桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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人生をよりよく生きるために(1)



この世のことはこの世で


私は、僧侶という立場上、多くの方々から、人生についての様々な悩みごとをお聞きする機会がございますが、時々あの世のことについて尋ねられることがあります。

「法嗣様、人間はみな死んだら、あの世へ逝かねばなりませんが、あの世は本当にあるのでしょうか。あの世には、地獄や極楽があると言われますが、本当にそんな世界があるのでしょうか」

私もまだ一度も死んだことがないので、「申し訳ありません。あの世が有るのか無いのか、よく分からないのです。あの世に地獄や極楽が有るのか無いのかもよく分かりません」と、正直にお答えしているのですが、私がそうお答えするのには、もう一つ理由があります。

それは、あの世のことは、あの世へ行ってから考えればよいと思っているからです。

お釈迦様の弟子に、マールンクヤという非常に理屈っぽいお弟子さんがいました。

或る日、お釈迦様に「私には、多くの疑問があります。世の中は有限なのか無限なのか。霊魂と肉体は同一なのか同一でないのか。死後の世界は存在するのかしないのか。どうかこれらの疑問にお答え下さい。もしこの疑問が解消されなければ、もうこれ以上お釈迦様のもとで修行することは出来ません」と申し上げたところ、お釈迦様は、「ここに毒矢に射られた男がいるとしよう。もしその男が「毒矢を抜く前に、私の疑問に答えて欲しい。この毒矢は誰が射たのか。どんな名前で、どこに住んでいるのか。弓や矢尻(鏃)や弓の弦は何で出来ているのか、この毒は何の毒で、矢羽は何という鳥の羽なのか。これらの様々な疑問が解消されない限り、この毒矢を抜いてはならない」と言ったら、その男はどうなるであろうか。恐らく疑問の一つも解決しない内に、毒が体中に廻って命を落とすであろう。お前がいま私に聞こうとしていることはそれと同じことなのだ。お前がいま為すべきことは、私の教えを素直に信じ、実践し、刺さった毒矢を抜くことなのだよ」と言って、マールンクヤを諭されたのであります。

これが、有名な「毒矢のたとえ」ですが、私たちがいま考えなければいけないのは、あの世のことよりも、この世のことであり、この世でいかに生きるべきかということです。

何故なら、私たちを悩ませ苦しめている様々な問題は、あの世にではなく、いま眼の前にあるからです。

要するに、この世のことはこの世で解決しておくべきであって、あの世まで持ってゆくべきではないということです。

この世で解決すべきことを、あの世まで持ってゆくということは、譬えれば、借金を背負ったまま、あの世へ旅立ってゆくようなものであり、来世では、借金を背負ったまま、新たな人生を始めなければなりません。

貸し借りは、何もお金や物だけではなく、人の為に生きた人は、功徳という貯金をし、人を苦しめて生きた人は、罪業という借金をした訳ですから、この世でその罪業の償いをしておかなければ、次の世へ行って業報という借金で苦しまなければなりません。

子供に苦労をかけられたり、身に覚えのないことでお金を取られたり、人の借金で苦しんだり、災難に遇ったり、濡れ衣を着せられたりするということは、みな前の世からの借金が、様々に形を変えて現れてきているからです。

菩薩様が、御法歌「頼め彼岸へ法のふね」の中で、

 他人のために 損しても
    それで前生(ぜんしょう)の 借り果たす
    天地の計算 狂いなし
  損をしたとて 怒るじゃない
    前生の借りが 済んだのだ
    損を拝めよ 人拝め

と詠われているように、他人に損をさせられたり、お金のことで苦しまなければならなかったり、様々な問題で苦しまなければならないということは、前の世からの罪業の借金を相続しているからであります。

一見、不平等で理不尽のように思われるかも知れませんが、天地の計算では、ちゃんと帳尻が合っているのです。ですから、様々なことで苦しまなくても良いように、この世で解決しておくべきことは、今のうちに解決しておかなければならないのです。


今しかない人生


この世のことはこの世の内に済ませておかなければいけない理由の二つ目は、私達が生きられるのは、永遠に今という時しかないからです。

仮にあの世があるとしても、やはりあの世の今しか、私達は生きられないのです。頭で考えれば、一年後も、十年後も、あの世もあるように思えますが、私達が生きられるのは、永遠に今という時しかありません。

要するに、今という一瞬一瞬を生きながら、その今が明日になり、一年後になり、十年後になり、あの世になるに過ぎないのです。

以前、百歳の双子の姉妹「金さん、銀さん」が世間の注目を集めましたが、「金さん、銀さん」が生きたのは、百年の人生ではなく、今という一瞬一瞬を、百年間積み重ねて生きただけなのです。

たとえその生涯が五十年であろうが、百年であろうが、二百年であろうが、そこにあるのは、今という一瞬一瞬を生きる人生だけであって、何の違いもありません。

日本人の平均寿命は男性が七十九歳、女性が八十六歳を越えていますから、人生は八十年も九十年もあるように思われるかも知れませんが、人生は今という時しかありません。

生きるとは、八十年、九十年の人生を生きることではなく、今を生きることであり、その今をどのように生きるかということなのです。

勿論、その今は、突然生まれた今ではなく、過去を背負い、未来につながっている今であることは言うまでもなく、私達は、過ぎ去った過去において、様々な思いをし、善根功徳も積み、悪業も重ねながら、今という一瞬一瞬を生きてきたのです。

この世における今という時は、その結果として存在しています。そして、その今は同時に、未来の今へとつながっているのです。

 過去の因を知らんと欲せば現在の果を見よ
    未来の果を知らんと欲せば現在の因を見よ
                  (釈尊)

 昨日を背負った 今日の日は
    明日を孕(はら)んで 過ぎてゆく
    大事にしよう 今日の日を
                  (法舟)


仏になるとは


これから私達が生きるであろう残された人生を考えた時、今をどのように生きるかが、非常に大きな意味を持ってくることがお分り頂けたと思いますが、以前、「お釈迦様もお大師様も菩薩様も、今を仏になって生きなさいと説いておられます」とお話したら、「それは死ねということですか」とおっしゃったお方がおられます。

「どうしてですか」と尋ねると、「昔から死んだ人のことを仏さんと言いますから」という答えが返ってきました。

恐らく世間には、この方のように、仏になることと死ぬことは同じだと誤解している方が少なくないのではないでしょうか。

仏になるとは、決して死ぬことではなく、また死ねば誰でも仏になれる訳ではありません。仏になるとは、死ぬことではなく、よりよく生きる智慧を磨き、真理と一体になって生きることです。

死んでしまっては、仏には成れません。と言うより、死は、仏になることとは、何の関係もありません。

人類史上、仏になられた最初のお方は、お釈迦様ですが、お釈迦様は二千五百年以上も前に御入滅、つまりお亡くなりになられました。

死ぬことが仏になることであるなら、お釈迦様が仏になられたのは死んだ時であり、それまでの八十年のご生涯は何だったのかということになります。

しかし、お釈迦様が悟りを開かれ、成道(成仏)なさったのは、三十五歳の時で、それから八十歳で御入滅されるまでの四十五年間、今という時を仏として生きながら、悩み苦しむ多くの人々の魂を救い、心を癒し、進むべき道を照らし、今をどのように生きるべきかを、自ら身を以て示されたのです。決して、死んだ時に仏に成られた訳ではありません。


人間の生死とは


その仏として生き抜かれた四十五年間の生涯が、肉体の死と共に終りを告げるものでしょうか。

確かに、お釈迦様の肉体はもうこの世にはありませんから、生物学上、医学上から見ても、すでに死んだお方ということになるでしょう。肉眼に見える世界しか信じないと言われるお方の眼には、お釈迦様は死んだ人と映っているに違いありません。

しかし、肉眼に見える肉体がなくなったからお釈迦様は死んだと、どこの誰が証明出来るのでしょうか。

お寺の境内に、知り合いのお方から頂いた「ノウゼンカズラ」の木がありますが、この木は春になると新芽が出て、やがて美しい朱色の花を咲かせてくれます。ところが、冬になると、見た眼には、まるで枯れ木のようになってしまうのです。

枝を折ってみると、中まで枯れていましたので、てっきり枯れたものと思い込み、捨ててしまおうとしたことがあります。

ところが、念のためにと思い、捨てるのを春まで待っていたら、枯れたと思っていた木から新芽が出て、再び美しい花を咲かせてくれたのです。肉眼には枯れたように見えていても、木はちゃんと生きていたのです。

こんな木もあるのだと、その生命力の強さに驚いたことを今でもよく覚えていますが、私は、肉体の死も同じようなものではないかと思います。

心臓が止まれば、その人は死んだと言われます。しかし、それは肉体という肉眼に見える部分だけを捉えて言っているに過ぎず、肉眼に見えない部分を含めたその人の全存在を捉えて言っている訳ではありません。

つまり、私達が言う人間の死とは、その人の死を客観的に証明した上で言っているのではなく、肉体という眼に見える部分が死んだから、その人を死んだと見なしているに過ぎないのです。

要するに、お釈迦様の肉体が灰になったからと言って、お釈迦様が亡くなったことを客観的に証明出来る人など、一人もいないのです。


お釈迦様のお釈迦様たる所以


そもそも、お釈迦様が肉体だけで生きられたお方でないことは、皆さんもご承知の通りです。

お釈迦様は、病める人々を癒し、見捨てられた人々をいたわり、苦しむ人々に無量の慈悲心をふりそそぎながら、来る日も来る日も、救いを求める人々の為に献身的に生きられたお方です。

そのお釈迦様の深い慈愛や、人々にそそがれた慈悲の心、そして、衆生救済に身命を捧げられたその生きざまが、果たして肉体の死と共に、いとも易々と消え去ってしまうものでしょうか。

答えは、明らかに否であります。

何故なら、お釈迦様をお釈迦様たらしめているもの、つまり、お釈迦様が仏として生きておられたことを証明するものは、お釈迦様の肉体ではないからです。

救いを求める人々にふりそそがれた限りない慈悲心、そして苦しむ人々の為に身命を捧げられたその献身的な生きざまこそが、お釈迦様のいのちそのものであり、お釈迦様が生きておられた証なのです。

それこそが、お釈迦様が仏として生きておられたことを証明出来る唯一の事実であって、肉体は、慈悲の化身としてのお釈迦様の精神(仏性)が宿っていた仮の器に過ぎません。

仮の器に過ぎない以上、極論すれば、お釈迦様が生きる為の器は、お釈迦様の肉体でなくてもいいのです。

例えば、慈悲の化身であるお釈迦様の慈悲心が、皆さんの肉体に宿ったら、その時から、皆さんは皆さんであると同時に、実はお釈迦様でもあることになります。つまりお釈迦様が皆さんの中で、皆さんと共に生きていることになるのです。

これは、宿る肉体が、他の誰かであっても同じことです。そしてこれが、お釈迦様が仏として生き続けるという意味だと思います。

ですから、もしお釈迦様が慈悲心のかけらもない、全く無慈悲なお方になってしまったと仮定したら、勿論そんなことはありえませんが、たとえお釈迦様の肉体はこの世に生きていても、お釈迦様はもう死んだも同然と言っていいでしょう。

何故なら、そこには慈悲の化身としてのお釈迦様は微塵も存在しないからです。

 肉身の 生死を見るは愚かなり
    心の生死を 生死とぞいう

という菩薩様の法歌がありますが、人間の生死は、肉体の生死ではなく、心の生死によって決まるということです。

最近、幼いわが子を虐待して死においやる事件が相次いでいますが、「泣き止まないから」と言って、まだ生まれてまもない乳飲み子を、虐待して死なせたり、育児を放棄して餓死させたり、小さな箱に押し込めて死なせたりする親の心は、たとえ肉体は生きていても、すでに死んでいるのも同然と言えましょう。

合掌

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