小欲を捨てて大欲に生きる(3)
「頂きます」という言葉の意味
以前、食事をいただく前に唱える「頂きます」という言葉の意味を誤解している人がいるという話をしました。
永六輔さんがパーソナリティを勤めるラジオ番組に来た一通の投書を読んで、永六輔さんは驚愕したそうです。
私共は、食事する前に必ず「頂きます」と合掌して頂きますが、ある小学生のお母さんから、「子供が通う小学校では、食事する前に必ず『頂きます』と言ってから食べます。お金を払って給食を食べているのに、どうして『頂きます』と言わなければいけないのでしょうか」という投書が来たらしいのです。
そのお母さんは、「頂きます」というのを、人からただで貰うという意味だと誤解していたのです。
だから、「給食代を払って食べているのに、どうして人からただで貰うような意味の「頂きます」と言わせるのですか」という投書を送ってきた訳です。
しかし、「頂きます」というのは、ただで貰うという意味ではありません。
人間というのは哀しいかな、霞(かすみ)を食べて生きていく事は出来ません。
動物の命も、野菜や植物の命も、他の命も頂いて、この身を養っているのです。
自分の命を養う為に、こうして命を捧げてくれた生き物に対して「有難うございます。申し訳ありません。貴方の分まで生きて、この世のお役に立たせて頂きます」という感謝の気持ちを込めて「頂きます」と言っている訳です。
決してただで人様から物を貰っているという意味ではありません。
永六輔さんは、「こんな考え方をする若いお母さんもいるのか」と、非常に驚いたそうですが、同じような話があります。
或る親子が食堂へ入って食べる前に「頂きます」と言って食べようとしたら、隣の席に座っていたおばさんが「食堂でお金を払って食べているのに、何故頂きますって言うの」と云ったそうですから、いい年をしたおばさんでも、「頂きます」という言葉の意味を知らないのですから、若いお母さんだけを責められません。
何事も感謝と祈りの心で
食事が済めば、お便所へ行きます。
お便所は、生きてゆく上で一番お世話になっている場所ですから、入る前には、感謝の祈りを忘れてはなりません。
法徳寺では、お便所の入口に、「お便所を汚す事はわが心を汚す事なり。いつも綺麗に使わせていただきましょう。オンクロダノウウンジャク」と書いた紙を貼ってありますが、「オンクロダノウウンジャク」というのは、不浄を除けるお力をお持ちの烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の御真言です。
この御真言は、お便所を汚しても、烏枢沙摩明王様が不浄を払って下さるから唱えるのではありません。そんな虫のいいお願いをしても、烏枢沙摩明王様は聞いてくれません。
お便所は、家の中で最も汚れやすい場所だからこそ、烏枢沙摩明王様のお世話にならないよう、いつも綺麗に使わせていただく事を心がけるための御真言なのです。
こうして、生活そのものが信仰の心、感謝の心、祈りの心によって支えられていくのが、伝教大師のいう「道心の中に衣食あり」の生活なのです。
こう言うと、「法嗣様、それは無理です」とおっしゃったお方がいたので、「どうしてですか」とお聞きしたら、「私達はお坊さんではないから、朝から晩までお坊さんのように拝んでばかりいられません。会社へ行けば仕事もあるし、家では子育てもあるし、そんな事は無理です」とおっしゃいました。
確かに、会社へ行けば、仕事があり、子育ても、並大抵の苦労ではありません。
しかし、だからこそ、「どのような思いで仕事をするか、どのような思いで子供を育てるか」という事が大切なのです。
商品を売るにしても、ただお金儲けの事だけを考えて、何とかして売りつけようというような小欲の心で売るのと、「買って下さるお方がいるから、こうして会社が成り立っていくのだ。売るのではなくて、買っていただくのだ。この商品が少しでも世の中のお役に立てば、こんなあり難い事はない」という大欲の心で売るのとでは、雲泥の差があります。
要するに、自分の利益だけを考えて売るのか、それとも人や社会のお役に立てる事を喜びとして売るのかということです。
神からお預かりした子
最近は、子供を虐待する親が増えていますが、これも、「衣食の中に道心なし」の結果ではないかと思います。
子供を虐待する親に、「この子は誰の子ですか」と尋ねたら、「私の子です」という答えが返ってくるでしょうが、子供は、産んだ人の子ではありませんし、神仏から授かった子でもありません。
子供は、神仏から一時的にお預かりしている預かり子なのです。
ですから、預けられた親には、将来社会のお役に立つ立派な人間に育てて、世の中に送り出す責任があります。
それまでは、粗相のないよう、大切に育てなければなりません。
私が、出家して紀州高野山へ上るとき、菩薩様が作られた法歌があります。
天地より 預けられたる御宝を
高野の山に 送るうれしさ
親と子の 縁となりし神の子を
大師の御手に かえすうれしさ
神仏からお預かりした子を、ようやくお大師様にお返しする日が来たという喜びを詠まれた歌です。
世の中には、神仏という本当の親がいることを忘れ、「わが子だから、何をしようと親の勝手だ」と言って、虐待を肯定しようとする親もいますが、これでは、神仏の子をお預かりする資格はありません。
秋元康氏を感動させた言葉
作詞家で、AKB48や数々の音楽ユニットの総合プロデューサーとして知られる秋元康氏が、最初にプロデュースした女子アイドルグループが「おにゃんこクラブ」ですが、その一員だった高井麻巳子(まみこ)さんと結婚した時の逸話が伝えられています。
結婚の挨拶をする為に高井麻巳子さんの御両親に逢いに行った時、お父さんから云われた言葉があるそうです。
その言葉をいまも大切に胸にしまってあるそうですが、お父さんは秋元氏にこうおっしゃったそうです。
「娘(こども)は天からの授かりものって言いますが、違うと思う。私は天からの預かりものだと思います。だから、私はあなたが来るのを待っていました」
つまり、お父さんは、「私は、あなたが娘を迎えに来るまで一時的に預かって育ててきたに過ぎません。いままで、あなたに娘を引き渡せる日が来るのを待っていました。今日あなたに会えた事は大きな喜びです」という意味でおっしゃったのです。
秋元康さんは、このお父さんの言葉に感動し、「確かに麻巳子さんを受け取りました」というお父さんへの感謝の気持ちを込めて、「バトンタッチ」という曲を書き上げられました。
親と敬え妻子と思え
交通安全のお守りを車に付けている人が大勢いますが、このお守りも、無謀な運転をしても事故を起さないよう守ってもらう為の免罪符ではありません。
お守りは、み仏の御分身であり、お守りを車につけるということは、み仏の御分身に乗って頂くという事です。
ですから、「車に乗っていただいた以上は、み仏に怪我をさせないよう、安全運転に心がけます。どうかお守りさせて下さい」と言って、安全運転を心がける為のお守りなのです。
お守りを車に付けるという事は、み仏の御分身を車にお迎えするという事であり、み仏がいつも一緒に乗っていて下さるという事ですから、無謀な運転や乱暴な運転をして、み仏にご心配をおかけしないよう、常に安全運転を心がけなければなりません。
菩薩様の道歌の中に、
この車 親と敬え妻子と思え
荷物背負わせ われが舵とる
という道歌がありますが、この道歌も同じです。
車をただの機械と思って乗るか、それとも、自分の親や妻子と思って乗るかという事です。
この車が親や妻子だと思えば、無謀な運転は出来ませんし、その思いが、取りも直さず、安全運転と事故防止につながっていくのです。
交通安全を願って、お守りをつけたり、ワッペンを貼る事も大切ですが、お守りやワッペンの意味を知って、車をお守りさせていただいてこそ、思いもよらぬ不慮の事故から守っていただけるのです。
履物を履く時でも、「こんなに重い体を支えてくれて、ありがとう」と一言お礼を言ってから履かせていただけば、履物は喜んで役目を果たしてくれるでしょう。
草履がなければ、裸足で土や石の上を歩かねばなりませんが、裸足でなど、とても痛くて歩けません。
その痛みを、草履がすべて代わってくれていると思えば、たとえ草履ひとつにも、感謝の祈りを捧げられる人間とならなければなりません。
要するに、一事が万事で、「信仰は片手間ですればいいのだ。食べていくのが先だ。お金儲けが先だ。生活が先だ」と、目先の小欲に心を奪われるのではなく、信仰の心、感謝の心、祈りの心を忘れず、大欲の中で日々の生活を営ませて頂けば、仕事も商売も家庭も人間関係も、すべてうまくいくようになるのです。
何故なら、それが、魔術でも催眠術でもなく、古今東西変わることのないこの世の真理だからです。
小欲を捨てて大欲に生きる(1)
小欲を捨てて大欲に生きる(2)
小欲を捨てて大欲に生きる(4)
小欲を捨てて大欲に生きる(5)