桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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地獄の中に仏あれば地獄なし(3)



「地獄へ行ってくれ」と言われたら


仮にお大師様、菩薩様から、「お前、悪いが、地獄へ行ってくれないか」と言われたとしましょう。皆さんなら、「地獄へ行ってくれ」と言われたら、どうなさいますか。

「私は嫌です。極楽なら喜んで行きますが、地獄へは行きたくありません。どうか地獄だけは勘弁して下さい」

そう答えるのが普通だと思いますが、これでは一心帰命の心とは言えません。

一心帰命とは、お大師様、菩薩様から「地獄へ行ってくれ」と言われたら、「はい、喜んで行かせて頂きます。地獄へでもどこへでも行かせて頂きます」と答えられる心です。

以前、菩薩様から夢の中でお授け頂いた言葉があります。

 生きるも死ぬも
    拾うも捨てるも
    在るがまま

この言葉は、一心帰命の心を教えられたものですが、お大師様、菩薩様から「地獄へ行ってくれ」と言われたら、「はい、分りました。喜んで地獄へ行かせて頂きます」と答えられる心に到達出来た時、初めて極楽が見えてくるのです。

その事を身を以て教えて下さったのが菩薩様です。

菩薩様が苦しみの極みの中からおっしゃった「有難い」という言葉は、極楽に居る人の言葉ですが、菩薩様がこの言葉を口にされたのは、地獄の苦しみの真っ只中に居られた時なのです。

地獄の苦しみの中にいる菩薩様の口から、「有難い」という、極楽にいる人にしか言えない言葉が出てきたという事は、菩薩様の心はこの時すでに、極楽におられたという事であり、お大師様に対する一心帰命の心を成就しておられたという事です。さもなければ、「有難い」という極楽に居る人の言葉が出てくる筈がありません。


入定とは代苦者として生きる誓い


菩薩様が一心帰命の心に住しておられた事は、御入定の大行を見ても明らかです。

世界広しと雖も、御入定をなさったお方は、紀州高野山に御入定なさった弘法大師様以外にはおられませんが、そのお大師様から「入定せよ」という示現を頂かれて御入定なさったのが、菩薩様なのです。

お大師様が御入定なさったのは、千百数十年前の承和二年(西暦八三五年)三月二十一日未明で、それ以来今日まで、生き仏として苦しむ人々と共に生き続けておられますが、そもそも御入定とは、どういう意味なのでしょうか。

真相をご存じない方は、「千年以上も長生き出来てうらやましいなあ」と思われるかも知れませんが、入定するという事は、ただ生き続ける事ではなく、人々の苦しみを代って背負いながら、末代までも生き続けてゆくという事です。

つまり、地獄で苦しむ人があれば、自らも地獄の苦しみを受け、餓鬼の世界で苦しむ人があれば、自らも餓鬼道の苦しみを共にしていくという誓いを立て、それを身を以て実践していくのが、御入定なのです。

「入定せよ」とは、「代苦者となって生きてゆきなさい。苦しむ人々が居なくなるまで、人々の苦しみを代って背負っていきなさい」という意味ですから、並大抵の精神では、とても出来る行ではありません。

一心帰命の心と不屈の菩提心がなければ、「入定せよ」と命じられても、到底出来るものではないのです。

しかし、菩薩様は、その道を敢えて選ばれたのです。その事は、菩薩様が残された法歌を見ても、明らかです。

 人救う われも人なら果つる身を
    定(じょう)に入るとも 惜しむことなし

 いつの日か 衆生に生身捧ぐ日の
    神仏はからい 待つぞうれしき

この法歌こそ、菩薩様がお大師様に対する一心帰命の心を成就しておられた何よりの証と言えましょう。


生死の中に佛あれば生死なし


道元禅師の著『正法眼蔵』の中に、次のような一節があります。

「生死(しょうじ)の中に佛あれば生死なし。但、生死即ち涅槃(ねはん)と心得て、生死として厭(いと)ふべきもなく、涅槃として欣(ねが)ふべきもなし。この時初めて生死を離るる分(ぶん)あり」

この中にある「生死」を「地獄」に、「涅槃」を「極楽」に置き換えてみて下さい。

「地獄の中に佛あれば地獄なし。但、地獄即ち極楽と心得て、地獄として厭ふべきもなく、極楽として欣ふべきもなし。この時初めて地獄を離るる分あり」

「地獄の中に佛あれば地獄なし」という言葉の意味は、代受苦の中で「有難い」とおっしゃった菩薩様の御心を見れば、すぐ分かります。

「お大師様と一体であれば、お大師様を信じ切る心があれば、たとえ地獄であっても、そこはもう地獄ではなく、極楽なのだ」という事です。

その事を、菩薩様は、身を以て実証して下さったのですが、逆に言えば、お大師様を信じ切る心がなければ、極楽であっても、そこは地獄に等しいという事です。

つまり、私達の思い方一つで、地獄が極楽にもなれば、極楽が地獄にもなるのであり、だからこそ、自分自身がいかに思い方を変えていくか、一切を在るがまま受け入れていけるか否かにかかっているという事です。

世間には、「地獄はどこまで行っても地獄であり、極楽はどこまで行っても極楽なのだ。そして遙か彼方にそういう理想郷があり、私達は死んでからそこへ生まれ変わるのだ」と言われるお方もいますし、「天国や神の国があるのだ」と信じている人々もいます。

しかし、私は、極楽とはそのような理想郷を言うのではなく、たとえ地獄であっても、み仏と一体であれば、お大師様、菩薩様と一体であれば、お大師様、菩薩様を信じ切っていれば、そこはもう地獄ではなく、極楽だと言い切れる境地こそ、真の極楽と呼ぶに相応しいと思うのです。

何故なら、この心さえ成就出来れば、その人はすでに、生きたままで、極楽にいるからです。

否、生きたままと言うより、生死を超えていると言った方がいいでしょう。つまり、極楽とは、死んでから往くところではなく、いつでも目の前に開かれる世界なのです。

そして、この境地に到達出来て初めて、私達は、生も死も超えた真実の極楽を見る事が出来るのであり、これが道元禅師の言われる「「生死(しょうじ)の中に佛あれば生死なし」という言葉の真相だと思います。

勿論、この心に到達するまでは、様々なお計らいや試練があります。

先ほどお話した敦賀のお方のように、自ら悶々とする事もあるでしょう。否、悶々とする事があって当然ではないかと思います。

誰も彼もがみな、聖人君子ではないのですから、最初から思い通りに行く筈がありません。苦しみもあれば、悩みもあっていいのです。

しかし、たとえ自分の思い通りにはいかなくとも、最後にはここまでの心になって欲しいというのが、お大師様、菩薩様の悲願であり、み仏の願いなのです。

お大師様、菩薩様が、あの手この手の手立て(方便)を以て私達の心を叩かれるのは、その為ですが、最初にお話したように、私達の命には限りがあります。ですから、命ある内に、生きている内に、何としてもここまで来て欲しいと言って、泣けぬ涙で慈悲の鞭を打たれるのです。

その大慈大悲のお計らいを悟らせて頂き、一心帰命の心に到達する事が、まさに私達に課せられた修行と言えましょう。


水は方円の器に随う


悟りは、よく水に譬えられます。

水は、ご存知のように、冷やせば固体(氷)になり、熱すれば気体(水蒸気)になります。しかし、氷になっても、水蒸気になっても、水自体の本質は全く変わりません。

仏教に「体、相、用(たいそうゆう)」という言葉があります。

「体(たい)」とは、そのものの本質を現わし、「相(そう)」とは、そのものの姿形を現わし、「用(ゆう)」とは、そのものの働きを現わしますが、これを水に当てはめますと、水の本質は何も変わっていませんが、冷やされれば固体になり、熱せられれば気体になり、水の姿形(相)は、どのようにも変わってゆきます。

姿形が変われば、当然、働き(用)も変わってゆきます。例えば、氷になれば、その冷気で食物を腐敗から守ったり、熱を下げる働きをしてくれますし、水蒸気になれば、蒸して食物をふっくらさせたり、乾燥した部屋に湿気を与えてくれます。

しかし、姿形(相)や働き(用)が変わっても、水の本質そのもの(体)は、全く変わらないのです。

この水の千変万化、変幻自在な本質が、悟りに喩えられる訳ですが、「水は方円の器に随う」と言われるのも、同じ意味です。

四角い容器に入れれば四角くなり、丸い容器に入れれば丸くなり、水はどのようにも姿形を変えますが、だからと言って、水は、自分の本性は失いません。

しかも、その本性を失わないにも拘らず、水は、その時々に応じて、自由自在に自分の姿を変えてゆくのです。

京都貴船におられた脇坂リヨ様は、よく「水を悟りなさい」とおっしゃっておられましたが、これは、「水のような自由な心に成りなさい」という意味である事は明らかでしょう。

何故、水は自分の本性を失わないのに、自由自在にその姿形を変えられるのでしょうか。それは水が一切を在るがまま受け入れているからです。

「四角い容器に入りなさい」
 「はい、分かりました」
 「丸い容器に入りなさい」
 「はい、入ります」

このように、水は、自分の都合や執着を離れ、一切を在るがまま受け入れているのです。しかし、だからと言って、水自体の本質は全く失っていません。

本質を失くしていないのに、姿形を自由自在、融通無碍に変えていくのが水であり、ここに水が悟りに喩えられる所以があります。

もし私達が、水のような心、つまり、どのような不都合な事が身に降りかかってきても、それを在るがまま受け入れてゆける心になれれば、いかなる苦難と雖も、私達を苦しめる事は出来ないでしょう。

否、そればかりか、その心を成就した暁には、み仏の心を動かし、妙不可思議なお計らいも頂けるに違いありません。神通力が働き、こんな事は不可能だというような事も、可能になってくるのです。

しかし、その通力を頂く為には、余程の覚悟をもって、一心帰命の心に到達するべく精進しなければなりません。

何故、み仏は、そこまでの心を私達に求められるのでしょうか。

それは、命ある内に、一人残らず救いたいからであります。

因縁を解いて救済したいからこそ、様々な試練や厳しいお計らいを与えられるのです。お大師様、菩薩様から見れば、私達はみなわが子も同然です。そのわが子を憎くて叩く親はいません。やはり、命ある内に何としても救いたい、目覚めて欲しいからこそ、慈悲の鞭を打たれるのです。


分別心を無くせ


前にもお話したように、これが幸せだ、これが不幸だ、これが極楽だ、これが地獄だと決めるものは何もありません。決めるのは、自分自身です。

しかも、自分の心の中に分別心がある内は、極楽は決してその姿を見せてくれません。

お大師様、菩薩様から、「悪いが、地獄へ行ってくれないか」と言われて、「はい、分りました。喜んで地獄へ行かせて頂きます」と答えて行く地獄は、もはや地獄ではありません。

何故なら、お大師様、菩薩様と一体だからです。

反対に、お大師様、菩薩様がおられない極楽は、地獄と言ってもいいでしょう。

道元禅師がおっしゃった、「生死の中に佛あれば生死なし」です。「地獄の中に佛あれば地獄なし」です。たとえ地獄であっても、お大師様、菩薩様と一体であれば地獄等どこにもないのです。

しかし、自分自身の心の中に「地獄は嫌だ」という分別心があると、お大師様、菩薩様の言葉に、素直に従えないのです。

この分別心を失くせば、お大師様、菩薩様のお指図に従えるのです。「地獄へ行ってくれないか」と言われた時も、「はい、行きます」と答えられるのです。

しかし、「極楽は良いけど、地獄は嫌だ」という分別心があれば、そうは言えないのです。

この分別心がなくなって、「はい、行きます」と言えたところが、極楽なのです。地獄が地獄ではありません。

「お大師様、菩薩様と一緒だったら、地獄へも喜んで行きます」と言えた時、初めて本当の極楽が見えてくるのです。

ですから、地獄、極楽は、この世にも、あの世にもあります。自分が行く所へ、どこまでも付いて来るのです。

この世が地獄の世界だから、あの世に極楽の世界があるのではありません。「あの世の極楽浄土へ往生出来ます」と説く宗派もありますが、そんな理想郷を未来の彼方に夢見ても、極楽の扉は永遠に開かれないでしょう。

極楽があるところには、必ず地獄もあります。この世だけではなく、あの世にもあります。地獄、極楽は一体であり、紙の裏表なのですから。

お大師様、菩薩様から「お前、地獄へ行ってくれ」と言われた時に、「はい、行きます」と言えるようになった時、初めて本当の極楽が見え、身に余る様々なお計らいも頂けるのです。妙不可思議も見せて頂けるのです。

そう言い切れる心が、先ほど言った一心帰命の心です。


災難をのがるる妙法とは


良寛和尚の言葉に、こんな言葉があります。

「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候」

「災難に遭う時は災難に遭いなさい。お迎えが来た時は、素直に「有り難うございます」と言って逝きなさい。死ぬ時は死になさい。これが災難を逃れる唯一の方法ですよ」という事は、災難が災難なのではなく、災難を在るがまま受け入れられない心が、本当の災難だという事です。

勿論、誰も災難に遇いたくありません。災難は何としても避けたいのです。死にたくないのです。長生きしたいのです。

この「無難に生きるのは良いが、災難に遇うのは嫌だ。生きるのは良いが、死ぬのは嫌だ」という心が、道元禅師の言われる「生死」です。

しかし、お大師様、菩薩様を信じ切る心があれば、お大師様、菩薩様と一体であれば、どんな不都合な事でも素直に有難く受け入れられるのです。在るがまま受け入れられるのです。

良寛さんが、「その心が災難を逃れる唯一の道ですよ」とおっしゃっておられるのは、そういう心です。

神仏を信仰するという事は、「これは良いけど、あれは嫌だ。極楽は良いけど、地獄は嫌だ」という分別心や執着心を離れて、在るがまま受け入れる心を作らせて頂くという事です。

ですから、地獄が地獄、極楽が極楽なのではありません。「地獄は嫌だ」という心が、地獄を作り、「地獄でも喜んで行かせて頂きます」という心が、極楽を見せてくれるのです。

地獄が極楽になり、極楽が地獄になるのは、幸不幸というものが、私達の思い方一つにかかっているからです。

極楽を求めて、お経に説かれているような十万億土彼方に行く必要はありません。自分の居る場所が、極楽になるのです。病気であっても、病気をしているその六尺病床の上が、極楽になるのです。

ですから、地獄も極楽も、幸も不幸も、何処からもやって来ません。全ては自分自身の足もとにあります。

菩薩様が苦しみの極みの中でおっしゃった「有り難い」という言葉、そして「お大師様は、ただ信じるのではなく、信じ切らなければいけない」とおっしゃった言葉は、一心帰命の心を成就された菩薩様にしか言えない言葉だという事が、これでお分り頂けるのではないでしょうか。

「極楽へ行ってくれないか」と言われたら、誰でも喜んで「はい」と答えられるでしょう。極楽は誰もが行きたい所なのですから。

しかし、地獄へは誰も行きたくないのです。極楽へ行きたいのです。それが人情です。

しかし、「菩薩様のお指図であれば、喜んで地獄へも行かせて頂きます」と答えられなければ、本当の極楽へは行けないのです。そう言い切れた時、その人は、もう菩薩様と一体であり、すでに極楽に居る人です。

お大師様、菩薩様と一体であれば、地獄も極楽となり、お大師様、菩薩様を信じ切る心がなければ、極楽も地獄となるのです。

どうかその事を深く心に銘じて頂き、お大師様、菩薩様の御心に素直に従えるか否かを、自分自身の心に問うて頂きたいと思います。自分はお大師様、菩薩様のどのようなお指図にも従えるかどうかを、自問自答して頂きたいと思うのです。

菩薩様が、

 病むも好し 生きるも死ぬもみんな好し
    弥陀の救いの 中なればこそ

と詠っておられるのも、同じ心からであり、み仏と一体であれば、病む事も、死ぬ事も、すべて好しと言い切れるのです。

最初にお話したように、お彼岸とは、この一心帰命の心に目覚めて頂く日であり、その心に目覚めて頂いて、生きている者同士がお互いに助け合い、支え合い、真心を供え合う事の大切さに目覚めて頂く日です。

そしてその心に目覚めて頂く事が、何よりの先祖供養となり、ご先祖に手向ける供養の花となるのです。

重ねて申しますが、お大師様、菩薩様、み仏様を信じ切る心がなければ、極楽も地獄です。お大師様、菩薩様を信じ切る心があれば、地獄も極楽です。

地獄を見るか、極楽を見るかは、あなたの心一つにかかっているという事です。

合掌

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