。

敬虔な仏教国チベットでは、指導者である僧侶達が殺生を禁じ 「仏を拝んでいれば平和は保たれる」と主張し抵抗を禁じたが、その結果チベットは地獄になってしまった。中共軍が本格的に進入してきた時、チベット軍はすでに解体させられていた。
 「インドに頼もう」とか「国連に訴えよう」とチベットは行動をおこしたが、インドは動かなかった。
 そして95%の僧院が破壊され、120万人のチベット人が虐殺された。
 日本人に言いたい事は、自分でいくら平和宣言をしても他国を縛る事はできない。泥棒を中に入れてから鍵をかけても遅いという事だ。中国 ジェノサイド

日本に対し、「歴史に学ばなければならない」と言い続けている近隣国は、この証言に対し何と答えるのでしょうか?

また、非武装中立を掲げてこの運動を始められた鷹巣さんや、実行委員会の方々は、この現実を目の当たりにして、どの様な方法で、国の安全と国民の生命財産を守ろうとしておられるのでしょうか?

尋ねたい疑問が次々と噴出してきますが、残念ながら、鷹巣さんからも、実行委員会からも、これらの疑問に対する方策が一切示されていません。


日本がとるべき道


このような過去の歴史や、近隣国で起きている惨状を直視すれば、私達が取るべき行動は、自ずと明らかなのではないでしょうか。

この運動に賛同する皆さんは、真剣に憲法9条を守りたいと願っておられる筈ですが、もしそうであるなら、9条の理念を世界各国と共有し、近隣国からの軍事的挑発や、この地域の平和と安定を阻害する様々な動きを封じ込めなければ、憲法9条を守る事は出来ません。

集団的自衛権行使容認の閣議決定も、憲法改正も、その背景にある、近隣国の軍事力増強や、軍事力を背景とした挑発と圧力、更にはペマ・ギャルポ氏が証言しておられる悲惨な状況と、無関係ではありません。

集団的自衛権行使容認や憲法改正を阻止したいという気持ちは分らないではありませんが、それを望むなら、日本を取り巻く周辺の状況を変えるしかありません。

集団的自衛権行使容認も、憲法改正への動きも、そのような状況から生まれた結果である以上、その原因を取り除かなければ、いくら結果だけを批判しても何も変わりません。と言うより、変わりようがないのです。

憲法前文に、「諸国民への公正と信義に信頼して」と謳われているように、憲法9条の理念を守る為には、「自らが戦争をしない」事を誓うだけではなく、同時に「他国からも攻められない」事が担保され、相互の信頼関係の構築が必要である事は、言うまでもないでしょう。

しかし、それと同時に、平和を願う世界の友好国と9条の理念を共有しながら、東シナ海や南シナ海で軍事的挑発を繰り返す近隣国の覇権主義的野望を封じ込め、不測の事態に発展しないよう万全の体制を整えておく事も忘れてはならないのです。

もし鷹巣さんや実行委員会の方々が、前文を無視して9条だけを取り上げ、わが国が一方的に戦争放棄、非武装中立政策をとれば、「他国から攻められる事」もなくなると、本気で信じておられるのであれば、そう信じる根拠を国民の前に明らかにする必要があります。

日本が戦争をしないよう、手かせ足かせをはめるのは結構ですが、同時に、近隣国の軍事的挑発や中傷を封じ込める意思表示と行動が伴わなければ、その国と歩調を合わせる一部政治家やマスコミの支持は得られても、大多数の国民の支持は得られないでしょう。


2015年1月24日


「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(1)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(2)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(3)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(4)
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