小欲を捨てて大欲に生きる(4)

貪欲と少欲知足の違い

仏教と言うと、欲を一切否定する禁欲主義の教えのように誤解している人がいますが、お釈迦様は、「欲を捨てよ」とはおっしゃっておられません。
欲を捨てたら、人間は生きていけません。
ですから、欲はしてもいいのですが、欲にも、私たちを幸せにする大欲(たいよく)と、身を滅ぼす小欲があり、お釈迦様は、身を滅ぼす小欲を戒めておられるのです。
大欲とは、自分の周りの人々の幸せ、世の中全体の幸せを願い、自分に出来る事をして社会の役に立っていきたいという欲ですから、幾ら起こしても構いません。むしろ、大欲を起こす人が増えれば増えるほど、人々は幸せになり、社会もよりよく発展していきます。
それに対し、小欲とは、自分の目先の利益だけを追求し、自分だけが良ければいいという非常に利己的な欲ですから、この小欲が社会に蔓延すればするほど、社会は乱れ、人々も不幸になっていきます。

実はこの小欲にも大きく分けて二種類あります。
一つは貪欲と言われる欲で、有っても欲しい、無くても欲しい、人に施すのは惜しいという物惜しみの強い欲です。
もう一つは「少欲知足」と言う、足りる事を知る「腹八分」の欲です。
「少欲知足」には、余った物、残った物を他に施そうとする施しの心が具わっていますから、小欲でありながら、大欲に変わる可能性を秘めています。
それに対し、貪欲は、欲しい惜しいという貪りの欲ですから、大欲に変わる事はありません。
つまり、同じ小欲でも、少欲知足は、大欲に変わる可能性を秘めているのです。
仏教行事の一つである「施餓鬼」は、文字通り、「少欲知足」の教えから出てきた「餓鬼に施す」事を目的とする行事と言えましょう。
高野山の修行道場では、食事を頂く前に、ご飯を少しだけ小皿の上に取っておきます。
これを「出生食(しゅっさば)」と言い、食事を頂いた後、小皿に取った出生食を集めて、餓鬼に施す餓少欲鬼棚に置いておくと、お腹を空かせた餓鬼が来てそれを食べていきます。
このように自分が全部食べてしまうのではなく、自分が頂く分の一部を他の人々にも分かち合おうというのが少欲知足の精神で、この境地に到達すると、少欲知足も大欲の一つと言っていいでしょう。

幸せを求める営みに終わりはない

この大欲について、こんな逸話が伝えられています。
お釈迦様の弟子に、アヌルッダという目の見えないお弟子さんがいました。
アヌルッダは、袈裟を縫う為に、針に糸を通そうとしますが、目が見えない為に糸が通せません。
そこで、周りの人々に、「誰かこの針に糸を通してくれませんか。小さな功徳ですが、功徳を積みませんか」と声をかけたところ、「私がその功徳を積ませて頂きましょう」と言ったお方がいました。
その声を聞いた瞬間、アヌルッダは腰を抜かすほど驚きました。何故なら、その声はお釈迦様の声だったからです。
アヌルッダは驚いて、「私はお釈迦様に申し上げたのではありません。他の者に頼もうと思ったのです」と言うと、お釈迦様が「私では駄目なのですか」とおっしゃったので、「お釈迦様は、もうすでに功徳を積まれて、大いなる覚りを開かれ、この上ない幸せの境地におられるお方です。ですから、いまさらお釈迦様が、このような小さな功徳を積まれる必要はありません」と言うと、「いやいや、そうではないのだよ。私もまた、あなた以上に幸せを願っているのです。私ほど悟りを願い、幸せを願っている者はいません。だから、私に是非功徳を積ませてほしいのです」と言って、アヌルッダの針に糸を通されたのです。
この逸話を見れば、お釈迦様が誰よりも幸せを願い、他の人々の幸せを願った大欲の持ち主であった事がよくわかります。

一休和尚の教訓

一休禅師

こんな面白い話があります。
一休さんの所に、一人の老人が来て、「私はいま80歳になりますが、あと20年長生きしたいのです。だから、20年長生き出来る様にご祈祷して下さい」と頼むので、一休さんが、「たった20年でいいのですか。何と欲の少ない人でしょう」と言うと、おじいさんは驚いて、「それでは、あと40年長生き出来るようにご祈祷して下さい」と言ったそうです。
そこで、一休さんが、「40年でいいのか。ますます欲の少ない人だ」と言うと、おじいさんは、「それでは、あと100年長生き出来るようにお願いします」と言ったので、「40年や50年長生きしても、同じことだよ。仏は、永遠に生きる道を説いておられるのに、何故あなたは、永遠に生きる道を探し求めようとしないんですか。たかが10年、20年、50年、100年長生きしたところで、そんなものは五十歩百歩だよ。どうしてもっと大きな欲を持たないのだね」と教え諭したというのです。
一休さんはそのおじいさんに、大欲を持って生きる事の大切を教えようとしたのですが、一休さんの深い心が、おじいさんに伝わったでしょうか?
世の中を見れば、同じ欲でも、欲で苦しむ人と、欲で幸せになる人がいます。
欲で苦しむ人は、目先の小欲にとらわれて生きる人間で、例えば、持続化給付金の不正申請をした人や、フィリピンを根城にして、特殊詐欺の指示を出していた詐欺グループの人間は、まさに目先の小欲に執着して、末代までも続く悪業を作った哀れな人々と言っていいでしょう。
この人たちは、間違いなく小欲で苦しみ、これからも小欲で苦しまなければならない人たちですが、そんな愚かな生き方をするのではなく、自分の周りの人々を幸せにしていきたい、この世の中をよくしていきたいという大欲に生きる事が大切なのです。

教授と学生の会話

或る大学教授が、大学のキャンパスを歩いていたら、ベンチに座っている学生の前にゴミが落ちていたので、「君の目の前にゴミが落ちているのに、どうして拾わないんだね」と言ったら、その学生が、「このゴミは僕が捨てたんじゃありません」と言ったので、「君が捨てたんじゃない事は分かっている。でも、ここは君が勉強している大学だろう。君の大学だろう。だとしたら、君の大学を綺麗にするのは、君の勤めじゃないか」と諭したと言うのです。
自分が捨てたゴミじゃないから自分が拾わなくてもよいと言う考え方は、まさに自分さえよければいいという小欲に生きる人間の考え方です。
誰が捨てても、自分が勉強する大学や、自分が暮らす場所にゴミが落ちていたら、それを拾って綺麗にするのが、大欲に生きる人間の行動です。
交差点で信号待ちをしている時に、車の灰皿の灰を捨てていく人を見かける事があります。
この人は、自分の家の玄関先にも灰皿の灰をまくのでしょうか。
自分の家にそんな事をする人間はいないでしょう。
この人は、自分さえよかったらいいという小欲に生きる人間の典型で、間違いなく欲に苦しむ人間と言っていいでしょう。

小欲を捨てて大欲に生きる(1)
小欲を捨てて大欲に生きる(2)
小欲を捨てて大欲に生きる(3)
小欲を捨てて大欲に生きる(5)