桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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先祖供養は生き供養(4)



形のお葬式と心のお葬式


先祖供養は生き供養(2)』の中で、「生前のお葬式のすすめ」と題して、生前にお葬式を済ませておく事の意義についてお話しました。


お葬式とは、剃髪をし、戒律を授け、仏弟子となって、み仏の下で修行して頂く為の得度式ですから、お葬式は、本来亡くなってからするものではなく、生きている内にこそ済ませておくべきものなのです。

皆さんは、「お葬式は生前に済ませておくべきものだ」と聞かれると、さぞ驚かれるでしょうが、現に「生きている内にお葬式を済ませました」と言われるお方も大勢おられます。

実は私もその一人で、生前にお葬式を済ませています。私は、出家するに当り剃髪得度し、み仏の弟子となりましたが、この得度式が、私のお葬式であり、生前にみ仏から受けた引導です。

私は、出家得度によって一度死に、生前使っていた名前(俗名)を捨てました。そして、生まれ変わった証として、新たに「良空」という僧名を頂きましたが、この「良空」という名前が、私の戒名なのです。

つまり、私たち僧侶は、生前にお葬式(引導)を済ませていますから、もう死んでからお葬式をする必要がないのです。


念のために言えば、ここに言う「生前にお葬式を済ませておく」という意味は、ただ出家得度して僧侶になるという意味ではありません。

勿論、出家する事も、生前のお葬式には違いありませんが、在家のままで、形だけの得度(在家得度)を済ませておく事も可能で、そのような制度を設けている宗派もありますし、希望者に在家得度をしてくれる寺院もあります。

しかし、これらはあくまで得度という形を通しての生前のお葬式ですから、「そこまでしなくてもいい」と思われるお方もいるでしょう。

そんなお方は、形としての生前得度ではなく、心の生前得度(心のお葬式)をなさっておかれてはいかがでしょうか?

この心のお葬式は、出家得度や在家得度という形で生前のお葬式を済ませる場合にも重要で、得度する真の目的は、心のお葬式を済ませる為にこそあると言っても過言ではありません。

しかし、残念ながら、形のお葬式である出家得度や在家得度は簡単に出来ても、心のお葬式を済ませるのは、そう簡単ではありません。

心と言う最も手強い相手のお葬式をする訳ですから、厳しさを覚悟しなければなりませんが、手強い相手だからこそ、心のお葬式を済ませられた暁には、きっと最強の人間として生まれ変わっておられるに違いありません。


維摩居士の病気見舞い


そもそも、心のお葬式とは何でしょうか?

肉体のお葬式は、文字通り、死んでから行う儀式ですが、生前にその死(死への恐怖)を乗り越える為に行っておくのが、心のお葬式と言っていいでしょう。

『維摩経(ゆいまきょう)』という経典があります。

これは、在家の身でありながらお釈迦様の弟子たちも太刀打ちできないほどの智慧を持つ在家の信者・維摩居士を主人公にした大乗仏教経典で、展開していく話の内容がとても面白いため、よく読まれている代表的な経典の一つです。

内容について簡単にお話しますと、或る日、維摩居士が病気になります。病気と言っても肉体の病気ではなく、已むに已まれぬ大慈悲心によって起こる疾いなのですが、お釈迦様は、それを承知で、弟子たちに「誰か、維摩居士の病気見舞いに行ってくれませんか?」と尋ねます。

しかし、見舞いに行こうと申し出る弟子は一人もいません。

と言うのも、弟子たちはみな、以前、維摩居士から、修行の在り方や説法の内容について忠告されたり、注意されたりして、やり込められた経験があるため、見舞いに行けば、またやり込められるのではないかと思い、戦々恐々としているのです。

例えば、釈迦十大弟子の中で「智慧第一」と言われる舎利弗(しゃりほつ)尊者は、悟りを開くには心を鎮めて瞑想するのが最も優れた修行だと信じていたので、ある日、静かに坐禅をしていました。

すると、維摩居士が通りかかり、「舎利弗さん、何をしているのですか? 本当の坐禅は、ただ一人座って瞑想する事ではありませんよ。日常生活の中に、本当の坐禅があるのですよ」と諭された事があったので、素直に「病気見舞いに行きます」とは言えないのです。

法舟菩薩様の『道歌集』の中に、
  へだてなく ひとりびとりが仏行を
    人に示すを 坐禅というなり
 という一首がありますが、維摩居士もまた、真の坐禅とは何かを、舎利弗に問うたのです。

「論議第一」と言われる迦栴廷(かせんねん)も、その他の弟子たちも、舎利弗と同じように、維摩居士にやり込められた経験があるので、「そのようなお方のお見舞いはとても荷が重すぎます」と言って、みんな病気見舞いに行こうとはしません。

結局、誰も申し出る者がいないので、お釈迦様は文殊菩薩を名代として見舞いに行かせるのですが、文殊菩薩が訪ねると、維摩居士は、がらんとした部屋にベッドをおいて休んでいました。

文殊菩薩の姿を見た維摩居士は、「文殊菩薩よ、よく来てくれました。去るものにも来るものにも執着することなく、また見るものに拘ることなく、在るがままを観ずる不動の境地におられる文殊菩薩に来て戴いて、有り難く思います」と言って、御礼を述べると、文殊菩薩も、「丁重にお見舞いするようにというお釈迦様の心遣いを伝えるため、私が代表してお見舞いにまいりました」と答えます。

文殊菩薩が、「居士の病の原因は何ですか?」と尋ねると、維摩居士は、「愚痴により道に迷い、愛着のために病は生じます。世間の人々が執著のために道に迷い、病んでいるために私も病むのです。人々の病が消滅すれば、私の病も消滅します。菩薩道を歩む者は、人々をこの愚痴から救い出すために生死の輪廻の世界へ生まれてきました。生や死にこだわれば病になります。人々が生死の病から離れることができれば、菩薩もまた病を離れられます。子供が病気になれば、両親も病むようなものです。その病気の原因は何かと言われれば、菩薩道を歩む者の病とは、大悲のもたらすものです」と答えます。

要するに、維摩居士はここで、「病気の原因は二つある。一つは、煩悩から来る分別と執着(愛着)、もう一つは、衆生を救いたいという大慈悲心である」と言っているのです。
  凡夫の病は 煩悩より生じ
    菩薩の疾いは 大悲より起こる


舎利弗尊者と花びら


この後、凡夫の病の原因である煩悩(分別と執着)について、舎利弗尊者が天女に諭される場面が出てきますが、天女は、六道(迷いの世界)の中にある天上界に住む天人ですから、お釈迦様の弟子の中で最高位である阿羅漢(あらかん)となった舎利弗よりも低い下の位にいます。

ですから、本来なら上の位にいる舎利弗が天女から諭される筈はないのですが、この天女の正体は、人々を救う為に姿を変えた菩薩であるため、阿羅漢に過ぎない舎利弗は、天女の前にたじたじとなってしまうのです。

いつでも維摩居士の教えが聞けるようにと、以前から維摩居士の家に住み着いていた天女は、文殊菩薩と維摩居士の問答を聞いて大変感動し、天空から蓮の花びらを撒くのですが、この時、不思議な事が起こったのです。

花びらは、文殊菩薩や維摩居士の体には一枚も付着せず、そのまま地面に落ちていったのに、お釈迦様の弟子たちには、何故か付着して離れなかったのです。

文殊菩薩や維摩居士に付着しなかった花びらが、自分たちの体に付着し、どんどん増えていくので、舎利弗たちは花びらを振り落とそうと焦り始めます。

その光景を見ていた天女が笑いながら尋ねます。

天女ー舎利弗尊者、いかがなさいましたか?

舎利弗ーいや、この花びらがくっついて離れないのです。

天女ーなぜ、花びらを振り落とそうとなさるのですか?

舎利弗ー出家者に花びらは相応しくありません。出家者は身を飾ってはいけないのです。

天女ー舎利弗尊者、それはおかしいですね。

舎利弗ーなぜですか。出家者は身を飾らぬのが戒律です。

天女ー舎利弗尊者、この花びらは花びらに見えますが、真理そのものなのです。飾りではありません。

舎利弗ーこの花びらが真理そのもの?

天女ーそうです。この花びらは真理そのものです。花びらは、あなたにくっつこうなどとは考えていません。ただあるようにあるだけなのです。

舎利弗尊者、あなたの方が「この花びらは出家者に相応しいか相応しくないか」などと分別をしているだけなのです。

あなたたちが、勝手に良し悪しを判断しているから、花びらがくっつくのです。

舎利弗尊者、ただ在るがままに在るだけの世界を勝手に判断し、勝手に分類し区別することを、分別といいます。

分別は妄想です。したがって、分別は真理から外れた行為です。

そんな分別は捨てるべきです。見てごらんなさい。分別を捨て去った菩薩には花びらはつきませんよ。

花びらだけではありません。恐怖は、ありもしない不安を抱えている人につくものであり、苦しみを恐れる人ほど快楽におぼれます。

分別から離れれば、美しいも醜いもなく、恐怖も安心もなく、苦も快楽もなく、おいしいもまずいもありません。すべては平等です。

すべてを受け入れられれば、何の禍も恐怖もありません。

この花びらは、物事をあるがままに見られず、分別し、執着する人にくっつき離れないのです。分別を去り、在るがままに物事を見ることができる人にはくっつかないのです。


無常悟れば涅槃に帰る


こう言って天女は、あれこれと分別している舎利弗を諭し、分別や執着から離れる事の大切さを説いたのです。

分別するという事は、「あれかこれか、善か悪か、右か左か、幸か不幸か、苦か楽か、地獄か極楽か、好都合か不都合か」と言うように、自分の立場から物事を推し量り、二者択一を判断する事です。

しかし、悟りの世界には、一切の分別がありません。在るがままの世界ですから、あれが良い、これが悪いというような分け隔てがないのです。

そこにあるのは、苦もなければ楽もなく、生もなければ死もない世界です。分別を離れれば、執着もなくなり、在るがままの涅槃(ねはん)の世界が現れてきます。生きている世界が、そのまま極楽になるのです。

法舟菩薩様の御法歌に、
  生死(しょうじ)なく 欲も苦もなく我もなく
    無常悟れば 涅槃に帰る
 という法歌がありますが、一切の分別を捨て、執着を離れれば、涅槃(極楽)の世界に帰る事が出来るのです。

一切が移り変わる無常の真理の中にあって、幾ら何かを握っていようと執着していても、移り変わりゆくものを留める事は出来ません。結局全てを在るがまま受け入れざるを得ないのです。

例えば、死を目前にして幾ら財産や地位や名誉にしがみついていても、そんなものは何の役にも立ちません。

そこで役立つものは、一つしかありません。要するに、目前の死を、在るがまま受け入れられる心です。

そして、死を在るがまま受け入れる為には、「生は好いが死は好くない」という分別を離れ、生に対する執着を捨てなければなりません。

法舟菩薩様が、
  生も好し 死もまた好きかな桜花
    散れば咲きにと また帰り来る
 と詠っておられるのはその為ですが、この境地が開けたとき、あなたは、紛れもなく、生きている内に心のお葬式を済ませたお方の一人になっているに違いありません。

何故なら、あなたはすでに一切の分別を捨て、執着を離れて、超え難き生死の壁を乗り越えておられるからです。

つまり、心のお葬式を済ませるとは、生死の壁を乗り越えられるまでの心に到達する事であり、「生も好し死もまた好きかな」と言える悟りの境地を開く事に他なりません。

その境地に到達し、心のお葬式を済ませた暁には、あなたの心を煩わせるものは、もはや何一つないでしょう。


平成26年10月3日


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