桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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「宗教成合の郷」命名の意味(1)



14年間の重み


昭和59年(1984年)暮れに、奈良県桜井市にある法楽寺の住職に就任してから、平成16年(2004年)春、予てよりの悲願であった高野山法徳寺を山梨県北杜市須玉町若神子の聖地に開創させて頂くまでの約20年間を振り返ってみますと、様々な出来事が走馬灯の如く蘇ってまいりますが、その中で最も衝撃的な出来事と言えば、何と申しましても、平成2年4月13日に、菩薩様が御年71歳にて高野山法徳寺へ御入定なさった事であります。

菩薩様は御入定されるに当り「先に法徳寺へ行き、皆の帰りを待つ」と仰せになり、一足先に高野山法徳寺へ帰る事を御宣言なさいましたが、この日を境として、私達の信仰生活は、180度の転換を余儀なくされたと言っても過言ではありません。

何故なら、高野山法徳寺は、菩薩様御入定の聖地としてすでに神仏のお計らいによって準備されてはいましたが、まだこの地上には存在せず、私たちはまず、菩薩様が御入定なさった高野山法徳寺開創の聖地を探し求めるところから出発しなければならなかったからであります。

御入定から高野山法徳寺開創までの約14年間は、まさに菩薩様が待つと仰せになった開創の聖地を探し求めて、法縁の皆様方と共に歩み続けた14年間でした。

山あり谷あり、笑いあり涙ありの道のりは、今となっては懐かしい思い出となっておりますが、改めて振り返ってみますと、この14年間は、高野山法徳寺を開創する為には、どうしても乗り越えて来なければならない14年間だったように思います。

この間に頂いたお計らいと、お計らいを通して悟らせて頂いた様々な体験は、私達にとってかけがえのない財産であると同時に、末代までも語り伝えていかなければならない菩薩様の生きておられる証でもありますが、数知れぬお計らいと悟らせて頂いた体験の積み重ねがあったからこそ、高野山法徳寺の開創は実現したと言っても過言ではありません。

いま私達がこうして、様々なお計らいの裏に隠されたお大師様、菩薩様のみ心を悟らせて頂けるようになったのも、すべて14年間に頂いたお計らいと、数え切れない悟りと体験のお蔭なのであります。

その意味でこの14年間は、私達が今の境地に到達する為には、どうしても歩んで来なければならない14年であったとも言えましょう。

今まで頂いたお計らいと、悟らせて頂いた体験の数々は、毎月の説法でお伝えすると共に、折に触れて『救済』誌上に御紹介してまいりましたが、ここにお話しする「宗教成合の郷」命名に関するお計らいもまた、菩薩様の生きておられる証として、後世に語り伝えてゆかなければならないお計らいの一つと申せましょう。


すぐに悟らせて頂けるお計らい


今まで菩薩様から頂いたお計らいは枚挙に遑もありませんが、一口にお計らいと言いましても、その意味がすぐに分るお計らいと、順々に分って来るお計らいと、時期が来なければ分らないお計らいがあります。

すぐに分らせて頂けるお計らいと言えば、身代り升地蔵菩薩様をお祀りさせて頂いた時のお計らいがあります。

高野山法徳寺御開創の聖地が明らかになった翌年の平成13年4月13日の春の大法要において、菩薩様が霊夢で御感得なさった身代り升地蔵菩薩様をお祀りさせて頂き、開眼法要を勤めさせて頂こうと、予てよりお地蔵様の制作を進めてまいりましたが、同年3月6日、お地蔵様の制作をお願いしていた仏壇屋さんから、お地蔵様が出来てきたというお電話があったのです。

私は、3月21日のご縁日が終ってからお厨子にお祀りさせて頂き、4月13日に御開眼させて頂くつもりでしたので、それまで預かっておいて欲しいとお願いすると、「お厨子にきちんと納まるか、前もって確認したいので、開眼法要の前に是非一度納めさせて頂きたいのです。不具合な箇所があれば、手直しもさせて頂きたいのです」と言われるので、一度持ってきて頂く事にしたのです。

お地蔵様は、予想以上の出来栄えで、升の中に凛とたたずむその御姿を拝見した時は、まるで菩薩様が帰って来られたようで、目頭が熱くなりましたが、仏壇屋さんが「どうしましょう。このままお厨子の中にお祀りしておきましょうか」と仰ったので、私は、「やはり3月21日以降にお祀りしたいので、それまで預かっておいて下さい」とお願いして、一旦持って帰って頂いたのです。


右足の遊び


ところが、その日の夜、思いもかけぬお計らいを頂いたのです。

子供を寝かせようとしていたところ、いきなり子供が「右足が痛い。段々痛くなってくる」と云って泣き出したのです。

余りに急な事で何が起ったのか考える暇もなく、私は、泣き叫ぶ子供を抱きかかえながら、最寄の救急病院へ連れて行ったのですが、何故か、先生が右足の痛い部分に触っても、もう痛がらないのです。

子供も不思議そうな顔をしながら「もう痛くないよ」と言うのです。つい先ほどまで痛さで歩く事も出来ず、泣き叫んでいた子供が、「痛くない。もう歩けるよ」と言うのです。

狐につままれたような気持ちで自宅へ戻り、色々思案している時、ふと脳裏に浮かんだのは、その日仏壇屋さんが仰った言葉でした。

「法嗣様、実はこの仏像に一つだけ仏師さんの遊びがあるのです。どこかお分りになりますか」

「遊び?」

「この仏像を造るに当って、仏師さんがこだわったところです」

「分らないけど、どこですか?」

「右足をご覧下さい。仏様は普通、両足を揃えて立っておられるのですが、このお地蔵様は、右足を少し前へ出しておられるのです。苦しむ人々を救いに行かれるところを、右足に現わしておられるのです。これが、仏師さんの遊びなんです」


執着心から離れよ


こう説明してくれた仏壇屋さんの言葉を思い出した瞬間、私は、「娘の右足の痛みの原因は、これだったのか」と、直感しました。

私は、3月21日のご縁日が終った後でなければ困ると言って、折角お厨子の中に入られたお地蔵様を一旦持って帰って頂いたのですが、お地蔵様が予定より早く出来てきたのは、早くお祀りして供養しなければならない理由があったからなのです。

菩薩様はきっと、お彼岸前にお地蔵様を祀らせ、4月13日まで供養させようとしておられたに違いありません。

ところが、私が自分の計らいに執着して、菩薩様のお計らいを悟ろうとしないから、納め地蔵に生まれた娘の右足を通して、お地蔵様の右足に遊びがあると云っていた仏壇屋さんの言葉を思い出させて、思い違いを悟らせようとなさったのです。

私は、自分の計らいに執着して菩薩様のみ心を悟ろうとしなかったばかりか、子供にまで辛い思いをさせてしまった事を、深く懺悔しました。

そして早速その翌日に仏壇屋さんに連絡して、お地蔵様を持って来て頂き、4月13日のご披露までご供養させて頂いたのであります。


順々に悟らせて頂けるお計らい


順々に悟らせて頂いたお計らいと言えば、汗露水をお授け頂いた時のお計らいもその一つと言えましょう。

平成17年6月、地下水掘削を発願し、8月早々から地下水掘削に着手したところ、掘削と並行して庫裏の洗面台の歯ブラシ立てに深さ1センチほどの水が溜まるという不思議な現象が始まったのです。

水はその後も溜まり続け、結局21回溜まったのですが、やがて、この水は、掘削中の地下水であると同時に、菩薩様が身代り升地蔵菩薩の御姿となって流しておられる代受苦の御汗を意味する、千年に一度頂けるか否かと言われる尊い聖水である事が明らかになったのであります。

しかし、菩薩様は、ただ代受苦の御汗を意味する聖水を授ける為だけにこのようなお計らいをなさった訳ではなく、汗露水と名付けられたこの聖水を授けられた真の目的は、夢殿の回廊廻りと汗露水によって、私達が背負う苦しみの因縁を解く為だったのです。

そして、2ヶ月余り後の10月20日、御同行のFさんが1年ぶりに法徳寺へ帰郷されましたが、Fさんを帰郷させた真の目的も、因縁を解く道を示す為の段取りである事が、様々なお計らいを通して明らかになってきたのであります。

汗露水を頂く事が出来たのは、その年の12月13日の納め菩薩でしたが、その後も1年近くに渡って因縁を解く為のFさんの回廊廻りの行は続き、Fさんが御自身と御縁者の因縁を解いて高知のご自宅へ帰られたのは、法徳寺への帰郷から数えてちょうど13ヶ月目に当る翌年(平成18年)の11月21日でした。

お計らいは、地下水掘削を始めた平成17年8月から翌平成18年11月まで続きましたが、その間、数々のお計らいの意味が順々に分っていったのであります。


時期が来なければ悟れないお計らい


時期が来るまで意味が分らないお計らいも数知れませんが、菩薩様の御廟が八角円堂の夢殿と決められたお計らいもその一つです。

私たちがお計らいによって奈良・斑鳩(いかるが)の法隆寺へ導かれ、そこで菩薩様の御廟は、四角形でも六角形でもなく、八角形の夢殿にせよとのお指図を頂いたのは、法徳寺の発足から遡ること13年前の平成3年4月11日でした。

この日は、奇しくも聖徳太子様の1370年御遠忌の正当日で、その為この日は、秘仏とされている夢殿の救世観音像が特別に御開帳されており、そのお計らいによって私たちは、夢殿において普門法舟大菩薩様にお遇いさせて頂き、菩薩様の御廟を八角円堂の夢殿にせよとのお指図を頂いたのであります。

それから13年後の平成16年4月13日に高野山法徳寺が発足し、半年後の同年10月21日、菩薩様の御廟である夢殿の落慶法要が厳修されましたが、この時もまだ、菩薩様の御廟が八角形の夢殿と決められたお計らいの意味は分りませんでした。

その意味が明らかになったのは、高野山法徳寺の根本経典とも言うべき御法歌「頼め彼岸へ法のふね」を刻んだ49基の歌碑が、夢殿の周囲に完成したのを記念して、歌碑の開眼法要が営まれた平成17年4月13日でした。

この時ようやく、菩薩様の御廟が八角円堂の夢殿と決められたのは、その周囲に、49基の歌碑を建立する為であった事が分ったのであります。

もし菩薩様の御廟が、四角形や六角形のお堂であれば、49基の歌碑を等分に建立する事は不可能であり、正八角形の夢殿であるからこそ、49基の歌碑を、正面を除いた他の七辺に、7基ずつ等分に建立する事が出来るのです。

つまり、八角円堂が菩薩様の御廟の形として決められたのは、49基の歌碑を建立するのに最も相応しい形だったからであります。


夢殿の名前の由来


それだけではありません。菩薩様の御廟が「夢殿」と命名された事にも、深い意味があったのです。

夢殿と言えば、法隆寺の夢殿が余りにも有名ですが、法隆寺の夢殿は、聖徳太子様の霊夢に金色に輝くみ仏が現れ、太子を導いたという伝説に基づいて名付けられたと言われています。

御本尊の救世観世音菩薩像は、聖徳太子様御自身のお姿だと言われていますが、実は、法徳寺の御廟にお祀りされている秘仏の身代り升地蔵菩薩様も、法舟菩薩様の霊夢に御出現なさったお地蔵様であると同時に、代受苦をしておられる菩薩様御自身の御姿なのです。

聖徳太子様が御自身のお姿である救世観世音菩薩様を霊夢で感得なさった事と、法舟菩薩様が代苦者としての御自身のお姿である身代り升地蔵菩薩様を霊夢で感得なさった事を考え合せますと、菩薩様の御廟が夢殿と命名されたのは当然と言えましょう。


身代り升地蔵尊と四十九基の歌碑


周囲に49基の歌碑が建立された事にも、非常に意味深いものがあります。

何故なら、49という歌碑の数は、菩薩様が身代り升地蔵菩薩様を感得する為に代受苦の御汗を流された日数だからであります。

昭和58年5月24日、菩薩様は突然、激しい頭痛に襲われ、それ以来、滝のような汗をかく日々が何日も続きました。

医者に診てもらっても原因が分からず、床につくようになってから37日目の6月29日未明、菩薩様は、霊夢にて、飛び散る灼熱の汗を流しながら、升の中に立っておられるお地蔵様を感得なさったのです。

不思議な事に、菩薩様のお体は、その霊夢をご覧になってから快方に向かい、原因の分からぬまま床に就かれてより数えて49日目の7月11日に、ようやく床を離れる事が出来たのです。

この時、霊夢で感得なさったお地蔵様こそ、菩薩様の御廟「夢殿」の御本尊にして、私たちに代り、重き罪業を背負いながら代受苦の御汗を流しておられる菩薩様ご自身のお姿を映した身代り升地蔵菩薩様なのですが、夢殿の周囲に49基の歌碑が建立されたのは、身代り升地蔵菩薩様を感得なさった49日間の代受苦行と無関係ではありません。

御存知のように、49基の歌碑には、御法歌「頼め彼岸へ法のふね」49首が刻まれていますが、菩薩様が三千首余りの法歌の中から49首を選ばれて御法歌「頼め彼岸へ法のふね」を編まれたのは、身代り升地蔵菩薩として衆苦の御汗を流された49日間の代受苦行が、その根底にあるからであります。


仏として生れ変る為の49日間


それにしても何故菩薩様は、身代り升地蔵菩薩様を感得する為に、49日間の代受苦行をしなければならなかったのでしょうか。

この49という日数は、仏教では、亡くなった方が来世に生まれ変わる為に要する期間(中陰)を現わし、早い人では7日目に、遅い人でも49日目には必ず来世へ生まれ変わると言われており、その為に7日毎の忌日が7回設けられているのであります。

菩薩様が49首を選んで「頼め彼岸へ法のふね」を編纂されたのは、亡くなられたお方を供養する為でもありましょうが、菩薩様の悲願は、この世で苦しむ人々を救済する事(現世救済)であり、お大師様が説かれた「人みな仏になれる」という即身成仏の教えを、一人でも多くの皆様に、身を以て実証して頂く事です。

つまり、全ての人々に仏の子として生まれ変わって欲しいという願いを込めて選ばれたのが、生まれ変わりの数字を意味する49首の御法歌「頼め彼岸へ法のふね」なのです。

ですから、夢殿の周囲に建立された49基の歌碑は、49人という奉納者の数ではなく、「全ての人々に生き仏の子として生まれ変わって欲しい」との願いが込められた生れ変りの数字なのです。

要するに、「49基の歌碑に刻まれた御法歌(仏法)の舟に乗って、苦しみの此の岸から、極楽の彼の岸へ渡って欲しい。そして生き仏の分身となって、一人でも多くの苦しむ人々を彼の岸へ渡すその手伝いをして欲しい」との願いを、生まれ変わりの数字である49基の歌碑に託しておられるのです。


菩薩様の魂の叫び


そして、その願いの源はどこにあるかと言えば、身代り升地蔵菩薩として灼熱の御汗を流された49日間の代受苦行にある事は云うまでもありません。

即ち、灼熱の汗を流し続けた49日間の代受苦行によって、菩薩様は、身代り升地蔵菩薩としての使命に目覚められ、お大師様と不二一体の生き仏として生まれ変られたのであります。

その代受苦行の体験があるからこそ、あの世へ生まれ変る為の期間と云われる49日間は、菩薩様から見てもはや、ただすべての人々が死んであの世へ生まれ変る為の期間ではありえません。

即ち、この49日間は、菩薩様が身代り升地蔵菩薩として生まれ変わる為に欠かせなかった数字であると同時に、すべての人々が、生きている今の世で仏の子として生まれ変れる事を教える数字でもあるのです。

だからこそ、菩薩様は、49日間の代受苦行によって生まれ変った証である身代り升地蔵菩薩の御姿を夢殿に祀らせ、更にその周囲に、身代り升地蔵菩薩となって代受苦の御汗を流した49日間を象徴する49基の歌碑を建立させて自らの分身とし、すべての人々が生き仏の分身として生まれ変れる事を教える象徴とされたのであります。

そしてその悲願を成就する為に示されたのが、まさしく御法歌「頼め彼岸へ法のふね」49首が刻まれた歌碑の周囲を廻る御回廊廻りの行と、代受苦の御汗を意味する汗露水によって、因縁を解く道なのであります。

まさにこれこそ、苦しみの因縁を解き、一人でも多くの人々を救い、生き仏の子として生まれ変らせたいと願う菩薩様の魂の叫びであり、悲願の現れと申せましょう。

合掌

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