桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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生活(くらし)をば 仏行なりとする人は

日々これ修行を する人という



日々の仏行とは


菩薩様は、『道歌集』の中で「仏行」について次のように書いておられます。

仏行というと何か窮屈な生活と思うのですが、決してそうではなく「一言・一行・一想」に値うちをあらわし徳を積むということです。貪欲な心を起したり、人を困らせたり、よくない思いをすることには何ひとつ値うちがないということです。人を思い、人を忘れぬ実践功徳、もったいないと思う感謝の心、こうした値うちのある日常生活のくりかえしが仏行であり、あらゆることに気付き気付かされて万人成仏へとつながってゆくのです。

仏行と言いましても、座禅したり、滝に打たれたりする事だけが修行ではなく、日々の暮らしの中で、値うちのある言葉を使い、行いをし、思い方をしていく事も、大切な仏行の一つなのです。

例えば、朝起きて洗顔をする時、世間の人々は、ただ水道の蛇口を捻って顔を洗われるだけでしょうが、水は、私達が生きていく上において欠かせない命の源であり、地球という親様の血潮なのです。

ソ連の宇宙飛行士、ガガーリン大佐が言った「地球は青かった」と言う言葉に象徴されているように、地球全体の約60%が水で覆われ、その水のお陰で、地球上にいる生物は生きてゆけるのです。そうなれば、水はもはやただの水ではなく、まさに神の水(御神水)と言ってもいいでしょう。

その命の御神水を頂く訳ですから、水道の蛇口を捻る前には先ず、「今日も一日お世話になります。有難うございます」と言って、感謝の合掌をしてから使わせて頂かなければなりません。

お便所へ行く時も、同じです。お便所は、人間が排出する汚物を処理して下さっている、謂わば一番お世話になっている場所なのですから、お便所へ入る前には、「お世話になります」と言って、合掌してから入らせて頂かなければなりません。実際に手を合わさずとも、心の中で手を合わせるだけでもいいのです。

更に私達が毎日履く靴や草履も、私達の体重を支えて、痛い思いをしてくれているのですから、履物を履く時も、「お世話になります」と一言お礼を言ってから、履かせて頂かなければならないでしょう。

自動車は、一生懸命、エンジンを回転させて、私達を乗せて目的地まで運んで下さるのですから、乗る時には、「有難うございます。事故のないよう、お守りさせて頂きます」と言って、手を合わせてから乗せて頂けば、車が事故から守って下さるのです。

ご飯を食べる時も「有難うございます」と言って拝んで頂く。お台所で料理を作る時も、お掃除する時もそうです。掃除機は、汚いゴミを全部吸ってくれているのです。

畑仕事をするのでもそうです。鍬が痛い思いをして、石や土を耕してくれているのですから、使った後は綺麗に洗わせて頂いて「明日もまたご苦労をおかけいたします」と言ってお礼を言ってから、片付けさせて頂かなければいけません。

こうして見てきますと、一日の暮らしの中で、手を合わさなくてもいいものは何一つない事が分かります。


野球選手にも仏行がある


歌碑の基礎工事をして下さっている建設業者さんがおられますが、このお方は非常に道具を大切にされる方で、後片付けをするのは勿論ですが、いつも使った道具を綺麗に洗った後、整理整頓して帰っていかれるのです。

道具がなければ仕事が出来ない訳ですから、道具を大切にするのは当たり前だと言われるかも知れませんが、ここまで道具を大切にされるお方を、私は見た事がありません。

勿論、道具を拝んだりはしておられませんが、その方にとって、道具はもはやただの道具ではなく、自分の手足となり、分身となっている事が、見ていればよく分かります。

テレビで、野球選手が三振したり空振りしたりすると、腹立ち紛れに、バットをグラウンドに叩きつけたり、ヘルメットを打げ捨てたりしている光景をよく見かけます。

打てなかった悔しさが、あのような行動となって出てくるのだろうとは思いますが、菩薩様は、「あれではヒットは打てないし、三振するのが当たり前だ」とおっしゃっておられた事があります。

何故菩薩様がそうおっしゃったのかと言えば、野球選手には野球選手としての仏行がある筈だからです。

野球選手にとってバットやグローブやヘルメットは、自分の手足も同然であり、自分の体の一部となるものです。

或る野球選手が、バットが自分の手足のようになった時初めて、ヒットが打てるようになったと言っているのを聞いた事がありますが、バットもグローブもヘルメットも、野球選手にとっては、欠く事の出来ない自分の手足であり、命を守ってくれる大切な分身なのです。

その手足とも言うべきバットやグローブやヘルメットをグラウンドに叩きつけるのは、野球選手としての仏行に欠けていると言ってもいいでしょう。

アメリカの大リーグに移籍したイチロー選手や松井選手がグラウンドにバットを投げたり、ヘルメットを投げ捨てたりしている姿を見た事がありません。たとえ三振しても、ソッと地面に置くか、そのまま持ってベンチへ下がってくるだけですが、二人がバットやヘルメットを大切に扱うのは、ただの道具としてではなく、自分の体の一部と感じているからではないでしょうか。

グローブやバットの手入れを他人に任せる選手が多い中、イチロー選手は、必ず自分で手入れをすると聞いた事がありますが、グローブやバットを自分の体の一部と感じているからこそ、他人任せには出来ないのでしょう。野球選手としての仏行が出来ているイチロー選手や松井選手がヒットを打てるのは当然なのです。

このように、仏行というのは、何も仏様の前へ座って拝んだり、座禅したりする事だけを言うのではありません。建設業者さんには建設業者さんの仏行があり、野球選手には野球選手の仏行があるのです。それを、建設業者さんもイチロー選手も松井選手も、無意識の内に仏行をしているから、良い仕事が出来るし、ヒットも打てるのだと思います。


思うよりもまず実践を


私が以前、住職をさせて頂いていた桜井市のお寺に、大師講という、ご近所のおばあさん達の集いがあり、12月21日の納め大師になると、必ずお話した歌があります。

それは、御法歌の中にある、
  朝日に感謝は するけれど
    沈む夕陽に 知らぬ顔
    今日も一日 ありがとう
 という歌ですが、「みなさん、初日の出を拝まれるでしょう。でも、大晦日の夕陽を拝まれますか。オギャーと生まれたら、みな最後は死ぬのですよ。人間も一緒です。一年最後の大晦日の夕陽を拝む事を忘れていてはいけませんよ。最後の夕陽に、今年一年のお礼を言って、新しい年を迎えて下さいよ」とお話すると、「良いお話を聞かせて頂きました。一年間の感謝を込めて、大晦日の夕陽を拝ませて頂きます」と言って、みんな嬉しそうに帰って行かれます。

そして年が明けた1月21日の初大師に、「去年の暮れにこんなお話をしましたけど、皆さん、夕陽を拝まれましたか」と聞くと、殆どの方が「アッ、忘れてました」とおっしゃいます。「忘れずに拝ませてもらいましたよ」とおっしゃるお方は、一人か二人しかおられません。

みんな「いいお話を聞かせて頂きました。大晦日の夕陽を拝ませて頂きます」と言って、帰って行かれるのに、いざ大晦日を迎えたら、すっかり忘れてしまっているのです。みんな、頭の中に私から聞いた話を入れて帰っていかれたのですが、肝心の行いがまったく出来ていないのです。

行いが出来ないという事は、自分が変っていかないという事です。自分が変らなければ、何も変りません。そして、自分を変えるには、実践をする以外にはないのです。

いまこうして御法歌のお話をさせて頂きましたが、「いいお話を聞かせて頂きました」と思っただけでは、ただ知識が頭に入っただけで、まだ何も変わっていません。

その通りだと納得して頂ける事があったら、それを一つでも二つでもいいから、実践して頂きたいのです。仏行をして頂きたいのです。その仏行が出来た時、初めて一歩前へ進む事ができ、今までの人生が大きく変っていく筈です。

私共が今まで様々なお計らいやお指図を悟らせて頂けたのも、その裏で仏行をさせて頂いてきたからです。

お悟りを頂いた時には、必ずその裏で仏行をさせて頂いています。仏行があったから、お悟りにつながっているのです。仏行をせずに頂いたお悟りは一つもありません。どうか、日々の仏行を怠らずに、精進して頂きたいと思います。


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