何を当たり前と考えるか

東日本大震災の発生直後、東京電力管内では、福島第一原発の事故の影響もあって、計画停電が実施され、それによって、多くの人々が不便を強いられました。
今まで10あった電力が半分の5になって、今までのように使えなくなれば、不便と感じるのは当然で、山梨も大規模な計画停電が行われました。
しかし、今まで10あったものが5になれば、その日から生活していけないのかと言えば、決してそんなことはありません。
何故なら、人間は、10あれば10の暮らしを、5になれば5に見合った生活をするようになるからです。
10あったものが5になれば、当然、不便を感じるのは止むを得ませんが、5になっても、生きていけない訳ではありません。
要は、「もう今までのように10の生活は出来ないから、これからは5の生活をして下さい」と言われれば、5の生活に見合った生き方をしていけるよう、みんなで知恵を出し合って、節約の工夫をしていけばよいだけの話です。
と言うより、わたしたちは、すでにそうしていかなければいけない温暖化という大きな試練を迎えているのです。
10が5になり「不自由だ。不便だ」と云って大騒ぎしている人たちは、まだその事に気付いていないのではないでしょうか。
その人たちの頭には、まだ浪費と贅沢が当たり前であった、かつての高度成長期の生活習慣が残っているのかも知れません。
世の中には、月に30万円あっても生活が苦しいという人もいれば、月に15万円あれば暮らしていけるという人もいます。
以前、某テレビで、年金生活をしている人で、月に30数万円あっても苦しいと云っている人がいましたが、30万円あっても苦しいという人は、30万円の生活が当たり前ですから、15万円の生活など考えられないでしょう。
しかし、月に15万円あれば暮らしていけるという人の立場に立てば、15万円の生活が当たり前ですから、30万円あれば、余裕のある暮らしが出来る事になります。
30万円の生活が苦しいという人と、30万円あれば余裕のある生活が出来ると考える人の違いは何かと云えば、何を当たり前と考えるかの違いです。
つまり、震災前の10の生活が当たり前の生活だから、これからも10の生活をしていかなければいけないと考えるのか、それとも震災によって節電、節水、節約を余儀なくされた5の生活を、これからの当たり前の生活と考えていかなければいけないのかということです。
もし、今までのように使いたいだけ使っていた浪費と贅沢が当たり前である10の暮らしが、日本経済を悪化させないために戻らなければいけない普通の生活だとすれば、東日本大震災で亡くなられた二万人以上もの方々の犠牲や、生活基盤のすべてを奪われた十数万人もの人々の苦しみ、そして、震災に伴って強いられていた不便な生活体験は、何の教訓にもならなかったという事になるのではないでしょうか。

社会全体が節電や節水や節約に走る事は、一日も早い復興を願う人々の眼には、まるで復興を阻害する疫病神のように映るかも知れません。
しかし、節水とは、今まで蛇口を一杯に開けて、流しっ放しにしながら使っていた生活を、蛇口を少し絞り、出来るだけ無駄な水を使わないようにしようという、無駄をなくす為の知恵であり、節電とは、無駄な照明を出来るだけ使わないようにしようという浪費を減らす工夫であり、節約とは、大自然の摂理に適った感謝と知足の生活に戻ろうとする取り組みなのです。
つまり、感謝と足ることを知る(知足)という天地の摂理に添った生き方を自覚し、人間本来のあるべき姿に戻るという事です。
そして、それを今も愚直に実践しているのが、山奥に住む「ポツンと一軒家」の人々なのです。
もし節電、節水、節約によって経済がおかしくなるのであれば、節約しようとする人が悪いのではなく、節約によっておかしくなる経済の仕組みそのものが、天地の摂理に反しているのです。
言い換えれば、浪費や贅沢によって成り立っている経済の仕組みそのものを根本から見直さなければいけない時期に来ているという事です。
昔から、「腹八分に医者要らず」「知足最富」という言葉があるように、足る事を知る事が最も富める生き方であり、足ることを知らなければ、幾らあっても「まだ足りない」と愚痴をこぼしながら暮さなければなりません。
前にお話した「ポツンと一軒家」に住む方たちは、大自然の中で、大自然の摂理にしたがって、必要なだけの糧を得て、知足と感謝の心を持って日々の生活を営んでいます。
そこには、現代人が忘れてしまった人間本来の在るべき豊かで幸せな生き方が、まだ脈々と息づいているのです。
飽くなき欲望の追求によって、人類は今の文明社会を築いてきましたが、同時に、様々な弊害を生み、温暖化という副作用に苦しめられているのが現状です。
これから更に温暖化が進めば、その悪影響は加速度的に世界全体を覆い、子々孫々に大きな災厄をもたらす事は間違いないでしょう。
飽くなき欲望は、肉体的にも精神的にも様々な災いを及ぼす元凶ですが、これだけは、自ら制御していかなければならないのです。