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日本の立ち位置

―靖国問題解決に向けて(2)―



神道だけの国であったら


この神と仏の違いを踏まえた上で、前回の仮説に戻ります。

絶えている家は、仏教(仏式)でお葬式や法事を行っている家よりも、神道(神式)でお葬式や法事をしている家の方が圧倒的に多いという話をしましたが、もし仏教が日本に伝えられず、日本古来の神道だけの国であったとしたら、或いは、もし仏教が日本に根付いておらず、日本でのお葬式や法事の殆どが神式で行われていたとすれば、日本はどうなっていたでしょうか?

仮説ですから断定は出来ませんが、恐らく絶えている家の数は、現在の比ではなかったのではないでしょうか?

絶える家が限りなく多くなるという事は、当然のことながら、子々孫々の繁栄が望めないばかりか、国力そのものが衰退していく事を意味します。そうなれば、日本の将来は風前の灯と言っていいでしょう。

仏式でお葬式を行っている家が多い事について、一般的には、キリシタンを弾圧しようとした徳川幕府の寺請制度によるものだと言われています。

確かに、歴史的事実としてそういう面がないとは言い切れませんが、たとえそうであったとしても、それはあくまで表面的な理由に過ぎません。

もし、神式でお葬式をしていた場合、どれだけの家系が絶えていたかを想像してみると、そこには、先の先まで見通された上で、日本を末代までも守ろうとしておられるみ仏のみ心がハッキリ観えてきます。

いまになってみれば、「仏教伝来」と「崇仏派の勝利」という二つの出来事は、日本民族にとって、国の存亡にも関わる大事件だったと言っていいでしょう。

もしこの出来事がなければ、今の日本はどうなっていたか、想像するのも恐ろしい気がいたします。

仏教には、神道だけでは防ぎきれない様々な禍から日本を守るという大きな役目が与えられていたのです。だからこそ、これだけ深く日本に根付く必要があったのです。

よく「葬式仏教」という事が言われます。

これは、生きている人を救済せず、亡くなった死者ばかりを相手にしている仏教を揶揄した言葉ですが、今の仏教の姿を見る限り、この批判は当らずとも遠からずと言わざるを得ません。

それだけに、我々僧侶一人一人が、いまの状況に安住せず、もっと真剣になって、生きている人々の救済に取り組まなければなりません。

しかし、もし仏教が、これ以上神の障りに触れて絶える恐れのある家系が増えるのを防ぐ役目を果たしているとすれば、葬式仏教にも、それなりのお役目があるのかも知れません。

勿論それは、仏教が果たすべき本来の使命ではありませんが、神道を国の柱としてきた日本の存亡にとって、仏教が、欠かせないお役目を担ってくれている事だけは間違いないでしょう。


日本の立ち位置


私が申し上げたいのは、日本は、「神の柱」と「仏の柱」の二本柱に支えられて初めて子々孫々の繁栄が約束される国であり、この「神と仏の二本柱」は、日本が繁栄していく為には絶対に踏み外してはいけない不変の立ち位置であるという事です。

日本とは即ち「二本」であり、日本という名前には、「神と仏の二本柱(日本柱)」の意味が込められているのです。

この「神と仏の二本柱」という立ち位置が変わらない限り、日本は必ず繁栄していくでしょうし、国民の生命と安全も守られます。しかし、一歩この立ち位置を踏み外すと、日本は次第に衰退し、やがて滅亡へと向かっていくでしょう。

特に神式でお葬式をしている家に、絶えている家が多い事を見ても分かるように、神道だけの国になれば、国そのものに衰退の流れが生まれ、日本という国の存亡そのものに関わる一大事となる事は間違いありません。

日本の礎は「神と仏の二本柱(日本柱)」の支えがなければ、未来永劫の繁栄は築けない事を、私達は肝に銘じておかなければなりませんが、その日本の礎と未来の在るべき姿を見抜いておられたのが、聖徳太子です。

神という一本の柱では日本の礎は盤石ではなく、そこに仏というもう一本の柱が必要である事を見抜いておられたからこそ、崇仏派の蘇我氏に協力して、仏教の礎を築く手助けをされたのです。

四天王寺や法隆寺を建立して、仏教の教えに基づく『17条憲法』を制定し、『三教義疏』を作られたのも、すべて国政の中心に、「神と仏の二本柱(日本柱)」を据える為であった事は言うまでもありません。

その後、奈良、平安、鎌倉…と続く歴代の朝廷も、聖徳太子の意思を受け継ぎ、仏教を国の礎にしてきた事は、今更言うまでもないでしょう。

徳川幕府の寺請制度は、キリシタンを弾圧する目的で施行されましたが、もし徳川家康公が、国家統一の礎に仏教を据えていなければ、戦乱に明け暮れた戦国の世に終止符を打ち、300年続いた徳川幕府を開く事は不可能だったでしょうし、徳川幕府で花開いたあらゆる伝統、文化、芸術、芸能、学問、研究、風習なども生まれていなかったでしょう。

百花繚乱と言われる徳川時代の繁栄は、「神と仏の二本柱」が日本の大地にしっかり根を下ろしていたからこそ花開いた繁栄であった事を、決して忘れてはなりません。


明治政府が犯した史上最大の過ち


よく日本人の信仰は、外国人には分かりにくいと言われます。日本人は宗教を持たない国民だとも言われます。

お正月には、神社へ初詣に出かけ、お盆には、お寺へお墓参りに出かけ、クリスマスを祝い、大みそかには除夜の鐘をついて年越しをします。

キリスト教徒でもないのに教会で結婚式をあげ、子供が産れると神社にお宮参りをし、死ぬとお寺でお葬式をするというように、日本人は、信仰に節度がないというのが、外国人の一般的な日本人評と言っていいでしょう。

しかし、私は、「神と仏の二本柱」という日本の立ち位置をしっかり守っているそのバランス感覚は、世界広しといえども日本人にしか真似の出来ないものであり、これこそが、はるか遠き聖徳太子の時代から連綿と受け継がれてきた、世界に誇るべき日本人の叡智の賜物ではないかと思います。

ところが、その「神と仏の二本柱(日本柱)」という、日本民族が繁栄する為には絶対に踏み外してはいけない不変の立ち位置を、見るも無残に打ち壊した時代がありました。

それが、明治維新政府が行った「第二次廃仏毀釈」(注6)です。

勿論、過去に、弓削道鏡が孝謙天皇に取り入って天皇の座を狙ったり、僧侶が刀剣を持って武装し、僧兵となって横暴を極めたり、仏教が堕落した時代がなかった訳ではありません。

織田信長の比叡山焼き討ちは、暴徒と化していた僧侶に対する怒りの現れと言えましょうが、幾多の試練や栄枯盛衰はあったものの、聖徳太子から連綿と守り伝えられてきた「神と仏の二本柱」という日本の立ち位置は、変わりませんでした。

織田信長も、豊臣秀吉も徳川家康も、その立ち位置だけは決して踏み外さなかったのです。

その不変の立ち位置を、明治維新政府は、「神仏分離令」によって見るも無残に打ち砕いてしまいました。

薩長が中心となって発足した明治維新政府は、近代化という大きな成果を国民にもたらしましたが、他方で、国を支える二本柱の一本を取り外すという、国家の存亡に関わる大きな失態を犯したのです。

国家神道を掲げる明治維新政府によって、神仏習合の廃止、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止など、わが国の歴史上、最大の失政とも言うべき「第二次廃仏毀釈」が強引に推し進められ、これが、やがて日本全体を戦争の泥沼に引きずり込む大きな悪因となっていったのです。

「第二次廃仏毀釈」こそ、明治維新政府が犯した日本の憲政史上、最大の過ちと言っても過言ではなく、日本民族が繁栄する為には絶対に変えてはいけない「神と仏の二本柱(日本柱)」という立ち位置が変えられた結果、その後の日本が滅亡への道を一直線に突き進んでいったのは、当然と言えましょう。

神は天、仏は地であり、天と地に守られ生かされている日本が、地を否定してしまっては、繁栄の道を生きてゆける道理がありません。


釈尊に救われた日本


幸いにも、日本は、日清、日露と続く戦争に勝つことが出来ました。

しかし、「積善の家に余慶あり、不積善の家に余殃(よおう)あり」と言われるように、この勝利は、飛鳥時代から営々と築き上げてきた先人の余徳のお蔭であり、決して自力で勝った戦いではなかったのです。

それを自力で勝ったと思い上がったところに、大きな判断ミスがあったと言えましょうが、日本の滅亡への流れは、余徳を食いつぶしてから一気に加速し、日本を絶望の淵へと追い込んでいったのです。

ところが、滅亡への道を突き進んでいた日本を救ってくれたのは、皮肉にも、明治維新政府によって徹底的に排斥された仏教でした。

大東亜戦争がはじまった1941年12月8日は、釈尊が入滅された日であり、また終戦の1945年8月15日はお盆であり、どちらも仏縁深き日でした。

二度ある事は三度あると申しますが、三度目の念押しが、1951年(昭和26年)9月6日の「サンフランシスコ講和会議」でした。

この講和会議において、敗戦国である日本の戦後処理が話し合われ、ソ連の提案によって「北海道、本州、四国、九州」に四分割されるという国家存亡の危機に立たされましたが、その危難を救ってくれたのが、セイロン(現在のスリランカ)代表の演説でした。

当時、財務大臣であったジャヤ・ワルダナ代表は、演説の中で、釈尊が説いた『法句経』の一節を引用して、次のように力説し、満場の拍手喝采を浴びたのです。

セイロンに於ける我々は、幸い侵略を受けませんでしたが、空襲により引き起された損害、東南アジア司令部に属する大軍の駐屯による損害、並びに我国が連合国に供出する自然ゴムの唯一の生産国であった時に於ける、我国の主要産物のひとつであるゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害は、損害賠償を要求する資格を我国に与えるものであります。

しかし、我国はそうしようとは思いません。何故なら我々は大師(注:釈尊のこと)の言葉を信じていますから。

大師のメッセージ、「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」はアジアの数え切れないほどの人々の生涯(生活)を高尚にしました。

仏陀、大師、仏教の元祖のメッセージこそが、人道の波を、南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、シャム、インドネシアそれからセイロンに伝え、そして又北方へはヒマラヤを通ってチベットへ、支那へそして最後には日本へ伝えました。

これが我々を数百年もの間、共通の文化と伝統でお互いに結びつけたのであります。

この共通文化は未だに在続しています。それを私は先週、この会議に出席する途中日本を訪問した際に見付けました。

又日本の指導者達から、大臣の方々からも、市井の人々からも、寺院の僧侶からも、日本の普通の人々は今も尚、平和の大師の影の影響のもとにあり、それに従って行こうと願っているのを見いだしました。

我々は日本人に機会を与えて上げねばなりません。

そうであるから我々は、ソ連代表の云っている、日本の自由は制限されるべきであるという見解には賛同出来ないのです。

この演説によって、日本は存亡の危機を免れる事が出来たのですが、まさか、明治維新政府によって徹底的に排斥されていた釈尊の教えが、最期の土壇場で日本を救ってくれるとは、誰が想像したでしょうか。

この事実を見ても、日本が「神と仏の二本柱」に支えられている神仏の国である事がお分かり頂けるでしょう。


戦没者慰霊施設の立ち位置


こうして日本という国の成り立ちを見てみると、「神と仏の二本柱」という日本の立ち位置が、微動だにしない時は国が安定に向かって繁栄しているのに対し、立ち位置が揺らいだり、欠けた時は、滅亡への道を一直線に歩み始める事がよく分かりますが、実は、二本なければならない日本の立ち位置に、まだ一本柱しかない所が、一か所だけ残っています。

それは、戦没者を祀る慰霊施設です。

靖国神社は、神道(神式)で戦没者を祀る施設ですが、残念ながら仏式で祀る慰霊寺院がまだありません。

勿論、各地の主な寺院では、それぞれ戦没者の慰霊法要を執り行っていますが、靖国神社のような、慰霊施設の中心となる公的な仏教寺院が、まだ日本にはないのです。

何故でしょうか?

靖国神社だけで良いと考えられているのか、それとも、政教分離の大原則がそれを妨げているのかはよく分かりませんが、これでは残念ながら、国の為に犠牲になられた多くの戦没者の慰霊としては不完全と言わざるを得ません。

何故、靖国神社だけでは不完全なのかと言えば、戦後68年が経っているにも拘らず、慰霊に限っていえば、国の立ち位置が本来の姿に戻っていないからです。

ご存じのように、靖国神社は、明治2年(1869年)、東京都千代田区九段北、九段坂の上に建立された「東京招魂社」を前身とし、明治12年(1879年)6月4日に社号を「靖国神社」と改めて、現在に至っていますが、靖国神社が創立されたのは、まさに神仏分離令によって、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れようとしていた真っ只中でした。

つまり、国の為に殉じた人々を慰霊する施設としては、創立当初から、「神と仏の二本柱」という日本の立ち位置を、大きく踏み外していたのです。

日本は終戦によって、再び「神の仏の二本柱」を取り戻しましたが、それは、生きている私達の世界だけで、見えない世界におられる戦没者の皆さんの慰霊施設は、未だに「神の柱」一本のままなのです。

慰霊に限っていえば、いまだに戦前の神仏分離を引きづっている状況と言っていいでしょう。

つまり、明治維新政府による廃仏毀釈の強行によって、日本衰退への流れが生まれ、その流れがやがて日本を戦争へと駆り立てていったのですが、目に見えない世界では、今もまだその戦争が続いているのです。このような状況で、戦没者の御魂が安らげる筈がありません。

その証拠に、中国と韓国は、毎年、靖国神社問題で日本を非難攻撃してくるではありませんか?

慰安婦問題や領土問題でも、日本を恐喝し威嚇してくるのは、まだ戦争状態が続いている何よりの証拠です。

戦没者の皆さんは、中国と韓国を代弁者として、まだ戦争が終わっていない事を、私達に教えようとしているのかも知れません。

いま日本国内では、中国や韓国の常軌を逸した行動に対し、誰もが怒りを顕わにし、非難の声があちらこちらで上がっていますが、表面的に見れば、確かに中国や韓国が日本を非難攻撃しているように見えるかも知れません。

しかし、その裏を悟ってみれば、その背景には、日本の国が繁栄する為に、未来永劫決して変えてはならない不変の立ち位置に戻っていない現状があるのです。

これではいつまで経っても、日本が衰退する流れは変わらず、靖国神社の問題が解決しないのも当たり前です。

仏式で慰霊出来る戦没者の公的な慰霊施設ができ、靖国神社と共に、戦没者の慰霊が神仏両面からできるようになって、漸く日本が繁栄する立ち位置が復活し、これによって戦争も終わり、戦没者の御魂は、晴れて祖国の地へ帰る事が出来るのです。

有識者の中には、宗教色のない慰霊施設を新たに作ればよいという意見もあるようですが、これは本末転倒も甚だしく、まったく論外と言わざるを得ません。

慰霊そのものが、信仰行為であり、宗教行為である以上、宗教色のない慰霊施設などを作っても何の意味もなく、それこそ中身のないただの空箱を作るだけです。

中国と韓国との間の様々な問題を解決し、世界の恒久平和を実現する為には、先ず日本が、本来の立ち位置に戻る事が必要であり、唯一残っている戦没者の慰安施設である寺院(仏の柱)を早急に建立する事が必要なのです。


慰霊寺院の在るべき姿


建立するに当たって問題となるのは、戦没者の慰霊寺院をどのような形で建立すべきかという事ですが、国の資金で建立出来れば、それに越したことはありません。

もし政教分離の建前から、国のお金が使えない時は、全国から寄付を募ればいいでしょう。

また、中国、韓国を含め、日本に大使館や領事館を持つ国々や、親日的な国々にも協力をお願いするのです。

何故かと言えば、この慰霊寺院は、日本の戦没者に限らず、過去のあらゆる戦争で犠牲になられた世界中の戦没者の霊を祀る施設にすべきだと思うからです。

世界の戦没者を慰霊する寺院ですから、慰霊法要には、当然のことながら、天皇皇后両陛下をはじめ各国の代表、遺族関係者、そして、寄付をして下さった人々にも参列して頂きます。

勿論、日本の総理大臣も、胸を張って、心静かにお参り出来る施設となります。

問題は、慰霊寺院の中に祀るご本尊ですが、今の日本には、様々な仏教宗派があり、祀るご本尊も違えば、唱える経典も違い、中々一つにまとめる事は難しい部分もあります。

しかし、どの宗派であっても、お釈迦様が根本である事に変わりはありませんから、慰霊寺院のご本尊は、仏教の開祖であるお釈迦様が最もふさわしいのではないでしょうか?

次に祀らなければならないのが戦没者ですが、この慰霊寺院には、「全世界戦没者の位」と書いた位牌をお祀りすればいいでしょう。

この位牌は、戦没者の御魂を納める霊屋であり、この霊屋に祀られる戦没者が誰なのかは、お参りする人々が決めます。

お参りする人々が、み仏に救って頂きたいと願う戦没者を、霊屋である位牌に祀る事になります。霊屋である位牌に祀られる戦没者は、お参りする人々の心の中におられますから、その戦没者への思いを、それぞれの人が胸に抱いて、お参りし、慰霊すればよいのです。

総理大臣であっても、「一国の総理として、世界中の戦没者の皆様に哀悼の意を表し、良心に従ってお参りさせて頂きました」と言って、心静かに参拝すればいいのです。

靖国神社が、日本の戦没者と、日本人として亡くなられた中国や韓国の戦没者を祀る施設とすれば、慰霊寺院は、更にその範囲を世界中の戦没者に広げ、すべての犠牲者を追悼し、世界平和を祈る施設となるでしょう。

大切な事は、これで、最後まで欠けていた二本柱の内の一本が整い、名実ともに、日本の在るべき立ち位置に立脚した戦没者の慰霊所が完成し、ようやく長かった戦没者にとっての真の戦争が終わるという事です。

合掌

平成25年9月2日


日本の立ち位置〜靖国問題解決に向けて(1)
日本の立ち位置〜靖国問題解決に向けて(2)
日本の立ち位置〜靖国問題解決に向けて(3)
日本の立ち位置〜靖国問題解決に向けて(4)
日本の立ち位置〜靖国問題解決に向けて(5)
日本の立ち位置〜靖国問題解決に向けて(6)
日本の立ち位置ー靖国問題解決に向けて(7)
日本の立ち位置ー靖国問題解決に向けて(8)
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(注6)明治政府は神道を国家統合の基幹にしようと意図し、一部の国学者主導のもと、仏教は外来の宗教であるとして、それまでさまざまな特権を持っていた仏教勢力の財産や地位を剥奪した。
僧侶の下に置かれていた神官の一部には「廃仏毀釈」運動を起こし、寺院を破壊し、土地を接収する者もいた。
また、僧侶の中には神官や兵士となる者や、寺院の土地や宝物を売り逃げていく者もいた。
現在、国宝に指定されている興福寺の五重塔は、明治の廃仏毀釈の法難に遭い、25円で売りに出され、薪にされようとしていた。
大寺として広壮な伽藍を誇っていたと伝えられる内山永久寺に至っては破壊しつくされ、その痕跡すら残っていない。
安徳天皇陵と平家を祀る塚を境内に持ち、「耳なし芳一」の舞台としても知られる阿弥陀寺も廃され、赤間神宮となり現在に至る。
廃仏毀釈が徹底された薩摩藩では、寺院1616寺が廃され、還俗した僧侶は2966人にのぼった。そのうちの3分の1は軍属となったため、寺領から没収された財産や人員が強兵に回されたと言われている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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