小欲を捨てて大欲に生きる(2)
道心の中に衣食あり
一口に欲と云いますが、欲にも、小欲と大欲(たいよく)の二つがあります。
「小欲」とは、欲が小さいという意味ではなく、自分だけの幸福を追求する利己的な欲のことですが、利己的な欲の中でも特に欲深いのが、貪欲(貪り)です。
それに対し「大欲」とは、欲が深い(強欲、貪欲)という意味ではなく、社会全体の幸福を願い、万人の利益を計ろうとする欲のことです。
苦しむ人々を救うためにご苦労なさったお釈迦様やお大師様や菩薩様や古今東西の聖者は、みなこの大欲に生きられたお方です。
ミスラ君が、主人公の「私」に、「魔術を習おうと思ったら、先ず欲を捨てなければいけません」といった欲は、自分だけの幸福を追い求める利己的な小欲の事であって、大欲の事ではありません。
大欲を捨てる必要はありませんし、大欲を捨ててしまっては、欲を捨てずに救いを実現することは出来ません。
では、「欲を捨てずに救われるには、どうすればいいのか?
この『魔術』を読んでいて、私の脳裏に浮かんだ言葉があります。
それは、伝教大師が説かれた「道心の中に衣食(えじき)あり。衣食の中に道心なし」という言葉です。
何故なら、この言葉の中に、「欲を捨てずに救われる道」が示されているからです。
「道心」とは、文字通り「道を求める心」で、信心、菩提心、慈悲心、真心、良心などとも言われています。
「衣食(えじき)」とは、私達の日々の生活の事です。
つまり、「道心の中に衣食あり。衣食の中に道心なし」とは、日々の生活の中に信仰があるのではなく、信仰の中に日々の生活がなければならないという意味です。
残念ながら、これと正反対の生活を送っているのが、世間の人々で、「生活が第一で、信仰は二の次」「道心の中に衣食なし、衣食の中に道心あり」の人生を送っているのが現実です。
伝教大師がおっしゃった「道心の中に衣食あり。衣食の中に道心なし」は、その正反対で、先ほどの小欲と大欲に置き換えれば、「大欲の中に小欲あり。小欲の中に大欲なし」という事になります。
要するに、社会全体の幸福を願う大欲の中には、自己の幸福を求める小欲も含まれているが、自己の幸福を求める小欲の中には、社会全体の幸福を願う大欲は含まれていないという事です。
戦わずして勝ち、求めずして得る
皆さんは、「欲を捨てては、欲しいものも幸福も手に入れる事が出来ない」とおっしゃるかも知れませんが、小欲を捨てる事は、欲しいものや幸福になるのを諦める事ではありません。
孫子の兵法に「戦わずして勝つ」という言葉があるように、大切なのは、「いかにして欲をすることなく、欲するものを手に入れるか」という事です。
例えば、何かを手に入れようとすれば、誰でも、欲を起さなければ手に入らないと考えるでしょうが、これは、謂わば小欲によって手に入れる方法であって、孫子の兵法でいえば、小欲と少欲の衝突が起こり、無謀な戦争に突入するのと同じです。
しかし、欲を起さなくても、結果的に必要なものが手に入れば、「戦わずして勝つ」事になります。
これが、大欲によって手に入れる最善の方法です。
要するに、小欲を起して必要なものを手に入れようとするよりも、小欲を起さなくても、結果的に必要なものが手に入るようにした方がよいという事です。
何故なら、小欲によって手に入れようとすると、必ず小欲と小欲がぶつかり合い、争いや憎しみが生まれ、お互いを傷つけ合って罪を作り、苦しまなければならないからです。
それによって手に入るのは、悪業と言う千年万年続く輪廻の業だけです。
醜い戦争も、みな小欲と小欲の対立によって、もたらされるものです。
しかも、四苦八苦の中に、求めても得られない「求不得苦」という苦しみがあるように、小欲を起しても、欲しいものが手に入るとは限りません。
それどころか、むしろ思うように手に入らないのが、現実です。
ところが、世間には、小欲をおこしていないのに、必要なものをちゃんと手に入れている人々がいます。
一方で、欲を起しても得られない人々がいるのに、他方で、欲を起さなくても必要なものを得ている人々がいるのです。
この人たちは、戦わずして勝っている人々であり、欲を捨てずに大欲を起こして救われている人々と言えましょう。
この大欲によって救われる道を教えているのが、伝教大師の説かれた「道心の中に衣食あり。衣食の中に道心なし」という教えです。
バブル崩壊が証明してくれたこと
1990年代に入ってバブル経済が崩壊し、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債権信用銀行、山一證券、三洋証券などの大手金融機関が不良債権や株価低迷によって、相次いで倒産し、企業倒産は戦後最悪を更新し、天上界から一夜の内に奈落の底へ堕ちた人々が続出しましたが、バブル崩壊は、伝教大師の言葉の正しさを、ハッキリ証明してくれました。
バブル経済の真っ只中、個人も企業も、猫も杓子も、社会的使命を忘れて、お金儲けに奔走していましたが、これこそまさに、伝教大師の言う「衣食の中に道心なし」で、「自分さえよければいい」という小欲に狂った世界がバブル経済であり、その慣れの果てが、バブル崩壊だったのです。
要するに、人間の生きるべき道と、企業の果たすべき社会的使命を忘れ、ただ利己的な目先の小欲だけを追求する生き方、つまり、「衣食の中に道心なし」の生き方をしていては駄目だという事が、バブル経済の崩壊によって、ハッキリ証明されたのです。
感謝で始まり感謝で終わる
伝教大師の説く「道心の中に衣食あり」とは、どういう生き方を言うのでしょうか?
以前、「道心の中に衣食ありとは、信仰の中で日々の生活が営まれなければいけないという意味ですよ」とお話したら、「法嗣様、私はすでに信仰の中で日々の生活を営んでいます」とおっしゃたお方がいます。
そこで、「どのような信仰生活を送っておられますか」とお尋ねしたら、「毎日、仏壇の前に座って、み仏を拝んでいます」とおっしゃいました。
伝教大師の言われる「道心の中に衣食あり」とは、仏壇の前でお経を唱える事だけではなく、朝、目が覚めてから、夜、床につくまで、日々の生活の全てが、「道心」によって為されなければならないという事です。
目が覚めたら、まず生かされている事への感謝を忘れてはなりません。
夜の間に心臓が止まって亡くなる方も少なくないのに、「今日も目覚めさせて頂けた」と思えば、自ずと感謝の心が湧いてきます。
次に洗面所へ行き、歯を磨き、顔を洗いますが、水道の栓をひねり、サーッと水を流して顔を洗い、口を漱いで終わりではなく、水道の蛇口をひねる前に、ここでも感謝の祈りを捧げることを忘れてはなりません。
私達の体は、ほとんど水で出来ていて、胎児は体重の約90パーセント、新生児は約75パーセント、子供は約70パーセント、成人は約60~65パーセント、老人は50~55パーセントが水です。
この地球も水に覆われている部分が70パーセントと、人間の子供とほぼ同じ割合です。
地球が誕生してから46億年もの歳月が経っていますが、水の割合は人間の子供と同じ70パーセントですから、地球の天体年齢はまだ子供なのかも知れません。
また胎児の内は、母親の子宮の中にある羊水に守られて成長する事からも分るように、私達は、生まれる前から水に守られ、水と共に生きているのです。
まさに水は、私たちの生命の一部であり、水に支えられている命と言っても過言ではありません。
そう気付けば、毎日当たり前のように使っているお水は、もはやただのお水とは思えません。
私たちの命を支えて下さっている親様の血潮であり、ご神水ですから、そのお水に手を合わせ、感謝の祈りを捧げるのが当たり前なのです。
食事をいただく時も、いただく前に、「有難うございます。いただきます」と祈りを捧げて、いただくことによって、食べたものが、健康な体を作る血肉となってくれます。
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