桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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水槽で 泳ぐ金魚の様みれば

われも宇宙の 金魚なりけり




梵天勧請の真相


この法歌は、菩薩様が、水槽で泳いでいる金魚をご覧になり、「自分も金魚と同じように、宇宙という水槽の中で、限りある命を生きている身に過ぎない」と悟られた無常の境地を在るがまま詠まれた法歌ですが、この法歌は、明けの明星をご覧になって大いなる悟りを開かれたお釈迦様の境地とも相通じるものがあります。

伝えられるところによれば、菩提樹の下でこの世の真理を悟られたお釈迦様は当初、「私が悟った法(真理)を説いても、人々には理解出来ず、徒労に終わるだけであろう」と、法を説くことをためらったと言われています。

ところが、そこに梵天(注1)が現れ、「どうかいま悟られた法を、苦しむ人々のために広くお説き下さい」と強く懇願したため、お釈迦様は、人々に法を説くことを決意されたと言うのです。

「梵天勧請」と言われる有名な逸話ですが、もしこの時、梵天が懇願していなければ、お釈迦様の口から悟りの法が説かれることはなく、仏教が世に広まることもなかったことを考えれば、「梵天勧請」は、仏教がこの世に広められるか否かを決定付けた極めて重要な出来事と言わねばなりませんが、ここに登場してくる梵天とは、何を現しているのでしょうか。

表面的に解釈すれば、仏教の守護神となった古代インドのバラモン教の主神の一人、ブラフマー神のことですが、私は、お釈迦様の心の外に存在する神と言うより、お釈迦様の心の奥底から湧き上がってきた慈悲心を、梵天として象徴的に表現したものではないかと思います。

つまり、「梵天勧請」とは、この世の真理を悟られたお釈迦様が、心の奥底から沸々と湧き上がってきた慈悲心にもよおされて、水が高きから低きに流れるが如く、慈悲心のおもむくままに法を説く決心をされた心象風景を、梵天の勧請によって人々に法を説く決心をされたという形で擬人化したものではないかと思うのです。

その理由は、お釈迦様に説法をうながした神が、世界の維持をつかさどるヴィシュヌ神でも、破壊をつかさどるシヴァ神でもなく、世界の創造をつかさどるブラフマー神(梵天)だからです。

お釈迦様の心の奥底から沸々と湧き上がってきた慈悲心を、世界の創造をつかさどるブラフマー神として擬人化したのは、この慈悲心こそが、安寧と幸福に満ちた世界を創造する神の正体に他ならないからです。

世間には、梵天勧請は仏教徒がブッダと仏教を権威づけるために創作した作り話だと言う人もいますが、真理を悟られたお釈迦様の内から湧き上がってきた慈悲心を、このような形で表現したに過ぎず、決して架空の物語ではありません。

もし梵天勧請が架空の作り話であれば、お釈迦様が菩提樹の下で大いなる悟りを開かれたという事実そのものも、架空の作り話と言わねばならないでしょう。

何故なら、慈悲心そのものが、無常の悟りの中から湧き上がってくる仏の心であり、もしお釈迦様が無情の域に到達していなければ、苦しむ人々を救いたいという慈悲心が沸々と湧き上がってくることもなく、梵天勧請の逸話が語られることもなかった筈だからです。

もし梵天勧請の逸話が語り継がれていなければ、私たちは、お釈迦様のお悟りを疑わなければならなかったも知れません。

私たちが忘れてはならないのは、梵天勧請として描かれた慈悲心が、お釈迦様の心の奥底から沸々と湧き上がってきたのは、お釈迦様が明けの明星をご覧になって、この世の大法を悟られ、無常の域に到達されたからだということです。

その意味で、梵天勧請の逸話は、お釈迦様が間違いなく無常の域に到達しておられたことを、後世の私たちが知るかけがえのない逸話と申せましょう。


生きるも死ぬも在るがまま


現在、日本人の平均寿命は、男性が七十九歳余り、女性が八十六歳余りですが、もし男性の平均寿命が五千歳、女性の平均寿命が六千歳だったらどうでしょうか。

「お爺さん、いまお幾つですか」

「私ね、まだ二千五百歳です。お婆さんは幾つになりましたか」

「私、今年で三千歳になったばかりです」

こんな世の中になったら、もう有り難くも何ともないのではないでしょうか。百年にも満たない限りある命だからこそ、今生かされているこの命が有難く、尊く、愛しいのです。そして、移りゆく限りある命だからこそ、お互いがそのことを自覚し、慈悲心を施し合わねばいけないのです。

菩薩様が法歌に詠われたように、「金魚も自分も同じだ。自分は、他の人々とも、道を歩いている犬や猫とも、空を飛ぶ鳥とも、道端に咲く草花とも同じなのだ。お互いに無常の中にいる身なのだ」という無常の境地が開けてくると、自分以外のものに対する慈悲心が、自然に湧いてくるのです。

「一期一会」という言葉がありますが、今日という日は二度と巡ってきません。その今日という日とも、今日という日に高野山法徳寺へお参り下さった皆さんとも、今日夜空に輝いている月や無数の星たちとも、一期一会の出会いであり、別れなのです。

来月も再び、今日お参りして下さった皆さん全員と会えるかどうか分りません。ましてや一年後、五年後、十年後のことなど分かる筈がありません。

だからこそ、今の出会いが有難く、尊く、かけがえがないのです。今日という日とも、今日のお天気とも、二度と巡り合えない一期一会の出会いなのですから。

他を慈しむ心(慈悲心)とは、二度と巡り合えない最初で最後の出会いであり、別れであり、移ろいゆく限りある身であるからこそ、今日という日を無駄にせず、今日の出会いを大切にしていこうという心持ちであり、その慈悲心の根底にあるのが、まさに無常の悟りなのです。


沈む夕陽に知らぬ顔


皆さんの中には、元旦に初日の出を拝まれたお方が大勢おられると思います。 山梨では毎年、富士山の頂上から昇る初日の出、いわゆるダイヤモンド富士が拝めることから、ダイヤモンド富士を拝もうと、全国から多くの人々が来県され、初日に向かって、万歳三唱をしておられます。

ところが、その前日の大晦日に、西の空に沈む夕陽に向かって「今年も一年間お世話になりました。有難うございました」と言って、感謝の祈りを捧げている人を、何故か見かけたことがありません。

御法歌「頼め彼岸へ法のふね」の中に
  朝日に感謝は するけれど
    沈む夕陽に 知らぬ顔
    今日も一日 ありがとう
 という法歌がありますが、私たちもオギャーと昇ってきたからには、必ず最後は沈んでいかなければいけないのです。その私たちと、西の空に沈む夕陽と、どこが違うのでしょうか。

最後が来るのは、何も昇る朝日や人間だけではありません。私達が住んでいる家屋敷も、乗せて頂く自動車も、毎日お世話になっているテレビや冷蔵庫や洗濯機などの電化製品も、みんな同じであり、必ずいつか使えなくなる時が来るのです。

自動車は、古くなれば下取りに出されて、新車に買い換えられます。新車を買えば、みんな神社やお寺へ交通安全のご祈祷に行かれます。

法徳寺へも、「新車のご祈祷をして下さい」と言ってこられる方がおられますが、「今まで乗せて頂いていた古い車にお礼をしたいから、ご祈祷してくれませんか」と言ってこられるお方は残念ながらおられません。

敢えて「古い車のご祈祷をして下さい」とは申しませんが、下取りに出す時は、せめて綺麗に洗車して、心の中でお礼を申し上げてからお送りするのが、今までお世話になった車へのせめてもの感謝の真心ではないかと思うのです。

いくら新しい車のご祈祷をしてもらっても、お世話になった古い車へのお礼を忘れていては、本当の交通安全にはなりません。

何故、古くなった車へのお礼を忘れてはいけないのかと言えば、自分も、やがて年をとって車と同じようにポンコツになっていかなければならない身だからです。つまり、下取りに出される車は、やがて訪れるであろう自分自身の老後の姿でもあるのです。


掃除機を供養する心


新しく購入した掃除機が、十年ほどして故障したので修理してもらおうと思い、近くの電器屋さんへ持っていったところ、「修理代も馬鹿になりませんので、新しい掃除機を買って頂いた方が、お得ですよ」と言われたので、新しい掃除機を買わせていただくことにしたのですが、問題は古い掃除機の処分です。

もし私に信仰心がなければ、そのまま何もせずに粗大ゴミとして出していたでしょうが、十年間毎日、文句一つ言わずに汚いゴミを吸い続けてくれた掃除機です。そのままゴミとして捨ててしまっては申し訳ありません。それでは、「沈む夕陽に知らぬ顔」になってしまいます。

そこで、一旦家に持ち帰り、家族みんなで掃除機を綺麗にお身拭いさせて頂いた後、般若心経を唱えて供養し、お礼を申し上げてから、粗大ゴミとして出させて頂いたのです。

日本広しと雖も、掃除機に般若心経をあげたのは私たち家族ぐらいではないかと思いますが、もし掃除機に口があれば、きっとこんな言葉が返ってきたのではないかと思うのです。

「私は、十年前にこのお寺へ嫁いできて、毎日、汚いゴミを腹いっぱい吸わされて、身を粉にして働いてきました。毎日大切に使って頂いて、有り難かったけど、最後にこうしてお身拭いをして頂き、お経まで唱えて供養して頂きました。世の中を見れば、大勢の仲間が、使えなくなったと言ってはポイポイ捨てられているのに、私は、最後に、お身拭いしていただいた上に、供養までして頂きました。いま私は、このお寺に嫁いできて本当によかったと思っています。今度生まれ変わってくる時も、またこのお寺へ帰ってきたいと思います。きっと帰ってきますから、待っていて下さいね」

そう言って、あの世へ旅立っていってくれたのではないかと思うのです。

「そんな言葉が返ってきたかどうか分からないじゃないか」とおっしゃるかも知れませんが、自分と掃除機とどこも違わないことが分かれば、この掃除機が、ただの掃除機ではなく、将来の自分の姿に見えてくるのです。

菩薩様が、「われも宇宙の金魚なりけり」と詠われたように、「自分も、やがて近い将来、掃除機のように、最後を迎えなければいけないのだ。これが自分なのだ。自分の将来の姿なのだ」と思えば、自ずと掃除機に対する慈しみの心が湧いてくるのです。そして、自然に掃除機の声なき声が聞こえてくるのです。


値打ちを知る


無常ということが分かってくると、物の値打ちが分かってきます。やがて無くなる限りあるいのちであるからこそ、大切にして、敬って、そのいのちをまっとうさせてあげなければいけないという慈しみの心が湧いてくるのです。

以前、奈良県桜井市にある寺の住職をしていた時、檀家さんのお逮夜参りに行かせて頂いたことがあり、ご縁者の皆さんと一緒に御詠歌を唱えさせて頂いたのですが、新しい御詠歌の本を持ってきておられる方々の中で、お一人だけボロボロのご詠歌の本を持ってきておられるお方がいたのです。

見ると、折り目の所や、あちらこちらに紙で継ぎはぎがしてあるのです。

「奥さん、その御詠歌の本、長い間使っておられるようですね」とお聞きしたら、「これは、お姑さんが使っていたご詠歌の本なんです。随分古いものなんですが、私、この本が捨てられないんです。お姑さんが使っておられた本なので、とても有い難く感じるんです。だから、破れた所を全部、継ぎはぎして使わせて頂いているんです。私が使わなくなったら、今度は自分の娘に譲りたいと思っています」とおっしゃったのです。

普通だったら、ボロボロになった古い本は焼き捨てて、新しいご詠歌の本に買い換えるところでしょうが、その奥さんは、「本はボロボロですが、この本には、お姑さんの思いがいっぱい詰まっているんです。有り難くて、とても捨てられないんです」とおっしゃるのです。

きっと、この本は、その奥さんにとって、ただの本ではなく、お姑さんそのものなんでしょうね。あちこち修繕して、いつまでも大切に使っておられるのは、お姑さんへの思いが捨てられないからだと思いますが、そこには、いつかボロボロになってゆく本だけれども、だからこそ、やがて消えてゆくいのちを大切にして生かしてあげたいという慈しみの心があふれています。

この心が、その奥さんのいのちを生かし輝かせていることは言うまでもありませんが、この慈悲心はどこから来ているのかと言えば、やはり無常の真理から来ているのです。

生があれば、必ず死があり、全ては移り変わっていかねばなりません。今若くて盛んであっても、やがて年をとり、腰も曲がり、皺も増え、死んでいかねばなりません。

限りあるいのちだからこそ、最後までそのいのちをまっとうさせてあげたいという慈しみの気持ちが、自然に湧いてくるのです。

私たち僧侶が日常で使うお袈裟は別名「糞掃衣(ふんぞうえ)」といいますが、「糞掃衣」とは、文字通り「糞を掃く布」という意味です。

この世で最も穢れた、雑巾に使うようなボロボロの布が何故、この世で最も尊い袈裟(糞掃衣)と呼ばれるのかと言えば、袈裟に使われる一枚一枚の布が、この世の真理を説法しているからです。

新しいきらびやかな一枚の布であっても、やがて汚れ、擦り切れ、朽ち果ててゆかねばなりません。それが、この世の真理であり、決まりなのです。

その真理を、雑巾に使うようなぼろぼろの布一枚一枚が、私たちに説法してくれるのです。

一枚一枚の布が、最後の最後までその命を使い切り、この世の真理を説法して、迷える人々を極楽へ導いてくれるのです。

更に言えば、糞を掃くのに使うような、汚れた布を袈裟として使うということは、その布の値打ちを知り、いのちを大切にする心の現れでもあります。

わずか一枚の布切れであっても、真理を説法する布に変わり、一枚の布の尊さ、いのちの尊さを教えるのです。

物の値打ちを知って、限りあるいのちを生かし切ることの大切さを、袈裟に縫いこまれた一枚一枚の布切れが教えてくれているのです。


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(注1)古代インドのバラモン教(ヒンドゥー教)の主神の1人であるブラフマー神が仏教に取り入れられて梵天となり、仏教の守護神の一人となった。世界の創造をつかさどるブラフマー神は、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したもので、ヒンドゥー教では世界の維持をつかさどるヴィシュヌ神(仏教では大自在天)、世界の破壊をつかさどるシヴァ神(仏教では大黒天)とともに三大神の1人に数えられている。

 

 

 

 

(東寺・梵天像)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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