小欲を捨てて大欲に生きる(1)
ハッサン・カンの妖術
芥川龍之介が書いた「魔術」という短編小説があります。
これは、芥川龍之介が、谷崎潤一郎の「ハッサン・カンの妖術」を下敷きにして書いた小説ですが、「ハッサン・カンの妖術」は、谷崎潤一郎が、上野の図書館で、インド人留学生マティラム・ミスラという若者と知り合うところから始まります。
谷崎潤一郎が、「玄奘三蔵」の物語を書くことになり、その資料調べの為、上野の図書館へ行くと、隣の席に、政治経済に関する本を熱心に読んでいる一人のインド人の若者がいました。
谷崎が、インド関係の本を机に置いて調べていると、それを見た彼が谷崎潤一郎に好奇心を抱いたらしく、意識しているのがわかるので、谷崎も、彼を意識するようになり、何回か図書館へ通っている内に、彼と懇意になります。
ミスラ氏は、インドのパンジャブ地方のアムリツアルという所で生まれた若者で、谷崎が、玄奘三蔵の物語を書く為にインド関係の本を調べている事を話すと、彼は、自分の故郷であるパンジャブ地方には、今でも科学では解明できない神秘な出来事が毎日のように起こっていると言うので、谷崎が、その神秘な出来事について話して欲しいと頼むと、突然、ミスラ氏は機嫌を損ねたように、口をきかなくなってしまいます。
その理由が後日わかるのですが、暫く口をきかない状態が続き、四日後になってようやくミスラ氏の方から谷崎に話しかけてくるようになり、再び交流が始まるのですが、六月の或る雨の降る夜、谷崎は突然ミスラ氏の家を訪問し、インドについて色々教えて欲しいと頼みます。
そして、以前読んだ本の中に書かれていたハッサン・カンという不思議な魔術を使う人物に興味を持ったので、是非ハッサン・カンの話を聞きたいと頼むと、ミスラ氏は、ハッサン・カンについて語り始めます。
「ハッサンカンはただの魔術使いではなく、独自の世界観を持ち、一派の宗教を開いた聖僧なのです」
ミスラ氏は、そう言って、ハッサン・カンは、ジンという魔神を使って魔術を行うことや、ジンの姿を見られるのは、ハッサン・カンの信者だけで、ほかの者はジンを見ることが出来ない事などを、話し始めます。
ミスラの父親は、ハッサンカンの第一の高弟で、ハッサン・カンに劣らぬ魔法の達人になっていたので、ミスラ氏は、父親からその信仰を授けられ、ジンの姿を見ることも出来るようになりますが、やがてハッサン・カンの宗教に反発し、信仰を捨ててしまいます。
ミスラ氏は、信仰を捨てて月日が経っているので、もう自分は完全に信仰を捨てられたと信じていました。
ところが、図書館で谷崎に逢った時、再びジンが現れて、「お前は信仰を捨てたと思っているかも知れないが、ハッサン・カンやお前の父親はまだお前を見捨ててはいない。その証拠に、お前はまだ神通力を失っていない。一日も早く目を覚まし、自分の使命を自覚しろ」と、毎晩のようにミスラ氏の前に現れて説教するのです。
ミスラ氏が、図書館で谷崎とあって急に口をきかなくなったのは、このジンが現れて苦しめられていたからだったのです。
その事を知った谷崎は、「それなら、その魔法を私にもかけて欲しい。そうすればその魔術が夢なのか、催眠術なのかを判断できるから」と云って、ミスラ氏に魔法をかけて欲しいと頼みます。
そこでミスラ氏は、魔術を使って、谷崎をハッサンカンの妖術の世界に連れて行くのですが、そこで、谷崎は、一羽の鳩と化した亡き母親に出逢います。
そして、亡き母から、「わたしはお前のような悪徳の子を生んだ為にその罰を受けて、未だに仏に成れないのです。私を憐れだと思ったら、どうぞこれから心を入れ替えて、正しい人間になっておくれ。お前が善人になりさえすれば、私は直ぐにも天に昇れます」と告げられます。
谷崎は、「お母さん、私はきっと、あなたを仏にしてあげます」と言って物語は終わるのですが、この「ハッサン・カンの妖術」を下敷きにして書かれたのが、芥川龍之介の「魔術」という小説です。
魔術と欲望
物語は、時雨の降る或る晩、主人公の「私」が、以前から魔術を見せてもらう約束をしていたインド人の魔術師マティラム・ミスラ君の家を訪ねるところから始まります。
ミスラ君は、かねてよりインドのイギリスからの独立を願い、活動しているカルカッタ生まれの愛国青年で、ハッサン・カンという有名な魔術師から、婆羅門の秘法を学んだ魔術の大家でもありました。
ミスラ君の家を訪問した「私」は、召使いのお婆さんにミスラ君の部屋へ案内されますが、その部屋は、真ん中にテーブルが一つ、壁際に書棚が一つ、窓の前に机が一つ、二人が腰掛けている椅子が二つ、そして、緑地に赤の花模様が織られたテーブル掛けの上に、うすぐらい石油ランプが置いてあるだけの質素な西洋間で、いかにも魔術が行われるのにふさわしい雰囲気の部屋でした。
ミスラ君から勧められた葉巻をくゆらせながら、これから始まる魔術について、「確かあなたのお使いになる精霊は、ジンとかいう名前でしたね。すると、これから私が拝見する魔術と言うのも、そのジンの力を借りてなさるのですか」と尋ねると、ミスラ君は、薄笑いを浮かべながら、「ジンなどという精霊があると思ったのは、もう何百年も前の事です。私がハッサン・カンから学んだ魔術は、あなたでも使おうと思えば使えますよ。たかが進歩した催眠術に過ぎないのですから。御覧なさい。この手を唯、こうしさえすれば好いのです」と言って、二、三度「私」の目の前で三角形のようなものを描いたかと思うと、次々と不思議な魔術を繰り出したのです。
例えば、テーブル掛けの花模様の花を実際につまみ上げたり、元に戻したり、テーブルの上のランプを、手も触れずに独楽のようにグルグル回したり、書棚に向って手招きして、書棚の本を一冊ずつ、コウモリが羽ばたくように飛ばし、テーブルの上に積み重ね、再び書棚の元の位置に戻したりしたのです。
呆気にとられた「私」は、先ほどミスラ君が「私の魔術は、あなたでも使おうと思えば使えるのですよ」と言った言葉を思い出し、「私でも使えるというのは、ご冗談ではないのですか」と尋ねると、「誰にでも造作なく使えますよ。唯、欲のある人間には使えません。ハッサン・カンの魔術を習おうと思ったら、まず欲を捨てることです。あなたにはそれが出来ますか」と尋ねられたので、私は「出来るつもりです」と答えました。
すると、ミスラ君は、「魔術を教えるには暇がかかるから、今夜はここへ泊まってください」と言って、召使いのおばあさんに、お客さんの寝床の仕度をするよう、指図します。
魔術を教わってから一月余りが経った或る雨の降る晩のことです。
銀座のクラブで五、六人の友人たちとお酒を飲みながら雑談していた「私」は、友人から、魔術を見せて欲しいと頼まれ、ミスラ君から教えられた魔術を披露します。
みんなの見ている前で、暖炉の中に燃え盛る石炭を素手でつまみあげ、その石炭を床に勢いよく投げつけると、粉々に飛び散った石炭が無数の金貨となって、床の上にこぼれ落ちたので、一同は目を丸くして驚き、それが本物の金貨である事を知った狡猾(こうかつ)な友人が、「この金貨を元手にカルタをしよう」と言い出したのです。
「私」は、「この魔術は、一旦欲心をおこしたら、二度と使えなくなるから、この金貨はすべて元に戻さなければいけない」と言って断り続けますが、最後は根負けしてカルタをやる羽目になります。
ところが、カルタを始めると、「私」は面白いように勝ち続け、とうとう元手の金貨の倍ほども勝ってしまったのです。負け続けた友人は、怒りが収まりません。
とうとう、自分も一切の財産を賭けるから、「私」にも、いままで勝った金貨すべてを賭けるよう言い出しました。
それを聞いた瞬間、「私」は、起してはならない欲心を起してしまったのです。
ここで負ければ、元手の金貨と、勝って得た金貨のすべてを失くし、勝てば、相手の一切の財産を含めて、すべてを手に入れる事が出来るのだから、いま魔術を使わなければ習った意味がないと、密かに魔術を使い、カルタに勝ってしまったのです。
勝ち誇った「私」が、相手の目の前へ、勝った札を差し出すと、何と札に描かれたキングが、まるで生きているかのように起き上がり、気味悪い薄笑いを浮かべて「おばあさん、お客さんは帰られるそうだから、寝床の仕度はしなくてもいいよ」と、聞き覚えのある声で話しかけるではありませんか。
ふと気がついて辺りを見回すと、そこは、何と「私」が魔術を教えて欲しいと頼んだミスラ君の家でした。
「私」は、石油ランプの薄暗い光を浴びながら、ミスラ君と向かい合って座っていたのです。
一月も経ったと思っていたのは、ミスラ君がかけた催眠術の中で見た夢で、まだほんの数分しか経っていなかったのです。
ミスラ君は、気の毒そうな目つきをしながら、最後にこう言いました。
「私の魔術を使おうと思ったら、まず欲を捨てなければなりません。あなたは、それだけの修行が出来ていないのです」
奇跡を起こす催眠術
物語の概略は以上ですが、ミスラ君が使った魔術とは、一体何だったのでしょうか?
「私がハッサン・カンから学んだ魔術は、あなたでも使おうと思えば使えますよ。たかが進歩した催眠術に過ぎないのですから」と言っていますから、催眠術の一種でしょうが、「ハッサン・カンの魔術を習おうと思えば、まず欲を捨てなければいけません」と言っているように、欲を捨てなければ出来ない催眠術なのです。
しかし、たかが催眠術を習うのに、何故、欲を捨てなければいけないのでしょうか?
その理由は、ミスラ君がおこなった催眠術を見ればわかります。
ミスラ君は、催眠術を使って、テーブル掛けの花模様の花をつまみ上げたり、元に戻したり、テーブルの上のランプを、手も触れずに独楽のようにグルグル回したり、書棚の本を手招きして、一冊ずつテーブルの上に積み重ね、再び書棚の元の位置に戻したりしたのですが、種のあるマジック(奇術)ならともかく、現実にこのような事を起すのは不可能です。
もし起せたら、奇跡ですが、ミスラ君は、その奇跡を、催眠術を使って起したのです。
つまり、ミスラ君がおこなった催眠術は、ただの催眠術ではなく、奇跡を起こす催眠術だったのです。
この催眠術を魔術と呼んでいるのは、その為でしょうが、そうだとすれば、奇跡を起せる特別な催眠術を会得する為には、欲をすてなければいけないと言っている意味がわかります。
何故ミスラ君は、たとえ催眠術であっても、欲を捨てなければ奇跡は起せないと言ったのでしょうか。
それは、奇跡というものが、欲と対極にあるものだからです。
欲を捨てずに救われる道
人間には、五欲(食欲、財欲、色欲、睡眠欲、名誉欲)をはじめとして、様々な欲があります。
欲は、人間が生きてゆく上においてなくてはならないもので、人類が進化してきたのも、欲があったからだと言っても過言ではありません。
しかし、その一方で、様々な欲が、人間を悩ませ、苦しめているのも事実です。
欲がなければ、争う事も、奪い合う事もなく、人類は今よりもっと平和に暮らせたかもしれません。
その使い方を間違えなければ、これほど人類の発展にとって有益なものはありませんが、ひとつ使い方を間違えれば、人類を滅ぼしかねない危うさも併せ持っているのが、欲望という諸刃の剣なのです。
欲望の赴くままに生きてゆけば、私たちの目の前には、荒涼とした苦しみの世界が果てしなく続くだけです。
しかも、欲望の追求によってつくる苦しみの世界には終りがありません。
つまり、欲望を離れない限り、私たちには、苦しみの世界から逃れる術がないのです。
しかし、欲望を離れなければいけないと言われても、中々離れられないのが現実であり、それが、迷える凡夫の悲しい性(さが)と言えましょう。
苦しみから逃れられなくてもいいから欲望の赴くままに生きるか、それとも、苦しみから逃れるために欲望を捨てるか、進むべき道は二つに一つしかありませんが、もし捨て難い欲を捨てずに、苦しみの世界から救われれば、まさに奇跡と言っていいでしょう。
ミスラ君に、「欲を捨てずに救われる、そんな奇跡が起せるのですか」と尋ねたら、彼は何と答えるでしょう。
きっとこう答える筈です。
「起せますとも。誰でも奇跡を起せますよ。しかも魔術を使わずに」
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