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「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(1)



残念な実行委員会の姿勢


集団的自衛権行使容認をめぐって、一部の政治家やマスコミが、戦争がいまにも起こるかの如く声高に叫んでいたのは、昨年七月でした。

「日本が平和だったのは、憲法9条があったからだ。憲法改正は何としても阻止しなければいけない」というのも、同じ人々の口からよく聞かれる言葉ですが、神奈川県座間市在住の鷹巣直美さん(写真)というお方が発案されたと言う『憲法9条にノーベル賞を』運動も、その延長線上にあると言っていいでしょう。

戦争放棄を謳った憲法9条にノーベル賞を受賞して、世界平和の実現を目指そうという趣旨の運動であれば、万人の賛同が得られてもおかしくありませんが、この運動には賛否両論があります。

何故、平和を目指している筈の運動に、多くの反対意見が出ているのかと言えば、憲法改正をめぐって意見が対立している中、改憲派も含めた「日本国民」を受賞者にしている点、その実態が左翼思想を背景にした、平和運動に名を借りた憲法改正阻止を目的とするただの倒閣運動に過ぎないと指摘されている点、更には運動の主催者側に、国民の疑問や不安に真摯に答える姿勢が見られない点など、運動に対する様々な疑念や問題点が浮き彫りになっているからです。

思うに、戦争放棄を宣言した憲法9条の理念は、普遍的なものであり、そこに疑いを差し挟む余地はありません。

戦争のない世界平和の実現は人類の果て無き夢であり、憲法9条に謳われている戦争放棄は、平和実現を目指す上で全世界が共有すべき理念と言っていいでしょう。

その意味で、戦争放棄と世界平和を目指そうという鷹巣さんの想いには大賛成であり、異を唱えるつもりは全くありません。

しかし、その事と、国の安全保障と密接につながる憲法9条をノーベル賞に申請する事の是非とは、また別問題であり、近隣の周辺国とわが国との微妙な関係なども考慮しながら、慎重の上にも慎重に取り組む必要があるのではないかと思います。

それともう一つ、この運動に対する様々な疑問点が指摘されている現状を踏まえれば、運動の発案者である鷹巣さんや実行委員会の方々には、先ず多くの皆さんから指摘されている様々な疑念や不安に対し、真摯に向き合う姿勢が求められているのではないかと思います。

そのような姿勢が全く見られない現状では、多くの人々が、この運動に対し、様々な疑念や不安を抱くのは無理もありません。

例えば、『憲法9条にノーベル賞を』実行委員会が、Facebook上に設けておられるコミュニティには、賛成派、反対派の双方から、様々な意見が寄せられ、一見すると、活発な議論が展開されているように見えます。

しかし、今のところ、鷹巣さんにも、実行委員会の方々にも、反対派の人々から寄せられる疑念や問題点と真摯に向き合う姿勢も、より多くの人々に理解を深めてもらおうという努力も全くないように思われます。

それは、ある時期から、不都合な議論を封じる為としか思えない「一人一コメント」というルールを設けられた事を見ても明らかで、都合の悪い反対意見を削除しながら、一方的に自己の主張を繰り返しておられる現状では、運動に対する理解を深める事も、賛同の輪を広げる事も難しいのではないでしょうか?


憲法9条と憲法前文の関係


日本国憲法は、戦後、GHQの強い影響下で作られた憲法である事は周知の事実で、憲法9条の戦争放棄も、太平洋戦争への反省を踏まえて加えられた条文ですが、憲法9条の是非を論ずるに当り忘れてはならない事が一つあります。

それは、「憲法9条が謳っている戦争放棄を実現する為に、我々は全世界に何を誓ったのか」という事です。

「我々が戦争放棄を宣言したのは何のためか」という事が、憲法前文に書かれています。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、 われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

この前文の崇高な理念を実現する為に作られたのが、戦争放棄を宣言した憲法9条ですが、前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と謳われているように、私達が戦争放棄を宣言したのは、すべての国の人々の平和を愛し、公正と信義を重んじる心を信頼しようと決意したからです。

つまり、各国が「相互の公正と信義」を重んじなければ、戦争放棄も世界平和も決して実現しない事を世界中に訴え、自ら率先してその実現の為に努力する事を、憲法前文に宣言したのです。

その後に続く「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」と謳われているのも、同じ理念に基づくもので、いかなる国家も、他国の領土を奪ったり、軍事力を背景に威嚇したり、挑発したりしないと信じ、その信頼関係を、全ての国の人々と共有しようという意思を、全世界に表明したのです。

そう信頼しようと決意したからこそ、前文の最後で「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成すること」を誓ったのです。


憲法9条を砂上の楼閣にしてはならない


この相互の信頼関係は、他国が我々に求める理念であると同時に、我々が世界各国に求めることの出来る理念でもありますが、前文を読めば、戦争放棄を宣言した憲法9条は、「平和を愛する諸国民の公正と信義」への我々の信頼が確保され、「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という理念が、いずれの国からも担保されていることを前提として、初めて実現可能な条文である事が分ります。

つまり、我々が全世界に宣言した戦争放棄という憲法9条の崇高な理念を実現出来るか否かは、各国との信頼関係が確保されているか否かにかかっているのです。

言うまでもありませんが、各国への信頼を無視して、憲法9条の戦争放棄だけを金科玉条の如く捉え、一国平和主義を唱えるのは、まったく無意味であるばかりか、我々が憲法前文に掲げた崇高な理念を否定することになります。

何故なら、平和を愛する人々や平和を愛する国々への公正と信義を信頼して作られた憲法9条は、実現不可能な、ただの絵に描いた餅に過ぎなくなってしまうからです。

要するに、憲法9条の戦争放棄と、前文の「平和を愛する人々や平和を愛する国々の公正と信義への信頼」は一体であり、これを切り離すことは出来ません。

憲法9条を家にたとえれば、前文に掲げられた理念は、家を支える基礎です。

憲法9条を、「平和を愛する人々や平和を愛する国々の公正と信義への信頼が保証されている限り」という前提条件の下に作られた条文である事を無視し、無条件に戦争放棄と武力放棄を宣言したものと曲解すれば、その上に建っている憲法9条は、基礎を持たない砂上の楼閣になってしまいます。

憲法9条に掲げる戦争放棄の理念が重要である事は言うまでもありませんが、それ以上に重要なのは、その前提(基礎)である「平和を愛する人々や平和を愛する国々の公正と信義への信頼」が確保されているか否かであり、憲法9条改正の是非は、その事を度外視して論じる時は出来ません。

その信頼への保証を無視して、憲法9条改正の是非だけを議論するのは、木を見て森を見ない過ちを犯す結果となるでしょう。


灯台下暗しー形を変えた改憲運動


もしこの『憲法9条にノーベル賞を』運動が、「平和を愛する人々や平和を愛する国々の公正と信義への信頼の下に、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という憲法前文の崇高な理念を前提とした上で、ノーベル賞を申請しようとする運動なら、今わが国が、近隣国からの軍事的挑発や、様々な中傷によって不安定な状況に置かれている時だけに、大変有意義な運動だと思います。

憲法9条の戦争放棄は、平和を愛する人々や平和を愛する国々の公正と信義への信頼なくしては実現しえない事を世界中に訴え、この崇高な理念を、世界中の国々や平和を愛する人々と共有し、一致協力して、近隣国の挑発や中傷を封じ込める又とない機会となるかも知れないからです。

しかし、前文の理念を無視し、ただ戦争放棄を宣言した憲法9条だけを申請し、一方的に無防備を宣言する一国平和主義を目指そうとする運動なら、疑問と不安を抱かざるを得ません。

先ほど「この運動には大きな疑問と不安がある」と言ったのはその為で、私の眼には、この運動が、憲法前文に謳われている各国相互の信頼関係の確保という、憲法9条の理念を守る上で絶対に欠かす事のできない基礎を無視し、ただ憲法9条という家を砂上の楼閣にしようとする運動にしか見えません。

それだけではありません。

私がこの運動に大きな違和感を覚えるのは、前文と憲法9条を切り離し、憲法9条だけを金科玉条の如くとり上げるのは、憲法起草者の意に反する形を変えた改憲行為、否、違憲行為に他ならないと思うからです。

もし前文に「平和を愛する人々や平和を愛する国々の公正と信義への信頼如何にかかわらず、われらの安全と生存を保持しようと決意した」」と謳われているのであれば、信頼関係が確保されているか否かを考慮する必要はなく、戦争放棄を宣言した憲法9条だけを採り上げても構わないでしょうが、前文には、「平和を愛する人々や平和を愛する国々の公正と信義への信頼の下に、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と、ハッキリ謳われているのです。

要するに、前文を無視して、憲法9条を金科玉条の如くとり上げるのは、明らかに憲法に違反する解釈と言わざるを得ないのです。

鷹巣さんは、改憲を阻止する目的でこの運動を始められたようですが、実は自らが、この運動を通じて、憲法違反を犯しておられるのです。

この事に気付いておられるのか否か分かりませんが、「灯台下暗し」とはまさにこの事で、もし自己の政治信条を貫くために、憲法9条を利用しておられるのだとすれば、平和を願う市井の人間の一人として、これほど残念な事はありません。


羊の皮を被った狼となるのか?


誰の目にも明らかなように、いま日本は、憲法前文に謳った「平和を愛する人々や平和を愛する国々の公正と信義への信頼」が確保されているとはとても言えない状況に置かれています。

わが国は、近隣国から、様々な軍事的挑発や、政治的プロパガンダによる中傷や圧力を受け、憲法9条の基礎である前文の「平和を愛する人々や平和を愛する国々の公正と信義への信頼」が崩壊の危機に瀕する状況の中にあります。

そのような状況を踏まえれば、憲法9条を守る為の活用方法も、自ずと見えてくるのではないでしょうか。

つまり、戦争放棄を謳った憲法9条が、近隣国からの軍事的挑発によって、今まさに崩壊の危機に瀕しようとしている事を世界中に訴え、各国と普遍的理念を共有した上で、一致団結して近隣国からの軍事的挑発を封じ、政治的プロパガンダを止めさせる為にこそ活用すべきであり、それこそが憲法9条の平和的利用ではないかと思うのです。

南シナ海や東シナ海で繰り広げられている近隣国の軍事的挑発を封じ、平和を愛する国々の人々と憲法9条の理念を共有する発信の場として、ノーベル賞という舞台が活かされるのであれば、時宜に適った運動という意味で非常に意義深く、より多くの賛同者を得られるのではないかと思います。

しかし、もしこの運動が、ただ日本に足かせをはめる目的で、憲法9条の戦争放棄だけを申請しようとする運動なら、これほど無責任で、日本を危機的状況に陥れる運動は他にないでしょう。

「現実を無視し理想だけを説く者は無責任であり、理想を持たず現実だけを語る者は無知である」と言わざるを得ませんが、残念ながら、この運動は、憲法9条の活用方法を一歩間違えれば、「羊の皮を被った狼」となる危険性を孕んでいるのです。

この運動に賛成する人の中には、憲法9条を「天の恵みだ」と言われるお方もいますが、憲法9条は、今のままでは「天恵」とはなり得ません。

「天恵」となる可能性を秘めている事は否定しませんが、憲法9条が人類にとって「天恵」となり得るのは、我々が「天恵」となるような真の活用方法を見出した時だけであり、その為には、相互の信頼関係を謳った前文と言う基礎の上に立つ事が欠かせません。

憲法9条を、国の存立を危うくする「悪魔の贈り物」にしようと思えば、それも可能です。

つまり、「天恵」にするも、「悪魔の贈り物」にするも、ひとえに憲法9条を活用する私達の手にかかっているのです。

だからこそ、みんなで知恵を出し合って、「天恵」となるような活用方法を見出していかなければなりませんが、問題は「憲法9条のみをノーベル平和賞に申請する事が、果たして天恵となるような正しい活用方法なのか?」という事です。

残念ながら、鷹巣さんが目指す戦争の無い平和な世界の実現という趣旨には賛同出来ても、それを実現する方法論として、憲法9条のみを申請する事には大きな疑問を抱かざるを得ないのです。


2015年1月18日


「憲法9条にノーベル賞」を運動に思う(1)
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