桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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先祖供養は生き供養(1)



墓友に絆を見出す人々


平成23年(2011年)11月29日の読売新聞に次のような記事が載っていました。

元気なうちに人生の終え方を考える「終活」が広がるなか、墓や葬儀について備える人たちの間で、新たなつながりが生まれている。同じ墓に入る「墓友」と呼ばれる仲間などの交流も広がっている。

「お墓が決まって安心したらだめよ。元気でいるために足腰を丈夫にしておかないと」。今月中旬、東京都渋谷区のビルの一階に女性7人が集まった。埼玉県所沢市の薬剤師、山脇洋子さんの指導で、腕を伸ばしたり、ひざを回したり。月一回、中国の健康法・気功を学ぶサークルで、メンバーの多くが、ゆくゆくは同じ場所で眠る「墓友」だ。

山脇さんらが契約するのは、NPO法人「エンディングセンター」が2005年から東京都町田市の民間霊園内に設ける桜葬(さくらそう)墓地。桜の木が墓石の代わりに植えられ、その下に遺骨を納める形式だ。継承者は不要で、個人で申し込める。

同霊園内に5ヶ所ある桜葬墓地の契約者は、約1500人。単身者や子どものいない夫婦に加え、「息子や娘に世話をかけたくない」と申し込む人も多い。

山脇さんは離婚し、息子2人がいるが「自分のことは自分で決めたい」と契約した。センターを通じて呼びかけ、08年からサークル活動を始めた。この日は終了後、仲間と墓地へ足を延ばした。

桜の木の周辺は芝生で整備され、生前契約者らが持参した花が絶えない。「ここは気持ちよく眠れそうね」という山脇さんの言葉に、一同がうなずく。一人暮らしの女性は「いずれこの地に集まる仲間だと思うと、心が自然とオープンになる。先立った夫がここに眠っている女性も「家族の事情や死にかかわることも気軽に話せて、元気になる」と笑う。

このNPO法人には、俳句やウォーキングのサークルもある。理事長の井上治代さんは「核家族化、少子化で地縁、血縁が薄まる中、墓を軸に新たな縁が結ばれている」と話す。近く大阪府高槻市にも桜葬墓地を開設する予定だ。

同じ場所で葬儀を予約していることが、友人作りのきっかけになることもある。神戸市で一人暮らしの女性は、毎月1回、葬儀の生前予約をしている同市の葬祭会館「ゆうあいホール」に出かける。

昨年4月から同ホールが始めた、生前予約をした人らの交流会だ。女性はここで同世代の約10人と知り合い、自宅に招いたり、一緒に旅行を楽しんだり。家族を亡くした悲しみを語り合い、どんな葬儀にしたいかを話すこともある。「この年齢で新たな友人ができてうれしい。誰が先に逝くにしても、その日まで支え合いたい」と話す。


わが国では、これまで家制度を中心に葬送が営まれてきたため、どの家にも必ず先祖代々のお墓があり、家族の遺骨はみなそのお墓に納めて、子々孫々が供養してゆくというのが、昔からの慣わしで、他の選択肢は考えられませんでした。

ところが、最近は、家を継ぐ者がいない、継承者が居ても供養してもらえない、無縁墓になる恐れがある、生涯を独身で過ごす人が増えているなど、様々な理由から、お互いが寄り添って一つのお墓に入るケースが増えてきています。

核家族化、少子化という時代の流れの中で、やむを得ない事情もあるのでしょうが、その背景には、家族の絆の希薄化や先祖に対する敬いの心が薄れてきている現実があるようにも思います。


誰の為の供養なのか


この新聞記事を読んで感じが事が二つあります。

一つは、供養についてです。

記事の女性は、「子どもに後の世話をかけたくない」と、遺骨の継承者が必要ない桜葬墓地に生前契約を申し込まれたのですが、確かに、子供に世話をかけたくないから遺骨の継承者が必要のない墓地を選ばれたお気持ちも分らないではありません。

このケースでは、生前契約を結んだ墓地側が、合同慰霊祭のような形で、責任をもって供養してくれるとの事ですが、考えて頂きたいのは、「誰のため、何のための供養なのか?」という事です。

供養は、生きている者が亡くなった方の為にするものというのが一般的な考え方でしょうが、供養とは、後に残った者が幸せに生きていく為に必要な功徳行であり、そこには「人間としての真心(菩提心)を忘れてはいけませんよ」という死者からのメッセージが込められているのです。

勿論、記事のように、「子どもに世話をかけたくない」という女性の思いも分らないではありませんが、子供に世話をかけるというより、親の供養を忘れない事こそが、後に残された家族が幸せに生きてゆく為に欠かせない、人生の大切な礎となる功徳行である事を忘れてはなりません。

だからこそ、私達の先祖は、お墓という形を借りて、供養の心、真心、菩提心を子々孫々に伝えてきたのです。

「今日彼岸 菩提の種を蒔く日かな」という句があるのも、その為です。

勿論、跡継ぎが居ない等の理由から、先祖のお墓を持てない人が増えているのも事実であり、後継者がいないお方や、生涯独身を通されているお方は、個人でお墓を持つ事は難しいでしょうから、共同のお墓へ入る事も、ケースバイケースで決めてゆればいいでしょう。

しかし、その事と、後に残される子や孫の幸せのために、供養の心を伝えていかなければならない事とは、まったく別問題です。

もし親の供養、先祖供養を「世話だ」と考える子や孫がいるとすれば、まさに本末転倒と言わねばなりません。

個人墓を持つか、共同墓に入るかの如何を問わず、先祖から受け継がれてきた供養の心を伝えてゆく事は、先逝く親としての大きな責務であり、子々孫々に相続してゆかなければならない心の遺産なのです。


亡くなってから後の人生


二つ目は、死についてです。

新聞に紹介された方々は、みな死を終着駅だと考えておられるようですが、確かに世間では、肉体が生命活動を停止した段階で人間は死ぬと考えられています。

しかし、果たして人間は肉体の死によって本当に死んでしまうのでしょうか?肉体の死は、私達の生死を決する上で決定的な意味を持っているのでしょうか?

思うに、死は終わりを意味するものでもなければ、人間の死は、肉体の死で決まるものでもありません。

例えば、私たちが生きている時間は、切れ目がなく連続しています。その切れ目の無い時間を、便宜上、「12月31日の午後11時59分59秒を今年の終わりとし、1月1日の午前0時を新たな年の始まりとする」と決めているだけです。

本来、時間には、どこで途切れ、どこから始まるという概念はありません。

それと同じように、私達の生命も、肉体が無くなった時点で命の時間が途切れる訳ではなく、目に見えない形のない世界へと続いているのです。

肉体の消滅は、眼に見える形のある世界での終わりであると同時に、形なき世界での新たな一歩でもあるのです。

墓友と呼ばれる皆さんがおっしゃっておられる「最後はここで静かに眠れていいねえ」という言葉が物語っているように、死はすべての終わりであり、永遠の眠りであるというのが、世間の常識かも知れませんが、先ほどお話したように、後に残される子や孫に、供養の心を伝えていくという大きなお役目があるとすれば、静かに眠っている暇などない筈です。

もし肉体の死によって全てが終わってしまうなら、今まで生きてきた70年、80年の人生は何だったのでしょうか。

新たな次の人生があり、今まで生きて来た人生が、次の人生に切れ目なくつながっているからこそ、先人はみな、この世でどのように生きればよいかを真剣に考え、悩み、より良き来世へとつながる道を探し求めてきたのです。


衆生済度のお手伝い


ご承知のように、お大師様は、62歳で紀州高野山の奥の院に御入定なさいましたが、御入定に当り、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、わが願いも尽きなん」という御誓願を立てられました。

このお誓いを見れば、お大師様が、62年間の人生だけを見て、生きておられた訳ではない事が分かります。

「われは仏法を根本として無常の道理を納得させ、布施行の実践を教え導く事を誓うものなり」と誓われた菩薩様も同じで、お大師様、菩薩様の視線は、千年先、二千年先、否、虚空が尽き、衆生が尽き、涅槃が尽きるまで、はるか彼方を見つめておられるのです。

お大師様、菩薩様と深い仏縁を結ばせて頂いた私たちもみな、肉体が無くなった後も、肉体がある時と変わらず、衆生済度のお手伝いをさせて頂かなければなりません。

来世のお役目がすでに決まっていますから、肉体が無くなってからも、お墓の下でゆっくり眠っている暇などありません。

信仰する者にとって、死は決して終わりを意味するものでも、終着駅でもなく、衆生済度という使命を果たす上でのほんの一里塚に過ぎないのです。


思い出し生かしてあげること


肉体の消滅が死でも終わりでもないからこそ、後に残された者にとって大切な事は、先立った方を生かし続けてあげる事であり、それが供養の目的の一つと言っても過言ではないでしょう。

ベルギーの詩人で劇作家でもあるメーテルリンクの書いた「青い鳥」(注1)という戯曲があります。主人公のチルチル、ミチルの兄妹が、幸せの青い鳥を見つける旅に出かける戯曲ですが、二人が最初に行ったのが「思い出の国」です。

二人はそこで、亡くなったお祖父さんとお祖母さんに出会うのですが、行くと、死んでいた筈のお祖父さんとお祖母さんが目を覚まします。

お祖父さんとお祖母さんは二人に、「私達は死んだけど、あなた達が私達の事を思い出してくれたら、目が覚めて、生き返るんだよ」と言って、次のような会話が交わされるのです。

おばあさん−どうしてもっと度々会いにきてくれないのかい。私たち、それを楽しみにしているのに。もう随分長いこと、みんな私たちの事忘れているねえ。その間、私たちは誰にも会えないのだよ。

チルチル−ぼくたち、来たくっても来られないんです。

おばあさん−私たちはいつでもここにいて、生きてる人たちがちょっとでも会いにきてくれるのを待ってるんだよ。でも、みんなほんのたまにしか来てくれないからね。お前たちが最後に来たのは、あれはいつだったかね?ああ、あれは万聖節のときだったね。

チルチル−万聖節のとき?ぼくたち、あの日は出かけなかったよ。だって、ひどい風邪で寝てたんだもの。

おばあさん−でも、おまえたち、あの日私たちの事を思い出したろう?

チルチル−ええ。

おばあさん−それごらん。私たちの事を思い出してくれるだけでいいのだよ。そうすれば、いつでも私たちは目が覚めて、お前たちに会うことができるのだよ。

チルチル−なあんだ。それだけでいいのか。

おばあさん−でもお前、それぐらいのこと知っておいでだろう?

チルチル−ううん、ぼく知らなかったよ。

おばあさん−まあ、驚きましたね。あちらではまだ知らないなんて。きっと、みんな何もしらないんですねえ。

おじいさん−私たちの頃と変りはないのさ。生きてる人たちというものは、ほかの世界のこととなると、全くばかげたことをいうからなあ。

チルチル−おじいさんたち、いつでも眠ってるの?

おじいさん−そうだよ。随分よく眠るよ。そして生きてる人たちが思い出してくれて、目が覚めるのを待ってるんだよ。生涯をおえて眠るということはよいことだよ。だが、ときどき目がさめるのもなかなか楽しみなものだがね。

「青い鳥」は、メーテルリンクが書いた戯曲であり、架空の物語に過ぎませんが、メーテルリンクの書いている事は間違っていません。亡くなったお方を供養するとは、いつも思い出し、生かし続けてあげる事だからです。

チルチルとミチルは、幸せの青い鳥を見つけにいく旅の途中で先ず「思い出の国」へ行き、そこでお祖父さんとお祖母さんに出会って、思い出す事が先立った者への供養になるという話を聞かされるのですが、メーテルリンクは、この物語を通じて、何を教えたかったのでしょうか?

私は、先立った人を思い出してあげる事が生かし続けてあげる事であり、それこそが先立ったご先祖と、後に残された子や孫が幸せに生きてゆく上で欠かせない行いである事、そして、供養の心を忘れていては、幸せの青い鳥も決して見つけられない事を教えようとしているのではないかと思います。


ご先祖に対する生き供養とは


菩薩様が残された御法歌「頼め彼岸へ法のふね」の中に、
  先祖供養は 生き供養
    死んだ供養じゃ ありませぬ
    生きた先祖を まつるのだ
 という法歌がありますが、菩薩様が説いておられる「生き供養」とは、ご先祖を生かし、自らもご先祖と共に生かされる(共生する)事を意味します。

菩薩様は、常々「先祖を供養するのではなく、先祖に供養するのであり、『を』を『に』に変えなければいけない」とおっしゃっておられましたが、「ご先祖に供養する」という事は、生きている者が、菩提心(真心)を養い、その菩提心を亡くなったお方にお供えするという事です。

言い換えれば、後に残った者がいかに生きるか、その生き様が、供養ともなれば、ご先祖に仇なす結果ともなるという事です。

幾ら僧侶にお経をあげてもらっても、家族がいがみ合っていては、真のの供養とはなりません。

家族みんなが菩提心に目覚め、それぞれがお互いを拝み、敬って生きることが、ご先祖を生かし、ご先祖に対する真の生き供養になる事を忘れてはなりません。

合掌

平成26年2月2日


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(注1)チルチルとミチルの兄妹が、夢の中で過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行くが、結局青い鳥は、自分達の最も身近な鳥籠の中にいたという物語。

 

『青い鳥』
翻訳:堀口大学
新潮社:改版 (1960/3/22)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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