今年も一年ありがとう(4)

回向の功徳

法徳寺では、朝夕に、御本尊様への供養のお勤めをするのが日課で、お勤めは、先ず「開経偈」「懺悔文(さんげもん)」から始まり、「経文」(理趣経、地蔵経、観音経、般若心経…等々)「諸真言」「御法歌”頼め彼岸へ法のふね”」「弘法大師、法舟菩薩様御宝号」と続き、最後に「回向文(えこうもん)」を唱えて終わりますが、この中で絶対に欠かす事の出来ないのが、最後にお唱えする「回向文」です。

 願わくばこの功徳を以て 普く一切に及ぼし
   我らと衆生と 皆共に仏道を成ぜんことを

この「回向文」は、勤行の最後に唱える偈文の一つに過ぎませんが、「回向文」がなければ勤行が完結しないという意味では、勤行全体を締めくくる上で、とても重要な役目を担っています。
この「回向文」を忘れると、それまでお唱えしたお経の功徳が半減すると言ってもよいほど大切なもので、回向する事によって、初めて御本尊様をはじめ、すべての衆生への供養が完結します。
菩薩様が詠まれた、
 朝日に感謝は するけれど
   沈む夕陽に 知らぬ顔
   今日も一日 ありがとう
という道歌に、勤行を当てはめれば、昇る朝日は「開経偈」、沈む夕陽は「回向文」に相当します。
つまり、いくら「開経偈」「経文」「御真言」「御宝号」を唱えても、最後の「回向文」を忘れていては、勤行の功徳が半減するのと同じように、いくら朝日を拝んでいても、沈む夕陽に対する感謝の心を忘れていては、朝日を拝んだ功徳は生かされないのです。
回向とは、文字通り、自らが積んだ功徳の果報を、他者に差し向ける(施す)事ですが、回向は、ただ他者に回向して終わりではありません。
太陽が夕陽となって沈び、再び朝日となって帰ってくるように、回向した功徳は、やがて果報となってわが身に返ってくるのです。
お経の功徳を回向(布施)する事によって、他者が幸せとなるばかりか、回向した自分自身も、回向(布施)の功徳によって幸せの果報を頂けるのです。
回向がお勤めの中で何より大切である所以は、幸せの輪を大きく広げて、多くの人々を幸せのパワーで包み込むだけでなく、功徳を回向した自分自身をも幸せのパワーで大きく包み込んでくれるところにあります。

お釈迦様の前世の物語

お釈迦様の前世物語を「本生譚(ほんしょうたん)」(ジャータカ)と言いますが、回向の功徳で思い出すのは、お釈迦様の前世物語である「雪山童子(せっせんどうじ)」の話です。
お釈迦様が、まだ若い修行者だった頃のお話を、十大弟子の一人である摩訶迦葉尊者にされたものですが、ここに回向の功徳とは何かがハッキリ示されています。

まだ年若い修行者として各地を遍歴しておられた前世のお釈迦様の耳に、どこからともなく妙なる歌声が聞こえてきました。
 「色は匂へど 散りぬるを わが世誰ぞ 常ならむ」
若い修行者は歓び、踊り上がって辺り構わず叫びました。
 「いまこの上もなく尊い歌を歌われたのはどなたですか?飢えた者に無上の食を与え、蓮の花が開くように、心の闇を一道の光明に導き、次第に明るさを増して下さるのはどなたですか?」
こう叫んで辺りを見回したけれど誰も答える者はなく、そこには恐ろしい形相をした羅刹(らせつ)が一人たたずんでいるだけでした。
 「今の歌声はあなたですか?あなたはどこでこの尊い歌を教わったのですか?」
羅刹は答えました。
 「いや、そのことなら尋ねてくれるな。私はこの数日間何も食べていない。あちこち探しているがどうしても食が得られない。その為に気が遠くなり思わず口ずさんでしまったらしい。そんなに尊い歌であるのかどうか、私は何も知らないのだよ」そこで修行者は言いました。
 「そう言わずに お教え下さい。私は生涯あなたの弟子となりましょう。今の歌はまことに尊いものです。しかし、言葉も半分で意味も充分ではありません。財の施しは尽きるころがあっても、仏法の施しは尽きることがないと聞いています。どうあっても教えていただきたいのです」
羅刹は言いました。
 「お前は自分のことばかり考えていて、この私のことなど少しも思ってくれぬではないか。私は今飢え切っている。とても歌うことなど出来ないのだよ」
修行者は答えました。
 「では貴方の食物を何でも運びましょう」
羅刹は言いました。
 「いや、何も言うまい。もし言おうものなら誰でも驚くだろうからな」
 「ここには誰もおりません。私だけです。私はどのようなことがあっても驚きません。どうかあなたの食物を言って下さい」
 「本当か。それなら言おう。私の食物は生きた人間の肉、飲み物は赤い血、ただそれだけが私の食物なのだよ」
 「そうですか。分かりました。それならやがては滅びるこの肉体です。あとの半分の歌をうけたまわれば、この肉体はもはや用はありません。死んで獣の餌食になるよりは、道の大導師に供養して、尊い仏法に変えた方がはるかに本望です。私はいまこの朽ち果てる肉体を捨てて、永久に変わらぬ法の身を得たいと願います」
 「いや、それは口先だけのことであろう」
羅刹が言うと、修行者は答えました。
 「それならば十方の諸仏諸菩薩に誓って、その証をたてさせていただきましょう」
 「それほどにお前が言うなら、あとの半分を歌ってやろう」
こうして羅刹は歌い出しました。
 「有為の奥山 今日越えて 浅き夢みし 酔ひもせず」
歌い終わるや否や、
 「若者よ、私はこれですべてを歌い終わったから、お前の願いは満たされたであろう。約束である。その肉体をいただこう」
 「勿論差し上げます。しかしお待ち下さい。この教えを、後世の人々の為に残しておきたいのです」
 と言って、その歌を周囲の石や木や道に手当たり次第、書き留めました。そして再び高い樹の上に上りました。
樹の精霊(せいれい)が「何をするのか」と尋ねました。
 「歌を教えてもらったお礼にこの肉体を捧げるのです」
 「そのような歌に何の意味があるのですか」
 「これこそ三世のみ仏が示された真の仏法です。この世の、惜しみ強い人達や、ほんの少しの施しを自慢に思っている人達に、いまこの歌の為にこの命を捨て去るのを見せてやりたいものです」
と言い終わるや否や、梢から身を躍らせました。
すると若者の体が大地に着かぬ先に、今まで恐ろしい形相をしていた羅刹が帝釈天に姿を変え、若者を空中でいだきあげ、静かに大地に立たせたのです。そしてどこからともなく天女たちが現れ、若者の足元にひれふして、ほめたたえました。
「まことに尊い志であります。これこそ真の菩薩です。このお方こそ、量り知れない多くの人々を末代までも恵み、お救い下さるでありましょう。どうぞこの汚れた世から出て、無上の悟りを成就された暁には、この私をもお救い下さい」と願うのでした。

お釈迦さまは弟子の迦葉尊者にこのように言われました。
「私はこの歌の為にこの身を捨てたが、それから十二劫という長い年月の後に、弥勒菩薩に先立って悟りの道を成就することが出来たのである。迦葉よ、私の持っている量りない功徳は、これみな如来の仏法を供養し奉った報いなのである。あなたもまた今悟りの道に志を立てた。すでにガンジス川の砂ほどにも数多い菩薩達よりも越え、優れている尊い身である」

衆生救済の為に

この物語が私達に伝えようとしている大切な事が、三つあります。
第一に、仏法(お悟り)が、この世の中で何よりも尊く、かけがえのないものであるという事です。
第二に、人々を救済する上で欠かせない仏法を頂いた者は、それを私物化したり惜しんではならず、すべての人々に回向し、施さなければならないという事です。
第三に、回向(布施)すれば、必ず果報となって自らに返ってくる(リピートする)という事で、これを「回向返照(えこうへんしょう)」と言います。
要するに、回向する事は、決して他者の為だけではなく、自分自身の為でもあるという事です。

この「雪山童子」の物語の最大の山場は、羅刹めがけて梢から身を投げ出したお釈迦様を、羅刹から姿を変えた帝釈天が救い取られた場面ですが、何故帝釈天は、恐ろしい羅刹に姿を変えて、お釈迦様に命を差し出すよう命じたのでしょうか?
帝釈天は、一体お釈迦様の何を試そうとしたのでしょうか?
思うに、羅刹は、お釈迦様が、何のために命がけで仏法を求めようとしているのか、その本心を試そうとしたのではないでしょうか。
仏法がなければ、この世は真っ暗闇となり、人々は迷いの淵に沈み、果てしなく苦しみ続けなければなりません。
仏法は、この世を照らす光明であり、苦しむ人々にとって唯一の希望なのです。
その仏法を羅刹から授けられた時、お釈迦様は、仏法を私して隠したり、惜しんだりせず、苦しむ人々に普く伝えんが為、周囲の石や木などあらゆるものに書き留められました。
それはまさに、苦しむ人々に対するお釈迦様の回向心の現れであり、真心(菩提心)の供養であり、布施行の実践でした。
帝釈天が梢から身を投げ出したお釈迦様を救い取られたのは、命がけで仏法を求めたお釈迦様の本心が人々を救済する為であり、その本心に嘘偽りのない事が明らかになったからです。
だからこそ、どこからともなく天女たちが現れ、口々に「これこそ真の菩薩です。このお方こそ、量り知れない多くの人々を末代までも恵み、お救い下さるでありましょう。どうぞこの汚れた世から出て、無上の悟りを成就された暁には、この私をもお救い下さい」と言って救いを願ったのです。

回向の結果を求めてはならない

お釈迦様の行動が、苦しむ人々の為であると同時に、お釈迦様ご自身の為でもあった事は、迦葉尊者に述べられた「私はこの歌の為にこの身を捨てたが、それから十二劫という長い年月の後に、弥勒菩薩に先立って悟りの道を成就することが出来たのである。迦葉よ、私の持っている量りない功徳は、これみな如来の仏法を供養し奉った報いなのである」という言葉を見れば明らかですが、それと同時に忘れてはならない事がもう一つあります。
それは、お釈迦様の心には、自分自身が救われたいという思いは微塵もなかったという事です。
お釈迦様の行動は、あくまで衆生を救済したいとの一心から出たものであって、果報を得たいとの思いから出た行動ではありません。
もし自分が救われたいという思いから出た行動であれば、羅刹に命を投げ出す筈がありません。
自分の救いを意識した行動は、結果を期待した功利的な行動であって、回向(布施)の心から出た行動ではありません。
回向(布施)とは、あくまで如何なる結果をも求めず、他者の為に無心でなされる行動であって、無心でなければ、回向返照とはならないのです。
磁石のプラス極とマイナス極が互いに引っ張り合い、プラス極とプラス極、マイナス極とマイナス極が互いに反発し合うように、回向(布施)の功徳が、やがて果報となってわが身に返照されるのは、如何なる結果をも期待せず、心を空しくして為される行動だからです。
よく「信仰は取引ではない」と言われますが、回向もまた、八百屋さんでお金を払ってお野菜を買う取引とは、根本的に違うのです。
回向とは感謝であり、回向(布施)させて頂ける事に喜びを感じ、感謝の念でさせて頂けるからこそ、福の神はその人に微笑みを返してくれるのです。
「今日も一日ありがとう(1)」で述べたように、私は今も、供養させて頂いた掃除機が、わが家のリピーターの一人になってくれたと信じていますが、そう信じる事が出来るのは、掃除機に対する供養の心が、何らかの見返りを期待する心から出たものではなく、長年のご苦労に対する感謝の気持ちから出た行動だからです。
この感謝の心は、あらゆる障碍を撥ね退け、あらゆる福を呼び寄せたいと願う人々にとって、最も身近にいるこの世で最強の味方と言えましょう。

今年も一年ありがとう(1)
今年も一年ありがとう(2)
今年も一年ありがとう(3)