今年も一年ありがとう(3)
何故イチロー選手や松井選手は超一流と呼ばれるのか?
次の言葉をご存じでしょうか?
お金や物を失くすことは、
小さく失くすことであり、
信用(信頼)を失くすことは、
大きく失くすことであり、
やる気を失くすことは、
すべてを失くすことである。
お金や物を得るよりも、信用を得る事がいかに大切であるかは、以前、食品偽装事件を起して倒産した幾多の会社を見れば、明らかでしょう。
利益を追求する余り、偽装して信用を失い、利益を得るどころか、会社の徳を食い潰して倒産に追いやったのですから、本末転倒と言わなければなりません。
信頼関係は、人と人との間だけではありません。掃除機を供養したお話をしましたが、人と物との間にも、信頼関係は欠かせません。
その信頼関係さえあれば、人であろうが、物であろうが、必ずリピーターとなって帰ってきてくれると、私は信じています。
イチロー選手や松井秀喜選手が、数々の記録を打ち立てた事は、皆さんもよくご存じだと思いますが、何故イチロー選手や松井選手は、あんなに沢山のヒットやホームランを打てるのでしょうか?
安打製造機と言われる二人の秘密は、どこにあるのでしょうか?
他の選手に比べて、ミートの技術やバッティングセンスがすぐれているからである事は言うまでもありませんが、根本的な違いは、二人の心の中にあります。
三振したり、空振りしたりすると、ヘルメットやバットをグラウンドやベンチに叩きつけている選手をよく見かけます。
多分、打てなかった悔しさが、そういう行動となって現われるのでしょうが、三振しても空振りしても、イチロー選手や松井選手は、ヘルメットやバットをグラウンドに投げつけたりしません。
二人がそうしている姿を、私はまだ一度も見た事がありません。
何故、イチロー選手や松井選手は、バットやヘルメットをグラウンドに叩きつけたりしないのでしょうか?悔しくないのでしょうか?
そんな筈はありません。あれだけの超一流選手になれば、悔しさも他の選手とは比べ物にならないほど大きいに違いありません。
にも拘らず、イチロー選手や松井選手は、バットやヘルメットを投げつけたりしないのです。何故でしょうか?
二人の内、どちらだったか忘れましたが、以前、こんな事を言っているのを聞いた事があります。
「このバットが自分の手のように感じられるようになってから、ようやくヒットが打てるようになりました」
つまり、イチロー選手や松井選手にとって、バットは、ボールを打つただの道具ではなく、自分の手、つまり体の一部なのです。
バットやヘルメットをグラウンドに叩きつけたり投げたりしないのは、自分の体の一部と感じているからです。
それは、次の行動にもよく現れています。
グローブの手入れを他人に任せる野球選手が多い中で、イチロー選手は、必ず自分で手入れをするそうです。
それだけではなく、イチロー選手は、絶対に他人のバットを握ったりしないそうです。
重さもグリップの太さも違う他人のバットを持つと、自分のバットを持った時に違和感が残るからだそうですが、グローブの手入れを自分でしたり、他人のバットを握らないのは、イチロー選手が、自分のバットやグローブを自分の体の一部と感じている証拠です。
それだけバットやグローブに対する思い入れと感謝の念が深いのです。
イチロー選手や松井選手が、超一流と言われる所以が、ここにあります。
二人が超一流なのは、天賦の才能を持っているからではありません。
陰で人より何倍も努力している努力の人であると同時に、道具一つにも「今日も一日ありがとう」の心を忘れないその真摯な姿勢にあります。
要するに、二人は、技術面だけではなく、精神面でも超一流なのです。
イチロー選手も松井選手も、バットやグローブに最後の別れを告げる時は、きっと心の中で合掌をしているのではないでしょうか。
二人に使われるバットやグローブは、本当に幸せだと思います。
だからこそ、二人に使われたバットやグローブたちは、必ず姿を変えて生まれ変わり、二人の下へ帰ってくるに違いありません。
他のテーマパークに比べ圧倒的にリピーター数が多い東京ディズニーランドと同じ事が、二人についても言えるのです。
加持感応の妙
自動車を新しく買い替えた時、神社やお寺で、交通安全のご祈祷をして頂いたり、お守りを受けて来られるお方が大勢います。
それが悪いとは申しませんが、それよりももっと大切な事があります。
それは、古い車に対する感謝の供養です。
今までお世話になってきた車を下取りに出す時、もう乗らなくなったからと言って、そのまま下取りに出すようでは、幾ら新車の交通安全の御祈祷をしてもらっても、霊験は頂けないでしょう。
今まで雨の日も嵐の日も、灼熱の太陽が照りつける猛暑の夏も、冬の木枯らしが吹きすさぶ厳寒の冬も、快適に乗せて目的地まで運んでくれた車です。
その車を買い替える時には、綺麗に車体を洗わせて頂いて、お礼を申し上げてから引き取って頂くのが、今まで御苦労をかけた車に対するせめてもの供養であり、御恩返しではないでしょうか。
そうして感謝の心を供えてもらった古い車は、きっと新しい車に生まれ変って、再びあなたの下へ帰ってきてくれる筈です。
そして、あなたからしてもらった真心と感謝の供養を忘れず、これからもあなたや御家族を守ってくれるに違いありません。
自動車を新しく購入する時には、いま初めて御縁があって購入した新車としてではなく、かつてわが家の車として働き、役目を終えてあの世へ旅立っていった古い車が、生まれ変わって帰ってきてくれたのだという気持ちで、「帰ってきてくれて有り難う。また一緒にがんばりましょう」と言って、お迎えしてあげるのです。
下取りに出す時には、ただ「さようなら」ではなく、「有り難うございました。また私達の所へ帰ってきて下さいね」と言って、再会を約束して別れを告げるのです。
そうすれば、古い車に対するあなたの真心を、新しい車が受け止め、必ずや事故や災難から守ってくれるでしょう。
法徳寺でも、交通安全の御祈祷をさせて頂いていますが、いくら御祈祷をしていても、御祈祷を受けて頂く皆さんの心が真理に逆らっていては、霊験は現れません。
菩薩様の法歌に、
この車 親と敬い妻子と思え
荷物背負わせ われが舵とる
という法歌がありますが、「この車がわが親だ。わが妻子だ」と思えば、無謀な運転は出来ない筈です。
つまり、車に対する感謝の心を忘れずに乗せて頂く事が大切なのです。
お大師様が、『即身成仏義』の中で、「加持といっぱ、如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水能く仏日を感ずるを持と名づく」と説いておられるように、いくら御祈祷によって交通安全を祈っても、その祈りに応え、交通安全に適う心の器が御祈祷を受ける人々になければ、祈りは一方通行となって、加持感応の妙は現れません。
「加」という交通安全への祈りと、「持」という車に対する敬いと感謝の心が一つになって、この世の真理に適った安全運転につながり、皆さんを事故や災難から守ってくれるのです。
地鎮祭、上棟式の意味
新しい家を建てる時には、どうされますか?
神主や僧侶に来ていただいて、神式や仏式で地鎮祭や上棟式をされると思いますが、地鎮祭とは、土地をお清めする儀式ではありません。
地鎮祭は、その土地の上に住む人の心を浄める為の儀式であり、上棟式も同じです。
ですから、新車の御祈祷をする時と同じように、地鎮祭や上棟式をする前に忘れてならない事は、取り壊される古い家に対し、真心の供養、感謝の供養をする事です。
もしあなたが古い家だとしたら、どうでしょうか?
今までその家に住む人を雨風から守ってきた自分が、お礼も言われず、古くなったと言ってサッサと取り壊されたら、どんなに悲しい事でしょう。
そんな気持ちでいくら地鎮祭や上棟式をして新しい家を建てても、心のお浄めにはなりません。
時々、お寺へ「神主さんに土地をお清めして頂いて、新しい家を建てて住んだら、病気や怪我ばかりして、良くないことばかり続くのです。何か悪い霊が、土地や家に憑いているのではないでしょうか?こちらでもう一度お清めして頂けないでしょうか」と言うご相談に来られるお方がいますが、そんなお方にお話しする事は、いつも決まっています。
「家に悪い霊が憑(つ)いているとか、先祖が祟(たた)っているとか、一体誰がそんなことを言うのですか?そんな憑き物などは一切ありません。もし家に憑いている憑き物がいるとすれば、それはあなた自身です。お聞きしますが、古い家から新しい家に引っ越しされる時、古い家にお礼を言って来られましたか?」
こうお聞きすると、「いいえ、家財道具を運び出して、そのまま掃除もせずに出てきました」と言われる方が殆どです。
これでは新しい家に入っても、うまくいく筈がありません。
「今からでもいいですから、古いお家にもう一度行って、綺麗にお掃除して、お礼を申し上げてきて下さい。心経の一巻でもお唱えして感謝の心をお供えしてあげれば、お家だって、きっと嬉しいに決まっています。あなたのその真心が、あなたや御家族をお浄めし、災難から守ってくれるのです」
こう言うと、みんな納得して帰って行かれます。
忘れてはならない「今日も一日ありがとう」の心
私がご相談を受けていつも感じるのは、殆どの方が、幸せになる為に忘れてはならない「今日も一日ありがとう」の心を忘れている事です。
「一寸の虫にも五分の魂」と言われるように、どんな物にも必ず心があり、存在する意味があり、この世で果たすべき役割があります。
生きているのは、人間だけではありません。
全てのものが、役割を与えられてこの世に生まれ、存在価値があるのですから、感謝と真心を以て供養をしてあげれば、必ず応えてくれます。
最期を迎えるのは、自動車や家だけではありません。私達人間もみな、必ず死を迎えなければならないのです。
つまり、自動車や家を供養する事は、決して自動車や家の為だけではなく、やがて死を迎える自分自身の為でもあるのです。
高度成長期の日本では、「消費は美徳なり」と言われ、使い捨てが奨励されていましたが、近年ではそれが物だけに留まらず、人間にも及んできています。
いまや人間の使い捨て時代に突入していると言ってもいいでしょう。
バブル経済の崩壊以降から続く不景気や、リーマンショックによる世界大不況の苦境を乗り越えてきた企業は、出来るだけ人員を削減し、無駄な出費を抑えようとしていますが、よくよく考えてみれば、不景気とは、感謝の心を忘れ、驕り高ぶる人間に、もう一度、感謝の心を取戻しなさいという天地の慈悲ではないでしょうか。
天災も、不景気も、感謝の心を忘れている私達に、「貪りの心を離れて、足る事を知りなさい。少欲知足の生き方に目覚めなさい。”今日も一日ありがとう”の心を取り戻しなさい」という天地の声なのです。
次第に老いてゆき、いざ臨終の時を迎えた時、あなたは、どのような思いを抱いて旅立ってゆかれるでしょうか?
「今までそんな事は考えた事もない」と言われるかも知れませんが、考えた事がなくても、その時は間違いなくやってきます。
その時を迎えて、未練を残して旅立ってゆくか、それとも感謝の心を残して旅立ってゆくかは、日々の「今日も一日ありがとう」の実践にかかっていると言っても過言ではありません。