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春を忘れない




春を忘れない

作詞・作曲  大西良空


桜(はな)のいのちは はかないけれど
 冬の寒さに 耐えて咲く
 かけがえのない いまを美しく
 生きてゆきたい だから春を忘れない

桜のやさしさに こころ癒されて
 生きるよろこびを だきしめる
 愛し愛され いまを輝いて
 生きてゆきたい だから春を忘れない

桜の香りに つつまれ憩う
 そよ風が頬を なでている
 二度とないいまを 悔やむことなく
 生きてゆきたい だから春を忘れない

愛し愛され いまを輝いて
 生きてゆきたい だから春を忘れない

 



死は終わりではない


私達のいのちには、限りがあります。誰もが、やがてあの世へ旅立っていかなければなりません。しかし、死は決して終わりを意味するものではなく、次の世への入口であり、新たな人生の始まりに過ぎません。

世の中には、「死んでしまえば、それで終わりだ。死によってすべて無になってしまうのだから、他人の事など構わず、自分の好きなように生きればいいのだ」と言う人もいますが、この世での事が全て死によって帳消しになるのであれば、これほど楽で好都合な事はありません。

しかし、自分がこの世でしてきた事は、善い事も悪い事もすべて、自らの因縁として、次の世へ引き継いでいかなければならないのです。これが、仏教の三世通貫の世界観であります。

私達は、何もないところから、突然生まれてきた訳ではありません。過去の世に作った因縁を背負って、この世に生まれて来たのです。

私達の人生は、この世に生まれた時から始まったのではなく、この世に生まれる以前から始まっているのであり、この世は前の世の延長に過ぎません。オギャーと生まれた時、すでに私達の生まれた境遇や家庭環境や人間関係がみな違っているのは、この世が前の世の続きだからです。

同じ人間に生まれてくるのですから、境遇も家族環境も人間関係も、みな平等であっていい筈ですが、現実を見ると、生まれながらにしてすでに、幸せな人もいれば、不幸せな人もいます。同じ親から生まれた兄弟姉妹の間でさえ、幸不幸があります。

このような状況を見る限り、いかにも不平等のように見えますが、これは、神仏が私達を分け隔てしているからではなく、誰もがみな、生まれる前の世の因縁を引き継いでいるからであり、その因縁の違いが、様々な環境や境遇や幸不幸の違いとなって現れてきているのです。

仏教では、亡くなると49日間の中陰供養(注1)をしますが、もし死によって全てが終わりになるのであれば、わざわざ中陰供養をする必要はありません。死は終わりではなく、次の世への新たな門出を意味する節目の時だからこそ、後に残された者は、先往く人の新たな人生への旅立ちを祝福し、そのお手伝いをする意味で、中陰供養を勤めさせて頂くのです。

勿論、私達がオギャーと生まれる以前にも、この49日間の中有があり、誰かが私達の為に中陰供養を営なんでくれたお陰で、この世での新たな人生をスタートする事が出来たのです。そして、この世の人生が終わればまた49日間の中有を経て、新たな次の世へと因縁を引き継いでゆかねばならないのです。

こうして、生まれ変わり、死に変わりしながら、自ら作った前世の因縁をこの世に、そして、この世の因縁を来世へ引き継ぎながら、苦楽幸不幸の人生を輪廻してゆくのが、私達の三世通貫の人生であります。

そして、今の人生が次の世へ、次の世の人生が、またその次の世へと引き継がれていくからこそ、より良き人生を生きたいと願うなら、人間の身を与えられた今の世で、良き因縁の種を蒔き、より良き明日の人生につながっていく生き方をしなければいけないのです。


限りあるいのちを如何に生きるか


しかし、人の生き方を見ていますと、実に様々です。今も悪質な振り込め詐欺事件が後を絶たず、注意を喚起する呼びかけが盛んに行われていますが、善良な人々からお金を騙し取り、万年にも続く悪罪を重ねながら生きている人もいます。

今年1月、大雪のため新潟県内で足止めされた中3の女子生徒と母親が、ヒッチハイクをして日本航空高校石川に向かう決意をし、トラック運転手の夜通しの運転に助けられて、間一髪で受験開始に間に合ったという心温まるニュースが報じられ、日本新聞協会の読者が選ぶハッピー大賞にも選ばれるほど多くの人々の関心を集めましたが、遠回りになる事を承知で母子を乗せてくれたこのトラック運転手さんのように、自分を捨てて人助けをしようとする人もいるのです。

どのような生き方を選ぶのも、自己の責任において決めればよいのですが、自分の意思ではどうにもならない事が一つあります。

それは、縁起というこの世の真理です。この真理によって、この世に生まれ、生かされている以上、私達は、この真理に逆らって生きる事は出来ません。

あの孫悟空が、お釈迦様と力比べをして、お釈迦様の掌から一歩も飛び出す事が出来なかったように、私達も、真理の掌の中で生かされている以上、真理の及ばない、縁起のない世界で生きる事は出来ないのです。

知ると知らざると、好むと好まざるとにかかわらず、私達の幸不幸は、自分が作る善悪業の因縁によってもたらされるものであり、それが縁起という真理によって生かされている私達の定めである事だけは、肝に銘じておかなければなりません。

この縁起の理法は、私達をより良き人生へと導き、生かしている神仏の心そのものと言ってもいいでしょうが、「自ら蒔いた種は、自ら刈らねばならない」からこそ、悪縁にではなく、良き縁起に遇わせていただけるよう、日頃から信仰を深くしておかなければならないのです。


今しかない人生


人生50年と言ったのは昔の話で、今は人生80年とも90年とも言われていますが、確かに頭で考えれば、80年なり90年なりの人生があるように思えます。

しかし、よくよく考えてみますと、私達は、今という時を一瞬一瞬刻みながら生きているだけで、それが結果として80年なり90年なりの人生になっているに過ぎません。つまり、私達が生きる時は、永遠に今という時しかないのです。1年後であっても1年後の今、10年後であっても10年後の今しか、生きる時はないのです。

その今という時を、過去から現在、現在から未来へと因縁を引き継ぎながら生きているのが私達の現実であり、だからこそ、苦しみの人生から救われる為には、今をどのように生きるかが、非常に大きな意味を持ってくるのです。

菩薩様は、『御法歌』の中で
  昨日を背負った 今日の日は
    明日をはらんで 過ぎてゆく
    大事にしよう 今日の日を
 と詠っておられますが、今日という日は、今いきなり生まれた今日ではなく、昨日を背負った今日であると同時に、明日をはらんでいる今日なのです。

「昨日も明日も関係ない。今日さえ楽しければいいのだ」という人もいますが、今日限りの人生というものはありえず、今日という日が、昨日を背負い、明日に続いてゆく一日だからこそ、今日一日をいかに生きるかによって、明日からの人生が決まってゆくのです。


蜘蛛の糸


芥川龍之介の書いた『蜘蛛の糸』という小説があります。

極楽の蓮池のほとりを散歩しておられたお釈迦様が、ふと下を見ると、地獄の池の底で、カンダタという男が、もがき苦しんでいました。

お釈迦様が、その男の過去の行状を見ると、一つだけ善い事をしていました。ある時、自分の側に寄ってきた蜘蛛の命を助けたのです。

そこで、お釈迦様は、その功徳に報いて地獄から救い出してやろうと、一本の蜘蛛の糸を、地獄へ垂らされたのです。

地獄の池で苦しんでいるカンダタが、ふと見上げると、極楽から銀色に光る一本の蜘蛛の糸が、カンダタの目の前に下りてきました。カンダタは、「これは有難い」とばかりに、その蜘蛛の糸につかまり、上へ上へと上り始めたのです。

ところが、途中まで来た時にふと下を見ると、カンダタの後を追うように、大勢の亡者が次々と、その細い蜘蛛の糸を上って来るではありませんか。

それを見たカンダタは、「この蜘蛛の糸は、俺一人のものだ。お前達、誰の許しを得て上ってくるのだ。早く降りろ」と叫び、すぐ下にいる男の頭を足で蹴飛ばしたのです。

その瞬間、蜘蛛の糸は、カンダタの手元からプツリと切れ、大勢の亡者もろとも、再び地獄の底へ真ッ逆さまに堕ちていったのであります。


今為すべきことは


この小説を読んでいつも思うのは、今という時をどのように生きればよいのかという事です。

蜘蛛の糸を上ってきたカンダタにとって、今居る場所が現在であり、今まで上ってきた下の世界が過去を、これから上っていく頭上の世界が未来を現わしています。

カンダタがふと下を見ると、大勢の亡者が上ってきたので、これでは蜘蛛の糸が切れてしまうと思い込み、すぐ下の男の頭を蹴飛ばしたところ、カンダタの手元から蜘蛛の糸が切れて地獄へ堕ちていったのですが、ここでカンダタが見なければいけなかったのは、過去である下の世界でも、未来である上の世界でもなく、蜘蛛の糸を上っている今の自分自身であり、自分が今何をしなければいけないのかという事です。

つまり、カンダタにとって必要な事は、下の世界を見る事でも、上の世界を見る事でもなく、今自分がなすべき事だけをしっかり見つめて、一歩一歩蜘蛛の糸を上ってゆけばよかったのです。

そうすれば、必ず極楽へ到達できたのですが、悲しいかな、カンダタは、今自分が為すべき事を忘れて、下の世界を見てしまった為に、大勢の亡者が上って来るのが見え、その中の一人を足蹴にした為に、自分も再び地獄へ堕ちていかねばならなかったのです。

このカンダタの視点は、実は私達の視点でもあります。私達もまたカンダタと同じように、今自分がなすべき事を忘れて、過去を見ては嘆き、未来を見ては絶望して、自らの首を自らで絞めているのです。

私たちが生きるのは、過去でも未来でもなく、今しかないからこそ、今の一瞬一瞬、一日一日をいかに生きるかが大切なのです。


「永遠に生きる」と「永遠を生きる」の違い


秦の始皇帝が、不老不死の仙薬を求めて、徐福という道教の占い師を、東方にあるという蓬莱国(この蓬莱は日本の事を指していると言われています)へ遣わし、仙人を連れてくるように命じた話が、司馬遷の『史記』に書かれていますが、結局、不老不死の仙薬はなく、徐福も始皇帝の元へは戻らずに、彼の地で没したとされています。

徐福が没した地がどこかは分りませんが、中国には、徐福が神武天皇であるという伝説があり、また日本には徐福の最期の地といわれる場所が多数存在し、各地に徐福伝説(注2)が語り継がれている事を考えますと、日本が徐福最期の地であるという説も、あながち根拠がないとは言えませんが、その真偽はともかく、不老不死の仙薬を手に入れる事が出来なかった始皇帝は、永遠に生きたいという願いを叶えられぬまま、この世を去ったのであります。

しかし、お大師様、菩薩様のように、生き仏として今も悩み苦しむ人々と共に生き続けておられるお方もおられます。お大師様は千年以上も前のお方であり、菩薩様も御入定されて早20年が経過しますが、多くの人々から、生き仏と信じられているのです。

お大師様も、菩薩様も、限りあるいのちを生きられた点においては、始皇帝と何ら変わりありません。では何故お大師様、菩薩様は、今もなお生き続けておられるのでしょうか。

それは、お大師様、菩薩様の生き方と、始皇帝の生き方が、根本的に違っているからです。

始皇帝は、「永遠に」生きる事を考え、「永遠に」生きたいと願って徐福を東方に派遣したのですが、10年後も、50年後も、100年先も、1000年先も生きていたいという始皇帝の視点は、未来を見ています。

それに対し、お大師様、菩薩様は「永遠を」生きられたのであり、お大師様、菩薩様は、未来ではなく、今を見ておられるのです。

限りある肉体を持つ以上、永遠に生きる事など、誰にも出来ません。肉体を持つ私達だけではなく、この地球でさえ永遠に存在し続ける事は出来ないのです。否、宇宙でさえ、永遠ではないと言われているのです。

要するに、誰も永遠には生きられないのです。

しかし、永遠を生き、永遠に通じる生き方をする事は出来るのです。そして、それを身を以て示されたのが、お釈迦様であり、お大師様であり、菩薩様です。

お大師様は62年の生涯、菩薩様は71年の生涯の中で、永遠に通じる生き方をされました。百年後になっても、千年後になっても通じる普遍的な生き方を、いつの時代であっても、誰もが納得し、共鳴する生き方をされたのです。

お釈迦様は2500年前に仏教を開かれましたが、もしお釈迦様の教えなり、生き方なりが、その当時のインドの国やインドの人々にしか通用しない教えであり生き方であれば、仏教は今に残っていなかったでしょうし、日本にも伝わっていなかったでしょう。

お釈迦様の生き様が、現代の私達にも共感出来る、永遠に通じる生き方だったからこそ、お釈迦様は、今も私達の心に生き続け、仏教は暗闇を照らす灯明となって輝き続けているのです。

誰もが「お釈迦様、お釈迦様」と言って慕うのは、お釈迦様が今も「永遠を」生き続けておられるからです。


今を見つめて


菩薩様は、
  み仏は 花の散るのは助けねど
    花の心を 助くるという
 と詠われていますが、たとえ神仏と雖も、限りある花の命を救う事は出来ません。しかし、花の心を助ける事は出来るのです。

花の心を助けるとは、今という一瞬の中で、「永遠を」生きている桜の心を、わが心として深く受け止め、桜にも負けない永遠に通じる生き方をしてゆくという事です。

たとえ一輪の桜であっても、厳しい冬の寒さに耐え、春を忘れずに、薄紅色の可憐な花を咲かせ、私達人間の心を潤し、傷ついた心を癒し、その生き様を通して、「永遠を」生きるとは何かを教えてくれているのです。そして、はかない命の灯を精一杯輝かせ、美しい晴れ姿を見せて散ってゆくのです。

桜が教えてくれている「永遠を」生きる姿とは、言うまでもなく、自分の事を忘れて、親のため、子のため、夫のため、妻のため、家族のため、人のため、社会のため、国のため、人類のために、自分が為すべき事を精一杯させて頂くという事です。それ以外に、未来永劫に通じる生き方などありません。私達が今の一瞬一瞬を見つめながら為すべき事は、それ以外にはないのです。

しかも、「永遠を」生きるのは、今という一瞬しかありません。今という一瞬、今日という一日が、まさに「永遠を」生きる時なのですから、まさにかけがえのない今であり、一瞬であり、一日と言えましょう。

日本人の平均寿命は、2008年の統計によれば、男性が79.29歳で、アイスランド、香港、スイスに次いで第4位、女性が86.05歳で、女性は24年連続で、長寿世界一だそうですが、寿命が尽きるまでの残された一日一日が、まさに「永遠を」生きる為の、かけがえのない日々なのです。

勿論、人生には、自分にとって好都合な出来事だけが待っている訳ではありません。辛い事も、苦しい事も、悲しい事も多々あります。

しかし、それも、「永遠を」生きる為に与えられたみ仏の試練のお導きだと思わせて頂けば、有難いではありませんか。

要するに、私達が「永遠を」生きるために見なければならないのは、過去でも未来でもなく、自分が生きている今であり、今自分が為すべき事は何かという事だけです。

ところが、私達は今為すべき事を忘れ、過ぎ去った過去を見ては嘆き、まだ来ない遥かな未来を見ては絶望して、今を見る眼を曇らせているのです。

今自分が為すべき事を一つ一つ実践して、上ってゆけばよいのであり、仮にそれが細い蜘蛛の糸であっても、今さえ見ていれば、切れる事は絶対ありません。

昨日は永遠に過ぎ去り、明日は永遠に来たらず、あるのは今だけです。過去を見る事も、未来を見る事も必要ありません。今だけを見て、命の糸を、一生懸命たぐりながら上ってゆくのです。永遠の今を信じて。

合掌

平成22年5月16日


        

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(注1)私達が生きている人生を「本有(ほんぬ)」と言い、生まれ変わる世界がまだ決まらない期間を中有(ちゅうう・中陰)と言い、49日間の供養によって、生まれ変わる次の世が決まると言われている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

秦の始皇帝

 

(注2)司馬遷の『史記』よれば、徐福という道教の方士(占い師)が、秦の始皇帝に、「東の海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があり、そこに行けば不老不死の霊薬がある」と申し出たので、始皇帝は、3000人の少年少女と多くの技術者を随行させ、金銀財宝と五穀の種を持たせて三神山を探させたが、結局徐福が再び始皇帝の前に帰ってくることはなかったという。徐福がその後どうなったのかは不明であるが、日本に到着し、そのまま住み着いて日本に文化を伝え、その子孫は「秦」(はた)と称したとする「徐福伝説」が日本各地に存在する。和歌山県の新宮市には徐福の墓といわれるものが現存し、青森県小泊村にも徐福の像と呼ばれるものがある。佐賀県佐賀市、三重県熊野市、山梨県富士吉田市、鹿児島県いちき串木野市、宮崎県延岡などにも、徐福に関する伝承が残されている。

 

 

徐福像(富士吉田市)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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