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ありがとう

〜ひとさし指から奏でるしあわせ(3)〜


 


ありがとう

〜ひとさし指から奏でるしあわせ〜

作詞・作曲  大西良空

幼き頃の夢 果たせなかったけれど
 私よりしあわせな 人はいないよね
 だって私は今 世界一素敵な
 お母さんに愛され 生きているから
 どんなに苦しくても どんなに辛くても
 もう大丈夫だから 心配しないでね
 お母さんが私の お母さんでよかった
 あきらめも絶望も もう今日でお別れ
 二度とないこの日々を 共に生きるよろこび
 いつも愛してくれて お母さんありがとう

あの頃の私は 泣いてばかりいたけど
 ほら見て今はもう 笑っているでしょう
 だって私は今 みんなの優しさと
 真心に包まれて 生かされているから
 どんなに悔しくても どんなに虚しくても
 もう過去をふり返らない 今だけを見つめて
 すべてが私にとって かけがえのない宝物
 憎しみも後悔も もう永久にさよなら 
 流した涙だけ 強くなれるからと
 いつも励ましてくれた みんなにありがとう

どんなに悲しくても どんなに泣きたくても
 明けない夜はないから 涙はもういらない
 ひとさし指が教えて くれたの大切なことを
 耐えること 微笑むこと すべてを許すこと
 世界が輝いて 私を照らしている
 今はあの先生に 言えるのありがとう

満天の夜空に きらめく星たちよ
 私のこの思い みんなに伝えてね
 生きる勇気をくれた あなたにありがとう

 



坂中明子さんへの再度の手紙


医療事故によって全身麻痺の後遺症を負い、唯一動かせる左手のひとさし指を使って懸命に生きておられる坂中明子さんに、拙い歌を作ってプレゼントし、曲に込めた気持ちを伝えたいと、今年6月18日、彼女に長文の手紙を差し上げた事は、前回お話しましたが、6月24日、明子さんのブログに、「もう一通どうしても読んで欲しい手紙があるので後日送ります」と、コメントはしたものの、中々出せませんでした。

それは、恐らくまだ信仰をした経験がないであろう明子さんに、信仰している私が一方的に自分の考えを押し付けるのは、かえって彼女の精神的な負担になるのではないかという一抹の不安をぬぐえなかったからです。

しかし、「一時的には負担に感じても、全身麻痺という想像を絶する試練でさえ乗り越えてきた明子さんなら、きっと分ってくれる筈だ。今のうちに、伝えるべき事だけは伝えておきたい」と思い直し、コメントから10日ほど経った7月3日、ようやく約束の手紙を出す事が出来ました。


曲に託した思い


こんにちは(^^)

お母様から頂いたお手紙で、明子さんがとても喜んで下さっている事を知り、少しはお役に立てたのではないかと安堵しております。

お送りすると言っていた手紙が大変遅れ、申し訳ありません。ブログのコメントで「お手紙を差し上げます」とは言ったものの、信仰をした経験のない明子さんに、信仰の世界に生きる私が、自分の思いを一方的に押し付けるような手紙を書いていいものかと、今回も随分悩みましたが、やはり出す事にしました(笑)

今はまだ理解できなくても、いつか必ずお役に立つ時がくると信じる事にしました。

手紙を出すとお約束したのは、『ありがとう』に隠された或る秘密についてお話したかったからです。

実を言いますと、この曲はまだ完成していません。

未完成と聞けば、クラッシック好きな明子さんは、多分シューベルトの交響曲第7番『未完成』を連想されると思いますが、未完成の意味合いが、シューベルトの『未完成』とは少し違います。

交響曲第7番『未完成』は、シューベルトが第二楽章まで作曲して中止してしまった文字通りの未完成曲ですが、『ありがとう』は、曲としては、完成しています。でも、「このままではまだ生きた曲とは言えない」という意味での未完成なのです。

ややこしいですね(笑)例えを引いてお話します。

仏教に開眼(かいげん)作法というものがあります。

明子さんはご存じないかも知れませんが、仏像に命(仏性)を吹き込む作法で、仏像(仏壇やお墓も同じ)を作った時には必ずしなければなりません。

開眼をするまでの仏像は、観賞用の仏像(美術品)ではあっても、拝む対象としての仏ではありません。「お性根入れ」「御魂入れ」とも言いますが、この開眼をする事によって、「ただの仏像」に命(仏性)が吹き込まれ、「拝まれる仏」に生まれ変ります。

いま私が、「この曲はまだ生きていません」と言ったのは、そういう意味なのです。

つまり、この曲には、まだ命(魂)が入っていません。仏性が吹き込まれていないのです。観賞用の仏像と同じです。

ですから、この曲に命(魂)を吹き込み、「ただの曲」から「命のある生きた曲」にしなければいけないのです

しかし、それが出来る人は一人しかいません。お分かりですか。勿論、私ではありませんよ。

私は、明子さんの救いを願って、この曲を作りましたから、私の願いは、すでに曲の中に吹き込まれています。しかし、私に出来るのは、そこまでです。

私はただ、『ありがとう』という曲を作っただけで、そこから先にあるこの曲に命(仏性)を吹き込む開眼は、私には出来ません。それが出来るのは、明子さんだけです。何故なら、この曲は、明子さんを救う為に生まれた曲だからです。

この曲に明子さんの命を吹き込んで頂く為には、明子さんの仏性が目覚めなければなりません。

明子さんの仏性が目覚め、この曲に明子さんの命(仏性)が注がれた時、初めて『ありがとう』は、生きた歌に成ります。

つまり、明子さんの仏性が目覚めるのと、『ありがとう』に明子さんの命(仏性)が注がれて生きた歌になるのとは、同時なのです。

明子さんの仏性が目覚め、この曲に命(仏性)が吹き込まれる時、明子さんは救われ、過去の一切のしがらみから解放されるでしょう。

その瞬間から、『ありがとう』は、明子さんと一体になり、明子さんの分身となります。

いついかなる時も傍にいて、明子さんが落ち込んだ時は良き伴侶として励まし、傷ついた時は良き父として心を癒し、寂しい時は良き母としてそっと抱きしめ、笑う時は共に笑い、泣く時は共に泣き、嘆く時は共に嘆き、いつも苦楽を共にしてくれるでしょう。

いまこの曲は、明子さんが仏性に目覚め、命を注いでくれるのを待っているのです。

これが、最初にお話した、この曲に隠された秘密です。


幸せより救われる歓びを


今もお話したように、この曲は、ただ明子さんを励ます為に作った曲ではなく、救われて頂く為に作った曲です。

「この曲を聴いて励まされました」と言って頂けるのはとても嬉しいのですが、それではまだ私の喜びは半分にも満たされません。

ブログに「確かに不自由です。でも不幸とは思っていません」と書いて下さいましたが、私の願いは明子さんから「幸せです」と言う言葉を聞く事ではなく、「救われました」と言って頂く事です。

もしこの曲が、ただ明子さんを励まし、幸せにする為に作った曲であれば、歌詞には、明子さんにとって耳障りのよい言葉だけを並べれば済みます。

世間には、ZARDの『負けないで』や岡村孝子の『夢をあきらめないで』など、生きる希望と勇気を与え、励ましてくれる歌がいっぱいありますから、素人の私がわざわざこんな曲を作る必要はありません。

しかし、ただ励ますだけの曲では、明子さんを幸せには出来ても、根底から救う事は出来ません。

先日の手紙にも書いたように、私が敢えて、明子さんが到底受け入れられないであろう「今はあの先生に言えるのありがとう」という一節を歌詞の中に入れたのは、何としても救われて頂きたいからです。

勿論、明子さんに全身麻痺という重い後遺症を負わせた先生に対する「ありがとう」は、「はい分かりました」と言って、すぐに頷けるものではありません。

この壁を乗り越えるには、後遺症を負わされた時の苦しみよりも、更に何倍も大きな苦しみに堪えなければならないでしょう。

しかし、どんなに苦しくても、どんなに困難であっても、憎むべき、恨むべき先生を許す心にならなければ、明子さんの魂は救われません。

これで、「この曲に命を吹き込めるのは、明子さんしかいません」と言った意味がお分かり頂けたでしょうか。

「今はあの先生に言えるのありがとう」という歌詞は、明子さんが心からそう言えるようにならなければ意味のない歌詞であり、明子さんが心の底からそう言えるようになって初めて命を与えられる歌詞なのです。

そして、何よりも、明子さんの仏性を深い眠りから目覚めさせる歌詞なのです。

あの医療事故によって、肉体の明子さんは死に、仏性を生きる明子さんが産声をあげました。でも、産声をあげただけで、仏性が目覚めた訳ではありません。

仏性が目覚める為には、「今はあの先生に言えるのありがとう」という歌詞と、真正面から向き合わなければなりません。

勿論、そう言えるようになるには、かなりの時間を要するでしょう。それが当然です。でも、私は、必ずそう言える日が来ると信じています。

と言うより、必ずその日は来ます。何故なら、すでにその事が曲の中で約束されているからです。

「今はあの先生に言えるのありがとう」という歌詞は、「ありがとう」と言える日が来る事を前提としています。今はまだ言えなくても、その日は必ず来ます。

もしその日が来なければ、「今はあの先生に言えるのありがとう」という歌詞は嘘になりますから、その日が来る事はもう決まっています。

分からないのは、その日がいつかという事ですが、残念ながら、その日がいつかは私にも分かりません。

多分、明子さんにも分からないと思います。自分のものでありながら、中々思うようにはいかないのが、心というものですからね。

でも、焦る必要はありません。足下を確かめながら、大地を踏みしめ、一歩一歩進んでゆきましょう。

合掌


明子さんのコメント


7月8日、明子さんは、手紙を読んだ感想を、ご自身のブログに、次のようにコメントして下さいました。

スローライフのとき、終わりのあいさつでツナちゃんが
 「人間は2度死ぬといいます。
 1回目は死んだとき、
 2回目は世の中の誰にも語られなくなったとき……」
 という話をしてくれた。

「本当にそうだなー」と思った。
 ちいこおばちゃんだって、洋介おじちゃんだって、
 ウィングのママだって、ヨッチャンだって、おばあちゃんだって、
 ばっばだって、まだ私の心の中に生きている。

豪快な笑い声、パッチワークする姿、焼酎を飲む姿、
 相談にのってくれる優しい声や顔。

いろいろな人たちの、いろいろな様子を思い出すことができる。

大西さんから便箋10枚の長い手紙をもらった。
 今はまだ理解できないことが多いけど、いつか、きっと分かる日が来るはず。

とは言っても、生易しいことではないなー。


真相を悟り納得しなければならない


明子さんが、生易しい事ではないと感じるのも、無理はないかも知れません。何故なら、仇なす人を許せるようになるには、心の依りどころとなる信仰がどうしても必要だと思っているからです。

勿論、世の中には、信仰などなくても、仇なす相手を許せるというお方もいるでしょうが、少なくとも、仇なす人を心の底から許せるようになるには、その相手が自分にとって決して仇となる人ではない事を悟り、自らを納得させなければなりません。

残念ながら、この悟りの眼は、信仰生活の中でしか開けられないのです。

明子さんの場合で言えば、全身麻痺の後遺症を負わせた憎むべき先生が、明子さんにとって決して仇となる相手ではない事を悟り、納得できなければ、心の底から許すのは難しいでしょう。

私が、6月18日に書いた手紙の中で、
 「あの医療事故は、赤ちゃんが生まれる時に母と子が体験する苦しみと同じように、明子さんが背負う使命を果たす為には、どうしても避けて通れない試練であり、肉体を生きる明子さんが、仏性を生きる明子さんに生まれ変わる為には、どうしても乗り越えなければならない産みの苦しみだったということです。そして、その産みの苦しみに立ち会ったのが、あの先生なのです」
 と書いたのは、ただ全身麻痺の後遺症を負わされたという表面的部分だけを見て、医療事故の裏に隠された真相を悟らなければ、憎むべき先生を許すのは難しいと思っているからです。


借り物の知識を滅びない智慧へ


ブログにもコメント(注1)させて頂いたように、私が手紙に書いた事は、明子さんにとってはまだ、ただの知識に過ぎません。謂わば私からの借り物なのです。

この知識という借り物を、明子さんが自分の血肉とし、滅びない智慧に換える為には、信仰体験を通して、出来事の裏に隠された真相を悟らなければなりません。

手紙に書かれている事が、心の底から納得出来た時、借り物であった知識が、智慧となって身につき、明子さんは、永遠に滅びる事のない救いのみ光に包まれる筈です。

だからと言って、明子さんに、信仰を強要するつもりは、毛頭ありません。そんな事をしても無意味であり、明子さんの救いにつながらない事は、火を見るよりも明らかだからです。

しかし、何もせず、ただ待っているだけでは、救いの灯は永遠に見えてきません。「待てば海路の日和あり」「果報は寝て待て」(注2)という諺もありますが、救いに限っては、求めなければ得られないのです。

「加持感応」という言葉がありますが、「加持」について、お大師様は、『即身成仏義』の中で、

加持とは、如来の大悲と衆生の信心を表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく。

と説いておられます。

いくらみ仏が、私達を救おうと大悲のみ光を降り注いでおられても、私達が心を開いて、そのみ光を受け入れなければ、救いは得られないという事です。

み仏が私達に降り注がれる「加」の力、大悲の力と、私達がそれを受け止める「持」の力、信心の力が一つに結ばれて、初めて加持感応の妙が現れるのです。どちらが欠けても、加持感応の妙は現れません。

これから先の事は私にも分りませんが、一日も早く明子さんの救いを求める心に火が点き、彼女の人生に加持感応の妙が現れる事を祈らずにはいられません。彼女の言葉を信じて…

「今はまだ理解できないことが多いけど、いつか、きっと分かる日が来るはず」

合掌

平成25年10月1日




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『ひとさし指から奏でる
しあわせ』
著者:坂中明子・坂中浩子
新水社 (2007/12)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注1)頭で知る事と、体で分かる事(体験)とは、根本的に違いますからね。
私がプレゼントしたのは、「こうすれば、こうなりますよ。こうなりたければ、こうした方がいいですよ」という、ただの知識に過ぎません。
救われる為の知識(手立て)であって、救いそのものではありません。
この知識という空っぽの器を、明子さんの行動と体験で少しずつ満たしていって、智慧(救い)がいっぱい詰まった世界一の宝石箱(救済箱)にして下さい。
確かに生易しいことではありません。でも、いつかきっとその日がくると信じています(^▽^)

 

(注2)焦らずに辛抱して待っていれば、幸運はそのうちやってくるという事のたとえ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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