桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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受けし恩  返すというは世のために

尽くすまことを 返すとぞいう



真のご恩返しとは


一口にご恩返しと言いましても、尽しても尽しきれない両親へのご恩返し、生涯苦楽を共にする夫や妻へのご恩返し、お世話になった恩師へのご恩返し、職場の上司や同僚、知人へのご恩返しなど、様々なご恩返しがありますが、場合によっては、より大きな使命を果たさんがため、お世話になったお方のご恩に報いる事が出来ない時もあります。

寿法様が修行をなさっておられた時の事です。

大変お世話になった菩薩様の実兄が亡くなられたのですが、常識的に言えば、修行を中止してでも、お世話になった実兄のお葬式に、菩薩様と共に参列するのが人の道と言えましょう。

しかし、菩薩様は「兄には大変お世話になったが、今は亡くなった者の後を追うより、法(悟り)を求めて修行する方が大切である」と、実兄が亡くなられた事を、修行中の寿法様には一切告げず、菩薩様お一人でお葬式に参列されたのです。

しかし、菩薩様の深いみ心を知らない親族の方々はみな、「何故、お世話になった義兄の最後の別れに来ないのか」と言って、寿法様の事をよく言われなかったのです。

寿法様がお葬式に参列して最後の別れをするのは、確かに義兄の御恩に報いる道かも知れませんが、菩薩様は「妻が義兄から受けた御恩に報いる道は、お葬式に参列する事ではなく、今の修行を一刻も早く成就し、仏法を世のため人のために役立てていく事であり、それこそが、御恩に報いる人の道である」と、親族に説いて聞かせたのですが、その時菩薩様の口を突いて出てきた歌が、表題の道歌であります。


求道の心得


曹洞宗の開祖、道元禅師の師であった明全禅師にも、これとよく似た逸話が伝えられています。

道元禅師が九年間、付き随って禅の修行をされた明全禅師というお方がおられますが、この明全禅師の得度の御師僧様が、明融阿闍梨というお方で、幼い頃より両親に代わり明全禅師を育てて下さった、明全禅師にとっては親以上に大切なお方であります。

ところが、明全禅師が禅の道を究めようと、道元禅師を連れて宋の国へ出発しようという際になって、明融阿闍梨が明日をも知れない臨終の床につかれたのです。

明融阿闍梨は、明全禅師を枕元に呼び、「明全よ。宋へ旅立つのを少し待ってはくれまいか。私は、もう明日をも知れぬ命なのだから、どうか私の死水を取ってから宋へ渡って欲しい。それからでも遅くはないであろう」と言って、明全禅師を引き止めようとされたのです。

明全禅師は、一刻も早く仏法を求めて旅立たなければならず、また大恩あるお方の言葉に背く事も出来ないという、まさに人生最大の岐路に立たれたのです。

明全禅師は、大勢の弟子達を前に、「実はいま御師僧様から、もう少し出発を遅らせて、私の死を看取ってから宋へ出発して欲しいと言われたのであるが、みんなはどう思うか」と、問いかけられたのです。

すると弟子達はみな口を揃えて、「幼い頃から親身になってお世話をして下さった大恩ある御師僧様の願いですから、御師僧様のおっしゃる通り、最後の御世話をなさってから宋に行かれるのが人の道だと思います」と答えたのです。

そして、「きっと明全禅師もそうおっしゃるだろう」と、弟子の誰もが聞き耳を立てていると、明全禅師は、おもむろにこうおっしゃったのです。

「私の考えは違うのだ。確かにいま御師僧様のお世話をする事は、御師僧様から受けた大恩に報いる事になるであろう。御師僧様の死を看取らぬまま宋へ渡れば、その大恩に背く事になるかも知れないし、人の道に外れた行いになるかも知れない。しかし、私が一刻も早く宋に渡って禅の道を極め、悟りの一分でも開く事が出来れば、その悟りが良き縁となって多くの苦しむ人々を救う事が出来るばかりか、その功徳が、御師僧様に廻向されるのではないだろうか。一時は御師僧様の大恩に背く事になるけれども、一刻も早く悟りを開き、人々を救っていけば、背いたご恩に勝る以上のご恩を御師僧様にお返しする事になる。だから、今は御師僧様のご恩に背く事になるけれども、仏法を求めて宋へ渡る事の方が、一刻を争う一大事ではないかと私は思う」

そう言って、道元禅師を連れて宋へ渡られたのであります。

宋から帰られた道元禅師は、多くの弟子達を前に「明全禅師は立派な師であった。私が今あるのは、明全禅師のお陰である。明全禅師が私に、本当の人の道とは何であるかを教えて下さったお陰で、私はいま禅の道を極めることが出来たのである」と述懐されたのであります。

弟子達が「菩薩行とは、自分の事より先ず人の事を先に考えなければいけない筈です。明全禅師が仏法を求めるのは、自分の為であるのに対し、明融阿闍梨の願いに答えるのは他を利する行いですから、こちらを先にしなければ菩薩行に反するのではないでしょうか」と尋ねると、道元禅師は「そうではない。自分の為でも、人の為でも、優れた方を取るのが、本当の菩薩行なのだ。明全禅師が仮に出発を先に延ばしたとしても、明融阿闍梨の死を食い止める事は出来ない。一時的に御師僧様の心を慰め、御恩に報いる事は出来るけれども、明融阿闍梨の命を助ける事は出来ない。それよりも、命がけで法を求め、一刻も早く悟りを開いて明融阿闍梨の御恩に報いる事の方が優れているのだ」と仰ったのであります。
  親の恩 生涯かかれど果たされず
    善根功徳を 果たすというなり


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