桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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布施の功徳

なぜ人生相談は無料でなければいけないのか(1)



注目されている御住職?


先日、車を運転しながらラジオを聞いていたら、或る女性レポーターが、「今日は、いま注目の御住職をご紹介します」と言ったので、「何が注目されているんだろう?」と興味を持って聞いていました。

女性レポーターが、「ラジオの前の皆さんは、何が注目されていると思われますか?」と、視聴者に問いかけるので、益々興味を引かれ、耳をそばだてて聞いていると、彼女は、おもむろにこう言ったのです。

「実は、これからご紹介する御住職は、最近、無料の人生相談を始められたそうなんです。そうしたら、それがたちまち評判となり、沢山の相談が寄せられるようになったそうなんです」

こう言って、無料の人生相談を始められたという御住職を紹介されたので、私は、呆気にとられ、思わず失笑してしまいました。

何故失笑したのかと言いますと、まさか無料の人生相談がそれほど注目されるとは、夢にも思っていなかったからです。

勿論、毎日配達されてくる新聞には、時々「僅かな相談料でお悩みを解決します」とか「30分の相談料はお幾ら、1時間はお幾ら」と言う誘い文句を印刷した折り込み広告が入ってきたり、新聞の広告欄に、そういう寺院が紹介されていたり、テレビによく出てくる六星占術師が来県し、一時間幾らで人生相談が受けられるというような記事が載っていたりしますので、有料の人生相談がある事くらいは存じております。

しかし、仏法を知らない世間一般のカウンセラーや、四柱推命、風水、占星術、易、手相、人相、骨相、姓名判断など、様々な占いによって未来を予測する占い師、或いは、仏法の裏付けのない霊感や霊視に頼る一部の霊感者や霊能者などは論外として、いやしくもみ仏を信仰する僧侶の立場にある者が、悩み苦しみを持つお方から人生相談を受けるとなれば、当然、そのお方を導く手立ては仏法(悟り)しかありません。

仏教では、この世の真理である「法(理法)」と、真理を悟って一切の苦を解脱した「仏」と、仏が説かれた法(仏法)を伝える「僧(僧伽)」の三者を、「三宝」と言って、この世で最も尊いものの代名詞の如く説いていますが、三宝は常に不二一体であり、法を離れた仏も、仏を離れた法も、仏と法を離れた僧もありません。

法舟菩薩様が、『道歌集』の中で、
  仏法僧 法をはなれて仏なく
    法をはなれて また僧もなし
  仏法僧 僧をはなれて衆生なく
    衆生はなれて また僧もなし

 と詠っておられるように、僧侶が悩み苦しむ人々を導く依りどころは、占いでも霊感でもなく、仏法(悟り)以外にはありえません。

而して、この仏法は、相談するお方の立場から言えば、スーパーでお野菜やお魚や果物を買うように、お金を払って買うものではありません。

また相談を受ける僧侶の立場から言えば、相談料を頂いて売るものではなく、あくまで悩み苦しむお方に施すべきものです。

つまり、三宝の一人に数えられる僧侶が行う人生相談は、それが仏法によるものである以上、無料であるのが当たり前なのです。

無料だからと言って、世間から注目を集めるようなものではありませんし、そのようなものであってはならないのです。

無料の人生相談が注目されるのは、有料の人生相談が世の中にあふれ、それが当たり前のように受け止められているからであり、当たり前の事が当たり前に為されていない証拠と言えましょう。

仏法を知らない占い師や霊感者ならいざ知らず、少なくとも仏法を知っていながら、有料の人生相談を当たり前と受け止めている僧侶がいるとすれば、嘆かわしい限りと言わざるを得ません。

何故なら、相談料の名目で対価を求める僧侶に、相談者が抱える問題を根本的に解決し、悩み苦しみから救えるとは到底思えないからです。


見返りを求めない無所得の心


仏教に、「四摂法(ししょうぼう)」(注1)という、苦しむ人々を救済(済度)する四つの手立てがありますが、四摂法の最初にあるのが布施です。

また「六波羅蜜(ろくはらみつ)」(注2)という、菩薩に成る為の実践徳目の最初にあるのも、やはり布施です。

「四摂法」や「六波羅蜜」の最初に布施がおかれているのは、布施が、人々を救済する手立てとして最も重要視されている実践徳目だからですが、私達僧侶が、法の施しをする時に心しなければならない事が一つあります。

それは、施しをした相手から見返りを求めてはならないという事です。どんなに立派な法の施しをしても、無所得の心でしなければ施しにはならないからです。

布施の功徳は、三毒煩悩の一つである貪りの心を離れさせる事にあり、法を惜しまない、物を惜しまない、一切を惜しまないのが、布施の心です。

布施は、あくまで布施する側から布施される側への一方通行であって、施す者は、その見返りを求めてはならないのが布施の大原則です。

法舟菩薩様は、『涙の渇くひまもなし』の中で、

人は誰でも施しをするときには、一切無所得の心をもってしなければなりません。施しによって利益を得ようとか、名利のためにするというのであれば、それは結果の期待というものであって、せっかくの施しも功徳とならず、相手ばかりか自らの心をも害(そこ)ねるもととなりましょう。

と説いておられますが、要するに、真の施しとは、ただ与えるだけであって、与えれば、もうそこでお終いです。そこから先の見返りを求めれば、その行為は、施しではなく、取引になります。

皆さんは、お賽銭箱にお賽銭を入れた後、「私のお賽銭はどのように使われるのだろうか?」とか「これだけお賽銭をあげたのだから、きっとご利益を頂けるだろう」などと考えるでしょうか?

お賽銭を入れたら、もうそこでお終いです。お賽銭の使い道やご利益の事まで考えるのは、執着以外の何ものでもありません。それでは、せっかくのお布施が取引になってしまい、皆さんの功徳にはなりません。

ましてや僧侶が、相手から相談料の名目で対価を要求し、法を説くなどという事は、断じてあってはならない事です。


布施は人のために非ず


そもそも布施行は、人の為にする行為ではなく、自分自身の為にするものであり、この世のみならず、あの世までも相続されてゆく善根の種蒔きなのです。

相手の為に布施をしているのではなく、その人のお蔭で善根の種蒔きをさせて頂いているのですから、本来ならお礼を言って感謝をしなければならないところであり、お金をとって人生相談を受けるなど、もっての外と言わなければなりません。

法舟菩薩様が、同書の中で、

「人間は、人の世話をさせていただくのに、あれもした、これもした、といって怒ったり後悔するような世話ならば、初めからしないことであります。世間にはよく、世話をしてやったのに礼も言わないといって怒る人がありますが、自分が善いことをして徳を積ませていただきながら、礼を言ってもらおうと期待することが愚かであり、間違っているのであります。
 人生とはこだまであり、人から礼を言ってもらおうと思わなくとも、誠でした行いならば、感謝の心が返って来るのは当然のことであり、またそれが善の果報というものでありましょう。従って、人に世話になっても礼をいうことの出来ない人間ならば、自分の徳を損じるばかりか、懺悔しなければならないときが必ずまいります」

と説いておられるように、せっかく功徳の種蒔きをさせて頂きながら、如何にもお金を施した、物を施した、法を施した、あれもこれも施したと考えるのは、布施の意味をまったく知らない証拠と言わねばなりません。

また真心でした施しなら、結果を求めなくても、必ず何らかの形で返ってきます。すぐに返ってくるか、徐々に返ってくるか、忘れた頃に返ってくるか、或いはどのような形で返ってくるかはわかりませんが、必ずより良き結果となって報われてきます。

しかし、対価を求めるような施しなら、いくら施しても、よりよき報いを得る事は出来ないでしょう。というより、対価を求める施しは、もはや施しではなく、取引行為になりますから、功徳の種蒔きにはならないのです。


無畏施の心を示した人々


一口に布施と言いましても、財施、法施、無畏施(むいせ)の三つがあります。

仏教では、これを「三施」と言いますが、「財施」とは、富める人が貧しい人々に金銭や、衣類、飲食などを施すことをいい、「法施」とは、正しい法(おしえ)を説き聞かせて迷いを転じて悟りを開かせることをいい、「無畏施」とは、他人が危難急迫するときに、わが身や財産を顧みず、これを投げうって救済することを言います。

今年(2013)10月1日午前11時半頃、JR横浜線の踏切の先頭で、電車の通過を待っていた近くの会社員、村田奈津恵さん(44歳)が、遮断機の下りた踏切内に倒れている男性(74)に気付いて助けようとして電車にはねられ、死亡するという痛ましい事故がありましたが、彼女の心を動かしたのは、危難に直面する人を目の当たりにして、手を差し延べずにはいられない無畏施の心でした。

平成13年(2001)1月26日(金曜日)の午後7時14分頃、JR山手線の新大久保駅で、泥酔してプラットホームから線路に転落した男性を救助しようとして線路に飛び降りた日本人カメラマンの関根史郎さん(当時47歳)と韓国人留学生の李秀賢(イ・スヒョン)さん(当時26歳)が、折から進入してきた電車にはねられ、3人とも死亡するという悲しい事故がありましたが、この二人を動かしたのも、やはり無畏施の心でした。

更に遡れば、昭和22年(1947)9月1日、大村湾から長崎市に入る手前の長崎県時津町にある打坂峠で、長崎自動車の木炭バスが突然エンストし、ブレーキが効かなくなってズルズルと後退し始め、あわや崖下に転落するという時、車掌として勤務していた鬼塚道男さん(当時21歳)が、自らの体をバスの下に投げ出し、車止めとなって30名の乗客の命を救って亡くなるという痛ましい人身事故がありました。

当時は貧しい時代で、鬼塚さんの死に対し、何も報いる事ができず、また鬼塚さんの死は一部の人にしか語り伝えられなかったため、次第にその出来事は忘れ去られようとしていました。

ところが、24年後、乗客の証言に基づいて、その事件が小さな新聞記事になり、たまたまそれを目にした長崎自動車の社長が、大きなショックを受け、「こんな立派な社員がいた事を、我々役員は決して忘れてはいけない」と、その日のうちに役員会を招集し、会社で打坂峠のそばに記念碑とお地蔵さんを建てて供養する事になりました。

それ以来、鬼塚さんの供養祭が毎年行われ、打坂地蔵尊は、いつも美しい花で飾られ、お線香の煙が絶えないそうですが、鬼塚さんを突き動かしたのも、やはり已むに已まれぬ無畏施の心だったのではないかと思います。

鬼塚さんの事故の更に40年ほど前の1909年(明治42年)2月28日には、北海道の塩狩峠に差し掛かった列車の客車の最後尾の連結器が外れ、客車が暴走しかけるという事故が起こりました。

客車にはハンドブレーキがついていましたが、ハンドブレーキだけでは完全に停まりませんでした。

ちょうどその客車に乗り合わせていた鉄道院(旧国鉄の前身)職員の長野政雄さん(当時30歳)が、自らの体を線路に投げ出し、体をブレーキにして客車の暴走を食い止めたため、大事故は未然に防がれましたが、残念ながら、長野さんは、帰らぬ人となりました。

この事故の顛末を主題にして書かれた三浦綾子さんの小説『塩狩峠』の主人公となった長野さんは、キリスト教会の集会には欠かさず出席するほどの熱心で敬虔なクリスチャンで、いつ自分が神の愛の為に身を捧げる事になってもいいようにと、片時も放さず遺書を身につけていたそうです。

現在、塩狩峠の頂上付近にある塩狩駅近くには、顕彰碑が立てられ、いまも現地を訪れて、長野さんの冥福を祈る人が絶えないそうですが、彼の行動も、やはり神の愛と無畏施の心に突き動かされた行動であった事は間違いないでしょう。

顕彰碑には、次のように刻まれているそうです。

「苦楽生死 均(ひと)しく感謝。余は感謝して全てを神に捧ぐ」


無財の七施


このような無畏施の心を示された人々はみな、人間が到達し得る究極の愛(慈悲)の姿を私達に教える為に遣わされた神仏の使者とも言えましょうが、それだけに、誰も彼もが、このようは無畏施の行動をとれる訳ではなく、これは、神仏に選ばれた者にしか為し得ない聖なる行動と言っていいでしょう。

しかし、だからと言って、この人たちの真似は出来ないと思う必要はありません。「無財の七施」と言われる、誰にでも出来る立派な施しがあるからです。

1、眼施(げんせ) やさしい眼差しで人に接すること。
 2、和顔施(わがんせ) にこやかな笑顔で人に接すること。
 3、愛語施(あいごせ) やさしい言葉で人に接すること。
 4、身施(しんせ) 荷物を持ってあげるなど、自分の体でできる奉仕をすること。
 5、心施(しんせ) 人の気持ちを思いやり、心をくばってあげること。
 6、床座施(しょうざせ) 席や場所を譲ってあげること。
 7、房舎施(ぼうしゃせ) 自分の家を提供してあげること。

「無財の七施」のように、施すお金や物がなくても、何がなくても、施しの心さえあれば、いつでも、どこでも、誰でもすぐに実践できるのが、布施行なのです。

道元禅師が、「布施というは貪らざるなり。我物に非ざれども布施を障(さ)えざる道理あり。その物の軽きを嫌わず。その功の実(じつ)なるべきなり。然あれば則ち一句一偈の法をも布施すべし。此生佗生(ししょうたしょう)の善種となる。一銭一草の財をも布施すべし。此世佗世(しせたせ)の善根を兆(きざ)す。法も財(たから)なるべし。財も法なるべし」(注3)と説いておられるように、たとえ、施すものがどんなに粗末な物であっても、僅かなお金であっても、道端に咲く名もなき一輪の草花であっても、計り知れない功徳を頂けるのが、布施行です。

そればかりか、人が施す姿を見て心から喜ぶ事も、また立派な布施行となります。

以前、電車に乗った時の事です。高校生が数人、座席に座って、携帯電話をいじりながら友達同士で話をしていましたが、そこへ一人のおじいさんが乗ってきたのです。すると、一人の男子生徒が、おじいさんの姿を見るや、すぐに席を立ち、「おじいちゃん、こっちへおいで」と言って、何のためらいもなく、おじいさんに席を譲ってあげたのです。

彼は、知らず知らずの内に、無財の七施の一つ、床座施を実践していたのですが、その光景を眺めていた私は、心の中で「素敵な光景を見せてくれて、ありがとう」と彼にお礼を言いました。周りの人たちの心にも、きっと幸せな気持ちが波紋となって広がっていったに違いありません。

このように、相手の尊い布施行を見て、讃え、喜び、自らもそうなりたいと願う心を起こす事も、尊い布施行の一つなのです。

合掌

平成25年10月25日

布施の功徳―なぜ人生相談は無料でなければいけないのか(1)
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布施の功徳―なぜ人生相談は無料でなければいけないのか(3)
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道歌集

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注1)「布施」「愛語」「利行(りぎょう)」「同事(どうじ)」の四つを指す。
「布施」とは、仏法や財物を施して衆生を済度する事、「愛語」とは、慈愛の言葉で衆生を済度する事、「利行」とは、自己の利益より衆生の利益を先にする事、「同事」とは、衆生の立場に立って行動を共にする事。

 

(注2)波羅蜜とは、サンスクリット語の「パーラミタ」の音写で、「到彼岸(彼岸に渡る)」という意味。六波羅蜜とは、「布施波羅蜜」「持戒波羅蜜」「忍辱(にんにく)波羅蜜」「精進波羅蜜」「禅定波羅蜜」「智慧波羅蜜」の六つを指す。
「布施波羅蜜」は、仏法や財物を施す事、「持戒波羅蜜」は、身を慎む事、「忍辱(にんにく)波羅蜜」は、自己に厳しく他に優しく接し、いかなる苦難にも耐え忍ぶ事、「精進波羅蜜」は、たゆまず努力する事、「禅定波羅蜜」は、いついかなる時も動揺せず、平常心でいる事、「智慧波羅蜜」は、真相を悟る智慧を磨き、人々を救済する事。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

村田奈津恵さん

 

 

 

打坂地蔵尊

 

 

 

長野政雄氏殉職の碑

 

 

 

著者:三浦綾子
新潮社 改版 (1973/5/29)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注3)布施というのは、貪らない事である。物惜しみをしない事である。たとえ施すものがなくても、人が施すのを見て喜ぶ事も立派な布施である。たとえどんな粗末なものであっても、施しは決して無駄にはならない。それ故に、教えの一句、一偈であっても、施しなさい。さすれば、この世だけではなく、未来世までも続く善根の種蒔きとなる。また僅かなお金であっても、野に咲く一輪の草花でも、施しなさい。そうすれば、この世のみならず、あの世の幸せも約束される。施す上からは、法の施しも財の施しもみな尊く、そこに軽重の差はない。

 

 

 

 

 

 


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