桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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怨みは怨みをもっては止まず(5)



怒り怨みには祈りで応えよう


ご承知のように、釈尊の教えは、中国、朝鮮を経て、わが国にもたらされました。中国も韓国も、かつてはみ仏のご加護をいただき、わが国にもみ仏のご加護を伝えてくれた隣人であり、その仏縁深き隣人が、貪り、怒り、怨み妬み憎しみの三毒煩悩を乗り越えられない筈がありません。

それは近い将来ではないかも知れませんが、必ずその日が来る筈です。しかし、何もせず、ただその日が来るのを忍耐強く待つだけでは、何も変わりません。

貪り、怒り、怨み妬み憎しみの三毒煩悩を封じ込めるには、仏性以外にありません。だからこそ、私達が先ず仏性の扉を開き、彼らの救いを祈らせて頂き、手本を示さなければなりません。怒りに怒りで応えるのではなく、怒りに祈りで応えなければならないのです。

勿論、怒りに怒りをもって応えるより、怒りに祈りの心をもって応える方が、何倍も何十倍も難しく、この戦いは苦戦を強いられるかも知れません。それは、貪り、怒り、怨みで向かってくる彼らとの戦いであると同時に、自らの内に潜む三毒煩悩との戦いでもあるからです。

しかし、その戦いがいかに困難であっても、いかに苦しくても、逃げる訳にはいきません。逃げれば逃げるほど、その付けは、結局、子々孫々を苦しめる事になるのです。

繰り返しますが、戦うべき相手は中国でも韓国でもありません。人間の心の奥底に潜む三毒煩悩であり、この悪魔を退けてこそ、私達の輝かしい未来は約束されるのです。


常不軽菩薩の祈り


『法華経』の「常不軽菩薩品」に出てくる常不軽(じょうふぎょう)と言う名前の菩薩をご存じでしょうか。

彼が常不軽菩薩と呼ばれるようになったのは、「常不軽」の名前の如く、会う人凡てに「あなたを尊敬いたします。あなたを決して軽んじたりしません。何故なら、あなたは菩薩の行を成就して、仏になられるお方ですから」と言って、合掌礼拝し続けたからですが、そう言われた人の中には、馬鹿にされたと勘違いして、罵詈雑言を浴びせたり、石を投げつけたりした人がいました。

それでも彼は怒りを返す事なく、「私はあなたを深く尊敬します。けっして軽んじたり、侮ったりしません。何故なら、あなたはきっと菩薩の道を歩まれ、将来必ず仏になられるお方ですから」と言って、合掌礼拝し続けたのです。

そして、ついに仏の位を成就したのですが、この常不軽菩薩こそ、実はお釈迦様の前世のお姿であり、常不軽菩薩に罵詈雑言を言って石を投げつけた人達こそ、お釈迦様の弟子達の前世の姿だったのです。

常不軽菩薩を非難攻撃していた人達は、生まれ変わって、お釈迦様の弟子となり、み仏の教えを実践するようになったのですが、この話を今の私達に当てはめれば、中国と韓国の人々の救いを祈る私達は、常不軽菩薩であり、私達を非難攻撃する中国と韓国の人々は、常不軽菩薩に罵詈雑言を言って石を投げつけた人々という事になります。

ここで私達が肝に銘じておかなければいけないのは、常不軽菩薩は、いかなる悪口を言われても、石を投げつけられても、蔑まれても、決して怒りや怨みを返さず、ひたすら彼らの救いを願い、祈り続けたという事です。

その結果どうなったかは、言うまでもありません。彼らは、釈尊の弟子となって、「怨みは怨みによっては止まず。愛によってのみ怨みは止む」という教えを全世界に広めるため、その生涯を捧げたのです。


仇を拝んだ法然上人の父


ここで常不軽菩薩が、怒りに怒りを返していれば、返された人々も、再び常不軽菩薩に怒りを向け、その結果、果てしない怒りの連鎖が続いていく事になります。

この果てしない怒りの連鎖を、仏教で六道輪廻(ろくどうりんね)(注1)と言いますが、六道の世界は、四角い世界ではなく、円の世界ですから、円の世界を飛び出さない限り、永遠に回り続けなければなりません。

同じ親から生まれた兄弟宗教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の間で、二千年以上にも亘って報復の応酬が続いているのは、まさに怒りの連鎖に終止符が打たれていないからですが、六道輪廻の連鎖に終止符を打つには、お互いを許し合い、拝み合い、認め合うしかありません。

先人の中には、その道理を悟り、輪廻の連鎖に終止符を打たれたお方が何人もおられますが、その中の一人が、浄土宗の開祖、法然上人の父で、美作国の押領使であった漆間時国(うるまのときくに)です。

法然上人は、時国の長男で、幼名を勢至丸と言いましたが、9歳の時、以前から不仲だった稲岡荘の預所・明石定明の軍勢によって屋敷を夜襲され、父の時国は重症を負っていのちを落とします。

しかし、時国は、勢至丸を臨終の床に呼び、「私がこうしていのちを落とすのも、宿世の因縁である。お前が、相手を怨み、私の仇を打てば、末代までも報復は繰り返され、子々孫々を苦しめることになる。お前が私の救いを願うのであれば、仇討ちを止め、仏道に入って私の菩提を弔って欲しい」と遺言して亡くなります。

勢至丸は、父の遺言を守り、後に比叡山に上って、浄土宗の開祖、法然上人となり、苦しむ多くの人々を救済されたのです。

法然上人も偉大ですが、父の漆間時国が勢至丸を仏道に導き、因縁を解いたからこそ、後の法然上人が誕生したのです。

もしこの時、勢至丸が父の仇討ちをしていれば、仇を討たれた相手の子も、また同じように、勢至丸を父の仇として怨み、「目には目、歯には歯」という輪廻の業の連鎖が途切れることなく、宿世の因縁となって、子々孫々を苦しめたに違いありません。

夜襲を受けて命を落とすのも、自らが作った宿業であり、報復の連鎖を勢至丸に背負わせてはならないという時国の悟りが、勢至丸を救い、仇となる相手の子孫をも救ったのです。

表面的に見れば、宿世の因縁とは言え、時国は犠牲になったのですが、時国の犠牲があったからこそ、輪廻の業の連鎖が解け、勢至丸も相手の子孫も救われたのです。

時国が自ら犠牲にならなければ、業の連鎖、怒りの連鎖は解けることなく相続され、末代までも子々孫々を苦しめ続けた事でしょう。

犠牲になった時国は、勢至丸を仏道に導き、その因縁を解く為に、仮に父として生まれてきたみ仏の化身だったのかも知れません。


世界を救うために


いま世界各地では、相変わらず内乱やテロが頻発し、朝鮮半島でも緊張が高まっています。日中、日韓の間では、慰安婦問題をはじめ尖閣諸島や竹島をめぐって、摩擦が起きていますし、シリア、エジプトでは国民同士が殺し合い、アメリカでも、黒人差別問題をめぐって各地でデモが起きています。

人間のいる所に、争いの種は尽きませんが、「目には目、歯には歯」とばかりに、自我と自我の衝突を繰り返すだけでは、永遠に六道輪廻の連鎖を断ち切る事は出来ません。それでは、三毒煩悩の悪魔が大手を振って、世界中を闊歩するだけです。

我田引水と言われるかも知れませんが、世界有数の仏教国である日本が直面している国家的危機や山積する諸問題の解決は無論のこと、三毒煩悩を封じ込めて、今の世界を救えるのは、釈尊が説かれた「怨みは怨みによっては止まず、怨みは愛によってのみ止む」という教え以外にはないと思います。

いまこそ、私達は、「怨みは愛によってのみ止む」という釈尊の教えを行動で示さなければなりません。

勿論、私一人がいくら頑張っても、たかが知れている事は分っています。しかし、どんなに微力でも、誰かが行動を起こさなければ、結局何も変わりません。否、変わらないだけでなく、益々悪化する一方でしょう。

その事が分っていながら、傍観者であり続ける事は出来ません。たとえ微かではあっても、一人が動けば、その波紋は、間違いなく広がっていく筈です。

それが、二人、三人と増えてゆき、日本中、世界中に広がってゆけば、全世界の人々をつなぐ巨大な波紋となるでしょう。


祈りのクリティカル・マス


クリティカル・マスという言葉をご存じでしょうか。語源は、物理学用語である「臨界質量(critical mass)」から来ているそうですが、要するに、ある商品やサービスが爆発的に普及するために最小限必要とされる市場普及率の事で、それは商品だけではなく、人間のあらゆる活動に当てはまります。

例えば、いくら楽器を練習しても、最初は遅々として進まなかったのに、ある時点を境として飛躍的に上達するようになった経験をお持ちの方もいると思いますが、これがクリティカル・マスを越えたと言われる現象です。

祈りの行動にも、クリティカル・マスがあるのかどうかは知りませんが、最初は僅かな波紋であったものが、ある一定数に達すると、その輪が爆発的に広がり、世界全体を覆っていった事例は、過去にいくつもあります。

例えば、2011年9月に亡くなられ、アフリカ人女性で初のノーベル平和賞を受賞されたケニア共和国環境副大臣のワンガリ・マータイさんが中心となって進められていた環境保護活動「3R(リサイクル・リユース・リデュース)運動」(注2)と「グリーン・ベルト運動」(注3)が、それです。

たった7本の木を植える事から始まった「グリーン・ベルト運動」は、今やケニア全土に3000万本もの木を植えるまでに広がり、更にその波紋は、他のアフリカ諸国へと広がっています。

マータイさんは、「私には何ができますか?」と聞かれた時、いつも「一人一人に変化を起こす力があります。他人が何かをしてくれるのを待っていてはいけないのです」と答えられたそうですが、まさに金言です。

「祈りと行動の草の根運動」と言ってもいいでしょうが、祈りの行動がクリティカス・マスを超えるには、何人の祈りと行動が必要なのでしょうか。

私には分りませんが、ある方は、一万人の祈りと行動が必要だと仰っています。或いは、もっと必要なのかも知れません。

東日本大震災の折には、日本はおろか、世界各地で、犠牲者への黙とうがささげられました。また今年3月11日には、国立劇場で、政府主催の「東日本大震災2周年追悼式」が執り行われ、天皇皇后両陛下をはじめ、中国、韓国を除く世界各国の代表が出席して、犠牲者への黙とうが捧げられました。

その数字は、勿論一万人どころではありませんが、残念な事に、この時の祈りは一過性のものでしかありませんでした。しかし、この祈りの輪が、私達一人一人の日々の暮らしの中に根付いてゆけば、そこには間違いなく大きな波紋が生まれる筈です。

私は、この祈りを、日々の行動として、過去の戦争で辛い思いをした全世界の女性たちや、戦争の犠牲となった数多くの人々の苦しみに想いを馳せながら、その救いの為に捧げさせて頂いていますが、これからも続けさせて頂く事に変わりはありません。

勿論、この祈りは、三毒煩悩に毒されて苦しんでいる中国と韓国の人々の救いの為にも捧げられなければなりません。この祈り以外に、彼らを、そして私達自身を三毒煩悩から救い、世界を永続的な平和へと導く行動はないからです。


そして自分を救う為に


「何故、日本を陥れようとしている中国や韓国の人々の為に祈らなければいけないのか」と不満に思われるお方もいると思いますが、理由は二つあります。

一つは、中国や韓国の人々も、一部の権力者や支配者に都合のよい「思想教育」によって仏性を眠らされた被害者だからであり、もう一つは、彼らの救いを祈る事は、結局、私達自身を救う事になるからです。

スリランカや東南アジアの人々が、怨みを捨てて日本との友好関係を築いてきたという話をしましたが、結局それも、今になって見れば、日本の為というより、スリランカや東南アジアの人々の為だった事が分ります。

私達はまだ三毒煩悩に白旗をあげていません。仏性を眠らされ、三毒煩悩に身も心も売り渡してしまった中国と韓国の人々を救えるのは、結局私達しかいないのです。

彼らは、私達の行動を見て、「怒りや憎しみを向けてくる相手の救いを祈るなど、有り得ない。日本人は、気でも狂ったのではないか」と思うかも知れません。

もしかすると、それは彼らにとって、JR南浦和駅で起こった女性救出劇などとは比べ物にならないくらい、驚天動地の出来事かも知れません。

「これほど日本を非難攻撃しているのに、何故日本人は、我々の救いを祈れるのか。我々には理解できない」と言う驚きの声が聞こえてくるかも知れませんし、彼らの眼には、今まで一度も体験した事のない摩訶不思議な出来事に見えるかも知れません。

しかし、私が彼らの救いを祈ろうと言っているのは、気が狂ったからでも、彼らを驚かせたいからでも、私達が彼らより特別偉い人間だと思っているからでもありません。

ただ一つ言える事は、彼らに比べ、私達は、仏性という強い味方に守られている分、恵まれた立場に居るという事です。

仏性に巡りあえる機会というものは、そうざらに有るものではありません。その機会を与えられなければ、相手の救いを祈りたくても祈る事など出来ません。

貪り、怒り、怨み妬み憎しみを向けてくる人々、仇なす人々の救いを祈らせて頂けるという事は、それだけ私達が守られ、恵まれているからこそ、出来る事なのです。もし守られていなければ、私も彼らに対し、怒り、怨み妬み憎しみを返していたに違いありません。

「守られている私達の果報を少しでも彼らと分かち合いたい。恵まれている私達だから、まだ仏性に巡りあえない人たちに、その果報を分けてあげたい」と願うのは、ごく自然な心の動きではないでしょうか。

「継続は力なり」という言葉がありますが、彼らの救いの為に祈って下さる方が、一人でも二人でも出てきて下さる事を願ってやみません。

もし慰安婦問題が、その行動のきっかけを与える為に、神仏が私達に与え給うた慈悲の試練だとすれば、これほど有り難い事はないのではないでしょうか。

合掌

平成25年(2013年)8月16日


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(注1)「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」という六つの迷いの世界(六道)を、輪の周りを廻り続けるように、果てしなく彷徨い続けること。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注2)Reduce(リデュース)は、過剰生産を削減すること、
Reuse(リユース)は、使い回す(再利用する)こと、
Recycle(リサイクル)は、循環させて再生利用すること。
ワンガリ・マータイさんは、この3Rを一言で表す日本語の「勿体ない(MOTTAINAI)」を、3R運動の合言葉として、世界中に広める活動をしていた。

(注3)ワンガリ・マータイさんが、年々進行する地球温暖化や開発による森林破壊に対する環境保護と、貧しい住民の生活向上を目的に、1977年から非政府組織(NPO)として始めた運動。
ケニアにおける森林破壊による砂漠化を防ぐための植林に、貧困に苦しんでいる女性を動員したのは、彼女たちに資金や技術、教育、家族計画の知識を提供し、女性たちが何のために生きるのかを考えるきっかけを与えるためである。
この運動は、身の周りの森林や土壌を守る力となって、他のアフリカ諸国20か国余りに広がっている。

 

 

 

ワンガリ・マータイさん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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