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はじめに

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変わらない人間の本質

いくら科学技術がめざましい発展を遂げても、変わらないものがあります。それは人間そのものの本質です。

科学技術が日進月歩で発展しているにも拘らず、わが国の自殺者が十年も続けて三万人を超え、さらに増え続けている現実は、私達に何を教えているのでしょうか。

それは、いくら科学技術が進歩し、不可能と云われていた事が実現する時代が到来しても、変わったのは眼に見える現象世界だけであって、悩み苦しむ存在としての人間の本質そのものは、お釈迦様の時代と全く変わっていないという事実であります。

お釈迦様が説かれた四苦八苦の教えは、決して過去の遺物でもなければ、死に絶えた教えでもありません。四苦八苦の人生は、今も私達の目の前に厳然と存在し、人間の本質は何も変わっていない事を問いかけているのです。

人類史上、悩み苦しむ人々を救わんがため、お釈迦様やお大師様をはじめ、先覚者と言われる方々が次々とこの世へ出られたのは、決して偶然ではありません。

それは、まさに時代の要請であり、乱れた世が、お釈迦様やお大師様を求めた結果なのです。

伝えるべきか否か

ホームページを開設するに当たり、最後まで悩んだ事が一つあります。

それは、私たちが今まで体験してきた、科学技術では到底解明出来ないであろうと思われる不思議な出来事や、お計らいを悟って初めて明らかになる神秘な出来事を、ありのままに伝えるべきか否かという事です。

何故なら、受け止め方によっては、信仰に対する誤った先入観を与えてしまい、救いの芽を摘んでしまうおそれがあるからです。

しかし、神仏が不可思議を現わしておられるのは、そうする事が人々を救済する上で必要だからであり、それを私達の判断でお伝えしないことは、また別の意味で衆生救済を妨げる事にはならないかという心配もあり、中々結論が出せませんでした。

最後まで悩んだ末、私達は、やはり今まで体験してきた事を、出来るだけありのままお伝えする事にしました。そう決意させたのは、一人の御住職の言葉でした。

あなたがうらやましい

以前、知り合いの御住職から、「あなたがうらやましい」と言われた事があります。

当時、癌を患っておられた御住職は、心の安らぎを求めて私の元を尋ねられたのですが、私は、今まで自分が体験してきた不可思議な出来事についてお話しながら、「見えない世界は確かにございます。み仏様も生きておられます。どうか、見えない世界を信じて下さい。み仏様の救いを信じて下さい」とお話したところ、「あなたがうらやましい」と仰ったのです。

「何故ですか」とお尋ねしたら、「私は長年、住職をしてきましたが、あなたのように不思議な体験をした事が一度もないのです。だから見えない世界があると言われても、み仏様が生きておられると言われても、素直に信じられないのです。数々の不思議な体験をしておられるあなたがうらやましい」と、悲しげな表情で言われたのです。

「不思議な体験をした事が一度もない」という言葉は、私にとって、思いもよらぬ言葉でした。何故なら、それまで、このような体験をしているのは私達だけではないと思っていたからです。

誰も彼もが、神秘体験をしているのではないと知った私は、改めて深い仏縁を頂く幸せを痛感すると共に、一人でも多くの皆さんに、同じような体験をして欲しいと思ったのです。

何故なら、神秘体験は、私達の人生観、世界観、死生観を根底から変える力を持っているからです。

特に次代をになう多くの若者には、是非神秘体験をして、肉眼に見える現象世界の裏に秘められた、無限に広がる見えない世界に触れて欲しいと願っています。夢も希望も持てないと嘆く若者が多い今の世の中だからこそ、そう願わずにはいられないのです。

何を見て何を観ていないか

インターネット網が世界中にはりめぐらされ、あらゆる情報が居ながらにして瞬時に飛び込んでくる今の時代、私達は、もはや情報なしに生きる事など不可能と言わなければなりません。

しかし、だからこそ、私達は、何を見て、何を観ていないか、何を観なければいけないかを、しっかり見極めなければいけないのではないでしょうか。

眼に見える物をこの肉眼で見る事が、見る事の本質ではありません。 見るとは、観る事であり、心で観じ取る事です。

移り変わる現象世界を見るのは肉眼ですが、移り変わりゆく現象世界の背後に潜む真理の声に耳を傾け、観じ取るのは、肉眼ではなく、心の眼であり、観の眼です。悟りの眼と言ってもいいでしょう。

観世音菩薩(観自在菩薩)と名付けられたみ仏様を、皆さんもよく御存知だと思いますが、この仏様はその名の通り、観の眼を持って、あらゆる真理を見通しておられるお方です。

いま私達が見失っているものがあるとすれば、それは観世音菩薩様が持っておられる観の眼ではないでしょうか。

一生に一度でいいから、皆さんに神秘体験をして欲しいと言ったのは、この観の眼を持って頂きたいからです。

私達が法徳寺開創までにたどってきた十四年間、そして開創から今日までの道のりの中で常に心がけてきた事は、観の眼を磨きながら、観の眼で物事の真相を観ることでした。

それは取りも直さず、生き仏である弘法大師様、そして、お大師様と不二一体の生き仏となられ、平成の弘法大師と慕われる普門法舟菩薩様の声なき声を心の耳で聞き、心の眼で観じながら歩む事でもありました。

どこまでその志が実現出来たかは分りませんが、法徳寺の開創や、汗露水の湧出となって結実した事実を見る限り、歩んできた道のりは決して間違っていなかったと確信しています。

今日御縁があってお参り下さった皆様が、一人でも二人でも、このホームページを通して、今まで何を見て、何を観ていなかったのかを考える奇縁として下さるなら、そして、皆様のかけがえのない人生に、生きる喜びと救いの光明をもたらすささやかなきっかけとなるならば、これにまさる喜びはありません。どうぞ心ゆくまでごゆっくりお参り下さいませ。

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自殺防止に向けて

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しあわせさがし~二十歳の君へ・高野悦子を偲んで(1)

高野悦子の自殺と全共闘運動

今から43年前の1969年(昭和44年)6月24日未明、一人の女子大生が、山陰本線の天神踏切付近で貨物列車に飛び込み、自殺しました。

彼女の名前は、高野悦子(たかのえつこ)。立命館大学の三回生。こう言っても、若い人にはピンと来ないかも知れませんが、『二十歳の原点』の著者と言えば、聞いた事がある人もいるかも知れません。

高野悦子は、1949年(昭和24年)1月2日、父三郎、母アイの次女として栃木県西那須野町(現在の那須塩原市)で生まれました。1964年(昭和39年)4月、第一志望だった栃木県立宇都宮女子高校に入学し、高2の時、修学旅行で訪れた京都の佇まいに触れ、憧れをいだくようになります。

高3になり、立命館大学を志望するようになりますが、その動機について、「早稲田の反骨精神もさることながら、立命館の立命館史学、それに京都という場所、また早稲田に似た反骨精神を知り、立命館に行きたくなった」「消極的な意味にしろ、日本史に対しての興味を持っているのだから、それをのばして行こう。そしてやっぱり立命館大学へ行こう。京都は七九四年、桓武天皇が都を奈良から京都へ移して以来明治まで、日本の中心として栄えた歴史のある町だ。街が出きて以来、七、八十年ほどしか経っていない西那須野町にしか住んだことのない私には、歴史(の深さ)に実感を感じたことがない。立命館に入って歴史について考えてみよう」(『二十歳の原点ノート』)と書いているように、高校時代から、立命大の反骨精神と、奈良本教授の立命館史学に惹かれていた事が分かります。

その後、第一志望だった立命館大学に合格し、1967年(昭和42年)4月、晴れて立命館大学文学部史学科に入学しますが、やがて、彼女の運命を大きく左右する全共闘運動の嵐に巻き込まれてゆく事になります。

高野悦子

全共闘とは、「全学共闘会議」の略で、1948年に結成された全学連(全日本学生自治総連合)が民青系(日共系)、中核派系、革マル派系などの各派に分裂して衰退化する中、大学のマスプロ教育の進行や学生管理の強化、学費の慢性的値上げなどに不満を持つ無党派(ノンポリ)の一般学生や政治活動に比較的関心の少ない学生が結集して作られた大学内の連合組織で、当時大学生であった多くの団塊世代が、運動に参加してゆきます。

そして、1968年の日大紛争と東大紛争をピークに、全共闘運動は全国の大学に広がっていきましたが、立命館も例外ではありませんでした。

現在の立命大のキャンバスは、京都市右京区の「衣笠キャンバス」と滋賀県草津市の「びわこ・くさつキャンバス」に分かれていますが、1968年当時は、衣笠キャンバスにあった理工学部、経済学部、経営学部を除く三学部(法学部、文学部、産業社会学部)は、京都御所東側の広小路キャンバスにあり、順次、衣笠キャンバスへの移転が進められているところでした。

大学発祥の地を離れ、新天地へ移ろうとしている過度期に、全共闘運動の嵐が立命館にも波及してきた訳ですが、立命館の全共闘運動は、大学当局の運営に対する学生の不満というより、大学の運営を巡る代々木系(日共系)と反代々木系(反日共系)の学生による主導権争いでした。

当時の立命館大学は、日本共産党の実質的な青年組織とも言える民青(日本民主青年同盟)が主導する「日共王国」でしたが、そんな中で唯一、民青に染まっていなかったのが、学園新聞を発行する「立命館大学新聞社」でした。

日本共産党に対し批判的な新聞社は、民青の学生にとっては、目の上のたんこぶ的存在であった事は言うまでもありませんが、問題の発端は、1968年12月12日、民青所属の学生10名ほどが、立命館大学新聞社に入社申し込みにやってきた事でした。

このような募集は春に行われるのが通例ですが、この季節外れの入社申し込みの目的は、日共に批判的だった新聞社の乗っ取りであった事は言うまでもなく、入社させろ、させないの押し問答の末、窓ガラスを割って進入してきた民青系の黒ヘルメットの一団によって、新聞社員が15時間にわたり監禁される所謂「新聞社事件」が起こったのです。

しかし、この日共系学生による強行突破が裏目に出て、いままで民青による主導を快く思っていなかった一般学生を立ち上がらせる結果となり、ヘルメットを被り、ゲバ棒を手にし、完全武装した数百名の一般学生(ノンセクト・ラディカル)が、民青側の学生に乗っ取られた新聞社の入る校舎を取り囲み、それが全学にまで及ぶ大騒動に発展していったのです。

更に、この新聞社事件に対する大学当局の対応が曖昧だったため、学生の怒りは頂点に達し、1969年1月16日の東大安田講堂の占拠に続く形で、立命大でも無党派学生を主体とする全共闘学生が大学本部の中川会館をバリケード封鎖するに至り、やがて機動隊と衝突する事になるのです。

さらに5月20日には、戦後民主主義運動の象徴ともいうべき「わだつみ像」が一部の全共闘学生によって破壊されてしまいますが、高野悦子が立命館大学に入学したのは、まさに全共闘運動の嵐が吹き荒れようとする前年の1967年(昭和42年)4月でした。

二年後の1969年(昭和44年)6月24日、彼女は鉄道自殺しますが、彼女の死後、下宿先で、十数冊の大学ノートに書かれた日記が発見されます。

そこには、20歳の誕生日である1969年1月2日(大学二回生)から、自殺二日前の6月22日(大学三回生)までの半年間に及ぶ彼女の内面が赤裸々につづられていましたが、彼女の父親、高野三郎氏が、この日記を同人誌「那須文学」に掲載して大反響を呼び、1971年には、新潮社から『二十歳の原点』と題して発行され、瞬く間にベストセラーとなります。

その三年後の1974年には、1966年11月23日(高校3年)から1968年12月31日(大学2年)までをつづった日記が、『二十歳の原点序章』として、更にその二年後の1976年には、1963年1月1日(中学2年)から1966年11月22日(高校3年)までをつづった日記が、『二十歳の原点ノート』として出版され、あわせて350万部ものベストセラーとなりますが、その頃には、彼女の青春時代そのものとも言うべき全共闘運動は、過去の出来事となっていました。

自殺の動機と背景

彼女が自殺するに至った動機や背景については、高校時代に奥浩平の『青春の墓標』を読み、”心の友”と呼ぶほど強い影響を受けていた事や、全共闘運動で挫折した事、失恋した事など、幾つかの要因が挙げられていますが、それらの根底にあったものは、一体何だったのでしょうか。

思うに、彼女自身が、「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」と書いているように、二十歳になった彼女が、名実共に大人に脱皮するために、どうしても乗り越えなければならないと自らに課した二つの命題(孤独と未熟さからの脱却)が、彼女の肩に重くのしかかっていたのではないでしょうか。

その事が象徴的につづられているのが、まさに1969年1月2日の二十歳の誕生日に書かれた次の文面です。

今日は私の誕生日である。二十歳になった。酒も煙草も公然とのむことができるし、悪いことをすれば新聞に「A子さん」とではなく、「高野悦子 二十歳」と書かれる。こんな幼稚なままで「大人」にさせてしまった社会をうらむなあ。未熟であること、孤独であることの認識はまだまだ浅い。

未熟であること。人間は完全なる存在ではないのだ。不完全さをいつでも背負っている。人間の存在価値は完全であることにあるのではなく、不完全でありその不完全さを克服しようとするところにあるのだ。人間は未熟なのである。個々の人間がもつ不完全さはいろいろあるにしても、人間がその不完全さを克服しようとする時点では、それぞれの人間は同じ価値をもつ。そこに生命の発露があるのだ。

人間は誰でも、独りで生きなければならないと同時に、みんなと生きなければならない。私は「みんなと生きる」ということが良くわからない。みんな何を考えているのかを考えながら人と接しよう。

彼女は、社会から大人として扱われる二十歳の誕生日を境に、孤独と未熟さの克服と言う二つの命題を自らに課し、大人へ脱皮するための困難な荒海に船出しようと、勇気を奮いたたせていたのではないでしょうか。

そして、この二つの命題を克服するため、彼女が身を投じて闘いを挑んだのが、まさに全共闘運動であり、恋愛だったのですが、やがて、この挑戦は挫折してゆく事になります。

人間としての主体性を確立し、未熟さを克服して、真の大人に脱皮するため、彼女は全共闘運動に参加してゆきますが、運動に失望する中で自らの未熟さを思い知らされ、主体性を確立できない自分への苛立ちと自虐性を、一層強めていきます。

訪米阻止!のシュプレヒコールを私が叫んだとて、それに何ができるのか。厳として機動隊の壁はあつい。私自身のうけるもの。あせり、いらだち、虚無感(デモの最中の)、ますます広がる混沌さ。(5月30日)

6.15 立命全共闘カンパニア闘争(?)で得たもの──立命全共闘の停滞。集会の混乱。セクトの引き回しとしか感じられぬ全共闘運動。べ平連など市民運動の多様性に対する共感及び学生運動の到達している質的な高さ──それらと、その運動に「参加」という形で加わっている私との違和感。1時から6.15闘争報告集会がある。私はいかない。なぜ?すべてに失望しているから。アッハハハハハ。(6月16日)

また、友人や家族や恋人とのつながりの中で孤独からの脱却を図ろうとしますが、友人との意見の相違や家族や恋人との決別によって、さらに孤独感を深めていきます。

きのう東京にて。姉と話す。父母と話す。決裂して飛び出す。8:00PM京都につく。非常に疲れている。次第に自分に自信をなくしている。(5月31日)

中村にテレをしたがいなかった。……毎日テレしてもいないということ。どこか出歩いているということ。テレを一回もかけてこないということ。誰が考えてもハッキリしている。彼は会いたくないのだ。一抹の期待も抱いてはならないのだ。きっぱり訣別しよう。中村の好きなシャンソンの一曲「アデュー」を暗い部屋に向って歌った。私はあの若人のもつ明るい笑い声をとうとう失ってしまった。そして、再び「結局は独りであるという最後の帰着点」に私はいる。(6月3日)

そして、彼女の心は、生きることへの意欲と、生きることの苦しみとの狭間で、揺れ動くようになります。

生きることは苦しい。ほんの一瞬でも立ちどまり、自らの思考を怠惰の中へおしやれば、たちまちあらゆる混沌がどっと押しよせてくる。思考を停止させぬこと。つねに自己の矛盾を論理化しながら進まねばならない。私のあらゆる感覚、感性、情念が一瞬の停止休憩をのぞめば、それは退歩となる。怒りと憎しみをぶつけて抗議の自殺をしようということほど没主体的な思いあがりはない。自殺は敗北であるという一片の言葉で語られるだけのものになる。(6月1日)

弱い人間。女なんかに生まれなければよかったと悔む。私が生物学的に女であることは確かなのだが、化粧もせず、身なりもかまわず、言葉使いもあらいということで一般の女のイメージからかけ離れているがゆえに、他者は私を女とは見ない。私自身女なのかしらと自分でいぶかしがる。また、前のように髪を肩のへんまで伸ばし、洋服も靴もパリッとかため、化粧に身をついやせば私は女になるかもしれない。しかし、何に対してそうするのか。中村さんも私がそのようにすれば少しは注目するだろうか。女は身ぎれいにしていないと、社会から端的にその人格を否定される。あ──あ。そんな社会はこっちからお断りする。ただ、それだけのことさ。(6月7日)

結局、未熟さの克服も、孤独からの脱却もできぬまま、彼女は次第に絶望感を深め、ついには、自分の生存そのものへの懐疑を抱き始めるのです。

「人間は何故こんなにしてまで生きているのだろうか。そのちっぽけさに触れることを恐れながら、それを遠まきにして楽しさを装って生きている。ちっぽけさに気付かず、弱さに気付かず、人生は楽しいものだといっている。(6月17日)

これらの文面を読むと、こんな未熟な自分がなぜこの世に存在しているのか、なぜ存在しなければいけないのかという、「自己の生存」そのものに対する疑念が、彼女の内面に広がっていったのがよく分かります。

そして、恋人との別れが決定的となり、彼女はますます孤独感を深めていくのです。

みごとに失恋──?アッハッハッハッ。君。失恋とは恋を失うと書くのだぜ。失うべき恋を君は、そのなんとかいう奴とのあいだにもっていたとでもいうのか。共有するものがなんにもないのに恋だって?全くこっけいさ。……そうさ。君にいま残っているものは憎しみさ。こっけいだねえ。(6月18日)

ちっぽけな、つまらない人間が、たった独りでいる。(6月18日)

そこから聞こえてくるのは、生きることの意味も、しあわせの意味も分からなくなってしまった彼女の悲痛な叫びですが、2月1日には、自殺について、次のように書いています。

私は二、三日前からおかしな考えに取りつかれている。カミソリで指を切り血を流そうという考えである。私は、カミソリをもちそれを一気に引くときの恐怖を考えるとゾッとする。体中の力が抜けてワナワナとなる。お前は自分を傷つける勇気がないのかと励ますがダメである
今日、カミソリを買ってきた。スッパリと切り赤い血をタラタラと流し真白なほう帯をしようと考えた途端、ヘナヘナと力がぬけてしまった。おそるおそるやっていたら、チクリと痛みが走った。あわてて手を離したのだが、それでも血が出てきた。真っ赤な動脈血であった。

そして、自殺する二日前の6月22日には、死んだ時の事をこう記しています。

私が死ぬとしたら、ほんの一寸した偶然によって全くこのままの状態(ノートもアジビラも)で死ぬか、ノート類および権力に利用されるおそれのある一切のものを焼きすて、遺書は残さずに死んでいくかのどちらかであろう。(6月22日)

またこうも記しています。

今や何ものも信じない。己れ自身もだ。この気持ちは、何ということはない。空っぽの満足の空間とでも、何とでも名付けてよい、そのものなのだ。ものなのかどうかもわからぬ。(6月22日)

旅に出ようー最後の詩に込めた彼女の思い

そして、最後に「旅に出よう」で始まる一遍の詩で、日記は終わっているのですが、この「詩」からは、彼女の心の奥底までもが透き通って見えるような透明感と、何ものをも恐れない、死をも超越した、絶対的安心感のようなものが感じ取れます。

 旅に出よう
 テントとシュラフの入ったザックをしょい
 ポケットには一箱の煙草と笛をもち
 旅に出よう

 出発の日は雨がよい
 霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
 萌え出でた若芽がしっとりとぬれながら

 そして富士の山にあるという
 原始林の中にゆこう
 ゆっくりとあせることなく

 大きな杉の古木にきたら
 一層暗いその根本に腰をおろして休もう
 そして独占の機械工場で作られた
 一箱の煙草を取り出して
 暗い古樹のしたで一本の煙草を喫おう

 近代社会の臭いのするその煙を
 古木よ おまえは何と感じるのか

 原始林の中にあるという湖をさがそう
 そしてその岸辺にたたずんで
 一本の煙草を喫おう
 煙をすべて吐き出して
 ザックのかたわらで静かに休もう

 原始林を暗やみが包みこむ頃になったら
 湖に小舟をうかべよう

 衣服を脱ぎすて
 すべらかな肌をやみにつつみ
 左手に笛をもって
 湖の水面を暗やみの中に漂いながら
 笛をふこう

 小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中
 中天より涼風を肌に流しながら
 静かに眠ろう

 そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう

彼女の死は、他人の眼から見れば、鉄道自殺以外の何ものでもありません。しかし、その死を彼女の眼から見ると、どうなのでしょうか。「あなたは自殺したのですか?」と尋ねたら、彼女は何と答えるでしょうか。

この詩を読んでいると、「私は自殺したんじゃないよ。この詩に書いたように、旅に出ただけだよ。アッハッハッハッ。」という彼女の笑い声が聞こえてくるような気がしてなりません。

この詩には、彼女が旅立った先が、富士山の麓に広がる原始林(青木ヶ原樹海?)と、そこにある湖と書かれていますが、富士山は、かつては不死の山と呼ばれていました。

竹取物語によれば、かぐや姫は、不死の薬と天の羽衣、そして、帝を慕う心をしたためた文を残して月へ帰ってゆきますが、帝は「かぐや姫の居ないこの世で不老不死を得ても意味がない」と言って、それらを駿河国の日本で一番高い山で焼くように命じられ、それ以来その山は「不死の山」(富士山)と呼ばれるようになったと言うのです。

その不死の山を目指して旅に出ようと、最後の詩にしたためて旅に出た彼女の心境を考えると、かぐや姫が月へ帰っていったように、彼女が帰るべき所、つまり魂のふところへ帰っていったのではないかとしか思えません。

勿論、他人があれこれ考えたところで、その真相は、本人にしか分からない藪の中と言えましょうが、もしかすると、高野悦子自身にも分からないのかも知れません。真相を知っているのは、彼女が欲した「神様」だけなのかも……。

いずれにせよ、全共闘運動は過去のものとなり、私の記憶には、高野悦子という女子学生が自殺したという事実だけが残りました。あれから43年経った今も、彼女の自殺は、私の記憶の中から消え去る事がありません。

それどころか、彼女の死を無駄にしたくないという思いが、心の片隅でくすぶり続けているのも事実で、その思いは、年月を経るにしたがって強まりこそすれ、弱くなる事はありません。

そんな思いになるのも、もしかすると、彼女と同じキャンバスで、同じ空気を吸って学んだ人間の一人として、彼女の死に何らかの形で報いなければ申し訳ないという贖罪意識のようなものが、心の奥底に沈殿しているからかもしれません。

個人的な事をお話すれば、富士山の見える地に救済道場を建立したいとの夢をいだき、8年前、その夢が叶い奈良から移り住んだ地が、彼女が旅に出ようと書いた富士の裾野に広がる原始林と湖のある山梨であったという事に、不思議な因縁のようなものを感じています。

今この文章を書きながら、「何故私は、彼女の自殺から40年も経った今になって、彼女の事を思いながら、詩を作り、歌を作ったのだろう。もしかすると、高野悦子が私にこの文章を書かせ、歌を作らせて、何かを伝えようとしているのではないか」、そんな何とも言い表せぬ不思議な感覚に襲われているのも、事実なのです。

彼女が残したメッセージ

60年安保デモによって22歳の若さで亡くなった樺(かんば)美智子。彼女の死に触発されて高校生ながらデモに参加し、後に自らも活動家となって、21歳の若さで自殺した奥浩平。そして、彼の残した『青春の墓標』に強い影響を受け、やがて自らも学生運動に身を投じて鉄道自殺した20歳の高野悦子。

この三人の生き様を見ていると、学徒動員によって戦地に赴き、散っていった若き学生達の事が思いだされます。

勿論、その頃、私はまだ生まれていませんし、その時代の空気も知りません。しかし、戦後生まれの「戦争を知らない子供たち」の一人である私には、戦中の学徒動員と、戦後の学生運動という、相反するかのように見える彼らの行動の底に、共通する一つの思いが流れているような気がしてならないのです。

それは、国を思い、国の将来を憂い、「わが同胞よ安かれ」と祈る若者の真摯で純粋な思いです。その思い(願い)が、戦中は学徒動員という形で、戦後は学生運動という形で出てきたのは、時代状況が大きく違っていたからですが、問題は、それが彼らの意思だけでそうなったのかという事です。

学生の本分が、学問研究にある事は言うまでもありませんが、学生が持つべきペンを、戦中の学生は銃に、戦後の学生はヘルメットとゲバ棒に持ち替え、空しい闘いに挑んでいかざるを得なかったのは何故か。

いま思えば、それは彼らの意思でも望みでもなく、一人の人間の力ではどうする事もできない巨大な歴史のうねりの中に巻き込まれていかざるをえなかった結果ではないでしょうか。

出征したある学生が、「これから人殺しをしなければならないと思うと、残念でした。いま俺は、そういう時間と空間の流れの中にいるんだ。 俺はいやだというわけには行かない。一つの諦めでした」と語っているように、ひとたび巨大な歯車が動きだせば、時間は怒涛のごとく流れ出し、もはやいかなる力を以てしてもくい止める事はできず、否が応でも、そのうねりの中に引きずり込まれてゆかざるを得ないのです。それが、先の戦争であり、形を変えた戦後の学生運動という闘いなのではないでしょうか。

戦中の学徒動員や戦後の学生運動を見れば、そこには形こそ違え、国を思い、国の将来を憂いながらも、決して逆らうことの出来ない巨大な時代のうねりに翻弄されていかざるを得なかった当時の若者の悲しい姿があります。高野悦子も、そんな学生の一人だったのではないでしょうか。

入学当初、彼女は立命館史学にあこがれ、希望を抱いていました。しかし、やがて、自分の意思とは関係のないところで動き出した安保闘争や学生運動の流れの中に、否応なく巻き込まれていったのですが、その時の彼女の心の動きが、日記には克明に記されています。

ヘルメットの学生がマイクを口にあててアジテーションをしている。彼らには歴史がある。彼らは、現実そのものに歴史がある。私は私の歴史をもっていない。ノンセクトから無関心派への完全なる移行、激しい渦の前でとまどいを感じる。動け?(1月17日)

民青を支持したとしても、反民を支持したとしても、どっちにしろ批判と非難はうける。絶対に正しく、絶対に誤っているということはないのだ。どっちかを支持しなくては行動できないのかもしれないが。(1月23日)

「君は代々木系か反代々木系か」という問いを不信な敵意に満ちたまなざしで投げかけられる。しかも一年間、同じ机で学んだクラスの友達からその眼ざしを受けると私は寂しく悲しくなる。真剣に不信も無力感も感じてはいるが、何の態度も表明できずにいる無力な私、どっちもどっちだと考えることで辛うじて己れの立場を守っている私。ああ──!そんなセンチメンタリズムは捨て去ってしまえ!強くなるのだ!強くなれ!「もうこうなっては傍観者ではいられない」この言葉をまた今あらためて言わざるを得ない。そういえばいつもそう言って来たっけ。でも今度こそ!傍観は許されない。何かを行動することだ。その何かとはなんなのだろう。(2月1日)

こうして彼女は、行動しなければいけないと、何度も自らに言い聞かせながら、学生運動という大きな流れの中に呑み込まれていったのですが、それは、彼女の意思というよりも、彼女を取り巻く時代の空気であり、その空気の中では、行動する以外の選択肢はないと思いつめたのかも知れません。

最初の内は、彼女なりの抵抗も試みますが、やがてその空気は彼女の体内を覆いつくし、彼女の意思をがんじがらめにしばってゆきます。彼女を自殺に追いやったものが何かは、神ならぬ身に分かる筈もありませんが、少なくとも学生運動という1970年代の大きな時代のうねりが、彼女を翻弄した事だけは否定できないでしょう。

勿論、私のように、どちらにも属さなかったノンポリ(無党派)の学生が大勢いた事も事実であり、全共闘運動が全国の大学に拡大していったとは言え、戦中の学徒動員のように、すべての学生を巻き込むほどの巨大なうねりになりえなかった事も事実です。

しかし、巨大なうねりも、最初はたった一滴の波紋から始まるのです。最初はいくら小さくても、次第に大きなうねりとなり、ついには誰も止める事のできないほどの大きさに膨れ上がるのが、時代のうねりというものではないでしょうか。

東日本大震災で、三陸沿岸から関東沿岸の広い範囲にわたって押し寄せた巨大津波をみれば分かるように、時代のうねりも、放置すれば、必ず私達に災いをもたらします。その証が、過去に何度も繰り返されてきた戦争です。

いまわが国を取り巻く世界情勢が、日々緊迫化しつつあることは、もはや周知の事実です。尖閣諸島、竹島、北方四島などの領土問題をはじめ、ギリシャ国債に端を発したヨーロッパ経済の金融危機問題、深刻化する温暖化問題、やむ事のない無差別テロによる大量殺戮と貧困飢餓問題、そしていじめ問題や自殺問題等々、国内外に山積する難問は増加の一途を辿り、負のうねりが、少しずつですが、その大きさを増して迫りつつあるのは、誰の目にも明らかです。

将来、この負のうねりが、どのような形で私達や子々孫々に災禍をもたらすかは、誰にも分かりません。しかし、いかに小さなうねりであろうと、それを放置すれば、必ず禍根を残す結果を招くでしょう。だからこそ、禍根の種は、小さい内から、摘み取っておかねばならないのです。そして、それができるのは、私たち一人一人の平和を願う心であり、絶え間ない努力しかありません。

1969年、一部の立命館全共闘学生の手によって破壊された、戦没学生記念像「わだつみ像」の台座には、末川博立命館大学総長の手になる碑文が刻まれています。

未来を信じ未来に生きる。そこに青年の生命がある。その貴い未来と生命を、聖戦という美名のもとに奪い去られた青年學徒のなげきと、怒りと、もだえを象徴するのがこの像である。
 なげけるか いかれるか はたもだせるか
 きけ はてしなきわだつみのこえ

ひとたびは破壊されたものの、「わだつみ像」は、1976年に再建され、平和を願って散っていった戦没学徒の声なき声を、いまも発信し続けています。

「平和の大切さ 」──言いふるされた言葉ですが、戦争の悲惨さを伝える体験者が減少の一途を辿り、戦争体験の風化が叫ばれている昨今だからこそ、高野悦子の自殺の意味が、改めて問い直されてもいいのではないかと思います。

合掌

平成24年8月23日

ありがとう~ひとさし指から奏でるしあわせ

坂中さん親子の生きるための闘い

坂中明子さん。

皆さんは、このお方をご存じでしょうか? そう言う私自身は、残念ながら、つい最近までまったく存じ上げませんでした。

私が坂中さんの事を知ったのは、Facebookで紹介されていた『日本一心を揺るがす新聞の社説』(ごま書房新社)という、「みやざき中央新聞」の社説をまとめた本を通してですが、坂中さんは、20歳の時、予期せぬ医療事故によって、全身麻痺という重い後遺症に見舞われました。

『ひとさし指から奏でる♪しあわせ』(新水社)には、明子さんと、母親の浩子さんが、全身麻痺という想像を絶する困難な現実と真正面から向き合って来られた壮絶な日々が赤裸々に綴られています。

明子さんは、3歳の頃からピアノを習い始め、地元の宮崎女子高の音楽科から、宮崎女子短大の音楽科に進学し、浩子さんが主宰するピアノ教室で子供たちの指導をしながら、ピアニストを目指していました。

ところが、短大を卒業し今まさに夢の実現に向けて船出しようとしていた矢先の1995年(平成7年)9月5日の夕方、微熱があるというので、掛かりつけの医院に点滴を打ちに行ったところ、その最中に突然呼吸困難となり、心肺停止状態に陥るという思いもよらぬ医療事故に見舞われたのです。

明子さんには、元々喘息の持病があり、高校2年の時、飲んだ錠剤が原因で呼吸困難に陥った事があったため、掛かりつけの医師から「その錠剤だけは絶対に飲ませないように」と固く釘をさされ、家にもその錠剤だけは置かないようにしていたのですが、その医師自身が、不注意から、使ってはいけない錠剤を処方するという初歩的な医療ミスをおかしてしまったのです。

その前日にも喘息の発作が起きて点滴を受けていたので、常識的には起こりようのない医療事故ですが、その起こりえない事故が起こってしまったのです。

結局、明子さんは、一命を取り留めたものの、20歳にして、全身麻痺という重い後遺症を背負わなければならなくなり、この瞬間から、人生のどん底に突き落とされた坂中さん親子の壮絶な闘いの日々が始まったのです。

思いを伝えられない悔しさに涙する日々

心肺停止状態によって、すべての臓器がやられ、脳もかなりダメージを受けていると考えられていたため、入院した病院の医師をはじめ、関係者の誰もが、明子さんに何を話しても理解できないだろうと考えていました。

しかし、明子さんは、全身麻痺によって、自分の意志を伝える手段を失ったため、 相手に自分の気持ちを伝えられなかっただけで、何もかもすべて分かっていました。

私は思ったことがスムーズに伝えられない。
緊張していると言葉が出ないのだ。
 話しかけられても「ウン」とも「スン」とも言わないでいると、相手から「こちらの言ってること、わかるの?」、なんて言われたりする。
そんなとき、「わかってるよぉーーーーだ!」と大声でわめきたくなる。

自分の思いを伝えられないもどかしさ、哀しさ、悔しさに、明子さんがどれほど涙されたかは想像に余りあります。

また若干20歳で、全身麻痺という絶望的な境遇に突き落とされた明子さんが、生きる希望を失くし、死を考えるようになったとしても不思議ではありません。

母親の浩子さんは、

その頃よく、明子は私にこう言うのだった。
「お、か、あ、さ、ん、こ、ろ、し、て!」
「いっ、しょ、に、し、の、お!」
明子や私にとって、この過酷な現実を認めることは、あまりにもつらかった。私も『死』について、真剣に考えることがよくあった。

と書いておられますが、全身麻痺という後遺症を、生涯背負っていかなければならないという過酷な現実を前にすれば、いくら頑張ろうと懸命に自らを鼓舞しても、やはりやり場のない憤りと悔しさと悲しさの余り、挫けそうになるのも無理はありません。

お母さんが私のお母さんでよかった

それだけに、坂中さん親子の胸中は察するに余りありますが、明子さんを支え、その心を救ったのは、やはり浩子さんの深い愛情でした。

チューブにつながれた明子さんは、水をガーゼに含ませて飲ませても、むせて飲むことが出来ませんでした。

もし口から水を飲めなければ、鼻から管を通して栄養を送り込むしか方法はありませんが、それをすると、次第に体力も弱り、寝たきりになってしまう恐れがあります。

出来れば、自分の意思で水を飲んだり食物を食べたりした方がいいのですが、主治医は、「鼻腔栄養にしないと、また元の状態(心停止)になります。明子さんには何を言ってもわかりません」と言って、口から食物を入れる事を最初から諦めているような口調でした。

しかし、母親の浩子さんは、決して諦めず、何とか口から美味しいものを食べさせたいと、一人黙々と明子さんに水を飲ませる練習を続けられたのです。

そこには、親子だから必ず通じ合えるという浩子さんの強い信念がありました。

私たちは親子だ。わかり合えないこともあるが、わかり合えることもいっぱいある、と私は強く信じている。だから、私の気持ちは明子には通じるはずだ。なのに知識だけの世界で生きている人には、目の前の現実だけがすべてなのか。人間にとって心の占める割合がどんなに大きいか、この知識人は知らないのだろうか。
明子の心に刺激を与えることにしよう。
このまま医者の言うことだけを聞いていては、何一つかわらない。
明子には音楽がある。少なくとも明子にはこの二十一年間、魂で聴き続けた音楽があるのだ。私の気持ちが伝わらないはずがない。

浩子さんは、カーゼに水を含ませて飲ませても、むせて飲めないのは、看護師が明子さんに、水を飲むという事を意識させていないからだと見ぬき、その意識を持たせる努力を続けられたのです。

浩子さんのこの深い愛情と、必ず通じ合えるという強い信念がついに実を結び、明子さんは、やがて水を飲むという意識を取り戻し、水を飲むようになったのです。

そればかりか、おもゆや裏ごしした梅干し、具なしの茶碗蒸し、差し入れのシチューまで食べられるようになり、浩子さんの一念は、不可能を可能にしたのです。

そのお母さんの深い愛情が、明子さんの心に響かない筈がありません。

母娘2人で八ヶ岳のペンションに泊まった夜、余り声が出せない明子さんが、改まった口調で、浩子さんに「お、か、あ、さ、ん、が、わ、た、し、の、お、か、あ、さ、ん、で、よ、かっ、た。か、ん、しゃ、し、て、い、ま、す」とおっしゃったそうですが、この片言の言葉は、明子さんのお母さんに対する精一杯の感謝の叫びだったに違いありません。

大きな転機の訪れ

医療ミスから三ヵ月が経過した1995年12月15日、浩子さんが主宰するピアノ教室の発表会が開催され、車椅子に座った明子さんは、多くの教え子たちから暖かく迎えられ、再開の涙が会場全体を埋め尽くしました。

しかし、明子さんを取り巻く現実は厳しく、坂中さん親子の前に立ちはだかる困難な日々は、まだ始まったばかりでした。

その後、坂中さん親子は、全身麻痺という過酷な状況を少しでも好転させようと、幾つもの病院への入退院を繰り返しながら、懸命にリハビリに励んでいましたが、明子さんに大きな転機が訪れたのは、医療ミスから5年後の2000年でした。

或る日、何気なく見ていたテレビで、埼玉県所沢市の「国立身体障害者リハビリテーションセンター」が紹介されているのを見た浩子さんは、ここに明子さんを入院させたいと強く決意されるのです。

藁にもすがる思いで、このセンターに一縷の望みを託されたのですが、このセンターは、回復可能な障害を負った人が入院するのが原則で、明子さんのような回復の極めて難しい後遺症を負った人は入院出来ない決まりになっていました。

しかし、様々な伝手を頼りに、2000年8月21日、例外的に入院を認められた明子さんは、ここで人生を左右する二つの大きな出来事に遭遇します。

一つ目は、「国立身体障害者リハビリテーションセンター」の医師たちが、全身麻痺の明子さんの体の中で、たった1か所だけ動く箇所を発見したのです。

それは、明子さんの左手のひとさし指でしたが、もし、このセンターに入院していなければ、恐らく誰も明子さんのひとさし指が動くことに気付かなかったでしょう。

この発見によって左手のひとさし指のリハビリが始まり、やがて涙ぐましい努力の結果、パソコンを使って自分の意志を伝えられるようになったのです。

二つ目は、同センターで同室だった女性の息子さんと知り合い、ひとさし指でメール交換を始めた事で、これも、明子さんにとって大きな転機となりました。

このメール交換が、やがてみやざき中央新聞の編集者の耳に入り、明子さんは、同新聞にエッセイを寄稿することになったのです。

明子さんのエッセイは1年半も続き、多くの読者に感銘を与えましたが、このエッセイが、やがて『ひとさし指から奏でるしあわせ』となって、更に多くの読者の下へ届けられる事になったのです。

私が、明子さんの事を知ったのも、この本との出会いがきっかけですから、まさに左手のひとさし指が人生を切り開いてくれたと言っても、過言ではないでしょう。

自立に向けて

左手のひとさし指が動くとは言っても、全身麻痺の明子さんにとって、一人暮らしの困難さは、私には想像も及びません。

しかし、明子さんは、みやざき中央新聞にエッセイを掲載しておられた重度障害者の山之内俊夫さんが、自立に向けて一人暮らしをしておられる事に勇気づけられ、自分も一人暮らしをしてみたいと決心されるのです。

2003年4月から、NPO法人障害者自立支援センター「YAH!DOみやざき」の支援を受けながら、自立に向けて一人暮らしを始められましたが、その暮らしぶりが何もかも順調だった訳ではありません。

浩子さんが、

あれほどリハビリをし続けても、予想もしなかった四肢硬直化が進んでいく。手足があるとはいえ、自分の意思とは無関係に動いてしまう。それを抱えながらも必死に生活している明子。

と書いておられるように、その前途を妨げるかのように、過酷な試練が次々と明子さんの前に立ちはだかってきたのです。

生きていくという事は、日々何かを一つ一つ失っていく事の繰り返しであり、私でさえ、齢を重ねるに従って、今まで出来ていた事が出来なくなる現実を前にして、暗澹たる気持ちになる事がありますが、たとえそうであっても、私には、まだ自由に動く手足があり、行きたいと思えば、自分一人で、いつでも好きな所へ行けるのです。

その事を考えると、自分で出来る事がほとんどない重い後遺症を負っている明子さんが生きていく日々の過酷さは、私達の比ではないでしょう。

ありがとう~真のしあわせとは

二十歳という若さで、思いもよらぬ医療事故によって全身麻痺という重い後遺症を背負わざるをえなくなった坂中明子さん。

この過酷な現実を前にして、絶望、怒り、悔しさ、哀しさ、もどかしさ等々、明子さんの胸中を去来した様々な思いは、とても言葉にはならないでしょう。

浩子さんが

明子はいつもニコニコしていた。まるで天使のように……。夫の前でも泣き顔は見せなかった。しかし、私と二人でいると、折にふれては泣いた。
泣いては小さな声で「ファイト」と言った。
何度も何度も「ファイト! ファイト!」と言った。
その声はだんだん大きくなり、最後には大きな声で狂ったように「ふぁーいーと!!」と言って泣き崩れるのだった。

と書いておられるように、明子さんは、挫けそうになる気持ちと、頑張らなければいけないという気持ちとの狭間で揺れ動き、その都度、何度も勇気を奮い立たせては、自らを鼓舞し、幾多の試練を克服してこられたに違いありません。

そして、全身麻痺の中でたった一つだけ動かすことのできるひとさし指を使いながら笑顔を絶やさず懸命に生きておられるその姿は、いまも多くの人々に深い感銘を与え続けているのです。

本を通して坂中明子さんの事を知り、少しでも心の励みになればと思い、応援歌のつもりで作ったのが、『ありがとう~ひとさし指から奏でるしあわせ』ですが、明子さんを見ていて改めて考えさせられたのは、人間にとって幸せとは何かという事です。

世間の人々がよく口にするのは、幸せになる為には、あれも必要、これも必要、あれが無いから幸せになれない、これが無いから自分は不幸せだと言うように、幸せになるためには、欠けているもの、足りないものを手に入れなければいけないと言う発想です。

しかし、全身麻痺の明子さんが動かせるのは、左手のひとさし指たった一本であり、そのたった一本のひとさし指でさえ、自由自在には動いてくれないのです。

では、いまの明子さんは、重い後遺症を負っているから不幸なのかと言えば、決してそうではないと思います。

勿論、医療事故によって、全身麻痺になった時は、不幸のどん底に突き落とされた心境だったに違いありませんし、全身麻痺の状況は今もまったく変わっていません。それどころか、むしろ悪化しているのではないでしょうか。

にも拘らず明子さんは、決して不幸のどん底にはおられないと思います。

全身麻痺の体を不幸と思えば、不幸であり、不幸でないと思えば、不幸ではないのです。幸不幸を決めるのは、結局自分しかいないのですから…。

体の障害と心の障害

先天性四肢切断(生まれつき両腕と両脚がない)という障害を背負って生まれた乙武洋匡(おとたけひろただ)氏は、その著書『五体不満足』の中で、「障害は不便です。しかし、不幸ではありません」とおっしゃっておられますが、まさに名言ではないでしょうか。

「障害は不便ですが、決して不幸ではありません」と、言い切れるのは、乙武氏が、心の障害者になっていないからだと思います。

「大阪堀江の六人斬り事件」によって両腕を失くされた大石順教尼は、多くの障害者にこう言っています。

身体の不自由、これはね、そういう因縁なのだから仕方がないが、私達は心の障害者になってはいけないのだよ。

心の障害者、そんな障害があるのですか?

あんたね、片足が悪いだけでよく転ぶでしょう。どうしてか分りますか。

わかりませんが、悲しいです。

転ばなくても歩ける方法を教えてあげよう。それはね、悪い足をかくさないことだよ。心の障害というのはそれをいうのだよ。忘れなさいという事は無理かもしれないが、片足が悪いくらいのことに心をうばわれてはいけないのだよ。

どうしたら、その心の障害を取り除く事が出来るのですか?

自分のことは自分で出来るようにする、それだけの小さな生き方でなしに、世の中のために感謝と奉仕の心をもって、心の働きを生かすのだよ。たとえ、何にも出来ずにベッドにふせっていても、微笑みひとつでも、やさしい言葉ひとつでも、周囲の人々に捧げる事が出来たら、その人は社会の一隅を明るくすることが出来るのだよ。
私はね、障害というのは、身体の自由、不自由とは別ではないかと思う事さえあるのだよ。
たとえ健全な肢体に恵まれていても、それを人のために生かす心を持たず、五欲のほしいままに、お互いが傷つけあうことしか知らないとしたら、大変な心の障害者ではないかと思うのだよ。
此の頃、私は、両手を無くしたこと、何も知らない無学なものであったこと、そして、お金にたよらずに貧乏してきた事が、本当に私の眼に見えない大きな財産なのではないかと、しみじみとその幸せを味わっているのだよ。

先生、もう少しわかりやすく教えて下さい。

そうね、生きてゆくための、幸福になるための、条件とか資格とかいうものは、何一つないのだ、とでも言ったら分るかい。禍も福もほんとうは一つなのだよ。

また2歳の時に、足のしもやけがもとで突発性脱疽(とっぱつせいだっそ)という病気に侵され、両手両足を失くされた中村久子さんも、同じような事をおっしゃっておられます。

私自身に最も深く思わせられたことは、障害をむしばむものは障害ではなく、自らの精神によるものであるということです。

こんな手や足で電車や自動車の通るこんなこわい所が歩かれるだろうか、などと不安の念がちょっとでも頭に浮かんだらもうおしまいです。足も体もすくんでしまって、一歩たりとも前進はできません。障害が難物というよりは、心の障害が一番の難物なのであります。

人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。

勿論、思い方は人それぞれですから、両手両足を失くした事を、不幸と考える人も、世の中にはいるでしょう。

明子さんのように、医療事故によって全身麻痺の後遺症を負った事も、見る人によっては、確かに不幸に見えるかも知れません。

しかし、全身麻痺の後遺症を負ったからこそ得られたもの、後遺症を負わなければ絶対に見えなかったものもあるのではないでしょうか。

明子さんは、全身麻痺によって、すべてを失った訳ではありません。失ったものもある代わりに、明子さんが新たに得たもの、見出したものも、決して少なくないのです。

この10年余に失ったものは大きかった。しかし、与えられたものも、また大きかった。人の優しさや人の心の深さ。そういったものを持ちあわせる人たちが現実に存在するという驚き! 家族の絆というもの……。
健康であれば、お互いにお互いの大切さや幸せに気づくこともなく通り過ぎてしまっただろう。

と、浩子さんも書いておられるように、今まで気づかなかったこと、見えなかったものが見えるようになった喜びは、困難や挫折や絶望に直面して、大切な何かを失った経験のある人でなければ、実感できないでしょう。

失って初めて得られたもの、見えてきたものこそ、全身麻痺という後遺症が明子さんに与えてくれた本当の幸せであり、後遺症を負っていなければ、得る事も見る事もできなかった、輝ける人間の在るべき姿なのではないでしょうか。

中村久子さんの次の言葉が、その事を雄弁に物語っています。

良き師、良き友に導かれ、かけがえのない人生を送らせて頂きました。今思えば、私にとって一番の良き師、良き友は、両手両足のないこの体でした。

イツモココニイルヨ

全身麻痺の中で、唯一動かせる左手のひとさし指。何故、左手のひとさし指だけが動かせるのか。

勿論、これはただの偶然でしょう。しかし、その偶然にも、意味があるとすれば…。

確かに、パソコンで文字を打ち込んだり、メールをしたりする事が出来るように左手のひとさし指だけが使えるよう、神様が残して下さったのかも知れませんが、私には、もっと深い意味があるような気がします。

ひとさし指と聞いて、先ず私の脳裏に浮かんだのは、スティーブン・スピルバーグ監督が制作して大ヒットした1982年公開のユニヴァーサル映画「E.T.」です。

遥か宇宙の彼方から地球探査にやってきた地球外知的生物「E.T.」。ところが、その中の一人が宇宙船に乗り遅れて地球に取り残されてしまいます。

ある夜、10才のエリオット少年は、奇妙な姿をしたE.T.と遭遇しますが、いくら家族にE.T.を見たと言っても誰も信じてくれません。

ETとエリオット少年はテレパシーで心を通わすことができますが、NASAの科学者がE.T.を見つけ出し、ETとエリオットは科学者達によって隔離されてしまい、エリオットは助かったものの、ETは治療の甲斐無く死んでしまいます。

エリオットが、「酷い目に合わせてごめんね。君が死んで僕はもう何も感じられない。君はどこへ行っちゃうの?君の事は一生忘れないよ。ET、君が好きだ」と、別れを告げて出て行こうとすると、ETの胸元が赤く光り、枯れていた花が元気を取り戻します。

それを見たエリオットが急いで、亡くなった「E.T.」が入っているカプセルの扉を開くと、そこに生き返ったETがいたのです。

「ET、デンワシタ。ウチニデンワ」
「迎えが来るの?!」
「ソウ、オウチニデンワ」
「静かにして!」

エリオットは、兄に車を運転してもらい、ETを公園まで連れて行き、そこから自転車で仲間と一緒にETを森へ連れて行きます。

途中、捕まりそうになっても、ETの不思議な力で自転車は大空へ舞い上がり無事に森へたどり着くと、そこにはETを迎えにきた宇宙船が待っていました。

二人は、左手のひとさし指で胸を撫でながら「イタイ」と言って、泣きながら抱き合い、別れを惜しみます。

そして、最後にETが、光る左手のひとさし指をエリオットの額に当てながら、「イツモココニイルヨ」と言って別れを告げ、綺麗に咲いたエリオットの花を持って宇宙船に乗り込み、空の彼方へと去っていくのです。

この「E.T.」が公開されたのは、明子さんが医療事故に遇う13年も前の1982年ですが、最後の別れのシーンは、とても感動的で、何度見ても目頭が熱くなります。

自分とは全く違う世界から来たETが、一人だけ地球に取り残されて困っている姿を見て、素直に家に帰してあげたいと思う、何の計算も打算もないエリオット少年の優しさ(愛)と、優しさに裏付けられた勇気と強さ、そしてエリオット少年をあたたかく包むETの優しさが、見る者の胸に迫ってくるからでしょう。

ETは最後に、少年の額に、光る左手のひとさし指を当て、「イツモココニイルヨ」と言って別れを告げるのですが、体の中で、唯一動かせる左手のひとさし指を使って、懸命に生きている明子さんの姿が、多くの人々に感銘を与えている事を知った時、私の脳裏に浮かんだのは、このシーンでした。

ETが「イツモココニイルヨ」と言ったのは、エリオット少年の額の奥、つまり記憶や思い出のことを指しているのでしょうが、私は、記憶や思い出の事ではなく、光るひとさし指の先なのではないかと思ったのです。

この時、私の心の中では、様々な不思議な力を発揮したETのひとさし指と、多くの人々に感銘を与えている明子さんのひとさし指が、重なっていました。

ひとさし指から生まれる幸せの輪

このひとさし指は、仏教では、真理に譬えられる「月」を指し示す指とされている、とても大切な指です。

またお釈迦様が生まれてまもなく七歩歩まれ、「天上天下唯我独尊」とおっしゃった時に、天と地を指し示された指でもあります。

つまり、明子さんの体の中で唯一動く左手のひとさし指は、仏教では、真理を指し示す指であると同時に、自分の足元(自分の使命)を見つめなさいと教えてくれる指でもあるのです。

その指だけが動かせるという事は、明子さんにとって、とても深い意味が込められているような気がします。

涅槃経の中に「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という言葉があります。

これは、すべての人に仏性という永遠のいのちが具わっているという意味ですが、勿論、全身麻痺の明子さんにも、この仏性(仏のいのち)が具わっています。

でも、この仏性には、姿かたちがありません。

どういう事かと言いますと、肉体を生きる明子さんは、いま全身麻痺という重い後遺症を負っておられますが、姿かたちのない仏性を生きる明子さんには、全身麻痺という後遺症もなければ、傷つく事も病む事も老いる事も死ぬ事もないという事です。

大切なのは、どちらの明子さんが、本当の明子さんかという事ですが、勿論、仏性を生きる明子さんが、本当の明子さんであって、全身麻痺の明子さんは、仏性を生きる明子さんが宿っている仮の器に過ぎません。

いまその肉体が、全身麻痺という後遺症を負っていますが、後遺症を負っているのは、あくまで肉体という器だけであって、仏性を生きる明子さんそのものには、何の後遺症もありません。

その明子さんは、姿かたちがなく、肉眼で見る事は出来ませんから、この世に生まれてきた使命を果たしておられても、私達には分りませんし、見えません。

そこで、み仏は、肉眼には見えない、仏性を生きる明子さんの姿を、誰の眼にも見えるよう、一つの手立てを用意して下さったのです。

それが、全身麻痺の体の中で、唯一動かせる左手のひとさし指です。

このひとさし指は、私達にとって、日常生活の中で、意識する事もなく当たり前に使っているただのひとさし指であり、肉体の一部に過ぎません。

しかし、明子さんにとっては、全身麻痺の中で唯一残った肉体の一部ではなく、後遺症もなければ、傷つく事も病む事も老いる事も死ぬ事もない、仏性を生きる明子さんが、この世へ生まれてきた使命を果たす為にみ仏が選ばれた、明子さんの魂(仏性)を映す聖なる鏡なのです。

明子さんは、いま左手のひとさし指一本を使い、多くの人々に、感銘と生きる希望と勇気を与えておられますが、これこそ、左手のひとさし指が、仏性を生きる明子さんの真実の姿を映し出す鏡である何よりの証ではないでしょうか。

肉眼には見えませんが、明子さんのひとさし指は、きっとETのひとさし指のように光り輝き、多くの人々に幸せの輪を広げているに違いありません。

平成25年6月8日

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御本尊について

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弘法大師様と不ニ一体の生き仏様

世界にあまたの霊山ある中で、生き仏様を御本尊としてお祀りする霊山は、世界広しといえども、紀州高野山をおいて他にはありません。

高野山は、平安の昔より悩み苦しむ人々と共に生き続けておられる弘法大師様(お大師様)御入定の聖地であり、生き仏様の御霊光に満ちあふれる世界に二つとなき霊山と言えましょう。

そのお大師様より「入定せよ」との示現をいただかれ、平成二年四月十三日、御年七十一歳を以て御入定され、お大師様と不二一体の生き仏と成られたお方が、当山御本尊の普門法舟大菩薩様(ふもんほうしゅうだいぼさつさま)です。

高野山法徳寺は、弘法大師様(お大師様)と不二一体の生き仏と成られた普門法舟大菩薩様御入定の聖地であり、苦しむ人々の魂を救済する仏法の根本道場であります。

救世主を待望する時代状況

平安の世に彗星の如く現れ、仏法を根本として悩み苦しむ人々に救済の御手を差し伸べられたのが、お大師様です。

お大師様が出世された平安時代は、人心が乱れに乱れ、庶民は塗炭の苦しみをなめていましたが、残念ながら平成の世も、お大師様が出られた平安の時代状況と非常によく似ています。

家族関係は崩壊の一途をたどり、親子、夫婦、兄弟姉妹間での殺傷事件もめずらしくなく、親殺し、子殺しも当たり前という暗澹たる状況にあります。

また幼児虐待、児童誘拐殺害事件、通り魔による無差別殺傷事件など、常軌を逸した事件が相次ぎ、人心は乱れる一方です。

学校でのいじめ、会社での人間関係の悪化、避けられぬ健康問題など、私たちを取り巻く様々な要因に起因する自殺者の増加も社会問題となっています。

他方で天変地異が地球規模で頻発し、大地震や津波によって多くの尊い人命が失われ、地球温暖化の影響と考えられる異常気象によって、農作物をはじめ、様々な分野への悪影響が懸念されています。

更に無差別テロや内戦によって大量の難民が流出し、まるで地獄絵さながらの修羅場が世界中で繰り広げられています。

まさに今の世は、平安時代の地球的規模での再現ではないかとさえ感じられる様相を呈していますが、それは裏返せば、乱れた人心をただし、苦しむ人々に救済の御手を差し伸べられたお大師様のようなお方が出られても何ら不思議ではない状況にあるという事です。

夢殿の秘仏御本尊

法舟菩薩様は、お大師様と不二一体の生き仏として、今も悩み苦しむ人々と共に生き続けておられますが、御入定七年前の昭和五十八年五月二十四日未明、突然激しい頭痛に見舞われ、滝のような汗を流す日々が何日も続きました。

床に就くようになってから三十七日目の六月二十九日未明、菩薩様は、霊夢にて、全身からほとばしる灼熱の汗を流しながら、升の中に凛とたたずむお地蔵様を御感得され、升よりあふれた御汗が十方普く光り輝く光景をご覧になられました。

その光景は余りにも神々しく、言葉に尽くし難いものでしたが、不思議にも、その霊夢をご覧になってから菩薩様のお体は快方に向かい、原因の分からぬまま床に就かれてから数えて四十九日目の七月十一日未明、ようやく床を離れる事が出来ました。

この時、ご感得なさったお地蔵様が、菩薩様御廟所「夢殿」にお祀りしている秘仏の身代り升地蔵尊で、苦しむ人々を救済する為に代受苦(人に代わって苦しみを背負う難苦行)をしておられる法舟菩薩様ご自身のお姿に他なりません。

こうして高野山法徳寺では、普門法舟大菩薩様を、弘法大師様と不二一体の生き仏と仰ぎ、菩薩様の代受苦行の御姿である身代り升地蔵菩薩様を、菩薩様御廟所「夢殿」の秘仏御本尊様としてお祀りしているのであります。

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山号

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法徳寺の山号を「高野山」とせよ

菩薩様が御入定しておられる法徳寺に、生き仏様を御本尊としてお祀りする世界で唯一の霊山である紀州高野山と同じ山号が付けられているのは、「法徳寺の山号を高野山(たかのやま)とせよ」との、菩薩様の御遺命によるものであります。

御入定されるに当り、菩薩様が、法徳寺の山号を高野山(たかのやま)と御遺命されたそのみ心は、ただ神秘なお計らいによるものという他はありませんが、一つだけ確かなことがあります。

それは、「高野山(たかのやま)」の山号を付けられるお方がいるとすれば、紀州高野山に御入定しておられるお大師様以外にはおられないということです。

お大師様しか付けられない、「高野山(たかのやま)」の山号を、菩薩様が付けられたとすれば、理由は一つしかありません。

それは、菩薩様が、お大師様と不二一体の生き仏様であるという事であります。

汝たちを利益することを忘れず

菩薩様は『御遺告(ごいこく)』の中で、

「紀州高野山と共に弘法大師の仏慈仏徳を拝し奉り、報恩の誠を尽すべし。ゆめゆめ弘法大師の御名をはずかしむることなかれ。われ肉身亡きあとといえども、常に汝たちを利益(りやく)することを忘れず」

と御遺命され、お大師様と一体になって末代までも生き続け、悩み苦しむ人々に救済の利益を施すとの御誓願を立てられました。

お大師様は、
 虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば
   わが願いも尽きなん
との御誓願を立てられ、今も悩み苦しむ多くの人々に救済の利益を施していて下さいますが、菩薩様の御誓願もまた、お大師様と不二一体の生き仏となって、末代までも悩み苦しむ人々を救済していくとの御宣言に他なりません。

そして、その御誓願にたがわず、今も救済の御手を差しのべていて下さる証が、高野山法徳寺の開創に至るまでの数々のお計らいであり、汗露水の湧出をはじめとする開創以後のお計らいの数々であります。

まさに、菩薩様が御入定しておられる高野山(たかのやま)法徳寺は、お大師様御入定の聖地・紀州高野山と共に、救いを願う人々にとって、身も心も癒される慈悲のおやざとであり、宗教人種のへだてなく救われるこの世の曼荼羅浄土と申せましょう。
 曼荼羅の 世界をえがく高野山
   これぞこの世の 浄土なりけり

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年間行事

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ご縁日と法要のご案内

1月1日~3日 新年初法要
一年間の世界平和、国家安泰、衆生救済を祈願する新春初法要
1月21日 初大師法要と法話会
お大師様、菩薩様に報恩感謝の誠を捧げる一年最初の報恩法要
2月3日 節分法要
節分を境に干支が変り、万物が息吹く季節を迎えて、その年の無病息災・五穀豊穣を祈願する法要(寺内関係者のみ)
2月21日 月並報恩法要と法話会
節分後に迎える最初の報恩法要
3月21日 春季彼岸法要と法話会
お大師様が御入定なさった三月二十一日を偲んで、報恩感謝の誠を捧げる報恩法要
4月13日 法舟大菩薩御入定春季大法要と法話会
普門法舟大菩薩様が御入定なさった平成二年四月十三日を偲び、代苦者として今も苦しむ衆生を救済していて下さる菩薩様に、報恩感謝の誠を捧げる春の報恩大法要
5月21日 月並報恩法要と法話会
6月21日 月並報恩法要と法話会
7月21日 月並報恩法要と法話会
8月15日 盂蘭盆法要
8月21日 月並報恩法要と法話会
9月21日 秋季彼岸法要と法話会
10月20日 法舟大菩薩御誕生秋季大法要と法話会
菩薩様が御誕生された十月二十日を偲び、報恩感謝の誠を捧げる秋の報恩大法要
11月21日 月並報恩法要と法話会
12月13日 納め菩薩法要(汗露水報恩法要)
初めて汗露水を頂いた平成十七年十二月十三日を記念し、代受苦の御汗を流して御苦労していて下さる菩薩様に、報恩感謝の誠を捧げる報恩法要(寺内関係者のみ)
12月21日 納め大師法要と法話会
お大師様、菩薩様の御苦労を偲び、一年間の御加護に感謝する納め法要

ご縁日における法要時間のご案内

毎月の法要は、午前十時より始まります。法要の後、休憩をはさみ午前十一時より、御法嗣様の御法話がございます。
昼食(お弁当は各自で御持参下さい)の後、午後一時過ぎより、御法嗣様のキーボード演奏に合わせて、全員で聖歌(御法歌)を御奉納(歌唱)いたします。午後二時過ぎには、全日程が終了する予定です。
当山は宗教宗派を問いませんので、お気軽にお参りくださいませ。

お問合せ先

何かご不明な点がございましたら、下記までご遠慮なくお問合せ下さい。
寺  名  高野山法徳寺
住  所  山梨県北杜市須玉町若神子4495-309
メールを送る電話をかける
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発行著書・授与品

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法徳寺発行著書

1、『慈悲の海(上・下)』 普門法舟著

 著者が、昭和51年5月に出版し、好評を博した『涙の渇くひまもなし』の改訂版。Amazonよりプリント・オン・デマンド(POD)にて絶賛発売中。
  四六判 158頁 各巻1,400円(税抜き) 1,512円(税込み) 

2、『四国遍路体験記ー大悲の御手に抱かれて(改訂版) 大西良空著

著者が、遍路旅の徒然に書き留め、平成12年4月より平成17年4月までの5年間に亘り、高野山法徳寺の同行誌『救済』に連載された『四国遍路体験記』を、『大悲の御手に抱かれて』と改題して、平成26年4月13日、Amazonよりプリント・オン・デマンド(POD)にて発行された初版の改訂版。
初版に加筆訂正し、「同行二人の心」「自己を捨てる—托鉢に寄せて」の二章を新たに付け加えたもの。絶賛発売中。
四六判 214頁  1,700円(税抜き) 1,836円(税込み)

3、『道歌集』(改訂版) 普門法舟著

菩薩様が残された御法歌三千首余りの中から、三百余首を集めて編集された第一集の改訂版。文庫判 163頁 \1000円

3、『救済』(第1号~第44号)

春と秋の大法要に合せて発行される同行紙。B6判 約60~70頁 無料配布

 お札・授与品

1、身代り升地蔵尊御守護札

ご家庭でお祀り頂く御本尊様の御札。一体2,000円

2、玄関魔除け札

人が出入りする玄関などに貼って頂く御札。一体500円

3、汗露升

汗露水をお飲み頂く升。一体1,000円

4、半袈裟

山号・寺号・寺紋入り。一領3,000円

5、写経用紙

お手本入り・写経用紙2枚セット
500円
お手本無し・写経用紙10枚セット
1,000円

6、御朱印帳

一冊 1,000円

 お問合せ先

何かご不明な点がございましたら、下記までご遠慮なくお問合せ下さい。
寺名  高野山法徳寺
住所  山梨県北杜市須玉町若神子4495-309
メールを送る電話をかける
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ご祈祷について

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一般参拝日のご祈祷のご案内

ご縁日以外の一般参拝日におけるご祈祷は、午前9時00分より午後4時まで、随時執り行っております。

受付にて、申込用紙に、願い事や必要事項をご記入下さい。受付を済まされたお方から、随時、ご祈祷をさせて頂きます。

一般参拝日のご祈願料料は、3千円からとなっておりますので、受付の際にお支払い下さい。

一般参拝日のご祈祷の流れ

1、受付をする(随時)

2、ご祈祷を受ける。

3、お札をいただく。

4、夢殿にて、四国八十八ヵ所霊場のお砂踏みをする。

5、汗露臺にて、汗露水を頂く。

ご縁日のご祈祷の御案内

4月13日の春季大法要、10月20日の秋季大法要、毎月21日の弘法大師御縁日におけるご祈祷は、午前10時から始まる大法要の中で執り行います。

3月21日と9月21日のご縁日は、春季彼岸法要、秋季彼岸法要と重なりますので、午前9時30分より、納骨堂「帰郷庵」にて納骨者の供養を執り行い、その後、本堂にて、御縁日法要を執り行います。

また8月15日の盂蘭盆法要は、午前9時30分から「帰郷庵」にて厳修し、その後、本堂にて執り行います。

いずれの場合も、法要の後、休憩をはさみ午前11時より、住職の法話がございます。

昼食(お弁当は各自で御持参下さい)をはさみ、午後1時過ぎより、参拝者全員で聖歌(御法歌)を斉唱(御奉納)いたします。

午後2時過ぎには、主な日程が終了する予定ですが、その後、住職を囲みならが、参拝者の体験談などを語り合う「御法座(みのりざ)」が催されます。ご参加は自由です。

ご縁日のご祈祷料は決まっておりませんので、皆様のお気持ちをお供え下さい。

当山は宗教宗派を問いませんので、どなたでもお気軽にお参りして下けます。

ご縁日のご祈祷の流れ

1、受付をする(午前10時まで。但し、春秋のお彼岸の時は午前9時30分まで)

2、春秋のお彼岸と盂蘭盆の時は、帰郷庵にて御供養を受ける(午前9時半より法要開始)

3、本堂にて、ご祈祷を受ける(午前10時より)

4、住職の法話を聞く(午前11時より)

5、客殿にて昼食(午後0時より)

6、聖歌(御法歌)を斉唱(御奉納)する(午後1時より)

7、夢殿にて、四国88ヵ所お砂踏み回廊めぐりをする

8、汗露臺にて、汗露水を頂く

ご祈祷は、御本尊様の御宝前にてお受け頂きますが、諸般の事情によりお参り出来ないお方の為に、郵送でのご祈祷、ご供養の受け付けも行っておりますので、お気軽にお問合せ下さい。

お問合せ

ご不明の点があれば、お気軽にお問い合わせ下さい。

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ご供養・ご納骨について

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変わりつつある供養(葬儀)の形

お寺離れが叫ばれ、菩提寺を持たないお方が増えつつある昨今、注目を集めているのが、僧侶派遣(僧侶紹介)サービスです。

アマゾンの「お坊さん便」が世間の注目を集め、巷では仏教会の反対意見を含め賛否両論が百出していますが、このサービスを好意的に受け止めている人々には、一般的な葬儀費用よりも低額で、なおかつ内容が明瞭である点が評価されているようです。

本来、お布施(法施)というものは、受ける寺院側が決めるものではなく、お布施をする施主様がそのお気持ちを現わされるものですから、その点から言えば、「お坊さん便」のようなサービスは、お布施本来の趣旨に反していると言わねばなりません。

しかし、現わすお気持ちの程度も様々で、施主様が困られる場合もあり、葬儀のお布施に関しては、寺院側と施主様との暗黙の了解により、寺院側が決めた額を施主様にお布施して頂いているのが現状ではないかと思います。

ただお布施の希望額も寺院によってまちまちで、中には余りにも高額なお布施を求める寺院もあって、それが檀家離れの一因になっている事は否めません。

このような寺院側と施主様との間で長年続いてきた暗黙の了解が、「お坊さん便」をはじめとする僧侶派遣サービスの登場によって一石を投じられる結果となっている訳ですが、葬儀のお布施自体は、すでに施主様のお気持ちを現わすというお布施本来の形ではなく、寺院側の要望に添う形で行われており、「お坊さん便」は、費用の低額化と明瞭化の両面から、その現状をより一層明確にしたに過ぎないとも言えます。

その証拠に、お布施の低額化と明瞭化は、同じような他の僧侶派遣サービスでも行われており、すでに広く定着していると言っていいでしょう。

人生最後のお別れの儀式をどのようにするのがよいかは難しい問題で、百人百様のお別れ方があると言ってもいいでしょうが、多額の費用さえかければ、よいお別れが出来るというものでもありません。

葬儀本来の在り方から言えば、遺族や故人と親しかった知人だけが集まり、心静かにお見送りするのが理想でしょうが、故人の交友関係や仕事上から、それが難しい場合もあり、すべての場合に当てはまる葬儀の理想形というものはありません。

しかし、残されたご遺族の今後の生活や物心両面に亘る負担などを考えると、余りにも高額な葬儀費用には疑問が残り、巷の声を反映して出てきた葬儀費用の低額化と明瞭化の流れは、今後も広がりを見せてゆくでしょう。

いずれにしましても、低額明瞭化を打ち出す様々な僧侶派遣サービスの登場によって、今日まで連綿と続いてきた檀家制度そのものが大きく変わろうとしており、今まで檀家に頼ってきた寺院側も、変革を求められている事は間違いありません。

来る者は拒ます、去る者は追わず

法舟菩薩様は常々、「信者を作ってはならないし、信者は要らない。法徳寺は、来る者は拒まず、去る者は追わずのお寺でなければいけない」とおっしゃっておられましたが、諸行無常、諸法無我を説く仏教の立場から言えば、菩薩様がおっしゃる通り、いかなるご縁であっても、一期一会のご縁と受け止め、信者や檀家を作る事への執着心を離れるのが、本来の在るべき姿ではないかと思います。

それは、医師と患者の立場によく似ています。医師の役割は、病んでいる人を治療する事であり、治療が終われば、そこで医師の果たすべき役割は終わりです。それ以上、患者を縛り、「あなたは私の患者だ。他所へ行ってはいけない」などと強要するのは、執着以外の何ものでもありません。

寺院と信者、檀家の関係も同じで、救いを求めて来られたお方が救われれば、寺院の役目は終わりです。それ以上、信者や檀家として縛るべきではありません。

勿論、救われたお方が、これからも信者や檀家となってみ仏を信じて生きて行きたいと思われるなら、その意志は尊重されなければなりません。寺院側がそれを拒否すれば、「来る者は拒まず」の趣旨に反します。

しかし、一旦、信者や檀家になると決められても、再びそのお方が、信者や檀家をやめたいと思わるなら、その意志もまた尊重されなければなりません。いつまでもそのお方に執着し、その信仰を縛る事は、「去る者は追わず」の教えに反する事になります。

大切な事は、寺院やみ仏を選び、信仰をするか否か、信者や檀家になるか否か、信者や檀家をやめる否かを決めるのは、救いを求める人々自身であって、寺院ではないという事です。

菩薩様が「来る者は拒まず、去る者は追わず」とおっしゃった言葉の裏には、寺院がそれらの人々を信者や檀家として縛ってはならないという深い意味が込められていたのです。

一期一会のご縁を大切に

一期一会のご縁と言えば、生きている人々を済度(さいど)するご縁だけではなく、ご葬儀のご縁もまた、故人とご遺族を済度する一期一会のご縁と言わねばなりません。

衆生済度(しゅじょうさいど)のご縁である以上、高額な葬儀費用やお布施をめぐる問題も、ご遺族の救済と無関係ではありえません。

世の中には、高額化する葬儀費用に疑問を抱き、遺骨さえも引き取らない「0(ゼロ)葬」を提案する意見さえありますが、時代の流れとはいえ、葬儀費用の高額化を理由に、遺骨までも引き取らないというのは、供養の意味を取り違えた極論であり、まさに本末転倒と言わざるを得ません。

しかし、今までのような寺院側の常識だけが通用する時代でなくなっている事だけは間違いないでしょう。

法徳寺でも、「来る者は拒まず、去る者は追わず」の教えに従い、一期一会のご縁を大切にして、ご遺族の負担を出来るだけ軽減する意味から、今後ともご葬儀費用の低額化と明瞭化に努めてまいりたいと思います。

「帰郷庵」へのご納骨について


ご納骨のご案内

案内パンフレット

「帰郷庵」へは、法徳寺のご本尊様を尊崇されるお方であれば、宗旨・宗派を問わず、どなたでもご納骨いただく事が出来ます。

お預かりいたしましたご遺骨は、一座の納骨供養を勤めた後、「帰郷庵」へお納めいたします。

ご納骨は、分骨(喉仏)、全骨を問いませんが、納骨スペースに限りがありますので、納骨していただけるご遺骨は、原則として骨壺容器に納まるご遺骨のみとさせていただきます。

ご納骨の際には、戒名(法名)、戒名の読み方、俗名(ご生前の名前)、ご命日、行年(享年)が必要となりますので、紙に控えてご持参下さい。

分骨、全骨いずれの場合も、粉骨処理をした後「帰郷庵」へお納めいたします。

ご遺骨は合祀するため、後日ご遺骨の返還のお申し出がありましても返還には応じかねますので、あらかじめご了承ください。

ご納骨料・永代供養料について

ご納骨には、ご生前にご納骨の予約をされる「生前帰郷(せいぜんききょう)」と、死後にご納骨のお申し込みをされる「死後帰郷(しごききょう)」がございます。ご納骨料は下記の通りです。

分骨容器でのご納骨 納骨料
生前帰郷(生前予約) 50,000円
死後帰郷(死後納骨) 70,000円

全骨容器でのご納骨 納骨料
生前帰郷(生前予約) 100,000円
死後帰郷(死後納骨) 130,000円

※ 注 意 事 項

永代供養を希望される場合は、生前帰郷、死後帰郷を問わず、ご納骨料とは別に、一霊につき30万円をお納めいただきます

永代供養を申し込まれたご遺骨は、『永代供養過去帳』に戒名を記載し、法徳寺が永代に亘り、護持供養してまいります。

「生前帰郷」「死後帰郷」を申し込まれた施主の皆様には、「帰郷庵納骨許可証」を発行し、毎年の盂蘭盆会と春秋の彼岸会へのご案内を差し上げます。

春の彼岸会は、三月の月並み法要と兼ねて三月二十一日、盂蘭盆会は八月十五日、秋の彼岸会は、九月の月並み法要と兼ねて九月二十一日に執り行いますので、是非お揃いでご帰郷下さいますようお待ちしております。

祀り手のおられない無縁仏様のご納骨につきましても、所定の納骨料に拘わらずご相談に応じますので、お気軽にお問合せ下さい。

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不思議は世々に新たなり

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掘削工事と共に始まった不思議な出来事

昔から「不思議は世々に新たなり」と言われますが、生き仏様のお計らいは人知をはるかに超えており、摩訶不思議という他はありません。

高野山法徳寺が開創された若神子(わかみこ)の聖地は、八ヶ岳の南麓に位置し、その地下には八ヶ岳を源流とする、とても口に優しくて美味しい軟水が流れているというお話を聞いておりましたので、お参りされる方々に飲んで頂けたらと思い、平成17年8月早々、地下水の掘削に着手いたしました。

ところが、掘削を始めた8月初め、不思議な出来事が起こったのです。

庫裏にある二台の洗面台の内、向かって左側の洗面台に置いてある歯ブラシ立ての中に、深さ一センチ程の水が溜っていたので、不思議に思ったのですが、最初は、誰かが歯ブラシの水を切らずに立てておいたのだろうと、余り気にも留めていませんでした。


しかし、8月初めと言えば、夏の暑い盛りです。毎日水を切らずに立てておいたとしても、それだけで一センチほども溜るとは考えられず、不思議に思っていたところ、同じ事が日を置いて二度続きました。

そして、8月22日の朝、四度目となる水が溜っていたので、念のため家族全員に確かめたところ、当然の事ながら、全員から、歯ブラシの水はちゃんと切っているとの返事が返ってきました。

勿論、洗面台の棚の上に置いてある歯ブラシ立てですから、それより下方にある水道の蛇口から水が入る事はあり得ず、家族一同が不思議に思っていたところ、その二日後の24日の朝、五度目となる水が溜っていたのです。

そこで、二台の洗面台に置いてある歯ブラシ立てを左右入れ替えてみてはどうかと思い、今まで水が溜った歯ブラシ立てを右の洗面台へ移し、右の洗面台に置いてある歯ブラシ立てを左に移したのです。

もし次も左側に溜るようなら、左側でなければならない理由があることになりますが、さてどちらに溜るかと注目していたところ、その日の夕方に、六度目となる深さ一センチほどの水が溜っていました。

溜っていたのは、やはり左側の洗面台にある歯ブラシ立てでした。右の洗面台に移した歯ブラシ立てには全く溜っていなかったのです。

これで、左側でなければならない理由がある事が分ったのですが、その理由が何なのか、その時は見当もつきませんでした。

何とも言えない水の味わい

それまで歯ブラシ立てに溜った水は全部捨てていたのですが、どんな味がするのか一度頂いてみようという事になり、夕方に溜った六度目の水を家族全員でいただいたところ、今まで飲んだことのない味わいのお水でした。

無味無臭なのですが、とても柔らかくて口に優しく、心の芯まで癒されるような味わいのお水なのです。

その後で水道水をいただいたところ、その違いは明らかでした。塩素消毒されているからか、少し舌を刺す様な感じがするのです。と言っても、若神子の水道水が美味しくない訳ではありません。地元でも美味しいと評判の水で、私達も毎日「美味しい、美味しい」と言いながら頂いていたお水なのです。

ところが、歯ブラシ立てに溜ったお水を頂いた後では、水道水独特のカルキ臭さがどうしても鼻に付いてしまい、不味く感じるのです。

それだけ溜ったお水の美味しさが際立っていた訳ですが、折角美味しいお水を頂くのだから、歯ブラシ立てに溜ったのを頂くのもどうかと思い、歯ブラシ立てのすぐ横に、グラスを置く事にしました。

どちらに溜るのか見てみたいという好奇心と、グラスの方に溜って欲しいという期待感もありましたので、グラスに蓋をして置いておいたところ、その日の夜に、七度目の水が溜ったのです。

結局24日は、一日に三度溜った訳ですが、驚いたことに、今度は歯ブラシ立ての方ではなく、蓋をしたグラスの方に溜っていたのです。

家族全員が、世の中にこんな不思議な事があるのだろうかと、顔を見合わせながら驚喜した事は言うまでもありませんが、好奇心と期待感を裏切られなかった喜びと感動が胸の奥から込み上げてきて、暫く震えが止まりませんでした。

菩薩様にお伺いを立てる

8月24日にグラスに溜ったお水は、その後もグラスの方に溜り続け、歯ブラシ立ての方には二度と溜りませんでした。

ところが、9月9日の夜に二十回目となる水が溜ったのを最後に、何故か溜らなくなったのです。

9月に入ってから掘削作業も一段と進み、水が少しずつ湧き出し始め、掘削業者の方から水脈が近いようだと聞かされていたので、多分その事と関係があるのではないかと思ったのですが、問題は、どこまで掘ればいいのかという事でした。

一般的には、業者の方が今までの経験と勘で決められるのでしょうが、私達は、全てを見抜き見通しの菩薩様にお伺いする事にしました。

「どうか、ここまで掘ればよいという所まで来たら、もう一度お水を溜めてお教え下さい」

そうお願いしたのは、水が溜らなくなってから三日後の9月12日でしたが、翌々日の14日に、再び水が溜っていたのです。

早速、業者の方にお話して、掘削作業を終えた事は言うまでもありませんが、この日は、8月初めから始まった掘削作業が漸く終って安堵すると共に、家族全員が驚きと感動を新たにした一日となりました。

溜まった水の正体

それにしても、何故このような不思議な現象が起ったのでしょうか。

悟らなければならない事は山ほどありました。

先ず一つ目は、この水の正体です。水道水でない事は明らかでしたが、では一体この水は何なのか。

私の脳裏に浮かんだのは、この水が、地下水の掘削工事が始まるとほぼ同時に溜り始めた事でした。

という事は、この水が掘削中の八ヶ岳の伏流水である可能性が非常に大きくなりますが、常識的に考えれば、その可能性は限りなくゼロに近いと言わざるを得ません。

何故なら、まだ湧いてもいない地下水を溜める事など、絶対に不可能だからです。

しかし、飲んだ水の味わいは、まさしく軟水そのものであり、八ヶ岳を源流とする伏流水と考えざるを得ませんでした。そこで私達は、この水は、掘削中の地下水に間違いないとの結論に至ったのであります。

誰が溜められたのか

二つ目は、もしこの水が掘削中の地下水だとしたら、一体誰が溜めておられるのかと言う事です。

思うに、この様な不可思議を現せるお方は、私の知る限り、世界広しといえども、お二人しかおられません。

それは、生き仏となって紀州高野山に御入定された弘法大師様(お大師様)と、お大師様より「入定せよ」との示現をいただかれて御入定され、お大師様と不二一体の生き仏となられた普門法舟菩薩様(菩薩様)です。

生き仏様の神通力を以てすれば、まだ湧いていない地下水を歯ブラシ立てやグラスに溜める事など、いとも容易いでしょう。

菩薩様は常々「仏の通力を譬えれば、小指で富士山を持ち上げるようなものだ」と仰っておられましたが、まさにそのお言葉通り、通力を以て、まだ湧いていない地下水を前以て溜めて下さったに違いありません。

それは、次の数字を見ても、明らかでした。掘削した井戸の深さはちょうど百十三メートルでしたが、これは菩薩様が御入定なさった十三日に相通じる深さであり、また水が溜った二十一回という数は、お大師様が御入定なさったご縁日だからです。

この二つの数字を見れば、この度のお計らいが、お大師様と不二一体の生き仏となられた菩薩様によってなされている事は明らかでした。

体に起きていた異変

しかし、これで疑問がすべて解けた訳ではなく、まだ大きな疑問が残っていました。

それは、何の為にこのようなお計らいをなさったのかという事です。実はその疑問を解く手がかりが、二つありました。

一つは、その時、私の体に起っていた或る異変です。

井戸を掘り始めてから半月ほど後の8月18日頃から、左側の首から背中、肩、左腕にかけて、夜も眠れないほどの痛みと疼きが起きていたのです。

病院で調べていただいたところ「多分首のヘルニアでしょう」との診断でしたが、首のレントゲン写真を見た時、そこに映っている頚椎と脊髄液が、私の眼にはまるで、いま掘削して頂いているボーリングのパイプのように見えたのです。

そこで、「この首の痛みは、いま掘って頂いている地下水と深い関係があるに違いない」と直感したのです。

汗をかいていた屋久杉の寺紋額

二つ目の手がかりは、私の体の異変と相前後して起きたもう一つの不思議な出来事でした。

首が痛くなり始めてから三日後の8月21日の朝、昇龍閣(客殿)にある屋久杉で作られた桜の寺紋額のガラス一面に、汗を流したような雫がいっぱい付着しているのを、偶然発見したのです。

否、それは偶然と言うより、見つけさせられたと言った方がいいかも知れません。何故なら、もし雫が一面に付着した寺紋額を見ていなければ、グラスに溜った地下水の秘密を悟る事が出来なかったからです。

菩薩様は、霊夢にて、灼熱の御汗を流しながら升の中に凛とたたずむお地蔵様(身代り升地蔵菩薩様)を感得され、衆生の代苦者となられたお方です。

法徳寺の寺紋の一つに桜が使われているのは、桜が菩薩様を象徴する花だからですが、その寺紋額のガラス一面に、汗を流したような雫が付着しているのを見た時、私には、まるで菩薩様が衆苦の御汗を流しておられるように感じられました。

翌22日、雫を拭かせて頂こうと額を外して調べたところ、その雫はただの水ではなく、六千年前の屋久杉で作られた桜紋から出たと思われる油(樹脂)でした。

しかし、油なら桜紋より下に滴り落ちなければならない筈ですが、油は、まるで桜紋から上下四方に飛び散ったかのように、ガラス一面に隈なく付着していたのです。

常識的に見れば、水であろうが油であろうが、寺紋から下に滴り落ちる事はあっても、上に飛ぶ事はまず考えられませんが、摩訶不思議な事に、その油は上下四方に満遍なく付着していたのです。

代受苦の御汗

私の体に起こった首から肩にかけての激しい痛みと疼き。汗を流したかの様な雫が、ガラス一面に付着していた桜紋の額。 そして、グラスに溜り続けた地下水。

この三つの出来事が、すべて地下水の掘削作業と並行して起っていた事から、私は、「この首の痛みと疼きは、菩薩様が受けておられる代受苦の痛みに違いない。その事を教える為に、菩薩様を象徴する桜紋を通じ、代受苦の御汗が飛び散っている様を見せられたのだ」と悟らせて頂いたのですが、最大の疑問は、菩薩様が受けておられる代受苦の痛みを、何故いま私が頂かなければいけないのかという事でした。

実はこのお計らいの中に、地下水が二十一回も溜り続けた謎を解く鍵が隠されていたのですが、それは、代受苦を抜きにしては考えられなかったのです。

先ほど述べたように、菩薩様は霊夢にて、灼熱の汗を流しながら升の中に凛とたたずむお地蔵様を感得され、その汗が升から溢れて十方に光り輝いている光景をご覧になられたのですが、代受苦に関係のあるお水と言えば、菩薩様(身代り升地蔵菩薩様)が代受苦によって流しておられる灼熱の御汗しかありません。

だとすれば、相前後して起った二つの異変と、グラスに溜り続けた地下水を結び付ける結論は一つしかありえません。

即ち、菩薩様がグラスに溜められた水は、ただの地下水ではなく、菩薩様が代受苦によって流しておられる衆苦の御汗を意味する聖水であるという事です。

一口飲んだ時に、心の芯まで癒されるように感じたのは、ただ口に優しい軟水だからではなく、お大師様と不二一体の生き仏となられた菩薩様が流しておられる衆苦の御汗を意味する聖水だったからです。

もし、そのような尊い聖水だとしたら、そう易々と頂ける筈がありません。何故なら、菩薩様の代受苦の苦しみを誰かが代わって受けなければ、その聖水の裏に隠された菩薩様のご苦労の大変さを悟る事が出来ず、そのご苦労を悟らぬままで、衆苦の御汗とも言うべき聖水をお授け頂く事は、余りにも勿体ないからです。

そこで私は、「首に頂いている激しい痛みと疼きは、医学的にはどうであれ、菩薩様の衆苦の御汗であるこの聖水を授けて頂く為には、どうしても受けなければならない痛みであり、耐え抜かねばならない行なのだ」と確信したのです。

罪を漉して洗い流した聖水

このお水が、代受苦によって流しておられる菩薩様の衆苦の御汗を意味する聖水であるとすれば、これ以上清らかで尊い水は、世界中どこを探してもない事になります。

何故なら、生き仏となられた菩薩様の衆生救済の一念で満たされた、まさに永遠なる命(仏性)の結晶とも言うべき聖水だからです。

以前、寿法様が「人の罪や苦しみをすべて受けていたら、体が幾つあっても足りませんね」とお尋ねしたところ、菩薩様は「一旦苦しみや罪を受けるけれども、ざるで漉すように洗い流すから大丈夫だ」と仰ったそうです。

このお言葉からも分かるように、菩薩様は、ただ私たちの罪や苦しみを代って受け、汚れたまま御汗として流しておられるのではなく、ざるで漉すように、罪や苦しみを生き仏となられたその清らかな御法体で濾過した後、御汗として流しておられるのです。

み仏の徳を象徴するあの蓮華が、一切の汚泥に染まらず染められずに、世にも美しい花を咲かせるように、菩薩様もまた、いかなる罪穢れや苦しみを代わって受けても、決してそれに染まらず染められず、あらゆる罪穢れを御法体で漉し、清らかな御汗として流しておられるのです。

何故左側なのか

こうして、聖水にまつわる数々の疑問が一つ一つ解けていったのですが、この聖水を飲ませて頂く為には、まだまだ悟らなければならない事や、実践しなければならない事が幾つもありました。

最大の疑問は、何故首の痛みも、溜った水も左側なのかという事でした。

この首の痛みが、菩薩様の衆苦の御汗を意味する聖水を頂く為には、どうしても受けていかなければならない代受苦行である事は分ったのですが、何故首の左側だけなのか、何故二台ある洗面台の内の左側だけにしか地下水が溜らなかったのか、そのお計らいの意味がどうしても分らなかったのです。

右ほとけ 左凡夫と合わす手の
  内にゆかしき 南無の一声
と歌われているように、右側はみ仏を現わし、左側は私たち衆生を現わしますから、左側に溜った地下水も、左側に頂いている首の痛みも、悩み苦しみを背負う人々の救いと関係があるに違いないとは思ったのですが、具体的にそれが何を意味しているのか、そしてその為に何をすればいいのかが分らなかったのです。

ところが平成17年10月20日に高野山法徳寺へ帰郷され、十三ヶ月間に渡って私達と共に行をされた御同行のFさんから、救われなければならない御縁者がおられ、その御縁者はすべて女性であるというお話をお聞きしたのです。

昔から、右側は男性を現わし、左側は女性を現わすと言われている事から、私は、「左側の洗面台にしか溜らなかった地下水も、首の左側の痛みも、Fさんを通して御縁者の因縁を解き、それを、苦しむ人々が背負う因縁を解く手本としたいとのお計らいに違いない。その為に菩薩様は、御同行の中からFさんを選ばれたのだ」と直感したのです。

初めてお水を頂いた納め菩薩

その後、様々なお指図やお計らいをいただき、最終的にお水を飲ませて頂けたのは、掘削を始めてから四ヶ月余りが経過した平成17年12月13日の納め菩薩でした。

勿論、飲ませて頂いたお水の味わいは、まぎれもなく歯ブラシ立てとグラスに溜ったあのお水と同じでしたが、当然の事ながら、味わいは同じでも、お水の意味を悟らせて頂く前と、悟らせて頂いた後とでは、お水に対する思いが全く違っていました。

聖水の真相を悟らせて頂くまでは、ただ口に優しくて美味しい天然水に過ぎませんでしたが、悟らせて頂いた後は、ただ美味しいだけの天然水ではありませんでした。

菩薩様をお大師様と不二一体の生き仏と信じる私達にとって、このお水は紛れもなく、苦しむ人々の罪穢れを代わって背負い、ご苦労していて下さる菩薩様の代受苦の御汗であり、この上もなく尊い、世界に二つとなき生き仏様の命の聖水なのです。

昔から、生き仏と成られるお方は、千年に一人出るか出ないかと言われており、その意味で、生き仏様の代受苦の御汗を意味するこの聖水も、生き仏様が世に出られた時にしか頂けない、まさに千年に一度頂けるか否かと言われる聖水と言っても過言ではないでしょう。

聖水の呼び名─汗露水

この尊い聖水を、ただ地下水と呼ぶのは余りにも勿体ないと思い、菩薩様が流しておられる代受苦の御汗に相応しい呼び名を考える事にしました。

一度聞いただけで心に残るような名前を付けたいと思い、色々思案しましたが、中々相応しい名前が浮かびませんでした。「示現水」「お加持水」「お身代り水」などの名前が次々と浮かんでは消えてゆきました。

自らが計らいをしている内は駄目だと悟った私は、「どうかこのお水に相応しい名前をお授け下さい」と菩薩様にお伺いする事にしました。

すると、平成18年1月14日の午前4時過ぎ、ふと目が覚め、その瞬間、「かんろすい」という名前が頭に浮かんできたのです。しかも、名前だけではなく、漢字まで浮かんで来たのです。

今まで私が知っている「かんろすい」は、甘い露の水と書く「甘露水」でしたが、その時、頭に浮かんできた「かんろすい」は、「甘露水」ではなく、汗の露と書く「汗露水」でした。

最初は、「今まで色々と計らいをしてきたから、こんな名前が浮かんだのだろう」と思いましたが、「汗露水」の意味を調べていく内に、「これは私が付けた名前でも、付けられる名前でもない」と確信したのであります。

甘露水の意味

「汗露水」と言っても何の事か分かりませんので、先ず「甘露水」について調べてみたところ、色々な事が分かりました。

お釈迦様がお生まれになったインドは、ご存知のように、ヒンズー教(バラモン教)の盛んな国ですが、ヒンズー教の根本経典であるヴェーダによると、インドにあるソーマという植物の汁は神々の飲料で、不死の霊薬とされており、そのソーマの液汁の事を、ヒンズー教では甘露水と呼んでいるのだそうです。

また仏教では、仏法の事を甘露水と呼んでいますが、そう呼ぶのは、仏法が永遠で滅びないものだからです。

更に中国古来の伝説では、王が徳のある政治を行えば、竜神がそれに感応し、その瑞祥として甘い雨を降らすと言われており、その雨水の事を甘露水と言うのだそうです。

いずれにしても、甘露水というのは、不生不滅の霊薬と見做されているばかりか、滅びる事のない仏法そのものに譬えられており、法徳寺の地下から湧いた聖水の呼び名として、これに勝る呼び名はない事を確信したのであります。

汗露水と名付けられたみ心

問題は、何故「甘露水」ではなく「汗露水」なのかという事ですが、まず考えられる理由は、この聖水が、菩薩様の代受苦の御汗を意味する聖水である事を現す為ではないかという事です。

「甘露水」と書いたのでは、このお水が菩薩様の代受苦の御汗である事が分かりません。

しかし、呼び名は「かんろすい」でも、使われている漢字が「汗露水」であれば、文字通り、代受苦の御汗の露を意味する聖水である事が誰の目にも明らかですから、「汗露水」という漢字が使われているのではないかという事です。

しかし、これだけの理由では、まだ何か納得出来ないものを感じたので、更に調べてみたところ、この「汗」という文字には、私達が知っている汗の他に、もう一つ別の意味がある事が分かったのです。

最近、角界では、朝青龍や白鵬、日馬富士など、モンゴル出身の力士が大活躍して人気を集めていますが、モンゴル系遊牧民の間で王者の称号として用いられているのが、実は「カン(ハン)」と言う文字で、漢字で「汗」と書くのです。

モンゴル帝国を築いたテムジンは、王であるカン(ハン)の位に就き、ジンギスカン(チンギスハン)と名乗った事は、よく知られていますが、ジンギスカン(チンギスハン)は、漢字で「成吉思汗」と書きます。

また、お尻に、蒙古斑という青あざを付けて生まれて来るのは、世界中で日本人とモンゴル人だけだそうです。

ですから、モンゴルで王者を現す「汗」という言葉が、同じ蒙古班を持つ日本人である菩薩様の御汗の呼び名に使われていたとしても、何ら不思議はありません。何故なら、菩薩様もまた、仏の王である大日如来の覚位を得られたお方だからです。

菩薩様は、四国第二十一番札所の太龍寺で、お大師様より「普門法舟」という名前を授けられましたが、この「普門」という名前は、お大師様が頂かれた「遍照金剛」と同様、仏の王である大日如来の別名なのです。

その名前が菩薩様に与えられたという事は、菩薩様がまさに仏の王である大日如来の覚位を得られた証と言えましょう。

モンゴル帝国を築いたテムジンに王者を意味する「汗」の称号が冠せられたように、大日如来の覚位を得られた菩薩様が流しておられる代受苦の御汗の呼び名に、王者を意味する「汗」の文字が使われていた事が分かった時、私は初めてこの聖水に「汗露水」の名前が名付けられた事に納得がゆきました。

つまり、「汗露水」という名前には、「代受苦の御汗」という意味の他に、「仏の王者の御汗」という意味も込められていたのであり、「汗露水」という呼び名は、仏の王者である大日如来の覚位を得られた菩薩様が流された衆苦の御汗である聖水を現すのに最も相応しい呼び名だったのです。

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汗露臺の御本尊

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汗露地蔵菩薩様をお迎えする

夢殿には、升の中に立って灼熱の御汗を流しておられる身代り升地蔵菩薩様がお祀りされていますが、この身代り升地蔵菩薩様こそ、衆生を救う為にご苦労していて下さる菩薩様の代受苦の御姿に他なりません。

本来なら、菩薩様の代受苦の御汗である汗露水は、菩薩様が立っておられる升から直々にお授け頂かなければなりませんが、身代り升地蔵菩薩様は秘仏であり、夢殿の扉が開かれる事はありません。

そこで菩薩様は、汗露水をお授け下さる汗露臺(かんろだい)の建立を示現されましたが、問題は、汗露臺にお祀りするお地蔵様です。

平成18年1月30日、汗露臺建立について大工の棟梁と打ち合わせをした時には、まだ、どの様なお姿のお地蔵様をお祀りすればいいのか、皆目見当もつきませんでした。ところが翌31日、思いがけないお計らいを頂いたのです。

夢殿の周囲に四十九基の歌碑が完成したのに引き続き、御同行の皆様から御奉納して頂く歌碑を境内参道の両側に建立したいと考え、打ち合わせのため石屋さんに来て頂いたのですが、打ち合わせが終わって車に戻られた石屋さんが、何やら両手に抱えて持って来られたのです。

歌碑に使う石材の見本でも持って来られたのかと思いながら目を凝らして見ていると、何とそれは、石で作られた高さ三十センチほどのお地蔵様でした。

見れば見るほど何とも言えない可愛らしい童顔のお地蔵様で、いかにも嬉しそうにニッコリ微笑みながら合掌しておられるそのお姿に、心の底まで癒されるような想いが致しました。

私達は、そのお地蔵様を一目見た瞬間、「このお地蔵様を汗露臺にお祀りしなさいという菩薩様のお計らいに違いない」と確信しました。

今まで菩薩様のお計らいの絶妙さを何度も体験してきましたが、前日、大工の棟梁に、汗露臺にお祀りするお地蔵様のお話をしたばかりだけに、早速その翌日石屋さんを通じて、汗露台にお祀りするお地蔵様をお授け下さった菩薩様の間髪入れぬお計らいに、改めて感動した事は言うまでもありません。

菩薩様がこのお地蔵様を選ばれた訳

一言にお地蔵様と言っても、子安地蔵、子育て地蔵、水子地蔵など様々なお地蔵様がおられますが、菩薩様がお授け下さったのは、いずれのお地蔵様でもなく、心の底まで癒されるような愛らしい童顔のお地蔵様でした。

しかし、私達がこのお地蔵様を見て強く心を引かれたのは、愛らしい童顔よりも、むしろ首を少し左側に傾けられたそのお姿でした。

そのお姿を見た瞬間、私達には、菩薩様がこのお地蔵様をお授け下さった本当の理由がすぐに分りました。

汗露臺にお祀りされるお地蔵様は、どうしても首を左側に傾けたお姿でなければならなかったのです。

「不思議は世々に新たなり」をお読み頂いた皆様は、すでにお分りだと思いますが、汗露水が授けられた経緯の中で、三つの不思議な出来事がありました。

一つ目は、庫裏にある二台の洗面台のうち、左側の洗面台に置いてある歯ブラシ立てとグラスに、まだ湧いていない地下水が二十一回溜まった事。

二つ目は、それと相前後して法嗣様の首の左側に起った激しい痛みと疼き。

三つ目は、菩薩様を象徴する桜の寺紋額のガラス一面に、汗を流したかのような雫が付着していた事です。

湧出した地下水が菩薩様の代受苦の御汗を意味する聖水である事を悟らせて頂く上で欠かせなかった三つの出来事の内、洗面台に溜まり続けた地下水と、法嗣様が首に頂かれた痛みが、いずれも左側に起っていた事を考えれば、汗露水を授けて下さるお地蔵様は、どうしても首を左側に傾けたお姿でなければならなかったのです。

汗露臺の御本尊様は、菩薩様の代受苦の御汗である汗露水を授けて下さるお地蔵様として相応しいお姿でなければなりませんが、どのようなお姿がふさわしいのか、私達には分りません。

しかし「按ずるより産むが易し」の諺通り、すべてを見抜き見通しておられる菩薩様が、汗露臺にお祀りするに相応しい首を左側に傾けたお姿のお地蔵様を、石屋さんを通じてお授け下さったのです。

首を少し左に傾けながら何ともいえぬ愛らしい笑みをたたえたそのお顔を拝見していますと、生き仏と成られた菩薩様だからこそ現す事の出来た汗露地蔵菩薩様だと、感嘆せずにはおられません。

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御法歌とは

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御法歌「頼め彼岸へ法のふね」は、普門法舟大菩薩様が、老若男女のへだてなく、誰もが日々の暮しの中で口ずさみながら、仏法のみ光に触れていただけるようにと、三千首余りの道歌の中から撰んで編集されたものであり、日々の勤行や御縁日法要でお唱えされている高野山法徳寺の根本経典とも言うべき道歌です。

「仏教経典は、漢字ばかりで読みづらく、難解で何が説かれているのかよく分らない」という巷の声をよく聞きますが、この四十九首の御法歌は、平易な中にも意味深く、まさに現代人必携の仏教経典と言っても過言ではありません。

わずか四十九首の道歌の中に、み仏の教えの真髄が平易に説かれ、格調高き七五調の文体とあいまって、必ずや悩み苦しむ人々の心の依りどころになるものと確信してやみません。

御法歌の一句一偈を深く味わっていただき、人生を心豊かに生きる糧としていただければ幸いです。
  み仏の 一句一偈の御法(みおしえ)は
    衆生を照らす 光なりけり



頼め彼岸へ法のふね

天は神なり 地は仏
   天に祈りて 地に懺悔
   合わす両手に 神守る

目には見えねど 神仏
   案じ疑い するけれど
   信じることこそ 救いなり

神を恐れぬ 人間の
   所業の様を 見るならば
   来世の様が 見えるなり

老いも若きも 人よ人
   わが身を愛する ものならば
   一度はめざめて 世のために

わが身の人生 可愛いくば
   人の人生も 大切に
   共に咲かそう 徳の花

人間言葉の つかいよで
   成り立つことでも 成り立たぬ
   和顔愛語で 暮らしましょう

口・耳・目・鼻 それぞれに
   正しい役割 しないとき
   やがては不自由な 身とぞなる

怒りねたみに 愚痴嫉妬
   そんな心で 日を暮らしゃ
   業の毒素で 身がほろぶ

若いうちから 手を合わせ
   壮んで信心 深くして
   老いて仏の 中に住む

四十・五十に なったなら
   仏跡めぐりを 喜べよ
   明日もわからぬ 人の身は

人生死生の 橋渡り
   八十年と するならば
   何年何して 来たのやら

六つの道が めぐるから
   しあわせばかりと 思うなよ
   人生廻り 舞台なり

因果の道理を 知らなけりゃ
   流転生死を するうちも
   業をつくって 業に泣く

名誉も地位も 財産も
   わが身ばかりか 人の身も
   無常の中に 消えてゆく

昨日見た人 今日はなし
   残る桜も 散る桜
   待ったないのが 人生だ

この世は無常の 仮の宿
   惜しい財も 人の身も
   一夜泊りの ときもある

富士の高嶺の白雪も
   やがては溶けて 水となる
   人の心もそれに似て
   嶺の雪ではなけれども
   仏の情と慈悲で解く

地獄極楽 後生とは
   死後の世界と いうけれど
   この世があの世と いうことさ

極楽往生 することも
   地獄に堕ちて ゆくことも
   己が所業が 因となる

死出の山路が 恐いなら
   徳を積め積め 山と積め
   積んだ功徳が 身を照らす

金の世界は ゆきづまる
   徳の世界に つまりなし
   貪欲はこの世の 死出の旅

宿世の罪も 善根の
   種蒔き終えて 法のふね
   三途の川も 夢のうち

施し人の ためじゃない
   善根功徳は 己がため
   積めよ積め積め 徳の山

欲は苦の因 悔の元
   長者三代 続かない
   残るは悪業の かたまりだ

欲ほど恐い ものはない
   因果応報に 責められて
   わが身ほろぼす 死出の旅

心に進歩の ない人は
   肉体百まで 生きたとて
   罪業を背負った 死人なり

自己の仏に あいたくば
   人に尽して 業垢除け
   仏像つくるも 木垢とる

人みな凡夫と いったとて
   精進するなら みな仏
   きたえみがけば 御神刀

この世はみんなの 組み合わせ
   役目役目の 働きで
   生きているより 生かされる

苦楽互いに もつ身なら
   助け合うのが 人の道
   わが身ばかりじゃ 罪つくる

この世につまらぬ ものはない
   この世に足りない ものはない
   つまらぬ足りぬは 己れなり

夫婦のうつわは ちがっても
   足りないところは 辛抱して
   助け合うのが 人の道

春・秋彼岸の 墓参り
   先祖のご恩に 感謝して
   手向けの花に 菩提心

先祖供養は 生き供養
   死んだ供養じゃ ありませぬ
   生きた先祖を まつるのだ

諸行無常と 鳴る鐘の
   音のはかなさ きくときは
   移り変わりを 知れという

夕べを告げる 鐘の音に
   暁の鐘の音 きくたびに
   生の尊さ かみしめる

朝日に感謝は するけれど
   沈む夕陽に 知らぬ顔
   今日も一日 ありがとう

昨日を背負った 今日の日は
   明日をはらんで 過ぎてゆく
   大事にしよう 今日の日を

子供の魂 育てずに
   学問だけが 身につけば
   老後は知識で 責められる

子供に背かれ 嘆く親
   あなたは一体 どのように
   子供を育てて 来たのやら

子供に拝まれ 敬われ
   子供が自慢の 出来る親
   そんな親なら 神仏

慈悲で育てた 子供なら
   憂いも辛いも わかるけど
   情ばかりじゃ 仇となる

朝な夕なに 親と子が
   南無と両の手 合わすなら
   弥陀の心の 中に住む

親より先逝く 子があれば
   発心せよの 仏ごころ
   先逝く子供は みな仏

死を見て悲しむ ことよりも
   明日なきわが身の ことも知れ
   残る桜も 散る桜

何がなくとも 人生は
   心の破産を するじゃない
   人間破産は 物じゃない

他人のために 損しても
   それで前生の 借り果たす
   天地の計算 くるいなし

損をしたとて 怒るじゃない
   前生の借りが 済んだのだ
   損を拝めよ 人拝め

無常の中の 人の身は
   波にただよううき世舟
   頼め彼岸へ 法のふね
   頼め彼岸へ 法のふね

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歌碑の御奉納

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仏法(歌碑)のある御寺

境内参道の両側に歌碑(うたひ)を建立する事は、菩薩様御在世中よりの悲願であり、仏法の道しるべ「歌碑」のある御寺としての高野山法徳寺を実現する上で最も大切な整備事業の一つであります。

歌碑に刻まれるのは、花鳥風月を詠んだ和歌や短歌ではなく、移り変わりゆく人の世、人の心の有様をそのまま歌にあらわし、人間はこうあってはならぬ、こうあらねばならぬという、人生の正しい道しるべを綴った道歌(御法歌)であります。

歌碑の御奉納と言えば、御奉納される方が自ら作った短歌や俳句を石に刻んで奉納するのが一般的ですが、法徳寺へ御奉納して頂く歌碑は、菩薩様が作られた道歌(御法歌)の中から一首を撰んで頂き、それを御奉納して頂くのであります。

何故菩薩様の道歌を御奉納して頂くのかと申しますと、この道歌(御法歌)は、『道歌集』の序文にも書いておられますように、菩薩様が自ら思考して作られたものではなく、あらゆる苦難の中から、知らず知らずのうちに口をついて魂の奥底から湧き出て来た御真言(仏法)であり、まさに生き仏となられた菩薩様の仏性の息吹そのものだからです。

参道の両側に建立される歌碑は、菩薩様の仏性の息吹とも言うべき道歌(仏法)によって、悩み苦しむ人々を、この世の曼荼羅浄土(夢殿)へ導く道しるべであり、御奉納される皆様は、歌碑を通して苦しむ人々の心の闇を照らす灯人(あかしびと)となり、悩み苦しむ人々を、曼荼羅浄土へ誘う道先案内人となられるのであります。

歌碑は永遠なる命の象徴

菩薩様は、平成2年4月13日、御歳71歳をこの世の一期として御入定なさいましたが、その菩薩様の永遠なる命を象徴するのが、数々の道歌(仏法)を刻んだ歌碑であります。

しかし、この歌碑は、ただ生き仏となられた菩薩様の永遠なる命を象徴するだけではなく、歌碑をご奉納された皆様の永遠なる命を象徴するものでもあります。何故なら、御奉納される皆様もまた、歌碑を通して生き仏となられた菩薩様と共に末代までも生き続けていかれるからです。

お釈迦様は、弟子たちに、

「われの死は肉身である。肉身は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、患い、傷つき、こわれてゆくものである。
それゆえに、われの肉身を見るのではなく、われの法を知る者こそ、真のわれを見るのである」

と説いておられますが、菩薩様が数々の不可思議を通して、死んでも死なない命を得られた証をお示しになっておられるのは、仏法を心のともし火として生きる人は、いつまでも菩薩様と共に生きる事を教えんが為です。

道歌(仏法)を刻んだ歌碑は、まさに永遠を生きておられる菩薩様の命そのものであると同時に、末代までも菩薩様と共に生きてゆかれる御奉納者の皆様ご自身のお姿でもあるのです。

子々孫々に残す真の財産とは

人はみな亡くなれば墓石の下に葬られ、その墓を子や孫が代々守り伝えてゆくのが古来からわが国に伝わる先祖供養の在り方ですが、その墓を拝み供養するのは子や孫だけであり、血縁以外の人々から拝まれる事はまずありません。

しかし、道歌を刻んだこの歌碑は、苦しむ多くの人々の心を照らし、浄土へ導く法のともし火そのものでありますから、道歌に心を癒され、苦しみから救われた人々は、歌碑に手を合わせ、感謝の祈りを捧げるに違いありません。

つまり、歌碑を御奉納された皆様は、子や孫や親族からは勿論のこと、苦しみから救われた多くの人々から、歌碑を通して末代までも拝まれてゆかれるのであります。

その功徳の果報は、ご奉納されたご本人は勿論のこと、ご先祖や子々孫々に報われ、回向されてゆく事でしょう。

何が有難いと申しましても、子や孫はおろか、苦しみから救われた多くの人々に、歌碑を通して拝まれてゆくこと以上に有難い事はありません。これこそ、人間として最高の幸せであり、ご先祖に手向ける真の供養であり、子々孫々に残してゆける唯一の財産ではないでしょうか。
 いつの日も 叶わぬときはただ頼め
  歌碑をわれの 墓と思いて
 勧進の 縁の糸にみちびかれ
  往くも帰るも 弥陀の浄土へ
 ありがたや 奉納寄進の導きで
  いま積徳の よろこびを知る

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信者を作らない理由

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信者は要らない

お参りされた皆様からよく「法徳寺は信者寺ですか」とのお尋ねをいただきます。

その都度、「いいえ、法徳寺には、一人の信者もいませんし、檀家もございません」とお答えすると、不思議そうな顔をなさいます。

菩薩様は、常々「法徳寺には、信者は一人もいないし、作らない。これからも信者は作らないし、作ってはならない。ただご縁の方々にお参り頂き、一人でも二人でも救われて帰って頂いたら、それでいいのです」と仰っておられました。

近年、子供を虐待する親の話をよく耳にしますが、自分の子供だと思うから、子供に粗相をしたり、乱暴したりするのであって、「この子は神仏からの預かり子だ。お預かりしているだけだ」と思ったら、決して乱暴や粗相は出来ません。

それと同じように、信者を作ると、「わが信者だ。わが弟子だ」という思いから、信者や弟子に執着し、その自由や行動を縛るようになるのです。それは、様々な事件を起した数々の宗教団体を見れば明らかではないでしょうか。

菩薩様が「法徳寺には、信者は一人もいないし、信者は作らない」と仰ったお言葉には、非常に深い意味があるのです。

救われる上で、信者であるか否かは、全く関係ありません。大切な事は、苦しみから救われる事であり、一刻も早く苦しみの因縁を解く事です。

来る者は拒まず・去る者は追わず

法徳寺は、「来る者は拒まず、去る者は追わず」で、誰でも自由にお参りして頂いたらいい御寺です。

「来る者は拒まず、されど去る者は許さず」と云って、信者の自由を束縛し、様々なトラブルを起した宗教団体が多々ありますが、これは、信者を作ると必ずそうなっていくという戒めであり、救いを求める人々への良い教訓です。

お釈迦様が『法句経』というお経の中で、「茅(かや)をつかみそこぬればその手を傷つくるが如く、誤れる求道は人を破滅にみちびく」 と、厳しく戒めておられますように、悩み苦しみの中で、藁(わら)をもつかむ思いですがった教えが茅であったら、何といたしましょう。それこそ、迷路に入るばかりか、人生の破滅となるでしょう。

宗教というものは、自己の旨(むね)とすべき教えですから、仏法以外に何かを求めて救われるものでは決してありません。

教えを求め、救いを求める時には、念には念を入れ、正しい教えを求めなければならないとのお釈迦様のお諭しです。

私がしたいのはそんな事ではない

以前、九州へ行かれたお方が、菩薩様に、「九州へ行きましたら、新興宗教がたくさんの信者さんを集めて活動してみえました。私、それを見て、うらやましくて仕方がありませんでした。早く法徳寺さんにもそうなって頂きたいと思います」という電話をして来られた事があります。

その時、菩薩様は、

「私はそんなつもりで、法を説いているのではありません。私がしたいことはそんな事ではありません。
どれだけ信者を作ったとか増やしたとか、そんな事は一切関係ありません。
増やしたい教団があれば、どんどん増やして頂いたらいいのです。
私は、ただご縁のあった方が一人でも二人でも、ここへ来て頂いて、救われて帰って頂いたらそれでいいのです。信者を作ろうとか、そんな事は一切考えておりません。
作りたい教団があったら、どんどん作って頂いたらいいのです」
とおっしゃって、その方を厳しく戒められましたが、そのお言葉で、その方は、もう二度と、信者を作るとか増やすというような事を仰らなくなりました。

菩薩様が、信者というものに一切執着しておられなかった事を物語るエピソードの一つですが、今も私達の脳裏に深く刻まれています。

人みな同行二人

よく「信者を作らないし、一人の信者もいないとすれば、毎月お参りされている方々は一体どういうお方なのですか」と聞かれますが、法徳寺に御縁があってお参りされる人々は、すべて御同行(ごどうぎょう)であります。

御同行とは、文字通り、救いを求めて共に修行する仲間という意味です。

昔から、「旅は道連れ、世は情け」と言われますが、私達はみな救いを求めて共に旅をする道連れであり、法徳寺は、互いに助け合い、励まし合いながら一緒に求道の旅をしている人々が集う憩いの場所であります。

四国八十八ヶ所霊場へ行きますと、道行くお遍路さんの菅笠に「同行二人」(どうぎょうににん)と書かれているのをご覧になった事があると思いますが、これは、四国霊場の険しい山坂を、お大師様と共に、そしてお遍路さん同士が互いに道連れとなって、苦しい試練の山坂を越えて行きましょうという意味です。

しかし、同行二人は、四国霊場だけの道連れではありません。

私達の人生で、ご縁となった方は、みな同行二人、つまり御同行(ごどうぎょう)なのです。

夫婦、親子、兄弟姉妹、親戚、友人は勿論、電車で袖触れ合った人でさえ、みな御同行の一人です。御縁があって法徳寺へお参り下さった皆様も、みな御同行です。

勿論、そこには、上も下もなく、誰もがみな御縁に導かれて法徳寺へお帰り頂き、法のみ光に触れて救われて帰って行かれる御同行なのです。

ですから、法徳寺には、御同行はおられても、信者は一人もいないのです。

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真の奇蹟とは(1)

何故人は奇蹟を求めるのか

お釈迦様が私たちの人生を称して四苦八苦と説かれたのは、遥か2500年以上も前ですが、2500年経った今でも、四苦八苦の人生は、私たちの目の前に厳然と存在し、苦しみのない人生を生きる事が如何に難しいかを教えています。

新聞を開けば、痛ましい事件や事故の記事が紙面を覆い、交通戦争という言葉がまだ決して死語になっていない事を思い知らされます。

また、医学の未発達な時代に生まれ、その恩恵を受ける事の出来なかった先人達に比べ、高度な医療の恩恵を受けている私達ですから、誰もがみな病気とは無縁の健康的な生活を送っているかと言えば、決してそうではなく、病院へ行けば、まるで朝の通勤ラッシュかと見間違えるほど大勢の病人で溢れています。

更に温暖化の影響によると思われる異常気象や環境の悪化によって、人類は多大なる犠牲を強いられようとしていますし、いまも世界のどこかで戦乱が続き、多くの尊い人命がその犠牲になっています。

また戦乱のない平和なわが国でさえ、この11年間、自殺者が3万人を越えるという深刻な状況が続き、大きな社会問題となっています。

要するに、人類の叡智を結集して、あらゆる分野で様々な研究開発が進められ、かつて不可能と言われていた事が次々と実現する夢のような時代が到来していても、変ったのは目に見える現象世界だけであって、悩み苦しむ存在としての人間の本質そのものは、お釈迦様やお大師様の時代と、まったく何も変っていないのであります。

いつの時代になっても、乱れた世を正し、苦しむ人々に救いのみ手を差し伸べて下さる救世主の到来を待ち望む声が絶えませんが、それは、悩み苦しむ存在としての人間の本質が、全く変わらないからであり、四苦八苦の人生が厳然と存在し続けているからに他なりません。古歌に、

 世は乱れ 人の心の失せしとき
   菩薩あらわす 天地のはからい

と詠われていますように、人類史上、人々を悩み苦しみから救わんがため、世界三大宗教と言われる仏教、キリスト教、イスラム教を開かれたお釈迦様、イエス・キリスト、マホメットをはじめ、先覚者と言われる数多の聖者がこの世へ出られたのは、決して偶然ではありません。

まさにそれは、乱れた世が、お釈迦様やイエス・キリストやマホメットを求めた結果であり、救いを求める人々の声に、天地が応えられた証と言えましょう。お大師様然り、各宗派のお祖師様また然りであります。

そして平成の世に、普門法舟大菩薩様が出られた事も、決して偶然ではなく、平安時代の再来ではないかと言われる乱れた平成の世相を考えれば、平成という時代が菩薩様を求めた結果と言っていいでしょう。

グアダルーペの奇蹟

人々が、いつの世も変らず救世主の到来を待ち焦がれるのは、救世主が奇蹟(不可思議)を現すお力をお持ちだからであり、救世主が現れて、乱れたこの世を正し、苦しむ人々を救って下さる事を、いつの世の人々も願っているからに他なりません。

奇蹟とは、「常識では考えられない神秘的な出来事」「既知の自然法則を超越した不思議な現象で、宗教的真理の徴と見なされるもの」(広辞苑)の事を言いますが、人々の願いに応えるかのように、救世主が奇蹟を現わされた聖地が、世界各地に数多存在しています。

その中でも特に有名なのが、イエス・キリストの聖母マリアが出現して奇蹟を現わされたと言い伝えられるカトリック三大聖地、メキシコのグアダルーペ(1531年12月9日聖母マリア出現)、フランスのルルド(1858年2月11日聖母マリア出現)、そしてポルトガルのファティマ(1917年5月13日聖母マリア出現)であります。

グアダルーペの奇蹟が起きたのは、1531年(今から478年前)12月9日であります。

改宗インディオのファン・ディエゴが、メキシコ・シティ郊外のテベヤックの丘を通りかかったとき、彼の母語のナファトル語で「私の小さな子」と呼ぶ声が、どこからともなく聞こえてきました。

ディエゴがその声に導かれるように丘の上へ上って行くと、目の前に、褐色の肌をした黒髪の女性が現れ、「私は聖母マリアです。この場所に教会が建てられるよう望んでいます。あなたは、これからメキシコ・シティへ行き、司教に私の願いを伝えて下さい」と告げたのです。

そこで、ディエゴは言われた通り、メキシコ・シティへ行き、司教に会い、ありのままを伝えましたが、司教は、ディエゴの話など全く信じようとしませんでした。

ディエゴは再び聖母マリアのところへ戻り、誰か別の人間を使者に立てるよう望みましたが、聖母は「この使命を与えられたのはあなたなのです」と告げて、再び司教のところへ行くよう命じました。

そこで翌日、ディエゴが再び司教を訪れると、司教は「その話が本当なら聖母から証拠の品を貰って来なさい」と言うので、聖母のところへ戻って司教の言葉を伝えると、聖母は「あすの朝、その証拠を得ることができるでしょう」と告げました。

その日、ディエゴが家へ帰ると、一緒に暮らしている叔父のベルナルディーノが、重い病気に罹って瀕死の状態に陥っていたので、いよいよ叔父ともお別れかと思い、叔父の臨終に備えて司祭を呼びに行ったところ、聖母が彼の行く手で待っていて「あなたの叔父さんなら大丈夫です。丘に戻りなさい。そして、そこに咲いている花を摘んで、司教に見せなさい」と告げたのです。

こんな12月の寒い時期に花なんて咲いている筈がないと不思議に思いながら、テベヤックの丘へ行くと、そこには、聖母マリアの言う通り、バラの花が一面に咲いていたのです。

ディエゴはその花を摘んで自分のティルマ(サボテンの繊維で作られたマント)に包んで、司教のところへ持って行き、彼の目の前で開くと、ティルマの表面には、ディエゴが見た聖母の姿が描かれ、それを見た司教は、即座にディエゴの話を信じたのであります。

ディエゴが喜び勇んでわが家へ帰ると、叔父のベルナルディーノの病状はすっかりよくなり、更に聖母マリアが叔父の前にも姿を現わして、「グアダルーペの聖母」と呼ぶように告げたと言うのです。

その後、テベヤックの丘には、聖母マリアの希望通り立派な教会が建てられ、また20年ほどでボロボロになる筈の、聖母マリアが描かれていたティルマ(マント)は、400年以上経った今でも、ボロボロにならずに残っているそうです。

ルルドの奇蹟

グアダルーペの奇蹟から327年後の1858年(今から151年前)、フランスのルルドで起こったのが、ルルドの奇蹟です。

ルルドは、フランスとスペインの国境近くの、ピレネー山脈のふもとにある人口2万人足らずの小さな町ですが、今では年間数百万人が訪れるカトリック最大の巡礼地となっています。

1858年2月11日、14才の娘マリー・ベルナデッタ・スビルーが、友達と薪拾いに行ったマッサビエル洞窟で聖母マリアの姿を見たのが、聖母マリアと対面した最初と言われています。

ベルナデッタは、その後同じ洞窟で17回も聖母マリアと対面しますが、2月25日の9回目の対面の時、聖母マリアから「泉の水を飲み、その水で顔を洗えば奇蹟が起きる」と告げられるのです。

しかし、聖母が指し示したところに水はなく、不思議に思ったベルナデッタがその場所を手で掻いていると、水がしみでてきました。

勿論、その水は泥水で、とても飲めるようなものではありませんでしたが、ベルナデッタは聖母マリアから言われたように、その水を手ですくって飲み、顔を洗いました。

ところが、やがてその場所から、こんこんと水が湧き出るようになり、泥水であった泉は、湧き水によって、見る見る内に透き通っていったのであります。

最初の内、ベルナデッタは、目の前に現れた女性が聖母マリアとは知りませんでしたが、3月25日の16回目の対面の時に、この女性が「無原罪の宿り」と名乗ったので、その意味を神父さんに尋ねたところ、聖母マリアを示す名前である事が分り、その時初めてその女性が聖母マリアである事を知ったのです。

また最初はベルナデッタの言う事をまったく信じなかった神父や周囲の人々も、「無原罪の宿り」という言葉を聞いて、聖母マリアの出現を信じるようになりました。

何故なら、「無原罪の宿り」という言葉は、14才のベルナデッタが知る筈のない教会用語だったからです。

ベルナデッタの話を聞いた人々は、連日マッサビエル洞窟に集まり、ベルナデッタが聖母マリアと対面する真剣な姿を見て、奇蹟を信じるようになりました。

3月1日には、右手の指が動かなかったカトリーヌ・ラタピ・シュアという39歳の女性が、泉に手を入れると瞬時に指が動くようになり、また3月3日には、黒内障でほとんど失明状態だった54歳の石工の男性、ルイ・プリエットの右目が、泉の水で洗うと瞬時に見えるようになり、その後も、その水を飲んだり、水に浸かったりした者の病が治癒したり、足の立たなかった者が歩けるようになるという奇蹟が次々と起き、ルルドは一躍世界有数の聖地となったのであります。

その後ベルナデッタは、1866年にヌヴェール愛徳修道会のサン・ジルダール修道院に入って外界から遮断された静かな一生を送り、1879年、肺結核によって35才の若さで亡くなるまで、一度もルルドには行きませんでした。

そればかりか、病の床にある時も、周囲が幾らルルドの水を勧めても、「あの水は私のためではない」と言って断わり続け、二度とルルドの水を飲む事はありませんでした。

亡くなってから30年後に墓を掘り返したところ、驚くべきことに、ベルナデッタの遺体は少しの腐敗も硬直もなく、皮膚もバラ色に輝いて、まるで生きているようであったと言います。

遺体は修道服を着たままの状態で、今もなおサン・ジルダール修道院に安置されています。

聖母マリアは、ベルナデッタに「私は、この世ではなく、後の世であなたを幸せにする事を約束します」と告げたと言われますが、今も生きているかのような遺体を見ていますと、まさに聖母マリアが約束した「後の世の幸せ」を象徴するものではないかという気がいたします。

ベルナデッタの遺体の前で、誰もが手を合わせ、祈る姿こそ、ベルナデッタが約束された後の世の幸せの徴なのかも知れません。

ファティマの奇蹟

ルルドの奇蹟から更に59年後の、第一次世界大戦中の1917年(今から92年前)、ポルトガルのファティマという小さな村で起こったのが、ファティマの奇蹟であります。

1917年5月13日、貧しい羊飼いの牧童であるフランシスコ(9歳)、ヤシンタ(7歳)の兄弟、そして従姉のルシア(10歳)の三人が、いつものように丘の上で羊の番をしていると、突然空に閃光が走り、卵形の物体が降下してきたかと思うと、三人の目の前に聖母マリアが姿を現したのであります。

そして、それから五ヶ月間、毎月13日の同じ時刻にこの場所に現れることを告げて消えたのですが、村に帰ってこの事をみんなに話しても、誰も信じようとしませんでした。

翌月の6月13日、うわさを聞いた数十人の見物人が予告された時刻にその場所へ行くと、やはり卵型の光る物体が降下してくるのが見えたので、何か不思議な現象が起きているらしいという事は分ったのですが、聖母マリアの姿は、三人の子供にしか見えませんでした。

この日、聖母マリアが告げたのは、フランシスコとヤシンタがまもなく天国へ召されるという事でしたが、その預言通り、フランシスコは1年10ヶ月後の1919年4月4日、ヤシンタも2年8ヶ月後の1920年2月20日に病気で亡くなりました。

三回目の7月13日には、10月13日にすべての人々が子供たちの言う事を信じるような奇蹟を見せるという事と、後世「ファティマの大預言」と呼ばれるようになる三つの預言が、聖母マリアからルシアに告げられました。

最後の出現日である10月13日になると、ファティマは、奇蹟を一目見ようと、国内やヨーロッパ全土から集まった七万人を越える大群集で膨れ上がりました。

その日も、いつものように聖母マリアとルシアとの対話が始まりましたが、群集には聖母の姿も見えず、声も聞こえません。

しかし、ルシアが突然「見て!太陽を見て!」と叫ぶと、それまで降っていた雨が突然やみ、太陽が七色に輝いて、七万人の大群集が見ている上空で跳ね回って乱舞したかと思うと、急降下して、人々の上に落下する直前でぴたりと止まったのであります。

群集は恐怖のあまり、一時パニック状態に陥ったと伝えられていますが、不思議な出来事は10分余りで終り、集まった人々は、その一部始終を目撃し、新聞にも大きく報道されたのであります。

三人の子供の中で、聖母マリアの話を聞く事が出来たのはルシアだけで、他の二人は姿しか見る事が出来ませんでしたが、ルシアが聞いた聖母マリアの「三つの預言」とは、一つ目が、第一次世界大戦がまもなく終結するというものでした。

二つ目は、第二次世界大戦が始まり、核兵器が出現するという預言でしたが、三つ目の預言は、口外することを許されず、三人のうちの唯一の生存者であるルシアとローマ法王のみが知るとされていました。

ところが、最近になって三つ目の預言は、1981年のローマ法王パウロ二世の狙撃事件を預言したものだったことが発表されました。

ルシアは、その後、修道女(シスター)となって、四年前の2005年2月13日、97歳で亡くなりました。

真の奇蹟とは(2)

奇蹟に秘められた神の本心

カトリック三大奇蹟と言われる出来事を見ると、いずれも科学では解明出来ない、まさに奇蹟と呼ぶにふさわしい出来事である事が分かりますが、これらの三大奇蹟を通して分かる事がもう一つあります。

それは、人間というものが、自分の肉眼で見たり、耳で聞いたりした事以外は容易に信じようとしないという事実であります。

最初は、三大奇蹟の主人公であるディエゴやベルナデッタやルシアの言う事を、周囲の人々はおろか、神に仕える司祭さえもが信じませんでした。

何故なら、聖母マリアの姿を見、その声を聞いたのは、本人たちだけであり、周囲の者は誰一人として、その姿を見る事も、その声を聞く事も出来なかったからです。

ところが、最初は全く信じなかった周囲の人々が、やがて彼らの言う事を信じるようになるのです。

何故なら、聖母マリアが奇蹟(不可思議)を現わされたからです。

もし聖母マリアが奇蹟を現わされなければ、いくらディエゴやベルナデッタやルシアが、聖母マリアが現れて、啓示を受けたと言ったところで、周囲の人々は誰一人として信じなかったでしょう。それどころか、気狂い扱いしたに違いありません。

だからこそ、聖母マリアは奇蹟を現して、ディエゴやベルナデッタやルシアが決して嘘を言っていない事を証明されたのです。

この事実から、聖母マリアが奇蹟を現わされたのは、決して奇蹟を現わすことが目的ではなく、自分の眼に見え、耳に聞こえる事以外は信じようとしない人々の心のまなこを開かせんが為である事が分ります。

私たちは、ともすると、指の動かなかった人の指が動くようになり、失明寸前の人の眼が見えるようになる奇蹟だけに目を奪われて、奇蹟を現わす事が、さも神仏の本心であるかのような錯覚に陥りがちですが、奇蹟を現わす事が、神仏の本心ではなく、見えない世界が厳然と存在し、神仏が実在する事を、万人に知らしめんがためであり、奇蹟は、私たちの心を神仏に向けさせるための方便(手立て)なのであります。

大切な事は、奇蹟が現わされるか否かではなく、見えない世界の存在を信じられるか否か、肉眼に見えない神仏の存在を信じ切ることが出来るか否かなのです。

ルルドの奇蹟を否定したベルナデッタ

伝えられるところによれば、ルルドの奇蹟の聖女、ベルナデッタは、後に聖母の出現について尋ねられ、「ルルドに聖母が現れ、奇蹟の泉があるというあの話に本当のことは何もありません」と、否定したと言います。

また彼女自身は、自分の見た女性が聖母マリアであると言ったことは一度もなく、聖母の出現についても積極的に語ることを好まなかったと伝えられています。

何故彼女は自らルルドの奇蹟を否定するような事を言ったのでしょうか。

ベルナデッタが聖母に出会ってから六年後の1864年に、ルルドの洞窟に聖母マリア像が作られ、更にこの話がヨーロッパ全土に広まっていったため、大勢の巡礼者が奇蹟の水を求めてルルドへ集まってくるようになります。

そして八年後の1866年にルルド大聖堂が建てられ、ローマ法王がミサを開き、ルルドは一躍、カトリック教会最大の巡礼地となるのですが、その同じ年に、ベルナデッタは一人静かにルルドを去り、外界から遮断されたヌヴェール愛徳修道会の修道院へ入るのです。

大聖堂が立ち、カトリック最大の巡礼地となったルルドの輝かしい姿を見ながら、生まれ故郷ルルドを去るベルナデッタの心の奥底は知る由もありませんが、彼女の眼に映ったものは、何だったのでしょうか。

もしかしたら、奇蹟が起きなければ神の実在を信じられない人々や、ただ奇蹟の水だけを追い求めて神への祈りを忘れている人々の浅ましい姿だったのではないでしょうか。

「あなたたちは、奇蹟が起きなければ神を信じられないのですか。奇蹟よりも、もっともっと大切なものがあるのではありませんか」

ベルナデッタは、きっとそう言いたかったに違いありません。

あの水は私のためではない

立派な大聖堂が建ち、ローマ法王がミサを開かれたその年に、一人静かにルルドを離れ、修道院へ入った彼女は、病の床にある時も、周囲が幾らルルドの水を勧めても、「あの水は私のためではない」と言って断わり続け、二度とルルドの水を飲む事はなかったと言います。

「あの水は私のためではありません」

彼女は、どのような思いで、この言葉を口にしたのでしょうか。

常識的に考えれば、「あの水は、手が動かなかったり、眼が見えなかったり、不治の病で苦しむ人々に与えられた奇蹟の水なのですから、私が飲むべき水ではありません」という意味に解釈する事も出来るでしょう。

しかし、私には、彼女がそのような気持ちで言ったとはどうしても思えないのです。

もしそのような気持ちで言ったのであれば、「ルルドに聖母が現れ、奇蹟の泉があるというあの話に本当のことは何もありません」と、ルルドの奇蹟を否定するような事を、彼女自身が言う筈は絶対にないからです。それでは、奇蹟を願いながらルルドを訪れる人々の心を、自ら裏切ることになります。

ルルドの奇蹟を体験した彼女自身が、「あの話に本当のことは何もありません」と、自らその体験を否定するという事は、よくよくの事であります。

一体彼女は、ルルドの奇蹟を否定する事によって、何を伝えたかったのでしょうか。

もし、ルルドの水によって不治の病が治癒する事が真の救いであるならば、肺結核に侵され、病の床にあった彼女にとっても、必要な水であった筈です。

でも、彼女は、周囲の勧めにも拘らず、二度とルルドの水を口にする事はなかったのです。何故でしょうか。

それは、ルルドの水を飲まなくても、救われていたからです。

神を信じ切る事によって、救われていたから、肺結核に侵されていても、ルルドの水など必要としなかったのです。

私は、彼女が「あの水は私のためではない」と言ったのは、真の奇蹟とは何か、真の救いとは何かを、不治の病が治癒しなければ救われないと考えている人々に伝えたかったのではないかと思うのです。

彼女はきっと、

「あの奇蹟の水を飲まなくても私は救われています。何故なら、神を信じ切っているからです。あの水は、神を信じ切れない人のための水なのです。だから、あの水は私のためではないのです」

と言いたかったに違いありません。

ルルドの聖女、ベルナデッタには、すでに奇蹟が起きていたのです。

しかし、その奇蹟をもたらしたのは、ルルドの水ではありませんでした。

彼女の神に対する深い信心が、彼女に真の奇蹟をもたらしたのです。肺結核に侵されていても、「あの水は私のためではない」と言い切れたのは、その為です。

ルルドの奇蹟を目の当たりにした彼女が35年間の短い生涯で伝えたかった本当の奇蹟とは、「神を信じ切る」という、たったそれだけの事だったのではないでしょうか。

合掌

真の奇蹟とは(3)

菩薩様が奇蹟を現わされた意味

奇蹟(不可思議)と言えば、普門法舟大菩薩様が、身代り升地蔵菩薩のお姿となって流しておられる代受苦の御汗である汗露水をお授け下さるお計らいの中で、まだ湧出していない地下水を、洗面台に置いてある歯ブラシ立てやガラスコップに溜められた不可思議な出来事も、現代科学では到底解明出来ない奇蹟の一つと言っていいでしょう。

しかし、聖母マリアがそうであるように、菩薩様もまた、奇蹟を現わす事が目的で、このようなお計らいをなさった訳ではありません。

自分の肉眼に見えるものしか信じようとしない人々、自らの心を省みず、奇蹟が起きて不治の病が治る事だけしか考えない人々に、み仏の真の救いとは何かを教えたいが為、このような手立てを取られたのです。

人々が見えない世界の存在を心眼で観じ取り、み仏の実在を信じるようになれば、奇蹟など必要ありません。

何故なら、神仏を信じ切る心が、奇蹟以上の奇蹟、つまり真の救いをもたらすからです。

勿論、ルルドの泉で起ったような、指の動かなかった人の指が動くようになり、失明寸前の人の眼が見えるようになる事も奇蹟には違いないでしょうが、指が動こうが動くまいが、眼が見えようが見えまいが、それ以前に心しなければならない大切な事が一つあります。

それは、どのような境遇にあっても動じない心、つまりみ仏を信じ切れる心に到達することであり、その心こそが真の奇蹟であり、また奇蹟の水をもたらす源泉なのです。

ルルドの聖女、ベルナデッタが、自らルルドの奇蹟を否定する事によって伝えようとした事も、きっとその事だったに違いありません。

神仏を信じ切る心に到達する事が真の奇蹟であり、グアダルーペやルルドやファティマで現わされた奇蹟は、神仏が仮に現された奇蹟に過ぎません。

奇蹟を見なければ、見えない世界の存在も、神仏の実在も信じられない人々の心のまなこを目覚めさせんが為の、やむにやまれぬ方便なのです。

奇蹟を現わされるから神仏が実在し、奇蹟が現わされないから神仏の実在が信じられない人々がいるからこそ、奇蹟という方便が必要になってくるのです。

菩薩様が、まだ湧出していない地下水を、ガラスコップに溜められたのも、生き仏と成られた菩薩様の救いが信じられない人々のまなこを目覚めさせんがための大慈大悲の方便に他なりません。

菩薩様が現わそうとしておられる本当の奇蹟とは、因縁に苦しむ一人でも多くの人々を救済することであり、その為には、どうしてもみ仏を信じ切る心を成就する事が欠かせないからこそ、敢えて奇蹟を現わされたのです。

菩薩様の最後のお言葉

菩薩様は平成2年4月13日に御入定なさいましたが、御入定される前に残されたお言葉が二つあります。

一つは「有り難い」というお言葉、もう一つは、「み仏はただ信じるのではなく、信じ切らなければならない。お大師様は、ただ信じるのではなく、信じ切らなければならない」というお言葉です。

何故菩薩様は、この二つのお言葉を御入定前に言い残されたのでしょうか。

菩薩様のご生涯が、苦難に次ぐ苦難の連続であった事は、知る人ぞ知るところでしょうが、信仰に入るまでの人生は言うに及ばず、人生のどん底に堕ちられた昭和45年7月7日の大試練によって信仰の道に入られてからの人生も、決して平坦なものではなく、まさに山あり谷ありの連続でした。

そして、人生最大とも言うべき試練が、御入定される直前に訪れたのですが、その時、口を突いて出てきたのが、先ほど仰った二つのお言葉なのです。

この二つのお言葉を通して、菩薩様は私達に何を教えようとしておられるのでしょうか。

「有り難い」という言葉は、言うまでもなく、救われた人が口にする言葉です。この言葉を見れば、菩薩様が救われておられた事は間違いありません。

しかし、菩薩様がこの言葉を口にされたのは、代受苦という、誰も真似の出来ない大行をしておられた時なのです。

この言葉が、そのような時に言える言葉でない事は明らかでしょう。

このような場合、私達が口にするのは、絶望の言葉、挫折の言葉、み仏に対する不信の言葉、恨み辛みの言葉であって、感謝の言葉ではありません。

ところが、菩薩様の口からは、「有り難い」という感謝の言葉、救いの言葉が出てきたのです。

何故そのような人生最大の苦難を受けておられた菩薩様の口から、「有り難い」と言う救いの言葉が出てきたのでしょうか。

その疑問を解く鍵が、その時におっしゃったもう一つのお言葉です。

 み仏はただ信じるのではなく、信じ切らなければならない。
 お大師様は、ただ信じるのではなく、信じ切らなければならない。

このお言葉を見れば、菩薩様が、お大師様をただ信じておられたのではなく、信じ切っておられた事がよく分かります。

私たちへのメッセージ

もし菩薩様が、人生最大の苦難を受けておられる時ではなく、人生最大の喜びの中で「有り難い」とおっしゃったのであれば、私は、菩薩様が、お大師様を信じ切っておられたと、確信を持って言い切れる自信がありません。

何故なら、そのような状況下であれば、誰でも「有り難い」と言えるからです。

しかし、菩薩様が「有り難い」とおっしゃったのは、代受苦行という人生最大の苦難を受けておられる時なのです。

普通では絶対に言えない状況下で、絶対に言える筈のない「有り難い」という言葉を口にされたのです。

何故、「有り難い」と言えたのでしょうか。

その答えは一つしかありません。即ち、菩薩様は、お大師様を信じ切っておられたのです。信じ切っておられたから、「有り難い」という救いの言葉が、ごく自然に口を突いて出てきたのです。

「菩薩様がお大師様を信じ切っておられた事に間違いはありません」と、確信を持って皆さんにお伝え出来るのは、その為です。

いま思えば、菩薩様は、御入定されるに当り、救いを求めるすべての人々に、いかなる苦難や試練に遭遇しても、「有り難い」と言い切れる救いの道は何かを、ハッキリお示し下さっていたのです。

それが、「ただ信じるのではなく、信じ切らなければならない」というお言葉です。

救われたいと願うなら、そして、六道輪廻の人生に終止符を打って、仏の世界に生れ変りたいと願うなら、ただ信じるのではなく、信じ切らなければならない、そして、その信心を絶対に捨ててはならない事を、菩薩様は、自らその身を以ってお示しになられたのです。

この二つの言葉は、まさに菩薩様から私たちへの最後のメッセージであり、菩薩様を生き仏と信じるすべての人々が、片時も忘れてはならない御遺訓と申せましょう。

真の奇蹟とは(4)

人生を変えた菩薩様との出会い

菩薩様の御遺訓を深く心に刻み、奇蹟を起こされたお方が、高知県室戸市にお住まいの小笠原さんです。普門法舟大菩薩様と小笠原さんとの出会いは、昭和59年11月に遡ります。

菩薩様が衆生済度のため、奥様の寿法様と共に四国へ行かれた折、室戸岬にある「御厨人窟(みくろど)」へ立ち寄られ、案内所でご奉仕をしておられた小笠原さんに、『救済』誌のお接待をされたのが始まりでした。

当時ご主人が事故により脳挫傷の大怪我をされて働く事が出来ず、大変辛く苦しい日々が続いていた小笠原さんにとって、菩薩様との出会いは、まさに闇夜を照らす一すじの光明であったに違いありません。

小笠原さんは、お大師様、菩薩様への報恩感謝の気持ちを込め、昭和61年12月21日の納め大師に、ご主人と二人で摘まれた野辺に咲く水仙の花をお供えされました。

その真心に応えて菩薩様が小笠原さんに贈られたのが、次の一首であります。

 春待つ日 室戸の香りそのままに
   大師に捧ぐ 真心の水仙(はな)

─「春待つ日」とは、小笠原さんが真心(仏性)を成就し、救われてみ仏の下へ帰ってくる日を待っていますよという事を、厳しい冬をじっと耐えて花開く春を待つ水仙に譬えたのだよ─

菩薩様は、こうおっしゃっておられましたが、この時すでに菩薩様は、小笠原さんがこれから乗り越えなければならない数々の試練を見通しておられたのかも知れません。

否、そればかりか、試練を乗り越えて真心を成就され、やがて開創されるであろう高野山法徳寺へ救われて帰って来られる小笠原さんの晴れ姿までもが、そのご霊眼に映し出されていたに違いありません。

この献花の御浄行は平成15年の納め大師まで一度も途絶えることなく、実に18年の長きに渡って続けられたのですが、水仙の花は一ヶ所に群生しているのではなく、あちらこちらに咲いているのを、ご主人と二人で数輪ずつ摘んで集められたとの事で、ご奉納の裏には大変なご苦労があったと思います。

小笠原さんにとって、高野山法徳寺へ帰るまでの道のりは、厳しい山あり谷ありの連続でしたが、今思えば、その事を見通しておられたからこそ、菩薩様は、この歌を前以て贈られ、「この歌を、自らの心の灯火としなさい。真心の灯を絶やさず、自らが進むべき道を照らしなさい」と教え示されたのではないでしょうか。

失明の危機を乗り越えて

菩薩様から贈られた法歌を深く心に刻み、救われて魂のおやざと「高野山法徳寺」へ帰るための試練の旅が始まったのですが、小笠原さんを待っていたのは、認知症を患った高齢のお姑さんの介護という、誰も真似の出来ない、また誰も代わる事の出来ない厳しい行でした。

世間の常識から言えば、介護されるお姑さんが、介護する小笠原さんに対し「苦労をかけて申し訳ないね」と言って、懺悔と感謝をするのが当然でしょうが、小笠原さんは、「病む人間より病まれる人間に罪業がある」との菩薩様の教えを深く信じ、「お母さんは、私の心を救う為に病んで下さっているんです。私が罪深いために、お母さんにご苦労をかけているんです。懺悔と感謝をしなければならないのは、私の方なんです。お母さん、申し訳ありません」と言ってお姑さんに手を合わせ、罪の懺悔と感謝の真心で、介護の誠を尽されたのです。

しかし、その行は日増しに厳しくなり、ついに体力の限界を超え、過労の余り一時目が見えなくなるという失明の危機に直面されましたが、それでも真心の灯を絶やす事なく、ついにお姑さんの介護を成し遂げられたのです。

世間ではよく「介護する者も地獄、介護される者も地獄」と言われますが、小笠原さんが真心の介護を尽されたお陰で、お姑さんはこの世の極楽をご覧になったのです。

お姑さんが、最後に心からのお礼を言って、あの世へ旅立たれた事は言うまでもありませんが、小笠原さんもまた「お母さん、ご苦労をおかけしました。有難うございました。来世もお母さんの娘にならせて下さい」と言って、旅立つお母さんに頬ずりしながら、感謝の涙で見送られたのであります。

思いもよらぬご主人の突然の訃報

小笠原さんが、お姑さんの介護を通して真心を成就されたことはもはや疑う余地がないと思われましたが、小笠原さんの救いを願うお大師様、菩薩様のみ心は、一切の妥協を赦さぬものでした。

生き仏様は、小笠原さんの魂を根底から救わんが為、私たちの想像を絶する更なる試練を与えられたのであります。

それは、最愛のご主人の交通事故死という、まさに小笠原さんにとって人生最大の試練でした。

しかも、その試練は、高野山法徳寺が発足する僅か一ヶ月前の平成16年3月18日に、突然訪れたのです。

お姑さんの介護をはじめ様々な苦難の山坂を乗り越えて真心を成就され、魂のおやざとへ帰る日を楽しみにしておられた矢先の出来事だけに、小笠原さんの胸中は察するに余りありますが、いま思えば、このご主人の死こそ、真心を成就し、生き仏の子に生まれ変って帰ってきて欲しいと願うお大師様、菩薩様の、究極のお計らいだったのです。

お大師様、菩薩様は、お姑さんの介護の中で失明の危機に直面しながらも絶やす事のなかった真心の灯を、ご主人の死に直面してもなお点し続けられるかどうか、魂のおやざとへ帰る直前になって再度小笠原さんに問われたのです。

普通の信仰の持ち主なら、恐らくここで挫折していたに相違なく、真心の灯を点すどころか、事故を起こした相手の加害者を責め、憎しみを以て恨みの言葉を浴びせかけていたでしょう。そればかりか、お大師様、菩薩様を仇に思い、信仰不信に陥っていたに違いありません。

しかし、それは、今までいかなる試練に遇っても真心の灯を点し続け、失明の危機をも乗り越えてお姑さんの介護を成し遂げられた小笠原さんご自身が、自らその灯を消してしまう事になるのです。

しかし、小笠原さんの魂の奥底には、菩薩様から贈られたあの歌がしっかり刻まれていました。

 春待つ日 室戸の香りそのままに
   大師に捧ぐ 真心の水仙

─「春待つ日」とは、小笠原さんが真心を成就し、救われてみ仏の下へ帰ってくる日を待っていますよという意味でもあるのだよ─

菩薩様のこの言葉を、人生最大の試練に直面されても、小笠原さんは決して忘れてはおられませんでした。

ご家族やご親族の皆様が見守る中、小笠原さんは、弔問に訪れた加害者の若者を責めるどころか、優しい言葉をかけてその肩をそっと撫で、傷ついている若者の心をいたわったのです。

誰よりも傷ついている筈の小笠原さんが、憎むべき加害者を真心で暖かく包み、救いの御手を差し伸べられたのであります。

菩薩様が待っておられた春が訪れ、真心の水仙が花開いた瞬間でした。しかも、二度と枯れる事のない真心の水仙が花開いたのです。

誰も予想していなかったその光景に、その場に居合わせた誰もが、小笠原さんの深い信心と慈悲の真心に心打たれ、感動したことは言うまでもありません。

その感動的な光景は、弔問に訪れた会葬者の目にも止まり、その模様は地元の新聞にも掲載されて、多くの読者に感銘を与えたのです。

夫の待つ魂のおやざとへ

まだご主人の喪も明けていない平成16年4月13日、小笠原さんは、姉の久保さんと共に、晴れて高野山法徳寺へ帰ってこられました。

小笠原さんがお姉さんに支えられて、人生最大の苦難を乗り越えて帰って来られるなどとは夢にも思っていなかった私たちは、止めどなく溢れてくる涙を拭いながら、「お大師様、菩薩様、本当に有難うございました」と口ずさみ、何度も何度も菩薩様の御廟「夢殿」に向かって平伏し額ずいておられるお二人の姿を見て、魂のおやざとへ帰って来られた感謝と喜びの涙なのだと思わせて頂いたのですが、実はそれだけの涙ではなかったのです。

最愛のご主人の交通事故死という、尋常の信心では到底乗り越えることの出来ない苦難を、姉妹二人して乗り越えて来られたからこそ、止めどなく溢れ出てきた真心の涙だったのです。

姉の久保さんは、『救済第二十号(高野山法徳寺落慶記念特別号)』の中で─

「よく来た。よく来た。二人揃って一番乗りや」生き仏・普門法舟大菩薩様のなつかしい御法声に、言い尽くせぬ喜びと感謝の涙があふれ、妹と二人で号泣致しました。

と書いておられますが、菩薩様が「一番乗りや」とおっしゃったのは、ただ菩薩様の待つ魂のおやざとへ誰よりも早く帰って来られたからではありません。

誰よりも早く真心(仏性)を成就して帰って来られたお二人だからこそ「一番乗りや」というお言葉を頂けたのであり、だからこそ、言い尽くせぬ喜びと感謝の涙があふれてきて止まらなかったのではないでしょうか。

当日、小笠原さんが座られた右隣りの席が空いており、小笠原さんはすぐに「この席は、私を導いて先にお大師様、菩薩様の待つ魂のおやざと・高野山法徳寺へ救われて帰った主人の為に、菩薩様が用意して下さった席だわ」と悟られ、ご主人を偲びながら、涙ながらに感謝と真心の祈りを捧げられたのです。

小笠原さんの脳裏には、今まで歩んできた苦難の道のりが、走馬灯のように次々と浮かんでは消えていった事でしょう。

そして、どの道もこの道もみな、おやざとへ帰る日の為にみ仏が与えて下さった試練の道であり、み仏に救われながら歩んできた救いの御足跡であった事を、慈悲のふところに抱かれているご自身の姿を見つめながら、しみじみと回顧なさったのではないでしょうか。

だからこそ、み仏の御宝前に額ずき、久保さんと二人して溢れる涙を拭いながら、一心に拝まずにはいられなかったのではないかと思うのです。

真心を成就した証

しかし、お大師様、菩薩様が用意しておられたお計らいは、それだけではありませんでした。真心を成就して帰って来られる小笠原さんの為に、思いも寄らぬ証を用意して待っていて下さったのであります。

それは、御同行のお一人である山中さんが造られた水仙の押し花でした。

山梨の地に高野山法徳寺が発足する四ヶ月前の平成15年12月21日、小笠原さんご夫妻が奉納して下さった最後の水仙を、ご同行の皆さんに数輪ずつお持ち帰り頂いたのですが、三重県からお参りの御同行、山中さん、堀さん姉妹は「最後の水仙だから、この美しい姿をいつまでも残したい」と思われ、押し花にする事を思いつかれたのです。

そして、造った押し花を三つの額に入れ、二つは姉妹がそれぞれ頂かれ、残る一つを小笠原さんに手渡すため、4月13日、法徳寺へ持って帰られたのです。

この押し花は、真心を成就した証として小笠原さんに渡すため、菩薩様が通力を以て山中さん、堀さん姉妹に造らせた押し花だったのですが、当の山中さんも堀さんも、自分たちが造った押し花が、小笠原さんの真心の証となる事など知る由もありません。

また小笠原さん、久保さん姉妹も、菩薩様が、真心を成就して帰ってくる小笠原さんの為に、水仙の押し花を用意して待っていて下さるとは、夢にも思っておられなかった事でしょう。

まさにそれは、通力をお持ちの生き仏様だからこそ現わすことの出来た神業でございました。

こうして小笠原さんご夫妻がご奉納なさった最後の水仙は、永遠に枯れる事のない押し花として生まれ変わり、小笠原さんの下に帰ってきたのですが、この押し花こそ、真心を成就して帰ってこられた小笠原さんのお姿そのものだったのです。

何故なら、水仙の花が二度と枯れることのない押し花に生まれ変ったように、小笠原さんもまた、いかなる試練の嵐に遇っても枯れる事のない真心の水仙を咲かせられ、仏の子となって菩薩様の元へ帰って来られたからです。

菩薩様は、この押し花を通して、きっとこう語りかけておられるに違いありません。

「この美しい水仙の押し花が、あなたの姿ですよ。あなたの真心の水仙は、もう何があっても枯れません。どうかいつまでも真心の水仙を咲かせ、傷ついた人々の心を優しく包んであげて下さい。それがあなたの使命であり、私の願いでもあるのですよ」

そのことを証明するかのように、その後、報恩感謝の気持ちを込めて小笠原さんがお供えされたご浄施は、未来永劫、夢殿の菩薩様の御宝前を彩る一対の常花として生まれ変わったのです。

水仙のご奉納は平成15年の納め大師が最後となりましたが、これからはご主人と二人で、末代までも菩薩様のお膝元を、枯れる事のない真心の水仙で照らし続けて下さるのです。

真の奇蹟とは(5)

法舟菩薩様との深きご縁

それにしても不思議なのは、水仙のご奉納が18年目で終わるや否や、まるでご奉納が終わるのを見届けたかのように、ご主人が小笠原さんの前から忽然と姿を消された事であります。しかも、それは、高野山法徳寺へ帰られる僅か一ヶ月前の出来事でした。

ご奉納が終わった事と、法徳寺へ帰る日を間近に控えてのご主人の死、そして、真心を成就した証として用意された水仙の押し花。

私には、これら一連の出来事が、単なる偶然ではなく、凡てが生き仏様の段取りの中で計らわれている出来事であったような気がしてなりません。

特にご奉納が18年目で終わり、同じ18日にご主人が亡くなられたという事から見ても、小笠原さんの救済は、この18と言う数字に象徴されるお方とのご縁を抜きにしては考えられません。

18日は、観音様のご縁日であり、18という数字に象徴されるお方と言えば、観音様以外にはおられません。

私たちは日々の勤行によく観音経をお唱えしますが、観音経は正式には「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」と申します。

そして、普門と言えばすぐ脳裏に浮かぶのが、普門法舟大菩薩様であります。

菩薩様は、お大師様より「入定せよ」とのご示現を頂かれ、紀州高野山と同じ山号を頂く高野山法徳寺へ御入定なさって生き仏となられた、まさに平成の弘法大師とも仰ぐお方ですが、菩薩様が御入定なさった平成2年4月13日は、虚空蔵菩薩さまのご縁日であります。

そしてその日は、旧暦の3月18日に当っていましたが、18日は観音様のご縁日なのであります。

亡くなられたご主人は、「明星院****居士」という戒名を頂かれ、院号の「明星」は、虚空蔵菩薩様を現わし、この院号は、旅立たれたご主人が今おられる浄土の名を現わしています。

では、ご主人がおられる「明星院」と名付けられた浄土は、どこにあるのでしょうか。

院号に虚空蔵菩薩様を現わす「明星院」の名を頂き、ご命日が観音様のご縁日であるとなれば、ご主人は、虚空蔵菩薩様と観音様のご縁日に御入定された法舟菩薩様に導かれて旅立たれたと考えなければならないでしょう。

そうだとすれば、ご主人がおられる「明星院」とは、法舟菩薩様が御入定しておられる所、即ち、魂のおやざとである高野山法徳寺以外にはありえません。

小笠原さんは、『救済第二十号(高野山法徳寺落慶記念特別号)』の中で、

御読経の最中、ふと頭を上げると「明星」という字が目に入り「ああ、主人は明星となって光り輝き、虚空蔵菩薩様と一体になって、いつまでも私たちを照らして下さるんだ。主人は、今回の自動車事故というお計らいを通して私の魂を救う為、尊い命を捧げて下さったみ仏様だったんだ」そんな思いが頭をよぎりました。

と書いておられますが、まさにご主人は虚空蔵菩薩様、否、と言うより、虚空蔵菩薩様のご縁日に御入定なさった法舟菩薩様に導かれて魂のおやざとである高野山法徳寺へ帰られ、菩薩様と一体になって、明星のみ光で小笠原さんを照らし続けておられるに違いありません。

ご主人が旅立たれた真相

信仰のないお方は「何故み仏は小笠原さんのご主人を交通事故から守れなかったのか」と思われるかも知れませんが、み仏のお計らいは余りにも奥深く、凡夫の浅知恵では到底計り知れません。

仏法の鏡を通してお計らいを深く悟れば、ご主人が何故このような形で亡くなられたのか、その真相がハッキリ見えてまいります。

小笠原さんが、救済誌の中で「お大師様は、昭和58年の脳挫傷事故の時に、本来なら亡くなっていた主人の命を助けて下さり、私を信仰に導いて難行苦行を体験させ、私の心が救われる日まで、21年間、主人との暮らしを続けさせて下さったに違いありません。私は、そう確信致しました」と書いておられますように、脳挫傷事故から21年目、そして菩薩様が水仙の法歌を贈られてから18年目にしてご主人が旅立たれたのは、小笠原さんの救いを見届けられたからでありましょう。

ご主人は、21年前、脳挫傷事故から奇蹟の生還をされましたが、ご主人が九死に一生を得られたのは、小笠原さんを救うという大切なお役目があったからです。そして21年目にして漸くそのお役目を果たす時が訪れたのです。

表面だけを見れば、ご主人は交通事故で亡くなられたように見えますが、生き仏様の眼から見れば、ただの事故死ではなく、小笠原さんの心に真心の水仙を花開かせる為の究極のお計らいだったのであります。

み仏は、その人を救う為には、いかなる妥協もされません。

「同じ死でも、交通事故死ではなく、病気や他の死でもいいのではないか」と思われるかも知れませんが、それでは小笠原さんは真心を成就出来ないのです。

小笠原さんが、「もし主人が事故ではなく病気で亡くなっていたら、恐らく真心は成就出来ていなかっただろうと思います。相手の方がいたからこそ、その人を拝む心になれたのです」と、述懐しておられるように、加害者の存在があったからこそ、仇となる因縁を拝む事によって、真心の花を咲かせて宿世の因縁を解く事が出来たのです。

遇わなければならない因縁の相手

ご主人の死がなければ、加害者の若者と出会う事もなく、因縁の相手との出会いがなければ、小笠原さんの背負っている因縁を解く事も出来なかったでしょう。

私は、小笠原さんに差し上げた手紙の中で、

「加害者の若者は、小笠原さんが自ら背負っている因縁を解く為には、どうしても遇わなけれ ばならない因縁の相手であり、その若者と遇わなければ、因縁を解くことが出来なかったのだと思います。
だからこそ御主人は、自らの身を捨てて、その若者と会わせて下さったのです。小笠原さんは、因縁の相手に真心で接し、周囲の人々を真心でつつまれました。(中略)
  小笠原さんは、その難行苦行に耐え、見るも綺麗な真心の水仙を咲かせられました。
その真心の水仙は、若者の家族を救い、小笠原さんの家族を救い、そして小笠原さん自身を救ったのです。
輪廻の業を更に積み重ねるか、それとも因縁を解いて末代までの幸せの道を切り開くか、道は二つに一つですが、小笠原さんは、人生最大の難所を真心で乗り超えられ、末代までも続く幸せの道を切り開かれたのです」

と書かせて頂きましたが、こうして真相を悟ってみれば、ご主人は、交通事故で亡くなられたけれども、小笠原さんの因縁を解く為に、自らの身を捨てて、因縁の相手と遇わせて下さったみ仏の化身であった事が、よく分るのであります。

小笠原さんが『救済誌』の中で「主人は、今回の自動車事故というお計らいを通して私の魂を救う為、尊い命を捧げて下さったみ仏様だったのだと思います」と書いておられるのはその為であり、この一文こそ、小笠原さんがそこまで深く悟られた何よりの証です。

もし小笠原さんの信仰が、ご主人の死に直面して、み仏に不信を抱いたり、み仏を仇に思うような信仰であれば、恐らくみ仏はこのようなお計らいはなさっておられなかったでしょうし、小笠原さんの救いも、もっと遠のいていた筈です。

「ご主人の死に遇っても、小笠原さんならきっと、み仏の深い慈悲心を悟ってくれる筈だ。そして相手の青年を真心で優しく包んであげられるに違いない」という確信があったからこそ、お大師様、菩薩様は、ご主人に、小笠原さんを救うお役目を与えられたのです。

そしてご主人は、立派にそのお役目を果たされたのであります。

ですから、救われた小笠原さんの姿をご覧になり、また自らも救われて、お大師様、菩薩様の下へ帰られたご主人の喜びは、想像するに余りあります。

その証が、ご主人に授けられた「明星院」という院号ではないかと、私は思います。

小笠原さんを救うというお役目を立派に果たされ、菩薩様の待つ魂のおやざと「高野山法徳寺」へ帰られたご主人に最もふさわしい院号と申せましょう。

菩薩様が、法徳寺が発足した当日、小笠原さんの右隣りにご主人の席を用意するというお計らいをしておられたのも、救われて帰って来られた小笠原さんと二人で、法徳寺の発足を祝って欲しかったからに違いありません。

合掌

真の奇蹟とは(6)

榎さんのお役目

こうして一連のお計らいを見てきますと、そこには、小笠原さんを救わずにはおかないお大師様、菩薩様の深い慈悲心が注がれている事が分かりますが、菩薩様を信じ切って救われたお方が、もう一人おられます。

それが、和歌山県海南市からお参りしておられた今は亡き榎さんです。

菩薩様は、『心に思いしこと』という文書の中で、

「みんな幸せになる。みんな私のところへ帰って来る事に決まっている」

とおっしゃっておられますが、その事を身を以て実証されたのが、榎さんです。

榎さんは、10年間、月参りを欠かされた事がないというほど、篤くお大師様、菩薩様をご信仰なさったお方で、救いを求め、仏法を求める事に関しては、誰にも負けない強い信仰心の持ち主だったと言ってもいいでしょう。

そのようなお方ですから、他の誰よりもご利益を頂かれて当然でございますが、榎さんは、晩年、癌の病を頂かれ、抗癌剤の治療も受けず、癌と共に生きながら、そのご生涯を閉じられました。

このような場合、世間の人々が言うご利益とは、不治の病である癌が奇蹟的に治る事を言うのでしょうが、この事実だけを見れば、榎さんには何のご利益もなかったかのように見えます。

しかし、大切な事は、癌が治ったか否かではなく、榎さんが救われていたか否かであります。

それは、肺結核に侵されていたルルドの聖女、ベルナデッタの病が治ったか否かよりも、救われていたか否かが大切であるのと同じ事で、ベルナデッタは、肺結核で三十五年間の短い生涯を閉じましたが、救われていなかったかと言えば、決してそうではありません。

それは、ヌヴェール愛徳修道会のサン・ジルダール修道院で、修道服に包まれて眠るベルナデッタの生きているかの如き美しい遺体を見れば、明らかでしょう。

榎さんが救われていた証

榎さんもまた肉体は癌に侵されていても、その魂は救われていたに違いありません。

或る時、榎さんのお知り合いの方が、お見舞いに行かれ、榎さんにこうおっしゃって、お見舞いを渡されたそうです。

「榎さん、今まで10年間月参りをして、一生懸命信仰してきたのに、こんな病気になってしまってなあ。これで何か美味しいものでも買って食べて」

その言葉を聞かれた榎さんは、「あなた、まだそんなことを考えているの。悪いけど、そのお見舞い、持って帰って下さらない」と、厳しい口調でおっしゃったそうです。

そこでその方が、「悪かったわ。あなた、みんなの為にご苦労して下さっているのにね」と言って、榎さんにお詫びなさったところ、榎さんは、嬉しそうな表情で、「ありがとう。そのお見舞い、喜んでいただくわ」と、おっしゃったそうです。

榎さんがその方に厳しい口調でおっしゃったのは、きっとご縁の深いお方だから、一日も早く救われて欲しい、思い違いに気付いて欲しいと思われたからではないでしょうか。

「私は、ただ何の理由もなく、癌の病気を頂いているんじゃない。家族や親戚の人々を救うために、み仏様からこの大行を頂いているの。どうしてその事を分かってくれないの」

榎さんは、きっとそう言いたかったに違いありませんが、このお二人の遣り取りを見れば、榎さんが、すでに救われ、菩薩様と一体であったことがよく分ります。

榎さんをお加持する菩薩様

榎さんが亡くなられる二ヶ月ほど前の平成9年2月3日の夕方、大阪市の御同行、久保さんが、千巻経をあげておられた時、不思議な夢をご覧になられました。

その日、久保さんはとても疲れておられ、千巻経を唱えながら、眠くなったという感覚が全然ないまま、ウトウトとなさったそうで、その間に、不思議な夢をご覧になられたのです。

お参りされた榎さんがいつも座られる場所があり、そこで横になって休んでおられる榎さんに向って、久保さんが一生懸命にお祈りしていると、小さな小さなみ仏様が、榎さんの足の方からすーっと入ってくるような感じがするそうです。

そして、榎さんの足の所は、すーっと通り抜けていくのですが、お腹の辺りになると、中々前へ進めないので、久保さんは、早く治って欲しいと祈りながら一心に般若心経を唱え、またその小さなみ仏様たちも、一生懸命榎さんの病を治そうとするのですが、どうしても、お腹から向こうへ越せません。

み仏様がお腹の辺りに大勢いらっしゃるのをご覧になった久保さんは、「これはまだ私のお経が足りないからだ」と思われ、また一心に般若心経をお唱えされるのですが、どうしても先へ進めないそうです。

そのみ仏様たちが、今度は頭の方から榎さんの体に入ってゆき、健康なところは、手も胸も、すーっと通るのですが、お腹のところまで来ると、やはりどうしても先へ進めないので、久保さんは、「まだ私のお祈りが足りないのだ。もっと祈らなければいけない」と思い、懸命に数珠を繰りながら祈っていると、そこへ大きな龍が舞い降りて来たのであります。

久保さんは「龍だ!」と思われたのですが、その時は、まだその龍が菩薩様である事に気付いておられません。

しかし、よく見ると、その龍が、菩薩様の御遺告の巻物を口にくわえていたので、その時初めてその龍が菩薩様である事に気付かれた久保さんは、涙ながらに「有り難い。菩薩様、どうか榎さんを助けて下さい」と祈りつつ、かすかに目を開けると、その龍が三本の爪で巻物をしっかり握り、そこに寝ている榎さんに寄り添うようにして、榎さんのお腹を一生懸命にお加持しているそうです。

一心に祈っておられた久保さんが、またかすかに目を開けると、その龍が、いつの間にか灰色の作務衣(さむえ)を着た菩薩様に姿を変え、榎さんのお腹を一生懸命にお加持しておられたそうです。

すると、いつの間にか、榎さんの体が真っ直ぐになり、お腹もぺちゃんこになったので、「あー、よかった。よかった。菩薩様、有り難うございます」と言いながら、涙を流しているところで目覚められたそうです。

龍に生れ変った榎さん

榎さんは、それから2ヶ月余り後の平成9年3月28日に亡くなられましたが、久保さんは、榎さんが亡くなる3日前の3月25日にも、不思議な夢をご覧になられました。

小さな龍が、右の方から左の方へ大空高く昇っていくのを見た久保さんは、「龍が北の方角に向かって翔んでいく」と思われたそうです。

そして、龍のお腹を見ると柿色をしていたので、「あの龍は女の龍だわ」と思われたのですが、その夢をご覧になった三日後に、榎さんが亡くなられ、その事を久保さんにお伝えしたところ、久保さんはすぐに、「三日前に夢に見たあの女の龍は、榎さんだったのだ」と直感されたのであります。

昔から、人の魂は亡くなる三日ほど前に肉体から離れると言われていますが、夢にご覧になったのが、榎さんが亡くなられるちょうど三日前だったので、久保さんは、北の方角へ飛んでいった女の龍は榎さんに間違いないと直感されたのであります。

問題は、女の龍が飛んでいったところは何処かという事です。

久保さんは、その龍が右の方から左の方へ大空高く昇っていくので、北の方角に向かって翔んでいくと思われたのですが、榎さんが住んでおられた海南市は大阪の南に位置しており、大阪に住んでおられる久保さんから南方にある海南市を見て、龍が翔んでいった右の方から左の方角で、北の方角と言えば、中部・関東地方であり、菩薩様に御縁のあった榎さんが向かった所は、菩薩様が御入定なさった山梨県の法徳寺開創の聖地以外には考えられません。

榎さんが龍の身に生まれ変わられたという事自体、菩薩様と一体になられた何よりの証であり、この事実から考えても、龍に生まれ変わられた榎さんが、菩薩様が御入定しておられる高野山法徳寺開創の聖地へ翔んでいかれた事は間違いないでしょう。

榎さんが頂かれた真の救い

菩薩様が残された三千首余りの御法歌(道歌)の中に、通力について詠った歌が、一首だけあります。

 息吹龍 虚空を翔けて昇り龍
   天眼天耳 示現自在通

「双龍示現曼荼羅」と名づけられたこの御法歌に詠われている息吹龍、昇り龍とは、勿論、生き仏となられた菩薩様の事ですが、Eさんが、菩薩様と同じ龍の身に生れ変られたという事実から分る事は、榎さんが、生き仏様と一体の身に生れ変るという、この上もなく尊い果報を頂かれたという事です。

外見だけを見れば、榎さんはただ癌で亡くなられただけのように見えます。世間には、癌で亡くなられる方が大勢おられますが、外見は、その方たちと何ら変わりありません。

ですから、榎さんのお知り合いの方のように、「10年間毎月、法を求めてお参りしたのに、不治の病に侵されて、これでは信仰した甲斐がないではないか」と思われる方がいても不思議ではありません。真相を知らない人は、みな同じような思いを抱かれるでしょう。

しかし、榎さんは、お大師様、菩薩様を信じ切って、癌と共に生き続けられ、真の救いとは何かを身を以て私たちに示して下さったのです。その救われた証が、龍の身に生れ変って、お大師様、菩薩様の元へ帰っていかれたという事実です。

龍の身に生れ変り、菩薩様と一体となられた榎さんは、これから菩薩様と共に、多くの人々から拝まれていかれるに違いありません。

何が有り難いと申しましても、悩み苦しみから救われた多くの人々から、生き仏様と共に拝まれる以上の幸せは他にございません。

世間の人々が願う現世利益と、榎さんのように、お大師様、菩薩様に見込まれて使命をまっとうされたお方が頂かれるご利益(救い)とは、根本的に違う事を、榎さんは身を以て教えてくれたのです。

菩薩様は、「みんな幸せになる。みんな私のところへ帰って来ることに決まっている」というお言葉を残されましたが、榎さんは、そのお言葉に間違いのない事を、身を以て証明して下さったのであります。

真の奇蹟とは(7)

私は弘法大師と一体です

ご主人を交通事故で失くしながら、加害者の青年を真心で包まれた小笠原さん、そして癌と共に生きて生涯をまっとうされ龍の身に生まれ変わって菩薩様の下へ帰られた榎さん、このお二人が身を以て示して下さったのは、菩薩様を、お大師様と不二一体の生き仏様と信じ切るところに救いの原点があるという事です。

私は、今まで、様々な機会を通して、菩薩様がお大師様と不二一体である証を、皆さんにお伝えして来ました。

例えば、菩薩様が四国二十一番札所・太龍寺で、旅の御僧(お大師様の変化身)から「普門法舟」の名前を授けられた事、法徳寺に「高野山」という山号を付けていかれた事、お大師様より「入定せよ」との示現を頂かれて御入定なさった事、「汗露水」をお授け下さった事など、菩薩様がお大師様と不二一体である証は、枚挙にいとまもありません。

しかし、改めて考えてみますと、菩薩様がお大師様と不二一体の生き仏であると信じ切る上において、これらの様々な事例や証は、本来必要ないものとも言えましょう。

何故なら、すでに菩薩様自ら、何度も、「私は弘法大師と一体ですよ」とおっしゃっておられるからです。

 空海の 心の内に咲く花は
   弥陀よりほかに 知る人ぞなし

私たちは今まで、「この歌が私の全てです」という菩薩様のお言葉を、何度お聞きしたか分りません。「この歌が私の全てです」というこのお言葉は、私たちが生き仏と信じ仰ぐ菩薩様がおっしゃったお言葉なのです。

だとすれば、菩薩様が、お大師様と不二一体の生き仏であると信じ切る上で、この言葉以上に信じ得る証など他にあろう筈がありません。このお言葉だけで十分とも言えましょう。

生き仏と成られた菩薩様のお言葉ですから、これはもうお経そのものです。お釈迦様のお言葉を集めたものが、所謂仏教経典ですが、菩薩様が残していかれたお言葉もお経です。御法歌もお経であり、「みんな幸せになる。私の元へ帰って来る事に決まっている」という言葉もお経であり、「私は弘法大師と一体ですよ」という言葉もお経です。

今もお話したように、菩薩様自ら、「私は弘法大師と一体です」とおっしゃっておられるのですから、その言葉に間違いのあろう筈がありませんし、これ以上に信じられる証など他にありません。菩薩様のお言葉が信じられなくて、他のどのような証が信じられるのでしょうか。

つまり、菩薩様の救いを信じ切る上においては、菩薩様のお言葉だけで充分であり、そのお言葉以上に信じられるものなど、何もないのです。

真実か偽りか

ですから、私が、いくら数多の証を挙げて、菩薩様がお大師様と一体である事をお伝えしたところで、それによって、菩薩様がお大師様と一体である事の信憑性が増す訳ではありませんし、証が無いから、それだけ信憑性が疑われる訳でもありません。

つまり、信じ切る心を成就する上においては、証しの有無は、必ずしも必要不可欠なものではないという事です。

それは神仏が現わされる奇蹟と同じで、奇蹟の有無によって神仏の実在性が左右されるようなら、それこそ、神仏の実在性は疑わしいと言わなければならないでしょう。

にも拘らず、私が、今まで様々な証を挙げてきたのは、それを糧として、一刻も早く信じ切る心を成就して欲しいと願う老婆心からに過ぎません。

神仏が、様々な奇蹟(不可思議)を現わされるのも同じで、神仏を信じ切る上で、奇蹟があるか否かは、必ずしも必要不可欠な事ではなく、奇蹟を見せた方が、信じ易いから、奇蹟を現わされるだけであって、その為の方便に過ぎないのです。

ルルドの聖女、ベルナデッタが、肺結核に侵されながら、奇蹟の水を飲まなかったのは、その事を伝えたかったからではないでしょうか。

ですから、私が様々な証を示して説明したから、それによって菩薩様の言葉の信憑性が証明されたり、示さないから疑わしくなる訳ではなく、証があろうが無かろうが、真実は真実、偽りは偽りなのです。

要するに、菩薩様のお言葉は、真実か偽りか、白か黒か、そのいずれかであります。

そして、菩薩様がすでにご自身の口からそうおっしゃっておられるのですから、これ以上確かな証はございません。菩薩様が、「私は弘法大師と一体ですよ」とおっしゃっておられるのですから、その事に間違いはないという事です。

そして、「みんな私のところへ帰って来る事に決まっている」とおっしゃっておられるのですから、必ずそうなるという事です。

あとは、そのお言葉を信じ切れるか否か、それだけであります。

奇蹟は救いではない

世間には、何かが邪魔をしているから救われないとか、救われないのはこの世に神も仏もいないからだとおっしゃるお方が時々おられますが、救われないのは、神仏がいないからでも、他に原因があるからでもなく、まだ神仏を信じ切れていないからです。

しかし、中々神仏を信じ切れない人々がいる事も事実であり、だからこそ、神仏は、様々な奇蹟や霊験や不可思議を現わされて、神仏が実在する事を人々に知らしめ、「神仏を信じ切ってすべてをゆだねなさい」と、救いのみ手を差し伸べておられるのです

世の中には、救いと奇蹟を同一視して、奇蹟が起きなければ神仏を信じないと、自らの信心をも省みず、奇蹟が起きる事ばかり願っている人々がおられますが、奇蹟が起きなければ救われないのであれば、この世で救われる人は一人もいないでしょう。

奇蹟が救いなのではありません。

救いは、神仏を信じ切れるか否かで決まる天地の理(ことわり)であり、そうなると決まっている約束事です。

奇蹟が救いであれば、救いは私たちの手の届かない神仏の手の内にある事になりますが、奇蹟が救いではありませんから、救いは私たちの手の届くところ、即ちわが心の内にある事になります。

ベルナデッタが求めたもの

大切な事は、奇蹟が起きるか否かではなく、神仏を信じ切る心を成就出来るか否かであります。

そして、その事を身を以て示してくれたのが、ルルドの聖女、ベルナデッタであり、ご同行の小笠原さんや榎さんであります。

ベルナデッタが、病の床にありながら、周囲が勧めるルルドの水を飲まなかったのは、前にもお話したように、ベルナデッタにとって、病が治るか治らないかは、救われる上において、そう重要な事ではなかったからです。

もし勧められるままにルルドの水を飲んでいれば、奇蹟が起って病が癒されたかも知れませんし、奇蹟など何も起らず、病は癒されなかったかも知れません。

いずれにせよ、それは、ベルナデッタにとってどちらでもよい事だったのです。

何故なら、彼女にとって大切な事は、奇蹟が起きるか否かではなく、救われるか否かであり、その為に神を信じ切る事が出来るか否かだったからです。

彼女が求めていたものは、病気を治してくれる奇蹟の水ではなく、魂の救いだったのです。敢えて「あの水は私のためではない」と言い切ったのは、その為です。

彼女が求めた真の救いは、奇蹟によってではなく、神を信じ切る心によってしか得られない事を、彼女は悟っていたのかも知れません。

彼女にとって奇蹟は、神を信じ切る上において、何の意味も持たなかったのです。

ベルナデッタが、聖女と呼ばれるに相応しい女性だった事は、間違いありませんが、それは、奇蹟の水を授けられた女性だからではなく、神への絶対的な信心を成就した女性だからであります。

救われる上において必要なものは、奇蹟の水ではなく、信じ切る心である事を、自ら身を以て示したからです。

ベルナデッタの使命

彼女は、聖母マリアが預言した通り、救われました。

しかし、もたらされたのは救いだけではありませんでした。聖母マリアは彼女に、奇蹟をも、もたらされたのであります。

その奇蹟とは、言うまでもなく、ヌヴェール愛徳修道会のサン・ジルダール修道院に今も眠る清らかな遺体であります。と言うより、今も生き続ける彼女の美しい聖なる姿であります。

勿論、この美しい聖なる姿は、彼女が求めたものではなく、聖母マリアが与えられたものですが、聖母マリアがベルナデッタに与えられたのは、ただ生きているかの如き美しい姿だけではありませんでした。

表面的に見れば、ベルナデッタの深き信心に応えて、聖母マリアが美しい姿を与えられたように見えますが、聖母マリアが彼女に与えられたものは、その美しい姿を通して、未だ神を信じ切れない人々を目覚めさせ、神の世界へ誘う使命だったのです。

「あなたにいつまでも朽ち果てる事のない美しい姿を与えましょう。それによって、神を信じ切れない人々を導いてあげて下さい」

聖母マリアは、きっとそうベルナデッタに告げておられるに違いありません。

真の奇蹟を起こすのは誰か

ベルナデッタの美しい姿を見た時、人々は否が応でも神の存在を認めざるを得ないでしょう。このような奇蹟を現わせるお方は、神以外にはおられないのですから。人々は、彼女の美しい姿に、神の奇蹟と神の実在を実感する事でしょう。

しかし、百年以上経っても朽ち果てる事のない美しい遺体を神の奇蹟と呼ぶなら、その奇蹟をもたらした彼女の神への絶対的な信心こそ、真の奇蹟と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。

そして、神仏への絶対的な信心を真の奇蹟と呼ぶなら、真の奇蹟を起こせる者は、神でも仏でもなく、私たち一人一人なのであります。

「誰でも奇蹟を起こせるのですよ。奇蹟はあなたたちの手の届くところにあるのですよ。ベルナデッタを御覧なさい。彼女がその証人ですよ。私は、みんなが奇蹟を起こす日を待っているのですよ」

聖母マリアは、全人類にそう告げておられるのではないでしょうか。

神仏の願いとは

「信じる者は救われる」

これが、古今東西の聖者が、一人の例外もなく指し示しておられる永遠の真理であります。

そしてそれは、聖母マリアが美しいベルナデッタの遺体を通して教えようとしておられる真理でもあり、またベルナデッタがルルドの奇蹟を否定してまでも伝えたかった真実ではないでしょうか。

またそれは、菩薩様が、小笠原さんや榎さんを通して私たちに教えておられる真理でもあります。

御法歌『頼め彼岸へ法のふね』の中に─

 目には見えねど 神仏
   案じ疑い するけれど
   信じることこそ 救いなり

という一首がありますが、すべての宗教は、この一首に尽きると言っても過言ではありません。

そして、すべての人々が、信じ切る心を成就して、神仏の下へ帰って来る日を一日千秋の思いで待っていて下さるのが、聖母マリアであり、お大師様、菩薩様であり、一切の神仏なのです。

菩薩様は、「小笠原さんが真心(信心)を成就し、救われて私の下へ帰ってくる日を待っていますよ」との願いを込めて

 春待つ日 室戸の香りそのままに
   大師に捧ぐ 真心の水仙(はな)

という法歌を贈られましたが、この願いは、Oさんだけではなく、すべての悩み苦しむ人々への願いでもあるのです。

しかし、その願いとは裏腹に、いつの時代にも、奇蹟が起きなければ神仏を信じる事の出来ない人々、否、奇蹟が起きていてさえ神仏を信じ切れない人々のいかに多い事でしょうか。

聖母マリアが、ベルナデッタやディエゴやルシアを通して、何が真の奇蹟かを示され、またお大師様、菩薩様が、小笠原さんや榎さんを通して、何が真の救いかを教えようとしておられるのは、決して理由なき事ではないのです。

 み仏の 法の縁にあうときは
   信じることこそ 心安けれ

 如何ほどに 奇蹟霊験あったとて
   信心ひとつが 救いとなるなり

合掌

しあわせさがしー青い鳥の行方(1)

なぜ人は幸せになれないのか

人は誰でもみな、幸せになりたいと願っています。恐らく、幸せを願わない人など一人もいないでしょう。

でも、世の中を見れば、誰も彼もが、様々な悩みを抱えながら生きています。いまは悩み苦しみがなくても、明日からの事は誰にも分かりません。お釈迦様が、悩み苦しむ人々に救済の御手をさしのべられたのは、2500年も前ですが、今もなお四苦八苦の人生は、私達の目の前に大きく立ちはだかっているのです。

万人が幸せになりたいと願っているのに、何故すべての人が幸せになれないのか?何故私たちの人生には悩み苦しみが付いてまわっているのか。

この疑問に対し、「幸せなど、もともと存在しないのだ。実体のない陰を追い求めているようなもので、幸せは、人間が描いた幻想に過ぎない」という人もいます。果たして幸せは、人間が勝手に思い描いた幻想なのでしょうか。

青い鳥

モーリス・メーテルリンクが書いた戯曲『青い鳥』は、皆さんもよくご存じだと思いますが、この物語は、クリスマスイブの夜、貧しい木こりの家に生まれた兄のチルチルと妹のミチルが、夢の中で、魔法使いのおばあさんから、娘の病気を治してくれる幸せの青い鳥を見つけてきて欲しいと頼まれ、パンの精や砂糖の精や、イヌやネコや火や水や光の精と一緒に、青い鳥を探す旅に出かけるところから始まります。

二人は、青い鳥を求めて「思い出の国」「夜の御殿」「森の中」「墓地」「幸福の花園」「未来の王国」へ行きますが、「思い出の国」で見つけた青い鳥は、鳥かごに入れると黒い鳥に変わってしまい、「夜の御殿」でつかまえた青い鳥は死んでしまい、「森」では青い鳥をつかまえる事が出来ず、「未来の王国」で見つけた青い鳥は、赤く変わってしまいます。

結局、青い鳥を持ち帰ることが出来ず、家へ帰ってきたところで、二人は目を覚ましますが、そこへ、隣のおばあさんがやってきて、病気の娘が、チルチルの飼っている鳥を欲しがっていると言うので、チルチルが部屋にある鳥カゴの中を見ると、驚いたことに、飼っていたキジバトが、いつの間にか青い鳥に変わっていたのです。

遠くまで探しに行ったけど、幸せの青い鳥はこんな所にいたんだと言って喜んだチルチルは、その鳥をおばあさんにあげるのですが、おばあさんが青い鳥を持って家に帰ると、不思議な事に、娘の病気がすっかりよくなり、二人して、チルチルのところへお礼にやってくるのです。

ここで終われば、この物語はハッピーエンドとなりますが、喜んだのもつかの間、チルチルが餌をやろうとしていると、青い鳥はどこかへ飛んでいってしまうのです。そして、チルチルが、こう呼びかけるところで、この物語は幕を降ろします。

「どなたかあの鳥を見つけた方はどうぞ僕たちに返して下さい。僕たちが幸福に暮らすために、いつかきっとあの鳥が必要になるでしょうから。」

青い鳥のゆくえ

この戯曲は、万人の願う幸せは遠くにではなく、身近な日常生活の中にある事を教える、ハッピーエンドの物語であるかのように考えられていますが、折角見つけた青い鳥が飛び去ってしまう幕切れを見ると、決して世間で言われているようなハッピーエンドの物語ではなく、むしろ幸せを手に入れることの難しさを教えているのではないかとさえ思えてきます。

戯曲の中では、青い鳥が飛び去った理由や行方については何も触れられていませんが、何故青い鳥は何処へともなく飛び去ってしまったのでしょうか。

この最後の結末については、様々なとらえ方があるようです。

「幸せは、いくらつかまえても、手に入れた瞬間、飛び去ってしまうものなのだ」という人もいれば、「幸せの青い鳥にとらわれていると、本当の青い鳥が見えなくなってしまう。目先の青い鳥よりも、もっと大切なものがあり、そこに本当の青い鳥がいるのだ」という人もいます。

また「青い鳥がいることが幸せではなく、青い鳥(幸せ)を求めている事が幸せなのだ」という人もいれば、「自分が幸せと感じたら、それが幸せなのだ」という人もいます。

作家の五木寛之氏は、『青い鳥のゆくえ』の中で、

安易に手に入る幸福とか希望とかいうものは、この世にはないんだ。希望とか幸福とかいうものがどこかに存在しているもののように考えるのはまちがいだ。そんなものはこの世の中どこにもないんだ。人生に希望なんかはじめから用意されてはいないんだ。じゃどうすればいいか。人間は希望がなくては生きていけない。しかしいま、希望の青い鳥は飛んで行ってしまった。じゃ、どうするか。人間は自分の手で青い鳥をつくらなきゃいけない。ひとりひとりが自分の青い鳥を自分で作る。それしか道はないんだ。そうメーテルリンクは、教えたかったのではないか。

と書いておられますが、果たして幸せは何処にも存在しないのでしょうか。もし存在しないとすれば、人々が求めている幸せは一体何なのか。ただの幻想に過ぎないのでしょうか。

青い鳥のゆくえ

幸せは有るのか無いのか?

幸せが有るにせよ無いにせよ、一つだけ確かな事があります。それは、幸せになりたいという願いは、生まれた時から具わっている万人共通の願いだという事です。

そうだとすれば、万人が等しく願っている幸せが、どこかに存在しなければなりません。何故なら、食欲を満たす食べ物が、この世に全く存在しないのに、食欲という本能だけが与えられる事がないように、求める幸せがないのに、幸せを願う心だけが与えられる筈はないからです。

しかし、存在している筈の幸せが、中々見つからないのも事実であり、だからこそ、ある人は「青い鳥など、元々存在しないのだ。幸せは、人間が勝手に思い描いた幻想に過ぎないのだ」と言い、またある人は「幸せは自分で作らなければいけないのだ」と言っている訳ですが、幸せが有るのか、無いのかを考える前に、一つだけ確認しておかなければならない事があります。

それは、万人が求めている幸せの正体です。人々は、何を幸せと考え、その幸せを手に入れる為に、何が必要だと考えているのでしょうか。その確認から、青い鳥のゆくえを探す旅を始めたいと思います。

幸せになるための条件

ご承知のようにお正月になると、全国各地の神社仏閣には、大勢の参拝者が初詣に押し寄せますが、この参拝者の中に、不幸を願ってお参りしている人は、恐らく一人もいないでしょう。すべての参拝者が、幸せになりたいと願い、ご利益を求めてお参りしている筈です。

求めるご利益の中味は、百人いれば百通りの願いがあり、千人いれば千通りの思いがあるように、限りがありません。

一方、その限りない願いに応えるかのように、神社仏閣の受付所には、「身体健全、家内安全、商売繁盛、交通安全、病気平癒、厄除け、子授け、学業成就、合格祈願、諸願成就」などの文字が所狭しと並び、幸せを願う人々が、その前に長蛇の列を作っています。

このお正月風景を見れば、人々が何を幸せと考え、その為に何が必要と考えているのかが、よく分ります。

要するに、人々は、幸せになる為には、ある条件が満たされる事が必要であり、その条件が満たされなければ幸せになれないと考えているのです。

その条件とは、身体が健康であること、家族が平穏無事であること、商売が繁盛すること、交通事故に遇わないこと、病気が治ること、厄年を無事に乗り越えること、子供が授かること、子供の成績が上がること、その他諸々の願いが叶うことです。

では、めでたくこれらの条件が満たされ、願いが叶えられれば、あなたが願う幸せは間違いなく訪れるのでしょうか。残念ながら、これらの諸条件が満たされても、幸せになれるという保証はどこにもありません。

何故なら、それらはみな、諸行無常の世の中では、常に移ろい行くものであり、そこに幸せの依りどころを求めている限り、真の幸せを得る事は絶対に不可能だからです。

例えば、子供のいないご夫婦に、子供が授かれば、今まで欲しいと願っていた子供が授かった訳ですから、生まれた子供は、ご夫婦にとって、まさに幸せを運ぶ青い鳥と言ってもいいでしょう。では、ご夫婦が思い描いた通り、生まれた子供は、将来必ずご夫婦に幸せを運んでくれるのでしょうか。

以前、酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)と名乗る14歳の中学生が、児童を次々と殺傷した事件がありましたが、10代の少年が加害者となる殺傷事件が、もはや珍しくない昨今、子供が必ず幸せの青い鳥になるという保証はどこにもありません。

今年(平成24年)4月23日、京都府亀岡市で、通学途中の小学生と付き添いの保護者の列に、無免許の18歳の少年が運転する軽乗用車が突っ込み、小2年と小3年の児童、そして妊娠中の保護者の3名が死亡、7名が重軽傷を負うと言う悲惨な交通事故がありましたが、 この少年の親も、子供を授かった時は、わが子がこのような悲惨な事故を引き起こすとは、夢にも思わなかったことでしょう。

これらの事例を見ても分るように、授かった子供が、幸せを運ぶ青い鳥となる保証はどこにもないのです。つまり、子供のいない夫婦に子供が授かったとしても、それは、ただ子供がほしいという欲望が一時的に叶っただけで、幸せになれるという保証が得られた訳では決してないということです。

しあわせさがしー青い鳥の行方(2)

六道輪廻の人生

人間には、さまざまな欲望があり、しかも、その欲望には、限りがありません。人々は、様々な手立てを講じて、その欲望を叶えようとしますが、欲望が叶っても、それで欲望が無くなる訳ではなく、欲望が叶えば叶ったで、また新たな欲望が湧いてきます。

つまり、欲望を追い求めている限り、人間は、永遠に欲望の呪縛から逃れる事が出来ず、欲望が叶ったり、叶わなかったり、浮き沈みを繰り返しながら、怒りや憎しみや貪りの世界を作って、苦しまなければならないのです。

しかも、欲望に終わりがないように、欲望の追求によって作る苦しみの世界にも、終わりがありません。叶っても叶わなくても、欲望は、それに満足しませんから、欲望を追い求めている限り、苦しみから逃れるすべはありません。

欲望が叶っても、叶わなくても、苦しみ続けなければならない人間の生き様を、お釈迦さまは「六道輪廻(ろくどうりんね)」と説いておられますが、六道とは、欲望を追い続ける人間が、心の中に作る苦しみの世界を六つに分けたもので、地獄、餓鬼、畜生、修羅(しゅら)、人間、天上の六つを指しています。

六道図

六道の中で最も苦しい世界が地獄界で、悉く自分の思い通りにならず、怒りや憎しみや争いが渦巻き、あらゆる苦しみによって身も心もさいなまれる極苦の世界です。怒りや憎しみの心を抑える事ができない人間が堕ちる世界です。

次の餓鬼界は、有っても欲しい、無くても欲しい、人にあげるのも惜しいという、欲しい惜しいの貪欲(むさぼり)の世界で、足りる事を知らない強欲な人間が堕ちる世界です。

畜生界は、自分が欲しいと思ったものは、どんな手段を使ってでも手に入れようとする自我我執(じががしゅう)の世界で、自分の事しか考えない利己的な人間が堕ちる世界です。

修羅界は、人の事が妬ましく、不足不満の心で愚痴ばかりこぼしている愚痴、嫉妬の世界で、許す心を持たない人間が堕ちる世界です。

人間界は、欲望が叶ったり叶わなかったり、泣いたり笑ったり、苦もあれば楽もある世界です。

最後の天上界は、欲望が満たされて、何もかも自分の思い通りになり、有頂天になっている世界で、一見すると、他の五つの世界に比べ、いかにも幸せそうな世界のように見えますが、天上界に居られるのは、欲望が満たされている間だけで、欲望が満たされなくなれば、たちまち他の五つの世界に堕ちてゆかなければなりません。

つまり、そこで得られる幸せも楽しみも、因縁によっていつ不幸や苦しみに変わるかも知れない一時的な幸せに過ぎませんから、天上界も、決して幸せが永遠に続く安楽な世界ではないのです。

無くても苦しみ、有っても苦しみ

四苦八苦の中に、求めるものが得られない「求不得苦(ぐふとっく)」という苦しみがありますが、では求めるものが得られたら、もう苦しみはなくなるのでしょうか。

残念ながら、求めるものが得られても苦しみがなくなる訳ではなく、得られたら得られたで、またそこから新たな欲望が生まれ、果てしない苦しみの連鎖が続いてゆくのです。

このような人生を称して、お釈迦様は「四苦八苦」と説いておられますが、病気になればなったで苦しみ、病気が治って健康になればなったで、またそこから新たな欲望が生まれ、果てしない苦しみの人生が始まるのです。

子供のいないご夫婦は、子供が欲しいと言っては苦しみ、子供が生まれたご夫婦は、子供が病気で亡くなった、事故や事件で大怪我をしたと言っては、また苦しまねばならないのです。

結局、私たちの人生は、無くても苦しみ、有っても苦しみ、得られなくても苦しみ、得られても苦しまなければならず、果てしのない六道輪廻の連鎖から抜け出さない限り、本当の幸せを得ることは出来ないのです。

此岸の幸せから彼岸の幸せへ

『法句経』の中に、次のような言葉があります。

数多き人々のうち、彼岸に達するは、まこと数少なし。あまたの人は、ただ此の岸の上に、右に左に彷徨(さまよ)うなり。

幸せになる為には、あれも必要、これも必要と考え、欲望の赴くままに罪を作り、右往左往しているのが、六道を輪廻している人々の姿ですが、果たして、幸せになる為には、あれもこれも必要なのでしょうか?

実を言いますと、幸せになる為に必要なものなど何もないのです。何故なら、私たちはすでに、幸せになる為に必要なものを神仏から過不足なく授けられているからです。

にもかかわらず、幸せになるには、まだあれも必要、これも必要と、欲望の赴くままに貪り追い求め、あらゆる罪を作り、果てしなく続く苦しみの世界をさまよい続けているのです。

だとすれば、苦しみの原因は一つしかありません。すなわち、まだ迷いの夢から目覚めていないということです。

勿論、迷いの夢の中にも、幸せは存在します。それは、先ほどからお話している、様々な条件が満たされて得られる幸せです。

しかし、迷いの夢の中で得られる幸せなど、諸行無常の嵐の前では、たちどころに崩れ去るまぼろしのごとき幸せ(此岸の幸せ)に過ぎません。

私達が求めるべきは、迷いの夢の中で見る陽炎のような此岸の幸せではなく、決して崩れ去ることのない彼岸(極楽)の幸せであり、永遠で普遍的な幸せです。そして、その幸せを得る為には、迷いの夢から目覚める以外に道はないのです。

目覚め(気付き)の大切さ

チルチルとミチルが、「思い出の国」や「夜の御殿」「森の中」「未来の王国」で見つけた青い鳥が、黒い鳥や赤い鳥に変わったり、死んでしまったりしたのは何故でしょうか。

それは、見つけた青い鳥がみな、諸行無常の嵐によって崩れ去る此岸の幸せであり、迷いの夢の中に一時的に生まれたまぼろしのごとき幸せに過ぎなかったからです。

メーテルリンクが、青い鳥を探す二人の旅を、あえて夢の中の出来事として描いたのには、深い意味があります。

つまり、彼は、迷いの夢から目覚めなければ、本当の幸せ(青い鳥)は永遠にみつからない事を教える為に、まずチルチルとミチルを夢の世界へ行かせたのです。

この戯曲の最大の山場は、夢の中では青い鳥を見つけられなかった二人が、夢から目覚めてはじめて、鳥かごの中のキジバトが青い鳥に変わっている事に気付く場面ですが、メーテルリンクがここで伝えようとしているのは、「夢から目覚める(気付く)事の大切さ」です。

チルチルとミチルが、夢から目覚めるまでは、鳥かごのキジバトは、まだキジバトのままでした。この時の二人はまだ、キジバトの真相に気付いていないのです。

ところが、チルチルとミチルが夢から目覚めると、キジバトは、目の前で青い鳥に変わっていったのです。二人がキジバトの真相に気付く場面ですが、真相に気付いたのは、夢から目覚めたからです。

つまり、メーテルリンクは、ここで、幸せの青い鳥を見つけるには、迷いの夢から目覚めなければいけない事を、読者に伝えようとしているのです。

合掌

しあわせさがしー青い鳥の行方(3)

一切衆生ことごとく仏性を有す

幸せになりたいという願いは、生まれた時から具わっている万人共通の願いであると言いましたが、そもそもこの万人共通の願いは、どこから湧いてくるのでしょうか。

その疑問を解く鍵が、『涅槃経』の中にあります。

 一切衆生ことごとく仏性を有す。(一切衆生悉有仏性)
 山川草木ことごとくみな成仏す。(山川草木悉皆成仏)

これは、私たち人間だけではなく、動植物や、山々や大地や河川や国土の隅々に至るまで、ことごとく仏となるべき本性(仏性)を有しているという意味ですが、実はこの仏性こそ、「幸せを願う心」が湧いて来る源であると同時に、み仏から一人ひとりに授けられた「幸せ」の原石なのです。

「幸せを願う心」を、万人が共有しているのは、仏性が万人に分けへだてなく授けられているからですが、実は、願う「幸せ」も、幸せの原石である仏性の中に埋もれているのです。謂うならば、スタートとゴールが同居しているようなもので、「幸せを願う心」も、「求められている幸せ」も、仏性という原石の中で深くつながっているのです。

つまり、私達が願う幸せ(青い鳥)は、自分以外のどこか彼方にあるのではなく、自分の内なる仏性に秘められているという事です。しかし、ただ幸せを願っているだけでは、青い鳥を見つける事は出来ません。「幸せの青い鳥を探し求めようとする心」を起し、更に一歩前に足を踏み出さなければならないのです。

仏教では、この「幸せ」を「仏」といい、「幸せを求める心」を「菩提心」と言いますが、譬えるなら、「幸せ(仏)」は、「幸せを求める心(菩提心)」の親であり、「幸せを求める心(菩提心)」は、「幸せ(仏)」を親として生まれた子供と言っていいでしょう。

親がいなければ、子供もいないように、「幸せ(仏)」がなければ、「幸せを求める心(菩提心)」もなく、「幸せを求める心(菩提心)」がなければ、「幸せ(仏)」もありません。

「幸せ(仏)」を親として生まれた子供が、もう一人います。それは「幸せを願う心」です。

「幸せ」と「幸せを求める心」と「幸せを願う心」

この三つは、三位一体の関係にありますが、「幸せを願う心」は、生まれつき具わっている万人共通の心であり、誰もがいつも幸せを願っていますから、あえてこの心を意識する必要はありません。

しかし、「幸せを願う心」と言っても、永遠に崩れることのない真実の幸せを願う心もあれば、夢幻のごとき偽りの幸せを願う心もあり、様々な心が、未分化の状態で、渾然一体となっています。

仏性に埋もれている「幸せ(仏)」を掘り起こす為には、渾然一体となっている未分化の心をふるいにかけ、「幸せ(仏)」を掘り起こすのに必要な心を取り出さなければなりません。こうして取り出された心が、「幸せを求める心(菩提心)」です。

「幸せを願う心」が、「仏性の中に埋もれている私を早く掘り起こして下さい」といって、私達に呼びかける「幸せ(仏)」からのコールサインとすれば、「幸せを求める心(菩提心)」は、「はい、わかりました。これからあなたを求めて掘り始めます」というコールサインへの応答と言っていいでしょう。

「幸せ(仏)」を掘り起こす上で、「幸せを求める心(菩提心)」が欠かせないのは、求める幸せの中味が大事だからです。

み仏が、私達にコールサインを送ってくれているのは、お金や健康や地位や名誉や子供や、その他諸々の条件が満たされる事(欲望の充足)によって得られる偽りの幸せを与えたいからではありません。

何度も言うように、お金や健康や地位や名誉や子供や、その他諸々の条件が叶い、一時的に欲望の充足感が得られたとしても、それは、因縁によって崩れ去るまぼろしのごとき幸せ(此岸の幸せ)に過ぎません。

み仏が私達に与えたいのは、永遠に崩れる事のない幸せ(彼岸の幸せ)であり、だからこそ、「幸せ(仏)」からのコールサインに応える為には、「真実の幸せを求める心(菩提心)」を起す必要があるのです。

勿論、菩提心を起したとしても、み仏を掘り起こすまでの苦難な道のりを考えれば、ほんの小さな一歩に過ぎないかも知れません。

しかし、この一歩を踏み出さなければ、仏性に埋もれた「本当の幸せ(仏)」を掘り起こす大事業は始められないのです。その意味で、菩提心を起す事は、「幸せ(仏)」からのコールサインに応える大きな一歩であると言っていいでしょう。

み仏をお迎えする

仏性という幸せの原石を与えられていない人は一人もいないと言いましたが、それは万人が幸せ(仏)になれる機会を平等に与えられているという意味であって、誰もが平等に幸せ(仏)になれる事を保証されているという意味ではありません。

幸せになれるか否かは、あくまで、菩提心を起し、仏性の原石の中に埋もれている幸せ(仏)を掘り出せるか否か、磨きだせるか否かにかかっているのです。

夏目漱石の『夢十夜』の中に、こんな話があります。

運慶が護国寺の山門で仁王像を刻んでいるというので、見に行った男が、「よくああ無造作に鑿(のみ)を使って、思うような眉や鼻が出来るものだなあ」と、感心しながら独り言を言うと、それを聞いていた別の男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから決して間違うはずがない」と言ったので、「彫刻とはそういうものか。それなら俺にでもできる筈だ」と思い、すぐ家に帰って、鑿と金槌を持って彫り始めたけれど、いくら木を彫っても、中から仁王は出てこなかったというのです。

運慶が彫れば木の中に埋まっていたみ仏が出てきたのに、何故この男が彫ってもみ仏は出てこなかったのか。

それは、運慶が余分な木屑を彫ると同時に、自己の仏性(菩提心)と向き合っていたのに対し、この男はただ木を彫っていたに過ぎないからです。木の中のみ仏を迎えられるか否かは、ひとえに自己の仏性(菩提心)と向き合えるか否かにかかっているのです。

京仏師の松久朋琳師は『仏の聲を彫る』の中で、同じ事をおっしゃっておられます。

み仏を彫る場合、木ィを持ってきます。木ィには、仏さんの顔なんてあらしません。ただの四角やら三角やらの木ィで、一定の形はありまへん。人間にたとえたら、これが外見上の人間、何某という姿形をした人間でしょうな。
次に、仏のイメージを持って木ィに向う。そうすると、その木ィには、み仏の他に余分な木屑がついてます。それをはつって取ってしまわななりません。これがある間は、単なる木の塊であって、仏とは言えません。
そこで、その余分な木屑を無にする訳です。木屑をみんな取ってしまう。そうすると、仏像という実体が出てくるということになるのですな。木屑という有を無にしたら、空間をつくったら、その分だけ実有が生まれてくる。
わたしが、木の中のみ仏をお迎えするというのは、つまりこの空間をつくるということなんです。普通、仏を彫るというと実像を生ぜしめることのように考えがちですが、実は、実像を生じせしめる空間をつくっているということにもなるのです。
仏性と出会う、それも又同じことやとおもうのですわ。欲とか煩悩という余分な自我の木屑をはつって取ってしまえば、己れを空しゅうしたら、そこに自然と仏性があらわれてくる。

つまり、木の中のみ仏をお迎えするということは、仏を彫ることではなく、仏を覆っている木屑を彫ることであり、木屑を取ってしまえば、中の仏は自ら出てこられると、言うのです。

仏師はみ仏を彫るのが仕事だと考えている世間の常識からすれば、み仏は「彫るもの」ではなく「お迎えするもの」であるという松久師の言葉は意外に聞こえるかも知れませんが、ここに、「仏師の本分は、み仏を彫る事にではなく、み仏を覆い隠している余分な木屑を取り除く事にある」という、松久師の悟りがあります。

まさに逆転の発想と言ってもいいでしょうが、余分な木屑を取ってしまえば、こちらから出向かなくても、み仏の方から姿を現されるから、仏師はただ、出てこられるみ仏をお迎えするだけでいいのです。

しあわせさがしー青い鳥の行方(4)

必要なみ仏との対話

「原木の中のみ仏をお迎えするには、覆っている木屑を取り除きさえすればいいのだ」と聞けば、夢十夜の男のように、誰でも簡単に彫れるように思いますが、そう簡単にはいきません。

木の中のみ仏をお迎えするという事は、木屑を削っている自分と、木屑の中に埋もれているみ仏が一体となって初めて出来るわざだからです。

つまり、もうこれ以上削れば、み仏を傷付けるというくらいまで木屑を取り除く為には、削る自分と、埋もれているみ仏との対話が欠かせません。木屑を削るとは、同時に、み仏と対話する事であり、仏師は、み仏と対話をしながら、どこまで削ればいいかを片時も離れずに問いかけているのです。

松久師が、

無心に一発、鑿をガァンと入れますと、み仏は必ずお迎えにこられます。わたしは、そのお迎えに従って、ただ、み仏のまわりの余分な木屑を取りのぞいていけば良いのです。そんな時、もう、わたしがみ仏を彫り参らせているのか、彫られているみ仏がわたしなのか、わからんようになってしまうのです。

とおっしゃっておられるように、み仏との対話は、彫っている自分と、彫られているみ仏とを隔てている自我の境界がなくなり、自分がみ仏を彫っているのか、彫られているみ仏が自分なのか、分らなくなる無我の境地へ到達して、ようやく完結します。

ですから、運慶と同じように仏性が具わっている筈の夢十夜の男に、仁王が彫れなかったのは、当然なのです。彼は、み仏との対話が出来ていなかったのですから。

先ほども言ったように、人間を含め、すべての生きとし生けるものは無論のこと、山川草木のかけらに至るまで、仏性は具わっています。

しかし、この仏性は、謂わば、まだ削られていない原木に過ぎません。中に埋もれているみ仏をお迎えする為には、もうこれ以上削れば、み仏の体に傷を付けるというところまで削って、削って、削り尽くさなければなりません。

それは、技術でも理屈でも知識でもなく、人生の様々な辛酸をなめ、苦難を乗り越えてきた人だけが為しうる仏との対話であり、試練の中ではぐくまれた悟りの智慧によってのみ開かれる奇蹟の扉と言っていいでしょう。

苦難を鑿として

原木の中の仏を掘り起こすには鑿(のみ)が、原石の中の仏を取り出すには研磨剤が必要になりますが、この鑿や研磨剤に当るのが、実は人生の中で誰もが遭遇する様々な試練や苦しみなのです。

幸せを妨げる厄介者として、みんなから嫌われている苦しみや試練ですが、厄介者の烙印を押された苦しみや試練こそ、実は、木の中のみ仏をお迎えする上で欠かせない鑿であり、仏性という原石を磨く上で無くてはならない研磨剤なのです。

菩薩様の『道歌集』の中に、

 苦しみを 悲しむことより喜べよ
   深き悩みが 菩提となるなり
 人になれ 人になれよとみ仏は
   心苦しめ 人とならしむ

という法歌があるように、人生に悩み苦しみは絶えませんが、み仏は、何の意味もなく苦しみを与えているのではありません。

苦しみを乗り越える事によって仏性の原石を磨き、中から、幸せ(仏)を掘り出してほしいからこそ、泣くに泣けぬ涙で、慈悲(試練)の鞭を打っていて下さるのです。

ですから、苦しみをいただいたときこそ、苦しみを悟りに変え、原石を磨くまたとない好機と受け止めなければなりません。苦しみは、幸せを妨げる邪魔者であるどころか、真の幸せ(仏)をお迎えする上で欠かせない鑿(のみ)であり、幸せの原石を磨く人生の研磨剤なのです。苦しみという名の鍵がなければ、幸せの扉は開かないのです。

万劫にも得難き人の身

先ほども述べたように、『涅槃経』には、私たち人間だけではなく、動植物や、山々や大地や河川や国土に至るまで、ことごとく仏性が具わっていると説かれていますが、忘れてならないのは、生きとし生けるものの中で、様々な苦難と向き合い、菩提心を起し、み仏と出会えるのは、私たち人間だけだという事です。

夢十夜の男のように、たとえ人間に生まれたとしても、必ず木の中のみ仏をお迎えできるとは限りませんが、少なくともみ仏と向き合う為には、人間に生まれてくる事が最低限必要であり、人間に生まれてこれなければ、その機会さえないのです。

その意味で、人間に生まれてこれた事は、とても幸せな事と言えましょうが、果たして何人の人がその事を知っているでしょうか。

人間に生まれた私たちにとって、人間に生まれてくる事は、当たり前の事実です。しかし、人間以外の生き物たちにとって、それは至難のわざなのです。私たち人間は、他の生き物たちから見れば、羨望の的と言ってもいいでしょう。

道元禅師は、『正法眼蔵』の中で、「生死の中の善生、最勝の生なるべし」、つまり、六道の中で人間界が最も幸せな世界であると説いておられるのはその為ですが、何故人間界に生まれる事がそれほど幸せなのでしょうか。

人間に生まれれば、立派な家屋敷に住めたり、美味しいものが食べられたり、好きな所へ旅行ができたり、お金儲けができたり、素敵な洋服が着られたり、文明生活が謳歌できるからでしょうか。

いいえ、それらはみな、はかない朝露のごとき幸せに過ぎず、道元禅師が言う「最勝の生」たる所以ではありません。

人間に生まれて最も幸せな事は、人間に生まれた者だけが、永遠の幸せが約束される仏性と向き合い、六道輪廻の人生に終止符を打てる事です。つまり、せっかく、仏性という幸せの原木が与えられていても、その原木から幸せ(仏)を掘り出せるのは、人間だけなのです。

六道の中の地獄、餓鬼、畜生、修羅の世界は、苦しみや争いや憎しみだけの世界であるため、仏性と向き合いたいという心(菩提心)を起すゆとりがなく、また天上界は、楽ばかりの世界で、向上心がないため、仏性と向き合いたいという心を起すことが難しいのです。

それに対し、人間界は、苦もあれば楽もあり、心のゆとりもあり、苦しみから救われたいという向上心もあるため、仏性と向き合いたいという心をおこすには、最も適していると言われています。

まさに、人間に生まれた私たちは、生まれた時点ですでに幸せの半分を叶えられていると言っても過言ではないのです。

「万劫(まんごう)にも得難きは人身なり」と言われているのは、その為ですが、ここにいう「万劫」とは、時間の長さを現す単位で、「劫(こう)」とは、梵語のカルパ(kalpa)を音写した「劫波」を省略したものです。

『大智度論』という大乗仏教の書物によれば、1劫は、百年に一度、天女がこの世へ舞い降り、40里四方の大きな岩を薄い羽衣で一度拭い、その岩が擦り切れて無くなるのに要する期間(磐石劫)を現すとも、芥子粒を40里四方の大きな城の中に満たし、百年に一粒ずつ取り出して、その芥子粒が無くなるのに要する期間(芥子劫)を現すとも言われていますが、要するに、それほどの時間を費やしても、人間に生まれてくる事は難しいという事です。

乗り越えさせるための試練

何度も言うように、たとえ人間界がそれほどすぐれた世界であるとしても、仏性を磨き、み仏をお迎えするのは、口で言うほど容易ではありません。

しかし、その前途がいかに険しくても、私達は立ちはだかる試練の荒波を乗り越えてゆかなければならないのです。何故なら、み仏は、私達が乗り越えられないような試練は、決してお与えにならないからです。

み仏が、私達に試練を与えるのは、苦しめたり挫折させる為ではなく、試練の荒波を乗り越えて、悟りの岸(彼岸)に到達し、永遠に崩れる事のない真実の幸せを手に入れて欲しいからです。

実はその事を身をもって体現された方々がおられますので、次にご紹介したいと思います。

合掌

しあわせさがしー青い鳥の行方(5)

大石順教尼の苦難の生涯

一人目は、両腕のない尼僧として有名な大石順教尼です。

明治38年(1905)6月21日、大阪堀江の遊郭「山海楼」の主人、中川万次郎が、お愛という後妻が万次郎の甥と駆け落ちした事に腹を立てて逆上し、逃げたお愛の母親のお駒、20歳になるお愛の弟の安次郎、14歳になる妹のおすみ、そして養女にしていた芸妓の梅吉、おきぬ、妻吉の6人に次々と斬りかかり、5人を惨殺するという痛ましい事件が起こりました。

「大阪堀江の六人斬り事件」と言われる事件ですが、この時、両腕を斬りおとされながらも、一命を取り留めた芸妓が、当時17歳の妻吉でした。

妻吉こと大石よねは、明治21年(1888)3月4日、大阪の道頓堀に生まれ、12歳で京舞の名取となり、その才能を見込まれて、15歳の時、中川万次郎の養女となりました。「妻吉」と名を改めて芸妓の道に精進していましたが、この事件に巻き込まれて両腕を失い、17歳の若さで、この世の生き地獄に突き落とされたのです。

事件を起した中川万次郎は、元は犬養欣也という、尾張徳川家のお殿様お気に入りの小姓でしたが、浮橋という10歳年上の奥女中と深い仲になり、その事がお殿様に発覚してお手打ちになるところを、お殿様の計らいで許され、おひまを出されます。

放浪の旅に出た二人は、やがて別れ、一人で大阪に出てきた欣也が堀江の山海楼で遊んでいるところを、山海楼の一人娘、お八重の眼にとまり、欣也にほれ込んだお八重のたっての願いで、二人は夫婦になります。

欣也は中川家の養子となり、この時から中川万次郎と名乗るのですが、浮橋の亡霊にでも取り付かれたかのように、八重がおかしくなってゆき、やがて万次郎は、おすえという後妻をもらいます。

平凡な夫婦生活が始まりますが、恋多き万次郎は、第三の妻となるお愛と恋愛関係になり、二人の間に女の子が生まれます。これを好機とばかり、お愛は自分を本妻にするよう万次郎に迫り、万次郎はやむなくおすえと別れ、お愛を本妻にするのですが、お愛は多情な女で、店に来る若い男と仲良くなり、武士上がりの万次郎は、嫉妬心に燃えるようになります。

やがてお愛は、万次郎の甥をそそのかし、二人で駆け落ちをしてしまいますが、武士上がりの万次郎は、自尊心を傷つけられた事がどうしても許せず、ついに6月21日未明、山海楼にいた6人に斬りかかり、5人を惨殺するという大事件を引き起こすのです。

こうして、突然の悲劇に見舞われながら、ただ一人生き残った妻吉の苦難の人生が始まったのですが、両腕を失った妻吉には、舞を踊る両手がありません。国による生活保障もない時代に、両手を失った17歳の少女が生きる道といえば、見世物芸人くらいしかありませんでした。そこで妻吉は、やむなく、三遊亭金馬の一座に入り、「松川屋妻吉」と名乗って、不具の身である自分の姿を見世物にしながら、寄席や地方巡業で生計を立てていたのです。

ところが、ある日、巡業先の仙台で、鳥篭の中のカナリヤが、口で雛に餌を運んでいる姿を見て心を打たれ、自らも筆を口にくわえて書画を書くようになります。
 (大石順教尼)
  くちに筆 とりて書けよと教えたる
    鳥こそわれの 師にてありけれ
  学ばざる 身なれど文字を書くという
    そのよろこびを くちに筆かむ

明治45年(1912)、日本画家、山口草平と結婚して一男一女の母となりますが、その後、協議離婚し、「堀江六人斬り事件」の犠牲者の冥福を祈るため仏道生活に入り、昭和8年、紀州高野山で出家得度して、名を「順教」と改め、自分と同じように身体に障害を持つ人々の救済に、その生涯を捧げました。
 (大石順教尼)
  つみふかく あわす手もなき身をもちて
    大師のみ子と なるぞ嬉しき

身体障害者の心の母となり、慈母観音と慕われた大石順教尼ですが、書画の道でも日展に入選するなど、その才能を発揮し、昭和37年(1962)には、日本人として初めて世界身体障害者芸術協会の会員に選ばれました。

そして、昭和43年(1968)4月21日、障害者の救済道場として自らが開創した京都市山科の仏光院において、波乱に満ちた81年の生涯を閉じたのであります。
 (大石順教尼)
  何事も なせばなるちょう言の葉を
    胸にきざみて 生きて来し我れ

中村久子さんの無手無足の人生

二人目は、中村久子さんです。

中村久子さんは明治30(1897)年11月25日、畳職人の釜鳴栄太郎、あや夫妻の長女として飛騨の高山に生まれました。

大石順教尼は、両手を斬りおとされましたが、中村久子さんは、2歳の時に、足のしもやけがもとで突発性脱疽(とっぱつせいだっそ)という病気に侵され、両手両足を失くします。

突発性脱疽は、凍傷がもとで両手両足が壊死して腐っていく病気で、放置しておくと、どんどん広がってゆき、命を救うためには、切り落とすしか方法がありません。お医者さんから「両足とも切断手術をしなければなりません。しかし、幼い子供のことだから、生命の点は保証できません」と宣告されたご両親の悲嘆は、想像に余りあります。何度も親族会議を開いて相談はするものの、結婚して11年目に授かった可愛い娘の両手両足を切り落とす決断など出来る筈がありません。

しかし、そうこうする内にも病状は悪化の一途をたどり、足から手、手からまた足へと感染していく余りの速さに、お医者さんも手の施しようがありませんでした。

ある日、けたたましく泣き叫ぶ久子さんの声に驚いた母が台所から駆けつけると、左手首が包帯ごと、もげ落ちていました。そして、その月のうちに、右手は手首から、左足は膝とかかとの中間から、右足はかかとから、切断されてしまったのです。

こうして、久子さんは、命こそ助かったものの、3歳にして、両手両足を失うという、絶句するようなこの世の生き地獄に突き落とされたのです。しかし、久子さんの本当の試練は、ここから始まったと言ってもいいでしょう。

7歳の夏には、それまで人一倍可愛がってくれていた父が39歳の若さで急死した為、8歳の秋、母あやは再婚を決意します。病気治療の為に出来た多くの借金と、手足の無い久子さん、そしてまだ幼い弟の栄三を抱えての生活は、女手ひとつでは不可能だったのです。

相手は、亡き夫と同じ畳職人の藤田という人でしたが、藤田家にも、先妻の残した二人の子供がいたため、5歳下の弟は、亡き夫の生家(畦畑家)に預けられ、母は久子さんだけを連れて嫁がざるを得ませんでした。

しかし、障害者に対する偏見の強い時代ですから、再婚先からは温かく迎えてもらえず、久子さんは、肩身の狭い思いをして暮らさなければなりませんでした。

一番辛かったのは、一人でお便所に行けない事で、母が来るまで3時間でも5時間でも辛抱して待っていなければなりませんでした。晩年、久子さんは、「あの時のおかげで、今日旅先で、何時間でもトイレを辛抱することができるようになりました」と述懐しておられますが、8歳そこそこの年齢でよく辛抱されたと、頭が下がる思いです。

9歳の時には一時失明し、眼の見えない久子さんをかかえて困窮した上に、弟の世話をしてくれていた亡き夫の生家(畦畑家)の叔母が3人の子を残して亡くなったため、弟の栄三はやむなく岐阜加納育児院へ引き取られる事になり、ただ一人の弟とも生き別れしなければなりませんでした。

そんな中、祖父母ゆきと母あやは、手足のない久子さんを、何としても一人で生きていける子に育てなければいけないと、心を鬼にして、厳しい躾をするようになります。

その厳しい躾のお陰で、久子さんは食事、トイレ、風呂といった身の回りの事は勿論、裁縫や編み物、炊事、洗濯といった事まで自分で出来るようになりました。

その当時(大正初期)でも、生活困窮者や肢体不自由者には国から最低生活が保障されていましたが、久子さんは、何年このような支給を受ければ自活できるかの目途もたたない上に、世の中のために何一つ役に立っていない自分が、お国のお金を頂くのは申し訳ない、手足がなくても生きている以上は、自分で働いて生き抜こう、と決心され、保障を受けませんでした。

久子さんは「運命はみずから開拓す」という言葉を心に刻み、たとえ手足がなくても、人間としてのいのちを頂いたからには、どんなに世間が冷たくても、頂いたいのちを生き抜く事を、自らに誓っていたのです。

その後、見世物小屋で働き始めた時も、「恩恵にすがって生きれば甘えから抜け出せない。一人で生きてゆこう」と、国の障害者制度による保障を受けようとはせず、自分で出来る事は自分でしなければいけないというその自立精神は、生涯を貫いて変わることはありませんでした。

しかし、そうは言っても、無手無足の久子さんが、誰にも頼らずに一人で生きていけるほど、世間は甘くありません。亡き父の友人の助言もあり、久子さんは悩みぬいた末に、見世物芸人として生きる決心をするのです。

当時、見世物芸人の世界は、生まれつき体に障害を持った人や、社会から受け入れられなかった人の集まりで、白い眼で見られていた時代ですから、相当な覚悟がいったでしょうが、久子さんには、この道しか生きる道はなかったのです。

大正5年11月16日、久子さんは、見世物芸人になるため、高山をあとにし、大正5年12月1日、「だるま娘」の看板で、名古屋大須の見せ物小屋で働くようになります。両手のない体で、口に針をくわえて裁縫や編み物をしたり、筆をくわえて字を書いたりする芸を披露して、忽ち人気者になっていきました。

ある日のこと、久子さんが舞台に上がっていると、客席から、「これを書いて下さい」という声がかかり、見ると、二十歳前後の青年が「精神一到何事不成」(注1)と書いた紙を持っていました。その青年こそ、後に書道の大家といわれる沖六鳳(おきろっぽう)の若き日の姿で、翌日から、この青年が久子さんに書の手ほどきをしてくれる事になりました。

この時、若き日の沖六鳳がいった「見世物小屋の芸人であっても、人生の泥沼に染まってはいけません。人間としての自分を磨き、”泥中の蓮”にならなければいけません」という言葉は、のちの久子さんに大きな影響を与え、苦難にあうたびに、心を慰められ、励ましてくれたのであります。沖六鳳との交流は、その後も途絶えることなく、久子さんが亡くなるまで続けられました。

こうして、人気者となった久子さんは、全国各地を巡業してあるくようになりますが、巡業先は、日本国内にとどまらず、遠く朝鮮、台湾、満州にまでも及びました。

しかし、いくら人気を博しても、不具の体を人前に晒して糧を得る生き方に変わりはなく、自立する事は出来ても、彼女にとって、決して生きがいのある人生ではありませんでした。

そんな久子さんに追い討ちをかけるかのように、過酷な試練は容赦なく襲いかかり、大正9年5月には弟の栄三(19歳)を、8月には母あやを相次いで亡くします。

大正10年、中谷雄三(なかたにゆうぞう)氏と結婚し、翌年長女・美智子さんが産まれますが、大正12年9月には祖母ゆきが、そして9月25日には夫の雄三が30歳の若さで相次いで亡くなります。

しかし、残された娘を育ててゆかねばならない無手無足の久子さんには、悲しんでいる暇などありません。障害を持った女性が生きる道は、見世物芸人しかなく、興行先との掛け合いから小屋掛けに至るまで、男手がなければ何も出来ない久子さんは、大正12年11月、周囲の勧めもあり二人目の夫となる進士由太(しんしよした)氏との再婚を決意します。

翌年8月、次女富子さんが生まれますが、ようやく軌道に乗りかけたと思ったのも束の間、2年後の大正14年10月24日、再婚した夫が急性脳膜炎で35歳の若さで急死するのです。五体満足の人でも、二人の幼児を抱えた女性が生きていくのは大変な時代に、無手無足の久子さんは、頼りとしていた夫の突然の死という試練に再び直面したのです。

いつまでも浮き草のような芸人生活をしていては子供達の将来によくないと考えた久子さんは、定住するために職を求めて歩き回りましたが、手足の無い、子供をかかえた女性が働くところなどあろう筈がありません。重い障害を持った者には、働く場所を確保することさえ難しい時代だったのです。

やはり、久子さんが生きる道は、見世物芸人しかなく、再び巡業の旅に出ますが、久子さんに同行してくれたのは、定兼俊夫(さだかねとしお)という人でした。

ところが、定兼の妻が、巡業中に二人の子を残して急死したため、妻を亡くした男と、夫を亡くした久子さんは、いつしか心を寄せ合うようになります。二人の夫を見送った久子さんは、再婚をためらいますが、見世物芸人として生きていくためには男手が欠かせす、久子さんは悩んだ末に、大正15年、三人目の夫となる定兼俊夫氏と再婚します。

しかし、定兼は、お酒と勝負事と女遊びが三度の飯より好きな人で、昭和2年4月、興行先の台湾で三女の妙子さんが生まれますが、夫の遊興癖は一向に治まりませんでした。

翌年、まだ1歳にもならない妙子さんが、はしかに罹って急死するという悲しみに遭遇し、二人の夫の死につぐ可愛い娘の死に、久子さんは大きな悲しみとショックを受けます。

昭和4年夏、子供の将来を考えて定住する事を決意し、仕立物をしながら姫路市の借家に住んでいた久子さんは、『キング』という雑誌に載っている記事に釘付けになりました。

そこには、重度の障害で寝たきり状態でありながら、神戸女学院の購買部を立派にきりもりして自立している座古愛子さん(注2)の事が紹介されていました。久子さんは、その時受けた感銘を、『こころの手足』の中で、次のように書いています。

p結婚されず、もちろんお子様もない。ほんとうの一人ぼっち。それなのにあの神々しいまでのお顔は一体どうされたことだろう。どこから何を得られたのだろう。お別れする時、私のためにお祈りして下さった、泣きながら真心こめて……。
p座古さんと私とどちらが不幸なのだろう? 結婚生活は決して仕合せではなかった。しかし夫が居る。子等も二人ある。不自由な体とはいえ行きたい所へ行くこともできる。一体自分は何が不足なのか? 手足は無くとも、どうにか一人の女として育てて下さった親があったお陰ではないか。一寸も自分で動けぬお体であっても、親に一言の御不平もおっしゃらず、他人の幸福を神様に祈って下さるそのことを思ったら、私は何という罰当りではないだろうか?

それまでの久子さんは、無手無足のわが身を見る度に、両親を恨み、わが身を呪い、世を呪って生きていました。しかし、自分よりも大きなハンディを背負いながら、自分を産み、生かし、育てて下さった両親や、神と周囲の人々への感謝の気持ちをもって生きている座古愛子さんの神々しい姿に触れ、どちらが本当に不幸なのだろうと、自問自答され、それまで抱いていた母親への間違った思いを懺悔し、悔い改められたのです。久子さん、33歳での大きな転機となった出会いでした。

p手足のないわたしが、今日まで生きられたのは、母のお陰です。生きて来たのではない、生かされて来たのだと、ただただ合掌あるのみです。

p

この言葉は、自分よりも不幸な身にありながら両親への感謝を忘れない座古愛子さんとの出会いによって、心の眼を覚醒させられた久子さんの嘘偽りのない心が、そのまま表現された言葉ではないでしょうか。

しかし、再婚した夫の不身持ちが一向におさまる気配がないため、久子さんは、昭和8年秋、やむなく7年間暮らしを共にした夫との離婚を決意します。そして、昭和9年、四人目となる9歳年下の中村敏男氏と再婚し、ようやく安住の地を見出されたのでした。

二人の子供の行く末を案じた久子さんは、再び見世物芸人の生活に終止符を打とうと決心し、親子四人つつましく暮らしていましたが、そんな時、出会ったのが、無我愛の提唱者、伊藤証信師とあきこ夫人でした。

ご夫妻の尽力で久子さんの後援会が作られ、生活は決して楽ではありませんでしたが、後援会から毎月送られてくる援助金の助けもあって、何とか食いつないでいました。

しかし、それまで自分の力で働き自立して生きてきた久子さんにとって、自分の為に作って頂いた後援会とはいえ、人様の恵みを頂いて生きる事は心苦しいものでした。

久子さんは、悩みぬいた末、「どんなに逃げても、やらなければならないご縁のある内はやめることはできない。やめろと仏様がおっしゃるまでお任せすればよい。もしその日がこなければ、いつまでも芸人をやればよい。すべて仏様にお任せしよう」という心境に到達され、後援会を解散して頂いたあと、再び見世物芸人の道に戻る決心をするのです。

昭和12年の四月、東京日比谷公会堂において、来日したヘレンケラー女史と出会い、自ら口を使って作った日本人形を贈りますが、ヘレンは、久子さんの全身を指先で触れていき、久子さんの足に付けられた冷たい義足に触れた瞬間、久子さんの足元に崩れ落ち、涙を流しながら彼女を抱きしめ、「私を世界の人たちは奇跡の人と言うけれど、あなたこそ、真の奇跡の人です」「私よりも不幸な人。そして私より偉大な人」と言って賞賛しました。その後、ヘレンケラー女史は二度来日しますが、久子さんはその都度ヘレンケラーと再会され、自ら作った日本人形を贈られました。

昭和17年1月、45歳になった久子さんは、26年間も続いた見せ物芸人の生活に終止符を打たれ、72歳で亡くなる直前まで、夫と次女の富子さんと共に、全国各地で講演活動を続けながら、自らの数奇な人生を語り続け、多くの人々の心に生きる勇気と感動の火を灯し続けました。

講演では、自分の体について恨み言は一言も言わず、「無手無足は、み仏より賜った身体、生かされている喜びと尊さを感じます」と語り、障害のおかげで強く生きられる機会を貰った事への感謝の言葉を連ね、「人間は肉体のみで生きるのではなく、心で生きるのです」と語り、多くの人々に感銘を与えました。

そして、72歳になった1968年(昭和43年)3月19日、脳溢血により高山市の自宅で、波乱に満ちた生涯に幕を閉じられたのであります。

 さきの世に いかなる罪を犯せしや
   拝む手のなき 我は悲しき
 手はなくも 足はなくともみ仏の
   慈悲にくるまる 身は安きかな

しあわせさがしー青い鳥の行方(6)

自分ほど幸せな人間はいない

この他にも、頚椎損傷によって手足の自由を失いながら、口で筆をとって詩を書き、絵を描いて、多くの人々に感動を与えておられる星野富広氏や、交通事故によって頚椎を損傷し半身不随となりながらも自立し、頚椎損傷者や多くの障害者の支援に生涯を捧げられた向坊弘道氏(平成18年5月14日死去)のような方々が大勢おられますが、生き地獄のような逆境に突き落とされたこれらの方々に共通している点が一つあります。

それは、「自分ほど幸せな人間はいない。障害を負ってよかった」と言い切っておられる事です。

五体満足な人間が、「私は幸せです」と言うのであれば分りますが、両手や両足を失い、体の自由を失って、この世の生き地獄に突き落とされた方々の口から、「私は幸せです」という言葉が出てきたのです。

実は、この方々と同じ事を仰ったお方が、もう一人おられます。それは、菩薩様です。菩薩様も、この世の生き地獄のような代受苦行の真っ只中で、「有り難い」と仰ったのです。

ふつう「有り難い」とか「幸せ」という言葉は、すべて自分の思い通りになっている時に出てくる言葉です。ところが、菩薩様は、人生で最も苦しい状況に置かれている中で、「有り難い」「幸せだ」と仰ったのです。

菩薩様の言葉や、これらの方々の体験談を聞いていますと、一つの真理が見えてきます。それは、心が変われば人生が変わり、生き地獄が極楽に変わるという事です。

両手両足を失い、寝たきりの状態になりながら、「自分ほど幸せな人間はいない」と言い切れる心は、まさに奇蹟と言ってもいいでしょうが、一体どんな心になれば、そんな事が言えるのでしょうか。

大石順教尼も中村久子さん、星野富弘氏も向坊弘道氏も、そして菩薩様も、生き地獄のような状況に背を向けることなく、在るがままを受け入れ、すべてを拝まれました。

つまり、自分の不幸な境遇や、自分が置かれている苦しい現実から逃避せず、すべてを在るがまま受け入れ、その苦難の現実を拝む心になった時、人生が180度変わり、自分のいる場所がそのまま極楽となり、永遠に滅びない幸せの蕾が花開いたのです。

因縁に対する目覚め

京仏師の松久朋琳師は、

全てを受け入れる事によって、み仏はその心を開いて下さる。

と仰っておられますが、すべてを在るがまま受け入れるという事は、すべての不都合な現実、すべての不都合な結果、すべての不都合な因縁を在るがまま受け入れるという事です。

大石順教尼も、中村久子さんも、無手無足のわが身を顧みて、何故自分はこんな目に遇わなければいけないのかと思い悩み、幾度となく眠れぬ夜を過ごされたに違いありません。

しかし、やがて、「自分は両腕を斬りおとされなければならない因縁を作ってきたのだ。だから、私はいまこんな姿をしているのだ。怨むべきは、人でも社会でもみ仏でもなく、自分自身なのだ。私はいま、過去に作ってきた因縁を、この身に問われているのだ。だから、この因縁を在るがまま受け入れ、拝んでいこう」という悟りの境地に到達されたのです。

ある時、順教尼は、「両手を斬り落されて、口も耳まで斬りさかれる。血は流れ出る。誰も来てくれないまま五時間も経つ。それで生き残られたということは、まったく不思議としか思えません。どうして助けられたのでしょうか」との問いに対し、次のように答えています。(『無手の法悦』より)

私は世の中に不思議ということはないと思います。当然のことが当然に現われて来る、現われてきたものに当然でないものは一つもない、と私は思っています。
不思議という言葉は、物事をよく見きわめないで、自分を都合よくごまかして、不思議だとうなずいているのでしょうね。人間が神様のように、何でもわかるのであったら、この世の中の出来事は、全部当然だとしか思えないはずです。不思議という事は何一つありません。生も死も、傷つくのも助かるのも、みな当然のあらわれなのです。

自分が両腕のない不具の身になったのは、運が悪かったからでも、誰かのせいでもなく、自分が作った因縁でそうなるようになっていたからだ、両腕を斬りおとされながら一命をとりとめたのも、両腕のない身で生きなければならなかったのも、そういう因縁があったからだ、と言うのです。

「両腕を失くさなければ、まだ自分が背負っている因縁の深さを知らないまま、更に罪を重ねながら生きていたかも知れない。両腕を失くしたお陰で、自分が作ってきた因縁の深さに目覚める事が出来た。それもこれもすべて、両腕を失くしたお陰だ」と、順教尼は、斬りおとされた両腕に感謝し、無手のわが身を拝まれたのです。

中村久子さんも、『こころの手足』の中で、

業がすなわち私自身なのです。業のある間、何十年でも見世物芸人でいいではないか。やめろと、仏様がおっしゃるときが来たら、やめさせてもらえばよい。来なかったら業の尽きるまで芸人でいよう。こうした決心がついたら、煮えたぎっていた”るつぼ”が”るつぼ”でなくなりました

とおっしゃっておられますが、これは、無手無足の体で、自らの業の深さを嫌と言うほど味わってきた久子さんだからこそ、言えた言葉ではないでしょうか。

体の障害と心の障害

大石順教尼は、その徳を慕って集まる障害者にこうも言っています。

身体の不自由、これはね、そういう因縁なのだから仕方がないが、私達は心の障害者になってはいけないのだよ。
心の障害者、そんな障害があるのですか?
あんたね、片足が悪いだけでよく転ぶでしょう。どうしてか分りますか。
わかりませんが、悲しいです。
転ばなくても歩ける方法を教えてあげよう。それはね、悪い足をかくさないことだよ。心の障害というのはそれをいうのだよ。忘れなさいという事は無理かもしれないが、片足が悪いくらいのことに心をうばわれてはいけないのだよ。
どうしたら、その心の障害を取り除く事が出来るのですか?
自分のことは自分で出来るようにする、それだけの小さな生き方でなしに、世の中のために感謝と奉仕の心をもって、心の働きを生かすのだよ。たとえ、何にも出来ずにベッドにふせっていても、微笑みひとつでも、やさしい言葉ひとつでも、周囲の人々に捧げる事が出来たら、その人は社会の一隅を明るくすることが出来るのだよ。
私はね、障害というのは、身体の自由、不自由とは別ではないかと思う事さえあるのだよ。
たとえ健全な肢体に恵まれていても、それを人のために生かす心を持たず、五欲のほしいままに、お互いが傷つけあうことしか知らないとしたら、大変な心の障害者ではないかと思うのだよ。
此の頃、私は、両手を無くしたこと、何も知らない無学なものであったこと、そして、お金にたよらずに貧乏してきた事が、本当に私の眼に見えない大きな財産なのではないかと、しみじみとその幸せを味わっているのだよ。
先生、もう少しわかりやすく教えて下さい。
そうね、生きてゆくための、幸福になるための、条件とか資格とかいうものは、何一つないのだ、とでも言ったら分るかい。禍も福もほんとうは一つなのだよ。

中村久子さんも、同じような事をおっしゃっておられます。

私自身に最も深く思わせられたことは、障害をむしばむものは障害ではなく、自らの精神によるものであるということです。
こんな手や足で電車や自動車の通るこんなこわい所が歩かれるだろうか、などと不安の念がちょっとでも頭に浮かんだらもうおしまいです。足も体もすくんでしまって、一歩たりとも前進はできません。障害が難物というよりは、心の障害が一番の難物なのであります。

私たちは、つい健康と病気、成功と失敗、富裕と貧困というように、幸不幸を相対する別物のように考えますが、実は、ものの見方の違いに過ぎません。ものの見方を変える事によって、幸福が不幸になったり、不幸が幸福になったりするのです。何故か。幸不幸は、決して固定的なものではないからです。

結局、幸不幸は、自分が決めるものであって、自分以外の誰かが決めるものでも、決められるものでもないという事です。

中村久子さんは、次のような言葉も残しておられます。

人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。

勿論、思い方は人それぞれですから、両手両足を失くした事、不慮の事故によって、体の自由を失った事を、不幸と考える人も、世の中にはいるでしょう。

しかし、大野氏が「両手を奪われて失ったものよりも、得たもののほうがはるかに大きくて、重い」とおっしゃっておられるように、両手を失くしたからこそ、得られたもの、見えてきたものがある事も間違いありません。

そして、そこで得られたもの、見えてきたものこそ、失った両手が与えてくれた本当の幸せであり、両手を失くしていなければ、得る事も見る事もできなかった、輝ける人間の在るべき姿なのではないでしょうか。

中村久子さんの次の言葉が、その事を雄弁に物語っています。

良き師、良き友に導かれ、かけがえのない人生を送らせて頂きました。今思えば、私にとって一番の良き師、良き友は、両手両足のないこの体でした。

青い鳥の答え

むのたけじ氏の詞集『たいまつ』の中に、「 扉がどんなに大きくても、鍵穴は小さい。そして、鍵は鍵穴よりも小さい。」という言葉がありますが、目指す幸せの扉がいかに巨大であっても、その扉の鍵穴は小さく、そしてその鍵穴に入る鍵は、もっと小さいのです。

勿論、鍵がいくら小さくても、ただ小さいだけでは、幸せの扉は開きません。その鍵穴にぴったり合った鍵によってのみ、扉は開くのです。

仏性という鍵は、形がありませんから、どのような形にも姿を変える事が出来、丸い鍵穴でも、四角い鍵穴でも、三角の鍵穴でも、どんな形の鍵穴であっても、ぴったり入る万能鍵と言えましょう。

勿論、万能鍵と言っても、ただ鍵穴に鍵を入れただけでは、幸せの扉はびくともしません。扉を開けるためには、鍵を回さなければなりませんが、その鍵をどのように回せばいいのかを教えてくれているのが、菩薩様であり、大石順教尼、中村久子女史、星野富弘氏、向坊弘道氏の方々ではないでしょうか。

ここでもう一度、チルチルが最後に言った言葉を思い出して下さい。チルチルは、こう問いかけました。

「どなたかあの鳥を見つけた方はどうぞ僕たちに返して下さい。僕たちが幸福に暮らすために、いつかきっとあの鳥が必要になるでしょうから」

チルチルは、青い鳥を見つけたら返して欲しいと問いかけていますが、こう問いかけたらどうだったでしょうか。

「どなたかあの鳥が飛んでいった理由を知っている方は、どうぞ僕たちに教えて下さい。僕たちが幸福に暮らすために、いつかきっとその理由が必要になるでしょうから。」

そうすればきっと、青い鳥から、こんな答えが返ってきたのではないでしょうか。

「僕は、大切な事を伝えるために、君たちのところへやってきたんだよ。君たちには、それを伝える事ができたけど、まだ伝えなければいけない人が大勢いるんだ。だから、いつまでも君たちの側にはいられないんだ。僕を探さなくてもいい人ばかりの世の中になれば、僕はすぐに君たちのところへ戻ってくるよ。だから、君たちも、僕が伝えた事を、みんなに伝えて欲しいんだ。そうすれば、少しでも早く戻ってこれるからね」

合掌

人生相談は何故無料でなければいけないのか(1)

注目されている御住職?

先日、車を運転しながらラジオを聞いていたら、或る女性レポーターが、「今日は、いま注目の御住職をご紹介します」と言ったので、「何が注目されているんだろう?」と興味を持って聞いていました。

女性レポーターが、「ラジオの前の皆さんは、何が注目されていると思われますか?」と、視聴者に問いかけるので、益々興味を引かれ、耳をそばだてて聞いていると、彼女は、おもむろにこう言ったのです。

「実は、これからご紹介する御住職は、最近、無料の人生相談を始められたそうなんです。そうしたら、それがたちまち評判となり、沢山の相談が寄せられるようになったそうなんです」

こう言って、無料の人生相談を始められたという御住職を紹介されたので、私は、呆気にとられ、思わず失笑してしまいました。

何故かと言いますと、まさか無料の人生相談がそれほど注目されるとは、夢にも思っていなかったからです。

勿論、毎日配達されてくる新聞には、時々「僅かな相談料でお悩みを解決します」とか「30分の相談料はお幾ら、1時間はお幾ら」と言う誘い文句を印刷した折り込み広告が入ってきたり、新聞の広告欄に、そういう寺院が紹介されていたり、テレビによく出てくる六星占術師が来県し、一時間幾らで人生相談が受けられるというような記事が載っていたりしますので、有料の人生相談がある事くらいは知っています。

しかし、仏法を知らない世間一般のカウンセラーや、四柱推命、風水、占星術、易、手相、人相、骨相、姓名判断など、様々な占いによって未来を予測する占い師、或いは、仏法の裏付けのない霊感や霊視に頼る一部の霊感者や霊能者などは論外として、いやしくもみ仏を信仰する僧侶の立場にある者が、悩み苦しみを持つお方から人生相談を受けるとなれば、当然、そのお方を導く手立ては仏法(悟り)しかありません。

仏教では、この世の真理である「法(理法)」と、真理を悟って一切の苦を解脱した「仏」と、仏が説かれた法(仏法)を伝える「僧(僧伽)」の三者を、「三宝」と言って、この世で最も尊いものの代名詞の如く説いていますが、三宝は常に不二一体であり、法を離れた仏も、仏を離れた法も、仏と法を離れた僧もありません。

法舟菩薩様が、『道歌集』の中で、
 仏法僧 法をはなれて仏なく
   法をはなれて また僧もなし
 仏法僧 僧をはなれて衆生なく
   衆生はなれて また僧もなし

と詠っておられるように、僧侶が悩み苦しむ人々を導く依りどころは、占いでも霊感でもなく、仏法(悟り)以外にはありえません。

そして、この仏法は、相談するお方の立場から言えば、スーパーでお野菜やお魚や果物を買うように、お金を払って買うものではありません。

また相談を受ける僧侶の立場から言えば、相談料を頂いて売るものではなく、あくまで悩み苦しむお方に施すべきものです。

つまり、三宝の一人に数えられる僧侶が行う人生相談は、それが仏法によるものである以上、無料であるのが当たり前なのです。

無料だからと言って、世間から注目を集めるようなものではありませんし、そうであってはならないものです。

無料の人生相談が注目されるのは、有料の人生相談が世の中にあふれ、それが当たり前のように受け止められているからであり、当たり前の事が当たり前に為されていない証拠と言えましょう。

仏法を知らない占い師や霊感者ならいざ知らず、少なくとも仏法を知っていながら、有料の人生相談を当たり前と受け止めている僧侶がいるとすれば、嘆かわしい限りと言わざるを得ません。

何故なら、相談料の名目で対価を求める僧侶に、相談者が抱える問題を根本的に解決し、悩み苦しみから救えるとは到底思えないからです。

見返りを求めない無所得の心

仏教に、「四摂法(ししょうぼう)」という、苦しむ人々を救済(済度)する四つの手立てがありますが、四摂法の最初にあるのが布施です。

また「六波羅蜜(ろくはらみつ)」という、菩薩に成る為の実践徳目の最初にあるのも、やはり布施です。

「四摂法」や「六波羅蜜」の最初に布施がおかれているのは、布施が、人々を救済する手立てとして最も重要視されている実践徳目だからですが、私達僧侶が、法の施しをする時に心しなければならない事が一つあります。

それは、施しをした相手から見返りを求めてはならないという事です。どんなに立派な法の施しをしても、無所得の心でしなければ施しにはならないからです。

布施の功徳は、三毒煩悩の一つである貪りの心を離れさせる事にあり、法を惜しまない、物を惜しまない、一切を惜しまないのが、布施の心です。

布施は、あくまで布施する側から布施される側への一方通行であって、施す者は、その見返りを求めてはならないのが布施の大原則です。

法舟菩薩様は、『慈悲の海(下)』の中で、「 人は誰でも施しをするときには、一切無所得の心をもってしなければなりません。施しによって利益を得ようとか、名利のためにするというのであれば、それは結果の期待というものであって、せっかくの施しも功徳とならず、相手ばかりか自らの心をも害(そこ)ねるもととなりましょう。」と説いておられますが、要するに、真の施しとは、ただ与えるだけであって、与えれば、もうそこでお終いです。そこから先の見返りを求めれば、その行為は、施しではなく、取引になります。

皆さんは、お賽銭箱にお賽銭を入れた後、「私のお賽銭はどのように使われるのだろうか?」とか「これだけお賽銭をあげたのだから、きっとご利益を頂けるだろう」などと考えるでしょうか?

お賽銭を入れたら、もうそこでお終いです。お賽銭の使い道やご利益の事まで考えるのは、執着以外の何ものでもありません。それでは、せっかくのお布施が取引になってしまい、皆さんの功徳にはなりません。

ましてや僧侶が、相手から相談料の名目で対価を要求し、法を説くなどという事は、断じてあってはならない事です。

布施は人のために非ず

そもそも布施行は、人の為にする行為ではなく、自分自身の為にするものであり、この世のみならず、あの世までも相続されてゆく善根の種蒔きなのです。

相手の為に布施をしているのではなく、その人のお蔭で善根の種蒔きをさせて頂いているのですから、本来ならお礼を言って感謝をしなければならないところであり、お金をとって人生相談を受けるなど、もっての外と言わなければなりません。

法舟菩薩様が、同書の中で、

「人間は、人の世話をさせていただくのに、あれもした、これもした、といって怒ったり後悔するような世話ならば、初めからしないことであります。世間にはよく、世話をしてやったのに礼も言わないといって怒る人がありますが、自分が善いことをして徳を積ませていただきながら、礼を言ってもらおうと期待することが愚かであり、間違っているのであります。
人生とはこだまであり、人から礼を言ってもらおうと思わなくとも、誠でした行いならば、感謝の心が返って来るのは当然のことであり、またそれが善の果報というものでありましょう。従って、人に世話になっても礼をいうことの出来ない人間ならば、自分の徳を損じるばかりか、懺悔しなければならないときが必ずまいります」

と説いておられるように、せっかく功徳の種蒔きをさせて頂きながら、如何にもお金を施した、物を施した、法を施した、あれもこれも施したと考えるのは、布施の意味をまったく知らない証拠と言わねばなりません。

また真心でした施しなら、結果を求めなくても、必ず何らかの形で返ってきます。すぐに返ってくるか、徐々に返ってくるか、忘れた頃に返ってくるか、或いはどのような形で返ってくるかはわかりませんが、必ずより良き結果となって報われてきます。

しかし、対価を求めるような施しなら、いくら施しても、よりよき報いを得る事は出来ないでしょう。というより、対価を求める施しは、もはや施しではなく、取引行為になりますから、功徳の種蒔きにはならないのです。

人生相談は何故無料でなければいけないのか(2)

無畏施の心を示した人々

一口に布施と言いましても、財施、法施、無畏施(むいせ)の三つがあります。

仏教では、これを「三施」と言いますが、「財施」とは、富める人が貧しい人々に金銭や、衣類、飲食などを施すことをいい、「法施」とは、正しい法(おしえ)を説き聞かせて迷いを転じて悟りを開かせることをいい、「無畏施」とは、他人が危難急迫するときに、わが身や財産を顧みず、これを投げうって救済することを言います。

今年(2013)10月1日午前11時半頃、JR横浜線の踏切の先頭で、電車の通過を待っていた近くの会社員、村田奈津恵さん(44歳)が、遮断機の下りた踏切内に倒れている男性(74)に気付いて助けようとして電車にはねられ、死亡するという痛ましい事故がありましたが、彼女の心を動かしたのは、危難に直面する人を目の当たりにして、手を差し延べずにはいられない無畏施の心でした。

平成13年(2001)1月26日(金曜日)の午後7時14分頃、JR山手線の新大久保駅で、泥酔してプラットホームから線路に転落した男性を救助しようとして線路に飛び降りた日本人カメラマンの関根史郎さん(当時47歳)と韓国人留学生の李秀賢(イ・スヒョン)さん(当時26歳)が、折から進入してきた電車にはねられ、3人とも死亡するという悲しい事故がありましたが、この二人を動かしたのも、やはり無畏施の心でした。

更に遡れば、昭和22年(1947)9月1日、大村湾から長崎市に入る手前の長崎県時津町にある打坂峠で、長崎自動車の木炭バスが突然エンストし、ブレーキが効かなくなってズルズルと後退し始め、あわや崖下に転落するという時、車掌として勤務していた鬼塚道男さん(当時21歳)が、自らの体をバスの下に投げ出し、車止めとなって30名の乗客の命を救って亡くなるという痛ましい人身事故がありました。

当時は貧しい時代で、鬼塚さんの死に対し、何も報いる事ができず、また鬼塚さんの死は一部の人にしか語り伝えられなかったため、次第にその出来事は忘れ去られようとしていました。

ところが、24年後、乗客の証言に基づいて、その事件が小さな新聞記事になり、たまたまそれを目にした長崎自動車の社長が、大きなショックを受け、「こんな立派な社員がいた事を、我々役員は決して忘れてはいけない」と、その日のうちに役員会を招集し、会社で打坂峠のそばに記念碑とお地蔵さんを建てて供養する事になりました。

それ以来、鬼塚さんの供養祭が毎年行われ、打坂地蔵尊は、いつも美しい花で飾られ、お線香の煙が絶えないそうですが、鬼塚さんを突き動かしたのも、やはり已むに已まれぬ無畏施の心だったのではないかと思います。

鬼塚さんの事故の更に40年ほど前の1909年(明治42年)2月28日には、北海道の塩狩峠に差し掛かった列車の客車の最後尾の連結器が外れ、客車が暴走しかけるという事故が起こりました。

客車にはハンドブレーキがついていましたが、ハンドブレーキだけでは完全に停まりませんでした。

ちょうどその客車に乗り合わせていた鉄道院(旧国鉄の前身)職員の長野政雄さん(当時30歳)が、自らの体を線路に投げ出し、体をブレーキにして客車の暴走を食い止めたため、大事故は未然に防がれましたが、残念ながら、長野さんは、帰らぬ人となりました。

この事故の顛末を主題にして書かれた三浦綾子さんの小説『塩狩峠』の主人公となった長野さんは、キリスト教会の集会には欠かさず出席するほどの熱心で敬虔なクリスチャンで、いつ自分が神の愛の為に身を捧げる事になってもいいようにと、片時も放さず遺書を身につけていたそうです。

現在、塩狩峠の頂上付近にある塩狩駅近くには、顕彰碑が立てられ、いまも現地を訪れて、長野さんの冥福を祈る人が絶えないそうですが、彼の行動も、やはり神の愛と無畏施の心に突き動かされた行動であった事は間違いないでしょう。

顕彰碑には、次のように刻まれているそうです。

「苦楽生死 均(ひと)しく感謝。余は感謝して全てを神に捧ぐ」

無財の七施

このような無畏施の心を示された人々はみな、人間が到達し得る究極の愛(慈悲)の姿を私達に教える為に遣わされた神仏の使者とも言えましょうが、それだけに、誰も彼もが、このようは無畏施の行動をとれる訳ではなく、これは、神仏に選ばれた者にしか為し得ない聖なる行動と言っていいでしょう。

しかし、だからと言って、この人たちの真似は出来ないと思う必要はありません。「無財の七施」と言われる、誰にでも出来る立派な施しがあるからです。

1、眼施(げんせ) やさしい眼差しで人に接すること。
2、和顔施(わがんせ) にこやかな笑顔で人に接すること。
3、愛語施(あいごせ) やさしい言葉で人に接すること。
4、身施(しんせ) 荷物を持ってあげるなど、自分の体でできる奉仕をすること。
5、心施(しんせ) 人の気持ちを思いやり、心をくばってあげること。
6、床座施(しょうざせ) 席や場所を譲ってあげること。
7、房舎施(ぼうしゃせ) 自分の家を提供してあげること。

「無財の七施」のように、施すお金や物がなくても、何がなくても、施しの心さえあれば、いつでも、どこでも、誰でもすぐに実践できるのが、布施行なのです。

道元禅師が、「布施というは貪らざるなり。我物に非ざれども布施を障(さ)えざる道理あり。その物の軽きを嫌わず。その功の実(じつ)なるべきなり。然あれば則ち一句一偈の法をも布施すべし。此生佗生(ししょうたしょう)の善種となる。一銭一草の財をも布施すべし。此世佗世(しせたせ)の善根を兆(きざ)す。法も財(たから)なるべし。財も法なるべし」(注3)と説いておられるように、たとえ、施すものがどんなに粗末な物であっても、僅かなお金であっても、道端に咲く名もなき一輪の草花であっても、計り知れない功徳を頂けるのが、布施行です。

そればかりか、人が施す姿を見て心から喜ぶ事も、また立派な布施行となります。

以前、電車に乗った時の事です。高校生が数人、座席に座って、携帯電話をいじりながら友達同士で話をしていましたが、そこへ一人のおじいさんが乗ってきたのです。すると、一人の男子生徒が、おじいさんの姿を見るや、すぐに席を立ち、「おじいちゃん、こっちへおいで」と言って、何のためらいもなく、おじいさんに席を譲ってあげたのです。

彼は、知らず知らずの内に、無財の七施の一つ、床座施を実践していたのですが、その光景を眺めていた私は、心の中で「素敵な光景を見せてくれて、ありがとう」と彼にお礼を言いました。周りの人たちの心にも、きっと幸せな気持ちが波紋となって広がっていったに違いありません。

このように、相手の尊い布施行を見て、讃え、喜び、自らもそうなりたいと願う心を起こす事も、尊い布施行の一つなのです。

合掌

人生相談は何故無料でなければいけないのか(3)

大仏殿復興を成し遂げた公慶上人と乞食の施し

今でこそ、世界文化遺産に登録され、世界中から大勢の観光客や参拝者が訪れる東大寺ですが、その東大寺も、永禄10年(1567年)の戦禍で、松永久秀(弾正)に火を放たれ、大仏殿をはじめ伽藍の殆どが焼失し、江戸幕府第5代将軍、徳川綱吉の時代に至るまで、大仏様は野ざらしの状態に置かれていました。

元禄4年(1691)年に大仏殿が再建され、宝永6年(1709)3月、盛大な落慶法要が営まれましたが、大仏殿復興の大事業を成し遂げたのが、公慶(こうけい)上人というお方です。

幕府から勧進の許可はおりたものの、財政的援助がなかったため、公慶上人は、一人でも多くの人々を、東大寺大仏殿の再建という又とない勝縁に結ばせたいと一念発起し、全国を行脚しながら、勧進して歩かれました。

当初は、布施も思う様に集まらず、前途多難の船出でしたが、ある時、一人の乞食に出会いました。

乞食の姿を見た公慶上人は、「前世では、恐らく強欲な人間で、施しをした事もなかったのであろう。だから、あのような姿で、物乞いをしなければならないのだ。ここは何としても、大仏様のお力をお借りして、布施の功徳を積ませてあげなければ…」と思われ、その乞食に布施をするよう勧めました。しかし、僅かなお金でも欲しい乞食が布施をする筈がなく、即座に断られました。

諦めきれない上人は、乞食の後をついていき、僅かな施しを貰ったのを見るや、「いまあんたがもらったそのお金を、大仏殿の再建の為に布施してくれないか」と声をかけますが、「乞食のわしがようやくもらったお金を施せとは、無理難題ではないか。布施は出来ぬ」と突っぱねられます。

しかし、上人は諦めません。「施しなさい」「いや、出来ぬ」と、押し問答を繰り返している内に、とうとう乞食の方が根負けして、上人にお金を投げ出したところ、勢い余ってお金が田んぼの中に落ちてしまいました。

それを見た上人は、すかさず着物をたすき掛けにして田んぼの中へ飛び込み、お金を探し始めました。

余り熱心に探しているので、乞食が、「お坊さん、僅かなお金を、そんなに泥まみれになって探し回るとは、何か深い訳でもあるのか」と聞くと、上人は「いやいや、あんたが乞食に身をやつしているのは、いままで物惜しみをして人に施しをした事がないからだ。そのあんたが、いま私に施しをしてくれた。東大寺大仏殿の再建の為の施しとなれば、実に広大無辺の功徳を積んだ事になり、これほど尊い施しはない。たとえ僅かであっても、その尊い施しを無にしては、あんたに申し訳が立たぬ」と言って、懸命に探し続けたのです。

ようやく上人の本心を知った乞食は、「それなら私も一緒に探させて下さい」と言って、一緒に探し始めました。

やがて田んぼの中からお金が出てきたので、上人は大層喜び、矢立(やたて)から筆を出し、勧進帳の初めに「1、金一文成り、寄附主、乞食某」と書いたのでした。

東大寺大仏殿再建の最初の寄進者が乞食だったとは、とても興味深い話ですが、勧進帳の最初の寄進者が乞食ですから、後に続く人々は寄進しない訳にはいきません。

この寄進がきっかけとなって、その後の勧進は順調に進み、やがて悲願の大仏殿建立へとつながっていったのですから、この乞食は、まさに大仏殿再建の陰の功労者と言ってもいいでしょうが、この逸話は私達に大切な事を教えています。

布施の功徳を説く意味

一つ目は、布施の尊さは、誰が施すか(施す人の氏素性)、何を施すか(施すものの種類)、幾ら施すか(金額の多寡)で決まるものではないという事です。

たとえ、乞食が施した僅かなお金であっても、施す事によって善根の種蒔きとなるばかりか、大勢の人々の心を動かし、大仏殿建立という一大事業をも成し遂げてしまったのですから、その功徳は計り知れません。

もし一粒の種を食べてしまえば、そこで全てが終わってしまいますが、その一粒の種を大地に蒔けば、やがて多くの実を結び、収穫できるのと同じように、僅かなお金であっても、施しに変えれば、それが善根の種蒔きとなって成長し続け、やがて身に余る果報となってわが身に返ってくるのです。

二つ目は、布施の功徳を説く事がいかに大切かという事です。

乞食が公慶上人と一緒に、田んぼの中に落ちたお金を探し始めたのは、公慶上人が、その乞食に布施の功徳を説いたからです。もし法施をしていなければ、乞食はせっかく尊い布施をしながら、布施の功徳を知る事も、一緒にお金を探す事もなく、その場を立ち去っていたでしょう。

しかし、上人が布施の功徳を説き、法施をして乞食を教え導いたからこそ、乞食は、善根の種蒔きが出来た事を歓び、上人と共に探そうと決心したのです。その歓びの体験は、それからの乞食の生き方を大きく変えたかも知れません。

乞食の心を変えたのは、上人が法施をして布施の功徳を説いたからですが、私が、有料の人生相談を見ていつも残念に思うのは、これが、布施の功徳を説かれた公慶上人の行為とまったく相反する行為だからです。

人生相談は何故無料でなければいけないのか(4)

有料の人生相談で布施の功徳が説けるか?

そもそも人間の悩み苦しみの原因は何かと言えば、貪り、怒り、怨み妬み憎しみの三毒煩悩であり、その原因を取り除くのが、まさに布施の功徳なのです。

つまり、悩み苦しみを抱えるお方から人生相談を受けるという事は、その人に布施の功徳を説き、悩み苦しみの原因である三毒煩悩を取り除く千載一遇の好機を与えられたという事です。

しかし、布施の功徳を説く為には、ただ口で言うだけではなく、相談を受けた者(僧侶)が自ら手本となって、布施とは何かを示さなければなりません。

僧侶が身を以て布施の手本を示すのは法施しかありませんが、法施とは、何度もお話しているように、見返りを求めない、一切無所得の心で仏法(悟り)を施す事です。

ところが、いま巷に氾濫している有料の人生相談は、仏法を施すのではなく、相談料を貰って尊い仏法を売っているのと同じです。これは、布施ではなく売買であり、商取引と何ら変わりありません。

法を施せない者が、相談者に対し、施しの尊さ、布施の功徳を説ける筈がありません。私が、有料の人生相談を見ていつも「これでは三毒煩悩に苦しんでいる相談者を救える筈がない」と思うのは、その為です。

つまり、せっかく布施の功徳を説く又とない機会を与えられていながら、その機会を自ら放棄し、相談者の救いの道を閉ざしているのが、巷にあふれる有料の人生相談の実態なのです。

その意味で、相談者を救えるか否かは、すでに相談を受ける以前からほぼ決まっていると言っても過言ではないでしょう。

勿論、人生相談を有料にしている当のご本人には、そんな意識は毛頭ないでしょうし、気づいてもいないと思います。もし気付いていれば、有料の人生相談を続けられる筈がありませんから。

気付いていながら、あえて有料にしているとすれば、もはや人助けをする気持ちはまったくなく、ただ人助けを名目に商売をしているに過ぎません。

但し、人生相談を無料で行っているからと言って、みんながみんな、苦しむ人々を救済出来るだけの悟り(仏法)を得ているとは限りません。しかし、少なくとも、法施をする機会を自ら捨てていない事だけは確かです。

それに対し、有料の人生相談は、対価(相談料)を求めると決めた時点で、すでに、布施の功徳を説く機会を自ら放棄してしまっているのです。

相談を受ける僧侶も、相談する者も、お互いに施し(法施、財施)をする事によって善根の種蒔きが出来るにも拘らず、人生相談を有料にする事は、結果的に、善根の種蒔きである施しの機会を奪っている事になります。

同じ三千円でも、相談料として支払う三千円と、法施に対する御礼の気持ちで施す財施の三千円とでは、雲泥の差があります。前者は、人生相談に対するただの対価であり、何の功徳にもなりませんが、後者は、施した人の功徳になる立派な布施行となるからです。

先般、いつも相談に乗って頂くだけでは申し訳ないと言って、お家で採れたお米やお野菜をお供えして下さった女性がいますが、この女性のお供えも、法施への対価としてではなく、相談に乗って頂いて有り難いと言う感謝の気持ちをこめてして下さったお供えですから、彼女の功徳になる尊い布施行と言えましょう。

仏法(悟り)は全人類の共有財産である

更に言えば、そもそも人助けに必要な仏法は、誰が悟ろうと、悟ったその人個人の私有物ではなく、人々の救済の為に役立てるべき人類の共有財産です。

お釈迦様が悟られた「八万四千の法門」と言われる教えもすべて、お釈迦様一個人の私有物ではありません。

お釈迦様は、29才で出家され、36歳の時、ブッダガヤの菩提樹の下で、この世の真理を悟られ、仏陀と成られましたが、たとえ悟ったお方がお釈迦様であっても、悟った真理(仏法)は、お釈迦様が私物化すべきものではなく、人類の救済のために役立ててこそ価値のある全人類の共有財産なのです。

私達僧侶が、お釈迦様の教えを自由に説かせて頂けるのは、お釈迦様が悟った教えを、すべて全人類の共有財産として下さっているからです。勿論、そこには、最近やかましく言われる著作権などもありません。

仏法は、誰もが、いつでも、どこでも、自由に、世のため人のために役立てる事が出来る人類の宝なのです。

その人類の共有財産である仏法を私物化し、相談者から対価を得るなどという事は、言語道断であり、もしそのような事をすれば、これ以上、お釈迦様の顔に泥を塗る行為はないと言っていいでしょう。

勿論、悩み苦しむ人々を救済するためには、時と場合に応じて、仏法だけではなく、お金や物が必要になる場合もあります。

公慶上人が発願された大仏殿再建にしても、やはり莫大なお金と資材が必要です。しかし、それは、法を売った対価として得るものではなく、あくまで布施(寄付)によって賄われるべきものでなければなりません。

大仏殿再建は、布施の心に目覚めて頂く為の手立てであり、人々の真心のご浄施で建立するからこそ意味があるのです。ご浄施でなければ、布施をした人の救済(功徳)にはなりません。

公慶上人が、全国を勧進して歩かれたのも、乞食に布施をするよう勧められたのも、布施行が、その人の救済につながると確信しておられたからです。

合掌

人生相談は何故無料でなければいけないのか(5)

寄進を勧められた先覚者たち

お大師様をはじめ、宗祖、開祖といわれる方々もみな、公慶上人と同様、縁ある人々に寄付(布施)を募り、寄進を勧めておられます。

例えば、お大師様は、紀州高野山を開創するに当たり、有縁の人々に寄付を募り、支援を求め、また布施に対する感謝の書状を何通も書いておられます。

例えば、承和元年8月23日の『勧進して仏塔を造り奉る知識の書』には、「伏して乞う、もろもろの檀越(だんおつ)等、おのおの一銭一粒の物を添えてこの功徳を相済(あいすく)え。しかれば営むところの事業不日にして成り、所生の功徳万劫(まんごう)にして広からん。敬って勧む」とあり、布施の功徳をお積み下さいと勧めておられます。

また『高野雑筆集』にも、「貧道(ひんどう)、黙然せんが為に、去(い)んじ月の十六日、此の峯に来り住す。山高く雪深うして、人迹通じ難し。限るにこの事を以て、久しく消息を奉(ぶ)せず。悚息(しょうそく)、何ぞ言わん。辱(かたじけな)くも米油等の物を恵まる。一たびは喜び、一たびは慴(おそ)る」と、布施に対する感謝の言葉を述べられ、更に『紀伊国伊都郡高野寺の鐘の知識の文』には、「しかりといえども、道人清乏(せいぼう)にして志あって力なし。伏して乞う、有縁の道俗おのおの涓塵(けんじん)を添えてこの願を相済(あいすく)え。生生(しょうじょう)に如来の梵饗(ぼんきょう)を吐き、世世(せぜ)に衆生の苦声(くしょう)を脱せん。今至願(しいがん)に任(た)えず。謹んで勧め奉る」と、有縁の僧俗各位に、喜捨(寄進)を懇願しておられます。

お大師様が、高野山を開創するに当たり、僧と俗とを問わず、有縁の人々に何度も繰り返し寄進を求めておられるのは、多くの人々の理解と支援、協力がなければ、到底為し得ない大事業だからですが、それだけではありません。

公慶上人が東大寺大仏殿再建の勧進をされたのと同様、一人でも多くの人々に、高野山開創という二度とない千載一遇の好機に仏縁を結んで頂き、布施の功徳を積んで頂きたいとの一念からなのです。

布施の目的と寺院(僧侶)の使命

何度もいうように、仏法は、人々の救済のために施すべきものであり、対価を求めて与えるものではありません。仏道修行者は、法施に対する見返り(対価)を求めてはならないというのが、布施の大原則です。対価を求めるものは、いかなる名目であろうと法施ではありません。

当然の事ながら、寺院の経営は、人々の寄付(布施)がなければ成り立ちません。しかし、寺院を支える布施は、同時に、布施をする人々を救済する上で欠かせない浄行でもあります。

つまり、布施行は、寺院を支える経済的基盤であると同時に、布施をした施主の皆さんの、未来永劫の救いをも支える基盤となる功徳行であり、だからこそ、我々僧侶は、常に布施の功徳を説き、人々を救いの道へと引導しなければならないのです。

寺院(僧侶)の使命は、あくまで苦しむ人々を救済する事であって、一般企業のように、商取引によって利益を追求する事ではありません。

寺院は、多くの人々の真心のご浄施(寄付)によって支えられており、支えて下さる方がいなければ、寺院を維持運営していく事は出来ませんが、それは、裏を返せば、法施という寺院(僧侶)が為すべき当たり前の施しが為されていれば、必ずや多くの人々の布施によって支えられていくという証でもあります。

もし寺院が維持運営できないとすれば、為すべき法施が為されていないからであり、法施をしなさいとの神仏のお計らいと悟らなければなりません。

その事も悟らず、寺院を維持する為に、法施を忘れて目先の利益追求に走るような事があれば、それこそ本末転倒と言わねばなりません。

合掌

人生相談は何故無料でなければいけないのか(6)

寺院と檀家は親と子

布施は、サンスクリット語で、ダーナといい、檀那と音写します。ダーナとは、「与える」という意味で、檀那によって支えられているお寺の事を檀那寺(檀家寺)と言います。

ここにいう檀那とは、徳川幕府の寺請け制度によって、お葬式や法事をするお寺と密接につながっている檀家の事ではなく、あくまでお寺を布施によって支えて下さっているすべての人々を指します。

つまり、その寺院の檀家や信者は勿論の事、一見さんでお参りした人々も含め、布施をして下さる方は、すべてそのお寺の檀那です。

先ほど、三宝(仏法僧)は一体であり、仏を離れた法も僧もなければ、法を離れた仏も僧もなく、また僧を離れた仏も法もないというお話をしましたが、寺院(僧侶)と檀那の関係も同じで、寺院を離れた檀那も、檀那を離れた寺院もありません。

菩薩様が、『道歌集』の中で、
 仏法僧 僧をはなれて衆生なく
   衆生はなれて また僧もなし
 と詠っておられるように、僧と衆生は常に一体であり、運命共同体なのです。

その意味で、お寺(僧侶)と檀那の関係は、利益を追求する企業同士の利害関係とは大きく異なります。法施をして檀那を導くお寺(僧侶)と、財施をしてお寺を支える檀那との間に、利害関係はありません。

そこにあるのは、利害関係を超えた信頼関係(相互依存、相互扶助の関係)であり、人間に譬えれば、親と子の関係と言ってもいいでしょう。

親子の関係にあるからこそ、親である寺院(僧侶)は子である檀那の幸せの為に、あらゆる労苦を惜しまず、智慧を磨いて、悟った法を施さなければなりません。

また子である檀那も、親である寺院(僧侶)が日々の暮らしに困って心を煩わす事のないよう、支えていかなければなりません。

道元禅師が、『正法眼蔵』の中で、

釈迦牟尼仏のいわく、「無上菩提を演説する師にあわんには、種姓(しゅしょう)を観ずることなかれ、容顔を見ることなかれ、非を嫌うことなかれ、行いを考うることなかれ。ただ般若を尊重するが故に、日日に百千両の金(こがね)を食(じき)せしむべし。天食(てんじき)をおくりて供養すべし。天華(てんげ)を散じて供養すべし。日々三時に礼拝し恭敬(くぎょう)して、更に患悩(げんのう)の心を生ぜしむることなかれ。」

と説いておられるように、子である檀那が尊び敬うべきものは、法施をして下さる寺院(僧侶)の悟りの智慧です。

この智慧は、この世の真理を悟り、正しい道を歩む上でなくてはならない人類の至宝と言ってもいいでしょう。

しかし、原石も磨かなければ宝石にならない様に、智慧も様々な修行体験を通して磨かなければ、光り輝きません。

檀那の役目は、その智慧を磨き、修行に励む僧侶の衣食住や日々の暮らしを、布施によって物質面から支えていく事ですが、先ほども言ったように、布施は同時に、檀那自身の未来永劫への救いにつながっていく功徳行でもあるのです。

大切な事は、それぞれの役目(本分)をしっかりわきまえ、寺院(僧侶)は、支えて下さる檀那への法施を忘れず、また檀那も、導いて下さる寺院(僧侶)への支援協力を惜しまない事です。

仏を助ける人になりなさい

法舟菩薩様は、『道歌集』の中で、次のような歌を詠んでおられます。
 み仏に 利益(りえき)りやくとたのむより
   仏助ける 人となれ人
 人思い 衆生助くるみ仏を
   助くる心が わが身を助く

菩薩様が、「み仏の手助けが出来る人になりなさい」と力説しておられるのは、み仏を助ける事が、結局わが身を助ける事になるからです。

因みに、9年前の平成16年春、若神子(わかみこ)の聖地に開創された高野山法徳寺も、有縁の皆様からの真心の寄進によって建立されたものであり、皆様からの真心の寄進がなければ、柱一本、瓦一枚すら揃える事は不可能でした。

法舟菩薩様も私も、機会ある毎に布施の功徳を有縁の皆様に説かせて頂き、寄進をお願いしてきました。

布施の功徳を説き、寄進をお勧めする事が出来たのは、布施が、有縁の皆様の救いにとって必要不可欠な実践徳目であると確信していたからです。

しかし、法徳寺を開創する事が出来たのは、ただ布施の功徳を説いたからだけではありません。その背景に、長年に亘って培われてきた、法舟菩薩様と、菩薩様を信じてついてきて下さった有縁の皆様方との深い絆と強い信頼関係があったからです。

人生相談は言うに及ばず、衆生済度をしていく上において最も大切な事は、このお互いを結び付ける絆と信頼関係である事を、決して忘れてはなりません。

信頼関係の大切さ

我々僧侶の使命は、悩み苦しむ人々の閉ざされた心を開き、その身に背負う罪穢れを清め、未来永劫の救いの為、持てる悟りの智慧を余すところなく施していく事です。

しかし、同時に、我々僧侶(寺院)を信じ、ご浄施(財施)によって支えて下さる施主の皆様がいなければ、その使命を果たす事は出来ません。

つまり、我々僧侶と施主の皆様が、強い信頼関係で結ばれていなければ、何を為すにしても、成果は得られないのです。

お大師様は、『即身成仏義』の中で、

加持とは、如来の大悲と衆生の信心を表す。仏日(ぶつにち)の影、衆生の心水(しんすい)に現(げん)ずるを加といい、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく。

と説いておられますが、衆生を救おうとするみ仏の大慈悲心(加)と、み仏を信じる衆生の心(持)が一つにならなければ、お互いを結び付ける絆も信頼関係も生まれず、加持感応の妙も現れません。

大切な事は、親である寺院(僧侶)が、子である施主の皆様を信じ、子である施主の皆様が、親である寺院(僧侶)を信じ、その教えに従う事です。お互いの信頼関係は、僧と衆生、寺院と施主の皆様が、常に信じ合う中からしか生まれません。

公慶上人が乞食に布施の功徳を説いたのは、乞食の中に眠る仏性を信じたからであり、また乞食がお金を布施しようと決意したのは、布施の功徳を説く上人の言葉(法施)を信じ、受け入れたからです。

救済に欠かせない相互の信頼関係は、無条件に相手を信じる中から生まれます。そこには、対価など必要ありません。必要なのは、見返りを求めない無所得の施しであり、限りない慈悲の心です。

「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉がありますが、相手を信じる心がなければ、その人を救える道理がありません。有料の人生相談に欠けているのは、まさにこの心なのです。

合掌

いのちあるうち いのちあるうち─お彼岸に寄せて

お彼岸の意味

9月23日の中日を挟んで一週間が秋のお彼岸になりますが、お彼岸中は、ご先祖を偲んで法要を勤めたり、お墓参りをされる皆様も、大勢おられると思います。

お彼岸とは、「此岸(しがん)」に対する言葉で、救いの世界を現しています。

昔から、此岸と彼岸の間を流れる川を「三途(さんず)の川」と名付け、亡くなられたお方は、みな三途の川を渡って彼岸へ行くと説かれていますが、これは譬えであって、実際にこのような川が、この世とあの世の間に流れている訳ではありません。

仏教を「内道」と言い、仏教以外の教えを「外道(げどう)」と言うように、心の救いを説いているのが仏教ですから、此岸も彼岸も三途の川も、すべて私達の心の中にあります。

三途とは、六道(六つの迷いの世界)の中の「地獄、餓鬼、畜生」の事を言います。

六道とは、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」の六つの世界を指し、三悪道と言われる地獄、餓鬼、畜生の世界から救われる事を譬えて、「三途の川を渡る」と言うのです。

昔から、三途の川を渡る時の為にと、棺に六文銭を入れるのが慣わしになっていますが、この六文銭には、迷いの世界である六道から救われて欲しいという願いが込められています。

お彼岸に込められた願い

お彼岸は、ご先祖供養の為に設けられた行事である事は言うまでもありませんが、それと同時に、生きている私達を彼岸に渡したいという願いの下に作られた行事である事を忘れてはなりません。

地獄は怒りの心、餓鬼は貪りの心、畜生は自分さえよければいいという自我我執の心によって作られる世界で、怒りと貪りと自我我執の心を制御しなければ、彼岸に渡る事は出来ません。

お彼岸と共に大切な仏事であるお盆は、釈迦十大弟子の一人、目連尊者が、餓鬼の世界に堕ちた母親を救った故事に由来しますが、目連の母親は貪りの心が強く、「惜しい欲しい」で生涯を送った為に餓鬼道に堕ちました。

菩薩様が作られた聖歌『救済和讃』の中に、
 この世の業が 分かれ道
 万苦が尽きる 地獄道
 欲しい惜しいが 餓鬼の道
 わが身ばかりが 畜生道
と詠われているように、「欲しい惜しい」という貪りの心で生きた人が堕ちる世界が、餓鬼の世界です。

餓鬼にも、「無財餓鬼」と「有財餓鬼」があります。

「無財餓鬼」は、あれも欲しい、これも欲しいと、飽くなき貪りの心に支配された強欲な人が堕ちる世界です。

「有財餓鬼」は、有り余るほどの財産があるのに、それを人に施すのが惜しいという、自分の財産に対する執着心の強い人が堕ちる世界です。

また貪り、怒り、愚痴嫉妬の三つを「三毒煩悩」と言いますが、仏教では、貪りの心は餓鬼の世界、怒りの心は地獄の世界、愚痴嫉妬の心は修羅の世界へ堕ちてゆくと決まっています。

地獄、餓鬼、畜生の三つに、自我我執の心で作る畜生の世界を加えて、「四悪道」といいますが、要するに地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六つの世界(六道)を心の中に作って苦しんでいるのが今の私達であり、その迷い苦しみの世界から、救いの世界である彼岸へ渡って欲しいという先人の願いが、お彼岸の行事に込められているのです。

決してご先祖供養の為だけに作られた行事ではないという事を、忘れないで頂きたいと思います。

吉祥天と黒闇天

こんな話が、経典に説かれています。

或るお家に、気品ただよう美しい女性が訪ねて来られ、「私は吉祥天という福の神です。お宅に、福徳を授けにまいりました」と言って、家の中に入って来られました。

ところが、吉祥天の後から、見るからにみすぼらしい女性がもう一人入って来られたので、家人が「どなたですか?」と尋ねると、「私は黒闇天(こくあんてん)という疫病神です」と名乗ったので、「疫病神に入ってもらっては困ります。どうぞお帰り下さい」と言って、追い返そうとしました。

すると、黒闇天は大笑いして、「先ほど入って行った吉祥天は、わたしの姉です。わたしたちはいつも一心同体ですから、わたしを追い出せば、姉の吉祥天も一緒に出て行かねばなりません」と言って、黒闇天を追い出したら、せっかく入って来られた吉祥天も黒闇天と一緒に出て行ってしまったというお話です。

とても示唆深い話ですが、この話が教えようとしているのは、吉も凶も、此岸も彼岸も、地獄も極楽も、幸も不幸も、苦も楽も、結局同じものだという事です。

つまり、吉凶禍福、幸不幸というものは、一枚の紙の裏表のようなもので、同じものを、どちら側から見るかの違いに過ぎないのです。

例えば、東京の空より、山梨の空の方が澄んでいて、空気も綺麗ですが、では、東京に住んでいる人は不幸で、山梨に住んでいる人は幸せだと言えるのでしょうか?

そんな事は断じてありません。

東京は山梨に比べ、都市機能も充実していて、暮らすにはとても便利で、山梨より優れた点が多々ありますが、では、山梨に住んでいる人は不幸で、東京に住んでいる人は幸せだと言えるのでしょうか?

これもまた違います。

東京は空気が汚れているから、山梨へ行けばきっと空気も美味しいし、快適な暮らしが出来るだろうと思って山梨へ来ても、やがて不満が出てくるでしょう。

また山梨は不便だから東京へ行けば便利で快適な毎日を送れるだろうと思って、東京へ引っ越しても、やはり不平をもらすようになるに違いありません。

何故なら、東京にも山梨にも、それぞれ優れた点もあれば、劣った点もあるからです。

私が申し上げたい事は、幸せばかりの世界(彼岸)も、不幸ばかりの世界(此岸)もないという事です。

「吉凶はあざなえる縄の如し」で、幸福のある所には必ず不幸が隠れ、不幸がある所にも必ず幸福が潜んでいます。

お釈迦様が、この世の有様を「四苦八苦」と説かれたように、この世が、苦しみ多き世界(此岸)である事は間違いありません。

しかし、苦しみだけの世界では、決してありません。この世が四苦八苦の世界であるなら、苦しみから救われる世界(彼岸)も、必ずこの世にあるのです。

よく、此岸はこの世、彼岸はあの世の事と誤解し、信心すれば、あの世の極楽浄土へ往生できると信じておられるお方がいます。

これは、先の例でいえば、東京は空気が汚いから、山梨へ行けば幸せに暮らせると言っているのと同じで、間違いではありませんが、正確ではありません。

何故なら、三途の川も彼岸も、地獄も極楽もすべて、この世にあるからです。

何故、この世にあると断言出来るのかといえば、地獄も極楽も、三途も彼岸も、苦しみも幸せも、すべて私達が作りだす世界だからです。

地獄も極楽も、私達が生きている所にしかありません。

ですから、私達が此の世にいれば、地獄、極楽もこの世にありますし、私達があの世に往けば、地獄、極楽もあの世に付いてきます。

地獄のようなこの世だから、あの世へ往けばきっと極楽浄土があるだろうと、信じたくなる気持ちは分かりますが、生きる世界を変えても、場所を変えても、何も変わりません。

苦しみから救われるのに、生きる世界を変える必要などないのです。

 浪の音 嫌じゃと思うて山ごもり
    声色変えて 松風ぞ吹く
という古歌があるように、生きる世界を変えても、場所を変えても、自分が変わらなければ何も変わりません。

もし私達が生きるこの世に苦しみ(地獄)があるなら、苦しみから救われる道(極楽)も必ずこの世にあります。

救いの道もないのに、苦しみだけが与えられる事は絶対にありません。

何が言いたいのかといいますと、いま何らかの苦しみを与えられていても、何ら悲観する必要はないという事です。

苦しみが与えられたという事は、ようやく救われる時期が来たというだからです。

苦しみが与えられた時が、まさに救われる時なのです

ですから、苦しみが与えられた時は、苦しむ為に与えられたのではなく、救われる為に与えられたのだと悟り、苦しみに感謝して、救いの道を求めればいいのです。

救いを求める事を「発心(ほっしん)」と言いますが、発心しなければ、救いの舟に乗って彼岸へ渡る事はできません。

 苦しみが あるから菩提の花が咲く
    苦を持つ人こそ しあわせなりけり
です。

吉祥天と黒闇天の話は、その事を教えてくれているのです。

お彼岸が教える真理とは

さて、われわれ日本人に馴染みの深いお彼岸ですが、数ある仏教国の中で、お彼岸の行事があるのは日本だけです。

一説には、聖徳太子が始められたとも言われていますが、芽の出る春と、散ってゆく秋にお彼岸の行事を作られた先人の叡智には、いつも感心させられます。

ご先祖を敬い、四季折々の美しい大自然に抱かれて生きてきた日本人だからこそ作り得た行事と言っても過言ではありませんが、お彼岸が教えている仏教の真理をご存じでしょうか?

一つは、「諸行無常」です。

「無常とは死ぬ事だ。死んでしまえば全て帳消しになる。だから、好きな事をして生きなければ損だ」とおっしゃるお方もいますが、無常とは、ただ死ぬ事ではありません。

文字通り、無常とは、移り変わる事を意味します。死んで終わりなら無常とは言いません。

 無常とは なくなることと思うなよ
    春夏秋冬 めぐり来るのに
という歌があるように、果てしない生死の繰り返しが無常であり、その中に居るのが私達です

いま私達は、親から子、子から孫へと受け継がれていく命のリレーの真っ只中にいます。

私の命は、無数のご先祖から受け継がれた命であると同時に、無数の子孫へとつながっているかけがえのない命でもあります。

その事を考えると、ご先祖への感謝の念と、後に続く次世代に命を守り伝えていかなければならない責任の重さを痛感します。

もう一つは、「中道の精神」です。

昼と夜の長さがほぼ同じである春分の日と秋分の日を彼岸の中日と定めているのは、苦にも楽にもとらわれず、右にも左にも偏らず、常に真理を見つめながら進んで欲しいという願いが込められているからです。

いつ願いに答えるのか?

この二つの真理を悟って、苦しみの原因である執着と分別心から自由になり、晴れて三途の川を渡って彼岸(極楽)へ到達して欲しいというのが、お彼岸を作られた先人の願いですが、その願いに答えるのはいつなのでしょうか?

その時は、生きている此の世の今をおいて他にはありません。

「いつやるの?今でしょう」と言って有名になった学習塾の先生がいましたが、まさに今がその時なのです。

「生きている内に渡れなければ、死んであの世へ往ってから彼岸へ渡ればいいじゃないか?」と言われるかも知れませんが、残念ながら、私達には、今という時しか与えられていません

頭で考えれば、確かに明日も明後日も、あの世もあるように思えますが、明日になっても、明後日にあっても、あの世になっても、私達が生きられるのは、明日の今、明後日の今、あの世の今だけなのです。

100歳の双子の姉妹として有名になった金さん、銀さんだって、100年を生きた訳ではありません。生きたのは、今という一瞬です。

その今の積み重ねが、結果として100年なり80年なりの人生になるだけに過ぎませんから、幾らあの世へ往ってから彼岸へ渡ろうと思っていても、あの世は永遠にめぐって来ないのです。

ですから、此岸から彼岸へ渡るのは、生きているこの世の今をおいて他にはありません。
 人の身は 咲いて散るこそ桜花
    いのちあるうち いのちあるうち

平成26年9月27日

法徳寺のお餅つきは何故29日なのか!

9に対する人間の様々な思い

今日は、毎年恒例の餅つきの日です。

「昔ながらの臼と杵を使って」と言いたいところですが、フル稼働しているのは、二台の餅つき機です。ご本尊様へのお鏡餅を沢山つかないといけないので、この日ばかりは、餅つき機様々です。

さて、29日は「苦餅」につながるからと言って、この日を避けるお宅が多く、世間の一般常識ではそうなっているようですが、法徳寺では、毎年12月29日を餅つき日と決めています。

何故敢えて「苦餅」につながる29日を選ぶのか?

答は簡単です。「9=苦」とは考えていないからです。

例えば、陰陽師・安倍晴明でお馴染みの陰陽道では、万物を奇数(陽)と偶数(陰)に分け、陽の極数(最大奇数)である9は、最も縁起の良い数字と言われています。

相輪

五重塔や三重塔や多宝塔の天辺に、天に向かって立っている相輪(そうりん)に付いている輪も、九つあります。

九輪(くりん)とも言われるのはその為ですが、もし「9=苦」であるなら、み仏をお祀りする塔の天辺に、わざわざ縁起の悪いものを据える道理がありません。

陽の極数が二つも重なる9月9日は、五節句の一つ「重陽の節句」で、古来お目出度い日とされています。

また、「苦餅」につながるという理由で避けられる29日を、「ふくび(福日)」と読み替える事も出来、29日につくお餅は「苦餅」ではなく、逆の「福餅」という事になります。

もし29日は「苦餅」につながるから避けた方がよいと思うなら、29日のお餅つきは、「苦を尽く」、つまり「苦しみを尽きさせるお餅つき」という意味合いを込めて行えばよいのです。

このように、苦につながると考えられている29日が、見方を変えれば、お目出度い数字に大変身するのです。

何故そうなるのかと言えば、「9=苦」とは決まっていないからです。

と言うより、9はただの数字の9に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもありません。

それは、7がただの7であり、8がただの8であるのと同じです。

しかし、世間では、7はラッキーセブン、8は末広がりで、共に縁起がよいとされ、9は苦につながるから縁起が悪いとされているのです。

一体誰が、ただの数字に過ぎない7や8はお目出度くて、9は苦につながるから縁起が悪いと決めたのでしょうか。

勿論、私達人間です。犬や猫が、9を嫌がったり、8を目出度いと言って喜んでいる姿を見た事がありませんから、人間だけと断言してもいいでしょう。

ている訳では、勿論ありません。人間が、勝手に「9=苦」と考えて、忌み嫌っているだけなのです。

幽霊の正体

勿論、苦を避けたいという気持ちは、万人共通の思いであり、それを否定するつもりはありません。そういう私自身が、実は誰よりも苦を避けたいと願っている一人でもあるのです。

しかし、幾ら苦を避けたいと願っても、苦の方から避けて通ってくれる訳ではありません。

もし苦の方から避けてくれるなら、この世で苦しむ人は一人もいないでしょう。

それどころか、現実は、苦を避けたいと思っている人のところにこそ。望まぬ苦が近寄ってきているのではないでしょうか。

その証拠に、長年29日に餅つきをしてきましたが、「9=苦」と思っていない私達のところへは、何故か疫病神も近づいてきてくれません。

何故なのでしょうか?

この答えも簡単です。9という数字が、苦を招いている訳ではないからです。

苦を引き寄せているのは、実は、「9=苦」と考え、9を忌み嫌う私達の気持ちなのです。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という俳句があります。怖い怖いと思っていると、何でも怖いものに見えてくるという譬えです。

「苦でも何でもお越し下さい」と思っている人のところには、苦はやってきたくても来れません。何故なら、その気持ちがある人にとって、苦はもはや苦とはなりえない無害なものとなっているからです。

お化け屋敷に入っても怖がらない人がいますが、幽霊役の人にとって、これほど嫌なお客はいないでしょう。怖がらせなければいけないのに、怖がってくれないのですから、幽霊の出る幕がありません。

「苦でも災難でも、どんなに不都合な事でも全て受け入れます」と腹をくくった人の勝ちです。何事も在るがままを受け入れられる気持ちを持った人ほど、強いものはありません。

疫病神は、そんな人の所にはやってきません。

疫病神に魅入られるのは、それを恐れ、苦を忌み嫌っている人の方なのです。

お鏡餅を供える心構え

ご存じのように、お鏡餅は、三種の神器である鏡を模したもので、年神様(としがみさま)が宿る依り代(よりしろ)です。

年神様は、新しい年の幸福をもたらす福の神様で、その福を頂くという意味から、お正月には、家族揃って、年神様の福が宿る鏡餅をお雑煮にして頂くのが、古くからの慣わしです。

お鏡餅

天照大神の依り代である鏡は、福の神の象徴であると同時に、私達の心をありのままに映し出すものでもありますから、鏡を象徴する鏡餅を作り、お供えする心構えが、とても大切なのです。

つまり、「疫病神はお断りです。福の神様だけお越し下さい」という自己中心の分別心ではなく、「疫病神様も福の神様もすべて受け入れますからどうぞお越し下さい」という大いなる慈悲の心、無分別の心を込めてお供えするのがお鏡餅であり、その心を待っておられるのが年神様なのです。

何故なら、それこそが、福を呼び寄せる心だからです。

29日は、その大切な気持ちを再確認させて頂く日であり、お餅つきは、その気持ちをお鏡餅に込めて、ご本尊様にお供えする準備をする大切な行事なのです。

世間では「苦餅」につながるから避けた方がよいと言われる29日のお餅つきですが、法徳寺では、いまお話した理由から、新しい年を迎える心の準備をする為にも、29日にするのが最も相応しいと考え、毎年この日にお餅つきをしているのです。

合掌

平成27年12月29日

法徳寺の節分

法徳寺の豆まき

2月と言いますと、大きな仏教行事が二つあります。一つは2月3日の節分、もう一つは2月15日の涅槃会(ねはんえ)です。

ご承知のように、立春、立夏、立秋、立冬という大きな季節の節目の前日を、節分と言います。

ですから、本来、節分は年に四回ある訳ですが、現在は、一年の節目という意味合いから、立春の前日だけを節分と言っています。

季節の節目は、人間の体にとっても大きな節目となるため、昔から私達のご先祖は、一年間の無病息災を祈って、様々な厄除け行事を行ってきました。

その一つが節分の豆まきですが、どのお宅でも、今日は恒例の豆まきをされる事でしょう。

昔からの慣わしに従えば、その年の恵方(縁起の良い方角)向かって「福は内」と唱え、次に恵方に背を向けて、「鬼は外」と言いながら豆まきをする事になりますが、勿論、それも間違ってはいません。

「鬼」や「魔」というのは、人間のいのちを脅かす様々な禍や病気、災難の事(外魔)であり、人間の心に巣食う執着や貪り、怒りの心(内魔)でもあります。

「鬼は外」と言う呼びかけには、様々な禍や災難を追い払い、「心の中に巣食う執着や貪り、怒りという悪魔を追い出して、福の心(慈悲心)を呼び覚まそう」という祈りが込められているのです。

「鬼も内」とお唱えする理由

しかし、法徳寺では、あえて「福は内、鬼は外」とは唱えず、「福は内、鬼も内」とお唱えしながら豆まきをします。

「鬼に入って来られては困ります」と言われるお方もいるでしょうが、困る事など何もありません。

「福は内、鬼も内」と言って豆をまく理由は、二つあります。

一つは、鬼も衆生の一人だという事です。

衆生済度をしなければならない使命のあるお寺にとって、救われなくてもよい衆生など一人もいません。

たとえ鬼であっても悪魔であっても、法徳寺に救いを求めてくる者は、すべて救わなければならない衆生です。

鬼だ、悪魔だと言って分け隔てしていては、衆生済度は出来ません。

それでは、お寺の使命を自ら放棄しているようなものですから、本末転倒です。

むしろ鬼や悪魔ほど救いを求める心が強く、一刻も早く鬼や悪魔を呼ばれる身分から救われたいと願っている筈です。

菩薩さまも常々、「すべてが救わなければならない衆生だ。鬼も悪魔も衆生の一人だから、分け隔てなくお寺に招いてあげなさい。仏法を施し、救ってあげなければいけない」と仰っておられましたが、節分が来るといつも、この言葉が脳裏に蘇ってきます。

お大師様は、
 虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば
  わが願いも 尽きなん
というお誓いを立てておられますが、鬼も餓鬼も悪魔もみな衆生の一人ですから、鬼だけを追い出していては、お大師様の御誓願も成就しません。

福と禍は表裏一体である

二つ目は、福と鬼は別々のものではないという事です。

吉祥天と黒闇天(こくあんてん)の話をご存じでしょうか。

吉祥天は福の神、黒闇天は厄病神ですが、全く敵対しているように見えるこの二人は、実は姉妹でもあります。

吉祥天が姉、黒闇天が妹で、一心同体ですから、どこへ行くのもいつも一緒です。

こんな話があります。或る日、美しい女性がやって来られ、「私は吉祥天と言う福の神です。お宅に福を授けにまいりました」と言ったので、家人は大そう喜び、「有り難うございます。どうぞお入り下さい」と言って招き入れました。

すると、その後ろから、みすぼらしい姿をした女性が入って来ようとするので、「あなたはどなたですか?」と尋ねると、「私は黒闇天という疫病神です」と名乗ったので、「疫病神に入ってもらっては困ります。どうぞお帰り下さい」と言うと、黒闇天は大笑いしながら、「先ほど入っていった吉祥天は私の姉です。私達はいつも一心同体で、どこへ行くにも一緒なのです。もし私を追い出せば、姉も一緒に出て行かねばなりません」と言って、黒闇天を追い出したら、吉祥天も一緒に出て行かれたというのです。

「吉凶禍福はあざなえる縄の如し」と言う言葉がありますが、吉も凶も禍も福も、すべて表裏一体ですから、福だけを招く事は出来ません。

おめでたい福だけを招きたいと思っても、福の裏にはいつも禍が付いて回っているのです。

福を招きたければ、禍も一緒に招く心にならなければ、本当の福は招けません。

本当の福の神は誰か?

更に深く悟ってゆけば、何が見えてくるでしょうか?

福も鬼も分け隔てなく、すべてを在るがまま受け入れ供養させて頂く心になった時、「本当の福とは何か、本当の福の神は誰か」という事が、少しずつ分ってきます。

あなたは、今まで知らなかった節分の本当の目的に気付かれるでしょう。

禍(黒闇天)と一心同体の福(吉祥天)が、あなたの求める本当の福ではありません。禍(黒闇天)と一体の福(吉祥天)は、まだ借りの福に過ぎません。福と一体の禍(黒闇天)もまた借りの禍に過ぎません。

自分にとって不都合な事も、好都合な事も、禍も福も分け隔てなく、すべてを在るがまま受け入れようという心になった時、本当の吉祥天がそこに現われます。

その吉祥天こそ、実はあなた自身であり、あなたの本当の姿なのです。

その心を成就した時、あなたは、人々に福を授ける福の神として生まれ変わっている事に気づかれるでしょう。

あなたにとって都合の良い吉祥天という福の神も、不都合な黒闇天という疫病神も、実はあなたを福の神に生まれ変わらせる為の借りの姿だったのです。

節分は、あなた自身の中に眠る福の神を目覚めさせるための年に一度の大切な儀式であり、一年が始まる立春の前日こそが、福の神に生まれ変わる日(節が分れる日)に相応しいと考えたからこそ、我々のご先祖は、親から子、子から孫へと、節分の行事を伝え、お祝いし、祈りを捧げてきたのです。

菩薩さまが、あえて「法徳寺は、”鬼も内”だ。鬼もお招きしなければいけない」と仰ったみ心の裏には、深いお悟りと、「節分は福の神に生まれ変わる日である事に気付いて欲しい」という祈りが隠されていた事が、今になればよく分ります。

合掌

平成28年2月3日

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©Takanoyama Houtokuji

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ご同行の体験談

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試練の荒波を乗り越えて(その1)

法舟菩薩様との御縁の始まり

私は、お大師様の御修行の地、室戸岬で生れ育ち、二十一才の時、小笠原家に嫁ぎました。

弘法大師御入定千百五十年御遠忌の年(昭和59年)の6月、四十七才の時に、お四国巡拝の御縁を頂きましたが、その折、第二十一番・太龍寺からの帰り道、「南無大師遍照金剛」と何度もお唱えしていると、ふと「私もお大師様のお手伝いをさせて頂きたい」という思いが、沸々と湧いてまいりました。

その年の11月に、御厨人窟(みくろど)案内所に御縁を頂き、五人位で交替しながら納経をさせて頂いておりましたが、ちょうど私が当番の時、菩薩様が、奥様の寿法様と御一緒に衆生済度の為、お四国へ来られました。

その折、『救済』の御本をたくさんお持ちになられ、「お参りの皆さんに差し上げて下さい」と仰って、案内所に立ち寄られました。

そして、私の頭頂からフッと息をかけてお加持をして下さいましたが、身体全体がふわっと優しく包みこまれた様な感じが致しました。

主人が、昭和58年、自宅での事故で脳挫傷になり、お大師様に命だけは助けて頂きましたが、働く事が出来ず、私にとって大変苦しい時でした。菩薩様のお加持は、私の魂を清め、疲れた心を癒して下さいました。

今思えば、菩薩様の勿体ないお加持は、私を救い、室戸の広い空、深い海、そして人々を照らす灯台の灯りとなって、衆生済度のお手伝いをして欲しいという祈りが込められていた様な気が致します。

大師に捧ぐ真心の水仙

菩薩様は、苦しい時も辛い時も、常に大慈大悲の御心で、罪深き私をお導き下さいました。

昭和61年の納め大師の時、報恩謝徳の気持ちを込め、無心で摘んだ香り高い水仙の花を送らせて頂きましたところ、菩薩様から、

 春待つ日 室戸の香りそのままに
    大師に捧ぐ 真心の水仙(はな)

という御法歌のお便りを頂きました。

しかし、信仰浅き私はまだ、この御法歌に込められました菩薩様の深いお慈悲の御心も、大悲のお計らいも悟る事が出来ませんでした。

それからは毎年、納め大師が近づくと、主人と二人で水仙の花を摘み、その当時、御法嗣様が御住職をしておられた奈良県桜井市の法楽寺のお大師様、菩薩様の御宝前に御供えさせて頂く様になりました。お陰様で、平成15年の納め大師まで18年間、続けさせて頂く事が出来ました。

また高齢になった義母の介護をさせて頂く中で起きてくる様々な苦しみを、お大師様、菩薩様の尊い仏法によって乗り超えさせて頂きましたが、その苦難の中で分からせて頂きました事は、

 耐えるより 耐えねばならぬみ仏の
    慈悲の深さは 耐えてこそ知る

という事でした。

そして、その事を体感させて頂きました時、今まで介護をさせて頂いた母は、み仏様だったという事に、初めて気付かせて頂きました。心の底から母に手を合わせられるようになった時、母は安らかに旅立ちました。

加害者の救いを祈る心

平成16年3月18日、主人が国道を横切っていて交通事故に遭いました。日頃は主人も私も神仏に手を合わせ、信仰を篤くして、先祖供養に精進し、感謝して暮らしておりましたので、その主人が「まさか」と思いました。

観音様の御縁日でもあり、人さまから「南無観世音菩薩」と唱えると助けて下さると聞いておりましたので、心の中で命だけは助けて下さいと何度も救急車の中で念じました。

しかし、「命は脆い草の露」の言葉通り、最後の言葉を交わす事もなく、アッという間に旅立ってしまいました。

私の心の中をすべて分かっているかの様に、何事もよくしてくれた主人に、いつまでも生きていて欲しいという思いが強かっただけに、居なくなったという事が凄くショックでした。

しかし、病院の廊下で泣きじゃくる私を、お大師様、菩薩様は、その慈悲の御手で、しっかり抱き締めて下さっていたに違いありません。

そのお陰で、主人の死を知り、泣き崩れる加害者の若い運転手さんと会社の社長さんを前にして「主人は寿命だったと思います。辛い思いをさせてしまって御免なさいね」という労わりの言葉が、自然に湧いてきたのです。そして、若い運転手さんのこれからを思いやる心が込み上げてきて、手が自然とその背中を擦っていたのです。

不思議でした。私の心が本当に安らかなのです。

「お大師様、菩薩様に守られて、魂が救われているという事はこういう事なのだ。こんな辛い時でも、こんなに安らかな気持ちで居られるのだ」という事を、身を以て体験させて頂きました。

それは、私にとってとても尊いお悟りであり、感動でした。

「若者の背中を擦らせて頂いたあの手は、お大師様、菩薩様の御手だったに違いない。きっと運転手さんを救って下さる」

私はそう確信しました。そして、ただその事だけを祈りました。

私の魂を救って下さったみ仏様

主人は第二十四番・最御崎寺の檀家総代を三世にわたってさせて頂いておりましたので、「明星院」という院号を頂きました。

御住職様の御読経の最中、ふと顔を上げると「明星(あけのほし)」という字が目に入り「ああ、主人は明星(あけのほし)となって光り輝き、虚空蔵菩薩様と一体になって、いつまでも私たちを照らして下さるのだ。主人は、今回の自動車事故というお計らいを通して私の魂を救う為、尊い命を捧げて下った御仏様だったのだ」そんな思いが頭をよぎりました。

今思えば、お大師様は、昭和五十八年の脳挫傷事故の時に、本来なら亡くなっていた主人の命を助けて下さり、私を信仰に導いて難行苦行を体験させ、私の心が救われる日まで、二十一年間、主人との暮らしを続けさせて下さったに違いありません。私は、そう確信致しました。

その後、御法嗣様より

「加害者の若者は、小笠原さんが自ら背負っている因縁を解く為には、どうしても遇わなければならない因縁の相手であり、その若者と遇わなければ、因縁を解く事が出来なかったのだと思います。だからこそ、ご主人は、自らの身を捨てて、その若者と出会わせて下さったのです。
小笠原さんは、因縁の相手に真心で接し、周囲の人々を真心でつつまれました。そして、難行苦行に耐え、見るも綺麗な真心の水仙を咲かせられました。
その真心の水仙は、若者の家族を救い、小笠原さんの家族を救い、そして小笠原さん自身を救ったのです。
輪廻の業を更に積み重ねるか、それとも因縁を解いて末代までの幸せの道を開くか、道は二つに一つですが、小笠原さんは、人生最大の難所を真心で乗り超えられ、末代までも続く幸せの道を切り開かれたのです」

という勿体ない、有難いお手紙を頂戴致しました。

法徳寺発足の日に頂いた証

平成16年4月13日、姉の真心に支えられ、法徳寺発足の佳き日、姿こそ見えないけれど、亡き主人と共に、菩薩様の元へ帰らせて頂く事が出来ました。

菩薩様は、私の横に亡き主人の席(座布団)を用意し、私がこの試練を乗り越えて真心を成就し、救われて帰って来る日をお待ち下さっていたばかりか、千年万年に一度有るか無いかという、有難い法徳寺発足の御祝いの日に、山中様を通じて、素晴らしい証まで用意して下さいました。

それは、平成15年の納め大師に、亡き主人と共に御供えさせて頂いた最後の水仙で作られた押し花でした。

私にとりましては、思いもしない夢の様なお計らいであり、姉と二人で号泣致しました。

山中様には、菩薩様の尊いお遣い、お手伝いをして下さいまして、心から勿体なく、有難く、厚く御礼申し上げます。

また御法嗣様より、

 春咲く日 室戸の香りそのままに
    菩薩に捧ぐ 真心の同行(ひと)

という御法歌を賜り、「ご主人は亡くなっておられません。その証がこの水仙です。ご主人は、この水仙の花と共に、小笠原さんの真心と共に、これからも生き続けていかれると私は確信しております。そしてお大師様、菩薩様と共に、いついかなる時も、小笠原さんの行く末を見守っていかれると思います」という勿体ないお手紙を頂きました。

八月のお盆、主人は丁寧に供養して頂き、十六日、法の舟に乗せられて弥陀のふるさとへ旅立ちました。

24日のお地蔵様の日には、会社の社長さん、そして、加害者の運転手さんと奥さんが、「本当に救って頂きました。有難うございました」と言って、花束を持ってお参り下さいました。

私もこれから菩薩様に救われた同行の一人として、主人と共に、悩み苦しむ人々を救済するお手伝いをさせて頂けますよう、精進してまいりたいと思っています。これからもお導きの程よろしくお願い申し上げます。

合掌

試練の荒波を乗り越えて(その2)

若者との再会

平成16年3月18日、お大師様、菩薩様の尊い大慈大悲のお導き、お計らいにより、主人が弥陀の浄土へ旅立って今年(平成20年)で五回忌になります。

命日を迎える一ヶ月ほど前の2月21日、事故を起こした加害者の運転手さんが、お参りに来て下さいました。

そして、「事故を起した後で体が悪くなり、会社を辞めて入院し、半年後に退院しました。その後は、仏様に手を合わす生活をしています。やっと再就職する事が出来、もっと早く来たかったのですが、初めて休みが取れましたので、お参りさせて頂きました」と云って、自分が思っていることを色々と話されました。

私が背負っている因縁を解く為には、どうしても遇わなければならない因縁の相手であり、若者と遇わなければ因縁を解くことが出来なかったのだと、御法嗣様はお導き下さいました。

菩薩様のお計らいで遇わせて下さった若者ですので、帰られる時、道歌集を渡し、菩薩様の救いの御手によって、若者の魂が救われ、望んでおられるお子さんが無事誕生するよう、祈りました。

不思議な霊夢を見る

その晩、不思議な夢を見ました。

私は一人で、田の畦道を歩いていました。前の方に御婦人が二人、その後を若者が歩いていました。二人の御婦人の姿はもう見えなくなり、私は若者に手を差し延べて、「待って、待って」と大声で叫びながら走っていました。

犬の哭声が聞こえ、角を曲ると、お爺さんと牛がいました。細い畦道ですので、お爺さんは犬と牛を両手でかばい、「これを食べながら帰りなさい。ここを行った所が山梨だからね」と云って、柔らかい皮のついたままの筍(竹の子)を一本下さいました。

ふと横を見ると、先程の若者がいましたので、「待っていて下さったの?」と声をかけた所で、目が覚めました。

尊い霊夢から目覚めても「ここを行った所が山梨だからね」と教えて下さった「山梨」という言葉が、山梨の高野山法徳寺と重なって心に深く残り、胸がいっぱいになりました。

法徳寺の御寺紋の干菓子

それから一ヶ月が経った3月21日、御厨人窟案内所から帰って来ますと、玄関に荷物が置いてあり、「お留守でしたので、お墓にお参りさせていただきました」という、運転手さんが勤めていた会社の社長さんからのメモがありました。

社長さんは女性で、今まで数々の真心を頂き、お参り下さった時は、いつも手を取り合って、お互いを観音様と拝み合う仲でしたので、留守をしていた事が大変申し訳なく、是非お会いしたかったと思いながら、頂いたお品を抱き締めますと、いつも変わらない真心に胸が熱くなり、涙が溢れて止まらず、声を出して泣きました。

中を開けて見ますと、他の品物と一緒に、可愛いピンク色の箱があり、その中に、お干菓子が入っていました。

驚いた事に、そのお干菓子は、見れば見るほど、法徳寺の御寺紋である桜紋と升紋が一体となった、法徳寺の御寺紋そのものでした。

そのお干菓子を見た瞬間、私は、「菩薩様の桜だ」と直感し、菩薩様のお計らいに違いない事を確信いたしました。

その後、社長さんから、「今回、ご主人のご供養は懇ろにさせて頂きました。M(運転手さん)は退社し、私も会社を長男に譲り、引退いたしました」とのお電話を頂きましたが、私は、心の中で、運転手さん、社長さんとの因縁を解く大きな節目を迎えたように思いました。

因縁が解けた証と悟らせて頂く

それから一ヶ月後の平成20年4月13日の春の大法要に、慈悲のおやざと・高野山法徳寺へ、姉と二人で帰らせて頂きましたが、山梨へ向かう前日の道中で、思いがけないお計らいがございました。

社長さんがお供えにとお持ち下さったお干菓子の内、五個を大阪の姉の家に持参し、菩薩様の御宝前にお供えさせて頂きました。

姉は二個をお下げし、「これは山梨行きのバスの中で私達が頂きましょう」と言って、御同行のTさんから頂いた可愛い袋に入れ、バスに乗りました。

ところが、バスの中で頂くつもりが、お菓子の入った袋をバスの下のトランクの中に入れてしまったため、そのまま食べずに、法徳寺へ持ってくる事になったのです。

最初はその事の意味が分りませんでしたが、これが、菩薩様の尊いお計らいであった事が、法徳寺へ帰らせて頂いて、ようやく分らせて頂きました。

大法要前日の4月12日、姉と二人で高野山法徳寺へ帰らせて頂き、因縁を解く夢殿の御回廊廻りの行をさせて頂き、数々のお計らい、法力を賜わって無事帰らせて頂きましたことを、深く感謝申し上げてお参りさせて頂きました。

そして、御法嗣様、御家族の皆様に二個のお干菓子を御提示させて頂き、社長さんも運転手さんも会社を離れ再出発されました事や、不思議な霊夢を見せて頂いた事などをお話させて頂きましたが、その話を聞いていただく為には、どうしても二個のお干菓子を法徳寺までお届けしなければならなかったのです。だから、山梨へ来る道中で、食べさせて貰えなかったのだと思いました。

御法嗣様は、

「筍(竹の子)には節がありますからね。運転手さんとの因縁が解けたという事ですよ。小笠原さんは、大きな節を乗り越えられましたね。おめでとうございます。升の中に桜の花が入ったこのお干菓子は、菩薩様から頂いた証ですよ」

とお教え下さり、尊いお悟りを開かせて下さいました。

御回廊廻りの功徳

御同行の笹岡さん、中平さんが遠路わざわざ届けて下さいました、額に入った立派な法徳寺の夢殿のお写真の前で、小笠原家の因縁を解く夢殿の御回廊廻りの行を、心に念じながら、平成19年10月30日より毎朝させて頂いておりました。

お蔭様で、主人が弥陀のふるさと・高野山法徳寺へ救われて帰らせて頂いてから五年、御回廊廻りの行を始めさせて頂いてから五ヶ月と十八日で、運転手さんとの因縁を解かせて頂くことが出来ました。これこそ、菩薩様の通力の偉大さを物語る以外の何ものでもありません。

そして、その証が、法徳寺の御寺紋をあしらったかの様なお干菓子ですが、私にはこのお干菓子が、社長さんの数々の真心が成就した証でもあるように思えました。

山梨からの帰りのバスの中で、姉は「霊夢に出て来た二人の御婦人は、N様とH様で、お爺さんは菩薩様、若者は運転手さんで、犬は戌年生まれの私(姉)、牛は丑年生まれのあなたよ」と、私に教えて下さいました。

私に与えられた使命

有難い事に、法徳寺へ帰らせて頂きますと、いつも分らないお計らいやお導きについて悟らせて頂けるのでございます。

こんな素晴らしい救済の御寺は、世界中どこを探してもございません。

夢殿の御回廊廻りと汗露水で因縁を解いて頂ける御寺、仏法(歌碑)のあるお寺、高野山法徳寺に帰らせて頂けるわが身の幸せを、いつも痛感しております。

O家の因縁を解く夢殿の御回廊廻りの行は、今も毎朝、心に念じながら続けさせて頂いております。お大師様、菩薩様を信じ切ることの大切さを、身を以て体感させて頂き、深い慈悲心に救って頂きました事は、末代までも忘れるものではございません。

これからも自分一人の救いに安住することなく、傷付いた人々の心を優しく包んであげることが、私に与えられた使命であり、菩薩様の願いであると深く肝に銘じ、多くの悩み苦しむ人々が救われて、生き仏様の下へ帰らせて頂けますよう、法縁の皆様に語り伝えてゆきたいと思っております。

お大師様、菩薩様、御法嗣様、御家族の皆様、本当に有難うございました。

南無大師遍照金剛
南無普門法舟大菩薩

合掌

試練の荒波を乗り越えて(その3)

社長さんの思いがけない訃報

お大師様、菩薩様の尊い大慈大悲のお導き、お計らいにより、主人が弥陀の浄土に旅立って今年(平成21年)で五年が過ぎました。

昨年六月の或る日、多忙な日々が続き、読むことの出来なかった新聞を三日分持って、御厨人窟(みくろど)案内所へ行きました。

いつもはそのままめくってしまう訃報の欄に、主人を撥ねた運転手さんが勤めていた会社の名前が載っていました。ハッと思って見ますと、

「妻(社長)儀病気療養中のところ、六月二十四日午後零時二十八分、満五十九歳にて永眠いたしました。ここに生前のご厚誼を深謝し謹んでお知らせ申し上げます。通夜六月二十六日 告別式六月二十七日」

と書いてありました。

もう告別式も済んだ後でしたが、きっとお大師様、菩薩様が、社長さんの死を知らせる為、私に訃報欄を読ませたに違いありません。

社長(女性)さんは、会社を長男さんに譲り引退なさいました時も、まだお若いのにと思いましたし、最後のお電話の時も「もうこれから何もなさらないで下さいね」と、一言一言噛み締めるように仰っていましたけれど、言葉の意味がその時の私には分りませんでした。

まさか御病気だったとは、夢にも思っていなかっただけに大変ショックを受けました。何も手につかない状態が、数日続きました。

社長さんとの思い出

社長さんは、主人の事故以来、御自分のことのように、二時間余りの道のりを、七日毎の忌日、四十九日の満中陰、初盆、一周忌、三回忌、五回忌、そしてその間も何度となくお参りに来て下さり、留守の時は、玄関や事故の現場にそっと花束を置かれ、またお約束しました時は、救済誌や御法嗣様からのお手紙を拝読して頂き、菩薩様の道歌、

 耐えるより 耐えねばならぬみ仏の
    慈悲の深さは 耐えてこそ知る

を書かせて頂いたり、「お大師様、菩薩様に、人の心の痛さの分る人になりなさいと、導いて頂きました」と、色々なお話をさせて頂きました。

社長さんは、「生まれて初めてお四国を巡拝させて頂きました。ただ一心にご主人様の御成仏を願って、お大師様に合掌致しました」と、一周忌には、紀州高野山のお大師様の御影や、お寺での御供養の御札や御納経帳をお供え下さいました。

誰にも真似の出来ない真心の数々に、み仏様の化身のように思いました。

お会いする度に、いつも手を取り合ってお互いを観音様と拝み合っておりましたので、社長さんとは、いつまでも心を通わさせて頂きたいと願っておりましたし、お会いするのが楽しみでした。

社長さんのお役目

社長さんは、平成18年、大腸がんの手術を受けられ、その時、お医者さんに余命八ヶ月と告げられたそうですが、「二年間、生かせて頂きました。最後は安らかに旅立ちました」と、会長さんからお電話を頂きました。

旅立たれる三ヶ月ほど前の平成20年3月21日、主人の五回忌にお参り下さいましたが、その時、ちょうど御厨人窟案内所の御奉仕に行っておりましたので、お会いすることが出来ず、残念でなりませんでした。

二時間余りの道のりは、お身体も大変だったと思いますが、社長さんは、どんなにお身体が苦しくても、小笠原家の因縁が解けた証である法徳寺の御寺紋の干菓子を私に届けるという、お大師様、菩薩様からの大行のお役目を成就しなくてはならなかったのだと思いました。

善根功徳を数々積まれ、運転手さんとの因縁、会社の因縁を解かれた証を持って、ゆっくりゆっくりお役目を成就なされて、お大師様、菩薩様に導いて頂いて、救って頂いて、心安らかに、魂のおやざと、弥陀の浄土に旅立たれたことでしょう。

社長さんが旅立たれた日が、お観音様の18日かしらと、ふと頭を過ぎりましたが、新聞には、6月24日とありました。

24日は、ご承知のように、法舟大菩薩様の代受苦のお姿であります身代り升地蔵菩薩様のご縁日であります。

社長さんの旅立ちが18日ではなく24日だった事で、私は、主人の事故にまつわる全ての出来事が、小笠原家の因縁を解くための法舟菩薩様の尊いお計らいであった事を、改めて確信したのです。

お大師様、菩薩様と共に在る日

年二回、姉と二人で、春秋の大法要への帰郷ではありますが、尊い霊夢を見せて頂きましても、数々のお計らいを頂きましても、法徳寺に帰らせて頂き、体験させて頂きましたことをお話させて頂くことにより疑問が晴れ、お計らいのすべての真相が明らかになり、奥深い悟りへと導いて下さり、生き仏様のみ心の中にしかない答えを悟らせて頂けるのでございます。

平成10年、母の介護の時、過労から左の眼球が突然動かなくなり、物が二重に写って歩行も困難になりました。

病院の先生は「入院して原因を調べましょう」と云って下さいましたが、入院しても原因は分らないだろうと悟りましたので、母の介護を続ける道を選びました。

お大師様、菩薩様にお縋りし、最御崎寺の奥の院に、お大師様が一夜で建立なさいました一夜建立の岩屋観音窟の入口にある一畑薬師瑠璃光如来様、目のお地蔵様に毎日お茶をコップに入れてお供えし、お経を唱えて一心に眼球が動くようになりますよう、お願いしまして、家に持って帰り、眼を洗う日々を続けました(主人も時々一緒に)。

実家のお嫁さんも、毎日どんなに忙しくても、小笠原家に来て、お世話をしてくれました。有難く、勿体なく思い、一心に治して頂けるよう祈りました。

この目を治して頂けたら、私の人生は変ると思いました。「これからは、世のため人のために尽す人生を送らせて頂きますので、どうぞ治して下さい」と一心にお誓いしました。

六ヵ月後、お医者様も治るとは云わなかった目が、うす紙を一枚一枚剥ぐように、元の目に治ったのです。

お大師様、菩薩様は、私が、世のため人のために尽す菩提心を発せるよう、有難く、厳しい行をさせて下さったのだと思いました。

私が誓わせて頂きました世のため、人のために尽すことが本当に出来るのか、生き仏様の子に生れ変ることが出来るのか、主人の事故は私の心に問われた尊いお計らいであったと思います。

運転手さんのことを悪く思わない心になれたのも、数々のお計らいのお陰で、心は本当に安らかでした。

常日頃、お大師様、菩薩様と心を通わせて頂いておりますと、不思議を見せて下さり、どこに居ましても、そこは弥陀の浄土であり、心が救われるのです。

お大師様、菩薩様にお誓い致しました衆生救済のお手伝いに真心を尽したいと、精進を重ねております。

 人の世の 闇路を照らす 法のみ仏に
 深き宿世の縁 いただくからは
    いつの日も誓いを胸に 真心を尽さん
    み仏に捧げたてまつる 真心の水仙
    永遠に捧げたてまつる 真心の水仙

南無大師遍照金剛
南無普門法舟大菩薩

合掌

私が歩んできた道

わが身の幸せを感じる日々

平成16年4月13日、高野山法徳寺が山梨に発足してより今日まで、毎月ご縁日には法徳寺へ帰らせて頂き、尊い仏法に遇わせて頂いておりますが、今の世の人々の姿を見ていますと、同じ人間でありながら、こうして億劫にも遇い難き仏法に遇わせて頂ける我が身の幸せに、何時も感謝の気持ちでいっぱいです。

以前の私は、「幸せとは何か。どうしたら幸せになれるのか。悩みや苦しみはどうすれば解決するのか」と、あれこれ思案しておりましたが、今では、森羅万象全てに感謝をし、お大師様、菩薩様を信じ切って、在るがままを受け入れる心になれば、そこがもう極楽である事が、自分の心の中に少しずつ見えて来たように思います。

しかし、在るがままを受け入れると言いましても、そこはやはり仏法のお導きがなければ、中々その心には成り難いもので、毎月ご縁日に頂ける尊い仏法のお導きのお陰と感謝しております。

菩薩様との御縁の始まり

私が、菩薩様にご縁を頂きましたのは、今から23年余り前の昭和61(1986)年12月21日の納め大師でした。

この時は、山梨の法徳寺ではなく、奈良県桜井市にある法楽寺というお寺でしたが、ちょうどその年の9月頃から体調が悪くなり、特に首の周辺の凝りがひどく、毎日がとても辛いものでした。

仕事にも熱中できず、憂鬱な毎日が続いていましたが、この苦しみから何とか救って欲しいという、ただそれだけの思いで法楽寺へお参りしたことを、今でも覚えております。

菩薩様は、「ここは病気を治すところではありません。病気が治るところです。」と仰いましたが、当時の私にはその意味がまったく分からず、ただ病気を早く治して欲しいだけの一心でした。

ある出社の朝、体調が特に悪くなり、菩薩様にこれからお会いしたい旨のお電話をさせて頂きましたところ、「私はこれから、大勢の苦しんでいる人の前で説法をしないといけないので、あなただけに会う事は出来ません。」と断られました。

そしてその時、「あなたも、仏に見込まれて仏の道に入ったのかなー」と仰いましたが、当時の私には、その言葉の意味が理解出来ず、心に受け入れる事が出来ませんでした。

初めてのお四国参りと退職

昭和62年9月21日、法楽寺へお参りさせて頂いたその夜、急に四国八十八ヶ所霊場をお参りしたくなり、今は亡き叔母のF・E様に同行をお願いしたところ、快く引き受けて下さいました。

翌22日から24日までの三日間で、第1番札所・霊山寺から第23番札所・薬王寺までお参りすることが出来ました。

その後、体調は更に悪化し、鍼灸治療を試みても治らず、頭部の精密検査をしても異常は見つからず、姓名判断(今から思えば邪教と同じ) にも相談に行きましたが、良くなりませんでした。

ただ不思議な事に、法楽寺や高野山からの帰りは、とても体が楽になっていました。

その後、家族四人揃って、平成元年5月3日から5日までの三日間、第24番札所・最御崎寺から第36番札所・青龍寺までと、第75番札所・善通寺にお参りすることが出来ました。

その頃から徐々に体調が回復して来ましたが、平成14年春頃に再度体調不良となり、会社を辞めようと思案しておりましたところ、選択定年制度 (早期退職制度) が発足し、その年の12月に50歳で退職致しました。

私が進むべき道

今から思いますと、昭和61年9月頃に体調を崩した事がきっかけで、その年の12月21日に菩薩様とご縁を結ばせて頂いた訳ですから、今の私があるのは、その時の苦しみのお陰と言わなければなりません。

その時は、首の周辺の凝りがひどくて、毎日がとても辛いものでしたが、今考えてみますと、お大師様と不二一体の生き仏となられた菩薩様の衆生救済のお手伝いをさせて頂く為、お大師様に襟首を掴まれていたのではないかと思うのです。

鍼灸治療を試みても、頭部の精密検査を受けても、姓名判断に相談しても良くならなかったのは、私の進むべき道がもうその時に決まっていたからではないでしょうか。

法楽寺や紀州高野山の帰りは体がとても楽だった事や、何処へ行っても良くならなかったのは、その事を私に教える為だったに違いありません。

当時は何も分からず、「Kさんも仏に見込まれて仏の道に入ったのかなー」と仰った菩薩様の言葉を素直に受け入れる事が出来ませんでしたが、今になれば、その言葉の意味がよく解ります。菩薩様は、すでに私が進むべき道を見通しておられたのです。

在るがままを受け入れよ

現在55歳ですが、会社を辞める事により、微力ながら法徳寺発足のお手伝いをさせて頂けました事は、私にとりまして何よりの光栄であり、また毎月菩薩様にお導き頂き、法徳寺へ帰らせて頂ける事が何よりも有難く、この上ない喜びとなっております。

今の私は、悩みや苦しみが全くありません。
お大師様、菩薩様を信じ切って、在るがままを受け入れるという思いになれば、心は穏やかで、今が極楽なのです。

最近感じている事ですが、法徳寺にご縁が有ってお参りされている人(御同行) は、全て彼岸(極楽) にいると思います。

しかし、その事に気付かれていない人も、大勢おられるのではないでしょうか。

森羅万象全てに感謝し、在るがままを受け入れるだけでいいのです。不都合な事でも感謝するだけでいいのです。決して難しい事ではありません。

そういう思いになれば、自分のいるところが彼岸 (極楽) だという事が分かって来ると思います。

勿論、「在るがままを受け入れる」という事は、簡単な様で、実はそう容易な事ではありません。在るがままとは、自分に都合の良い事だけでなく、都合の悪い事も受け入れていくという事だからです。

人間は都合の悪い事が起きると、それを受け入れることが出来ず、悩んだり苦しんだりしますが、その心を超えるには、菩薩様の仏法を頂く以外にはありません。

ですから、在るがままを受け入れられる心を作らせて頂く為にも、自ら仏法を求め、教えを受ける事が大切だと思います。

一年365日の内の13回の御縁日は、み仏が決められた仏法に遇える日です。たった13回、仏の都合に合わせて頂くだけでいいのです。

私も昔はそうでしたが、自分の都合でお参りするだけでは、中々悟りは得られないと思います。

何時かは悟らせて頂けるとは思いますが、無常の中にいる人の身である以上、いつ命の時間切れとなるやも知れません。ですから、命のある内に一回でも多く仏法を聞き、超えた心を作らせて頂かなければならないのです。

菩薩様が代受苦という大変な行をなさって私達衆生に残された道歌(仏法)を、ただ俳句や川柳の様に詠むだけではなく、一つ一つ心に噛み締め、それを信じ切って実践していく事が大切だと思います。

菩薩様の様な大変な行をしなくてもいいのですから、こんなに有難い事はありません。

今は自分や家族の幸せを願うだけではなく、悩み苦しんでいる人を、真心を以て救済出来ればいいと思っています。

その為にも、お大師様、菩薩様の衆生救済のご誓願が一日も早く成就されるよう、今以上に精進し、微力ながらお役に立てればと、誓いを新たにしております。

汗露水に額ずく僧侶の群れ

限りない慶びに満たされて

平成の弘法大師様と仰がれ、生き仏様であらせられる普門法舟大菩薩様が御入定なされて早や16年、菩薩様の悲願である救済の御寺「宗教成合の郷・高野山法徳寺」が若神子の聖地に御開創されて3年、威厳ある客殿「昇龍閣」、白鶴が翼を広げて舞っているかの如き優美な姿を見せる菩薩様御廟「夢殿」、その夢殿を廻る救済の御法歌を刻んだ四十九基の歌碑、そしてその周囲に造られたお大師様のお救いの足跡をたどる「お四国八十八ヶ所お砂踏み霊場」の御回廊と、次々に厳粛な開眼法要が営まれ、菩薩様のお慈悲の広大さを御示現なさいました。

そして平成17年は、菩薩様の衆苦(代受苦)の御汗、心身を清め癒す御聖水である尊い「汗露水」を賜わり、4月13日、春の大法要におきまして「汗露水湧出記念法要」が昇龍閣にて厳修されました。誠に勿体なく、限りない慶びでございました。

この汗露水の尊さは、救済誌にもございましたように、御法嗣様をはじめ、ご家族や御同行の皆様が、菩薩様の通力に敬意を持って心身に感知し、御心に添った御行をなさり、賜わったものでございます。勿体なく存じ上げます。

私もこの「汗露水」の尊さを体験させて頂きましたので、その一端をお話させて頂きたいと存じます。

汗露水を賜わる感謝の祈りの行

平成17年10月20日、魂のおやざと「宗教成合の郷・高野山法徳寺」に勇み帰らせて頂き、生き仏様の尊い法の光を心身に賜わり、誠に勿体ない限りでございました。

その折に「汗露水」掘削にまつわる不思議なお計らいと、御法嗣様の御行の厳しさを目の当たりにし、尊く有難く、私も何かお役に立たせて頂かねば申し訳ないと思いました。

私をはじめ多くの人々の心身の罪を一身に受けての代受苦のお姿を拝し、この耐え難い痛みの御行が早く終り、お大師様、菩薩様からの衆生救済のための御聖水「汗露水」が賜われますように願わずにはおられませんでした。

そして、懺悔滅罪の千巻経を唱える祈りの行をはじめました。
雑念が入らぬようイメージして心経を唱えつつ、夢殿の御回廊を素足で廻らせて頂きました。
結願しても、もっともっと行をさせて頂きたい気持ちが治まりませんでした。

来る日も来る日も欠かすことなく続けて半年、その祈りの行の中で、不思議な夢を見させて頂きました。

汗露水をひれ伏し拝む僧侶の群れ

仏壇に向かいイメージして感謝の般若心経を、紀州高野山奥の院御廟のお大師様に奉り、夢殿の御回廊を廻って法舟菩薩様に奉り、昇龍閣に奉り、庫裏に奉り、そして庫裏の左側の「汗露水」掘削の聖地に奉る頃、ウトウトとなると、萌黄色の法衣を召された御法嗣様が私の前にお立ちになり、掘削中の聖地に合掌なさるところでございました。後方にひざまずき、心経を唱え終ると目覚めました。

その後、何回となく同じ夢を見て、毎日の行に熱中して行きました。

ある時、夢の中で、「汗露水」湧出の聖地を拝む御法嗣様の法衣が金色に輝き、大きなお姿になられたのです。

前方の空があかね色に染まり、御法嗣様のお姿は夢殿におわします身代り升地蔵菩薩様にお成りでございました。光り輝く神々しい後姿にひれ伏し、合掌の手がふるえていました。

そのお姿の影を避けようと後を見て、飛び上がるほど驚きました。

法徳寺の広い広い境内が、墨染めの僧衣を召されたお坊様で、隅から隅までぎっしり埋めつくされ、「汗露水」湧出の聖地に向かい、深々と額ずくお姿でございました。

「この汗露水が如何に尊いか、決して忘れるでないぞ」と菩薩様が仰せられる様に、湧出の聖地をひれ伏し拝むお坊様のお姿を、何度も何度も夢に見ました。

夢の中で、お坊様のひれ伏し拝む前に私がいては恐れ多いと思い、法徳寺境内の入口あたりでお坊様方をお迎えし、お見送りしようと座しておりますが、お一人として私の前をお通りになりません。

目覚めて思いました事ですが、高祖弘法大師様のおわします紀州高野山と同様、高野山法徳寺には法舟大菩薩様を敬い、お慕いし、仏法を学ぶ修行僧が、私たち凡人にはそのお姿こそ見えないけれど、大勢お住みになっておられる事をお知らせ下さったのでございます。

大勢のお坊様もひれ伏し拝む衆生救済の御寺、「汗露水」の湧き出ずる霊験あらたかな御寺は、「高野山法徳寺」ただ一寺でございます。

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自家用車を使う

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東京・名古屋・大阪方面から御帰郷

中央自動車道・須玉インターで降り、インター出口の信号を右折(清里・小諸方面)して国道141号線を北上、三つ目の信号(北杜市須玉総合支所前)を左折し、株式会社リガク山梨工場を通り過ぎた所に立っている「法徳寺」の看板の所を右折、さらに突き当たりを右折し、道なりに沿って進み、二軒の民家の前を通って進めばお寺に至る。(インターからの距離約2.5キロ、所要時間約5分)

清里・小諸方面から御帰郷

国道141号線を南下し、「北杜市須玉総合支所前」の信号を右折、株式会社リガク山梨工場を通り過ぎた所に立っている「法徳寺」の看板の所を右折、さらに突き当たりを右折し、次の角を左折して二軒の民家の前を通って先へ進めばお寺に至る。

法徳寺周辺地図

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高速バスを使う

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東京方面から御帰郷

(1)新宿駅西口⇔諏訪・岡谷駅

新宿駅西口の安田生命第2ビル1階「新宿高速バスターミナル」から中央自動車道の「中央道須玉」バス停までの所要時間2時間16分

(2)運行バス会社

京王高速バス予約センター諏訪バス予約センター富士急行予約センター

※「ハイウェイバス ドットコム」にアクセスしてインターネットから予約する事も出来る。

ハイウェイバス ドットコム

※「中央道須玉」バス停から法徳寺までのタクシー料金は、約1,000円。 所要時間は約5分。地元のタクシー会社に前もって連絡しておくと、バス停で待っていてくれる。
▼三共タクシー
(北杜市須玉町若神子1384番地)
(フリーダイアル)0120-372-328 又は0551-42-2328

大阪・京都方面から御帰郷

(1)大阪・京都⇔甲府駅前

梅田からの所要時間は、約7時間

(2)運行バス会社

山梨交通バス近鉄バス

※「ハイウェイバス ドットコム」「(株)日本旅行・バスぷらざ」「(株)JTB・高速バスチケット」にアクセスしてインターネット乗車券を予約購入することも出来る。

ハイウェイバス ドットコム(株)日本旅行・バスぷらざ(株)JTB・高速バスチケット

名古屋方面からの御帰郷

(1)名古屋駅⇔甲府駅

所要時間は4時間3分

(2)運行バス会社

山梨交通バスJR東海バス

※「ハイウェイバス ドットコム」「(株)日本旅行・バスぷらざ」「(株)JTB・高速バスチケット」にアクセスしてインターネット乗車券を予約購入することも出来る。

ハイウェイバス ドットコム(株)日本旅行・バスぷらざ(株)JTB・高速バスチケット

※各バス会社の運行時間や乗車料金は、変更になっている場合がございますので、お参りの際は、必ず前もって各バス会社のホームページでご確認いただくか、直接お電話でお問合せ頂きますよう、お願いいたします。

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JRを使う

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東京方面から御帰郷

(1)新宿~韮崎・日野春

JR中央本線・松本行き特急「スーパーあずさ」「あずさ」、甲府行き特急 「かいじ」が、ほぼ30分おきに運転されている

(2)所要時間 1時間50分

中央本線時刻表(新宿~韮崎・日野春)

大阪・名古屋方面から御帰郷

(1)大阪~名古屋~塩尻(乗り換え)~日野春・韮崎

 ①大阪~名古屋
  新幹線  新大阪~名古屋
   所要時間1時間
  近鉄 名古屋行き特急 難波~名古屋
   所要時間2時間

※大阪駅8時58分発・JR長野行き特急「(ワイドビュー)しなの9号」を利用すれば、塩尻まで直行できる(3時間51分)

 ②名古屋~塩尻
  JR中央本線
  長野行き特急「(ワイドビュー)しなの」
   所要時間 1時間50分
 ③塩尻~日野春・韮崎
  JR中央本線
  新宿行き特急「スーパーあずさ」「あずさ」
   所要時間57分
中央本線時刻表(塩尻~日野春・韮崎)

静岡・富士方面から御帰郷

(1)静岡・富士~甲府(乗り換え)~韮崎・日野春

JR東海道本線静岡駅から特急「(ワイドビュー)ふじかわ」が、JR身延線を経由して甲府まで1日7往復、直通運転している。

(2)所要時間 静岡~甲府 2時間10分

身延線時刻表(富士~甲府)
中央本線時刻表(甲府~韮崎・日野春)

清里・小諸方面から御帰郷

(1)小諸~小淵沢(乗り換え)~日野春・韮崎

(2)所要時間 小諸~小淵沢 2時間12分

小海線時刻表(小諸~小淵沢) 中央本線時刻表(塩尻~日野春・韮崎)

※各列車の運行時間は、ダイヤ改正により変更される場合がありますので、事前にJR東日本のホームページ等でご確認頂くか、最寄の駅にお電話でお問合せ下さい。

乗り換え案内検索

駅から時刻表乗換え案内

JR韮崎駅・日野春駅時刻表

JR韮崎駅時刻表JR日野春駅時刻表
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駅からお寺へ

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JR韮崎駅からバスで御帰郷

(1)路線バス 韮崎(にらさき)駅で「増富(ますとみ)温泉郷行」に乗車 「若神子中」(わかみこなか)バス停で下車 所要時間25分 運賃530円

(2)バス時刻表

山梨交通バス時刻表案内

(3)若神子中バス停から法徳寺へ

 バス停から徒歩で20分~30分かかるので地元タクシーを利用した方が便利。タクシー料金は、バス停から法徳寺まで約700~800円。韮崎駅から前もって電話しておけば、バス停で待っていてくれる。

 三共タクシー tel:0120372328

JR韮崎駅からタクシーで御帰郷

 韮崎駅前タクシー乗り場からの所要時間約25~30分、料金約3000円

JR日野春駅からタクシーで御帰郷

 JR日野春(ひのはる)駅からの所要時間約10分、料金約1500円

 北杜タクシー tel:0120322055
 旭タクシー tel:0551262624

駅から法徳寺までの地図

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周辺の宿泊施設

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韮崎市

よろづや旅館

・よろづや旅館(0551-22-0104)
JR中央本線・韮崎駅から徒歩2分

清水屋旅館

・清水屋旅館(0551-22-0024)
JR中央本線・韮崎駅から徒歩約10分

ホテル・ルートインコート韮崎

・ホテル・ルートインコート韮崎(0551-23-1011)
JR中央本線・韮崎駅から徒歩約15分

穴山温泉「能見荘」

・穴山温泉「能見荘」(0551-25-5011)
JR中央本線・穴山駅から徒歩約15分

旅籠屋

・旅籠屋(0551-25-4858)
JR中央本線・新府駅から約2.3Km、韮崎駅から約5Km

北杜市須玉町

おいしい学校

・おいしい学校(0551-20-7300)

予約又はチェックインの時に会員登録(2,000円必要)すると、会員割引が受けられる。一部屋に一人の会員がいれば、他の宿泊客も会員と同様、会員割引価格で宿泊出来る。

北杜市明野町

ハイジの村 クララ館

・ハイジの村 クララ館(0551-25-2601)
JR中央本線・韮崎駅からタクシー15分

清里・八ヶ岳高原

伊予ロッジ

・伊予ロッジ(0551-48-2334)
JR小海線「清里駅」から徒歩10分 マイクロバス(9人乗り・29人乗り)有り

ロッジこすもす

・ロッジこすもす(0551-48-2941)
JR小海線「清里駅」から徒歩10分

清里ユースホステル

・清里ユースホステル(0551-48-2125)
JR小海線「清里駅」より徒歩5分

清泉寮(キープ協会)

・清泉寮(キープ協会)(0120-88-2099・0551-48-2111)
JR小海線「清里駅」から清里ピクニックバスで6分、バス停「清泉寮」下車、徒歩すぐ

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おわりに

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王様と象の譬え話

このホームページをご覧になられた皆さんは、今どのような感想を抱いておられるでしょうか。

「まだ湧いていない地下水が、歯ブラシ立てやグラスに溜る筈がない。作り話だ」と言って、不信感をつのらせておられるお方、「自分も不思議な体験をした事があるから、信じられる話だ。奇蹟は存在する」と頷いておられるお方、「自分には関係のない話だ」と無関心を決めておられるお方など、様々なご感想をお持ちだろうと思います。

しかし、ここで皆さんにご感想をお聞きしたのは、どのお方のご感想が正しくて、どのお方のご感想が間違っているなどと言いたい為ではありません。

また、ここに書かれている事を素直に信じて欲しいと願っているからでもありません。

百人のお方が読まれれば、百通りの思い方があり、千人のお方が読まれれば、千通りの感じ方があるのは当然であり、誰もが同じ感想を抱かれる筈がありません。

もし百人が百人、千人が千人とも同じご感想を抱かれたとすれば、その方が不自然であり、それこそ奇蹟ではなく、異常と言わなければならないでしょう。

しかし、次のような譬え話があるのを、ご存知でしょうか。

王様が、目の見えない人々を集めて象を触らせ、「象とはどのようなものか」とお尋ねになったところ、象の牙に触った人は「細長くて湾曲し、先のとがった丸い棒のようなものです」と答え、象の鼻に触った人は「くねくねと動く丸い筒のようなものです」と答え、象の足に触った人は「太い柱のようなものです」と答え、象の耳に触った人は「平べったくて、パタパタと揺れる大きな団扇のようなものです」と答えたのです。

そして、自分が触った部分を象だと思い込んでいる彼らは、自分こそが正しいのだと主張して互いに譲らず、ついに争いが始まったと言うのです。

二つの視点

この話は、非常に示唆に富んだ譬え話だと思いますが、目の見えない人々の答えを正しいと見るか、間違っていると見るか、これもまた人それぞれであろうと思います。

象の牙も象の鼻も象の足も象の耳も、象の一部である事に間違いはありません。そして、象の牙は、細長くて先のとがった丸い棒のようであり、象の鼻は、くねくねと動く丸い筒のようであり、象の足は、太い柱のようであり、象の耳は、平べったい大きな団扇のようなものですから、目の見えない人々の視点に立てば、象の牙を触った人の答えも、鼻を触った人の答えも、足に触った人や耳に触った人の答えも、みな正しい事になります。

しかし、それは、一つの真理ではあっても、象の全体像を捉えたものではありませんから、象の全体像を見ている王様の視点に立てば、どの答えも、みな間違っている事になります。

つまり、彼らの答えは、正しいとも、間違っているとも言える訳ですが、正しいと見るか、間違っていると見るかは、ひとえに目の見えない人々の視点に立つか、全体を見ている王様の視点に立つかにかかっています。

目の見えない人々は、自分だけが正しく、他はみんな間違っていると主張して譲らなかった為、争いが始まったのですが、目の見えない人々の視点に立っている限り、何が正しくて、何が間違っているかの正しい判断は不可能といわねばなりません。

何故なら、彼らには、象の全体像が見えていないからです。

彼らの答えが正しいか、間違っているかの判断は、象の全体像が見える王様の視点に立って初めて可能なのです。

ですから、彼らが「自分の答えは正しい」と主張しているのは、間違いではありませんが、「自分の答えだけが正しい」と言うのは、彼らの思い込みに過ぎません。

象の全体像が見えれば、「自分の答えも正しいが、他のみんなの答えも正しい」という答えが返って来るからです。

しかし、哀しいかな、目の見えない彼らには、それが分りません。そこが、彼らの思い込みの最大の原因であり、全体像が見えない人々の悲劇です。

この視点を乗り越えられない限り、真相は見えて来ませんし、いつまで経っても争いが終わる事はありません。

対立を乗り越え、争いを鎮めるには、どうしても全体像が見渡せる王様の視点に立つ以外にありません。王様の視点に立つ事が、真相を明らかにし、争いを鎮める唯一の道なのです。

王様の願い

目の見えない人々の答えが正しいか、間違っているかの判断は、象の全体像が見える王様の視点に立って初めて可能だと言いましたが、確かに、王様の視点に立てば、誰の答えが正しく、誰の答えが間違っているかは一目瞭然です。

しかし、王様の真意は、彼らの答えの正否を明らかにする事ではありません。ましてや、象の全体像が見える自分の答えだけが正しい事を主張したい為でもありません。目の見えない人々に正しい答えが出せない事は、最初から分かっている事であり、自分だけが正しい事を主張しても何の意味もありません。

では何故、わざわざ目の見えない人々に象を触らせ、象とはどのようなものかを問われたのでしょうか。王様の真意は、一体どこにあるのでしょうか。

王様は、目の見えない人々が互いに、自分の答えだけが正しく、他の答えはみな間違っていると主張するであろう事を見通された上で、そう問われたのではないでしょうか。つまり、王様は、最初から争いが始まる事を承知の上で、そう問われたのです。争いが始まるのを期待していたと言ってもいいでしょう。

そして、目の見えない人々は、王様が意図した通り、自分の答えだけが正しいと主張して譲らず、ついに争いを始めたのです。

争いの種を蒔いて罪もない人々を争わせるとは、何と非情な王様だと、非難する声が聞こえてきそうですが、確かに争いが始まるきっかけを作ったのは王様であり、争いがこれからも永遠に続くようなら、王様は非難されて然るべきでしょう。

しかし、王様の願いは、彼らの争いが永遠に続く事ではない筈です。王様は、彼らを争わせる事によって、誰の答えが正しいかを言い争うより、もっと大切な事がある事を悟って欲しかったのではないでしょうか。

つまり、何故、人は争い、憎しみ、傷付け合わなければいけないのか、そして、争いを鎮め、憎しみから救われる為にはどうすればよいのか、解決の糸口は何なのかを、争いの中から悟って欲しいから、敢えて争いの種を蒔かれたのではないかと思うのです。

勿論、争いの種を蒔くのは、口で言うほど簡単ではありません。一歩間違えば、彼らを永遠に争いの渦中に埋もれさせ、子々孫々までも破滅に導く恐れがあるからです。幾ら偉大な王様でも、躊躇するに違いありませんが、王様は、敢えて種を蒔かれたのです。

何故、争いの種を蒔く決心をされたのでしょうか。王様にそう決心させたものは何だったのでしょうか。

その理由は、一つしかありません。即ち、王様は、目の見えない人々の叡智を信じたのです。否、信じる事が出来たと言うべきでしょう。

何故、信じる事が出来たのかと言えば、彼らが、王様にとってかけがえのない、わが子も同然の人々(王国を支える民)だったからです。親だけがわが子を信じられるように、わが子同然の人々だからこそ、信じる事が出来たのです。

「わが民なら、争いを始めても、必ずそれを乗り越え、争いを終らせる事が出来る筈だ。彼らにはその叡智が具わっている」

そう信じる事が出来たから、王様は敢えて争いの種を蒔く決心をされたのです。

井の中の蛙、大海を知らず

もうお気付きだと思いますが、この譬え話に出てくる王様と目の見えない人々とは、み仏と、私たち衆生(人類)の事です。

この譬え話は、私たちが、自らの眼で見、耳で聞き、学び、教えられ、体験してきた事以外の事を理解し、受け入れる事がいかに難しいかを教えています。

目の見えない人々が、自ら触った象の一部分を、象そのものと思い込んだように、私たちもまた、自分の身の丈のものしか、見る事も理解する事も出来ないのです。

所詮、私たちはみな、知ると知らざるとに拘らず、「井の中の蛙、大海を知らず」の蛙であります。

勿論、かく言う私も、井の中の蛙の一人である事は言うまでもありませんが、大切な事は、自分が井の中の蛙である事に気付いているか否かという事です。

それによって、大いなる世界へ飛躍できるか否かが決まると言っても過言ではないでしょう。

井の中の蛙である事に気付く事が出来れば、狭いちっぽけな世界から、無限に広がる大海原に飛び出す道が開けてきますが、気付く事が出来なければ、井の中で一生を暮らさなければなりません。

井の中の蛙で思い出すのは、西遊記(注1)に出てくる孫悟空です。この話は、皆さんもよくご存知だろうと思いますが、孫悟空にとって最大の転機となったのは、三蔵法師との出会いです。

不老不死の仙術を会得し、一瞬にして十万八千里を飛ぶキント雲に乗り、伸縮変幻自在の如意棒を駆使して向かうところ敵なしであった孫悟空も、お釈迦様の掌から一歩も飛び出す事が出来ず、とうとう「五行山(ごぎょうざん)」という山の中に閉じ込められてしまいますが、その孫悟空を救ったのが三蔵法師です。

お釈迦様に高慢な鼻っ柱を圧し折られ、漸く自分の愚かさに気付いた孫悟空は、改心して三蔵法師のお供をする決心をするのですが、三蔵法師(仏法)との出会いが、狭い世界で有頂天になっていた孫悟空の心眼を開き、無限の大海に導いたのです。

この物語を読むと、いつも思うのは、目の見えない人々を信じて、争いの種を蒔かれた王様の深い慈悲心です。

きっとお釈迦様も、孫悟空なら、この試練を乗り越えて、大海原へ飛躍出来るであろうと信じて、孫悟空を五行山へ閉じ込められたに違いありません。

そして、お釈迦様の願い通り、孫悟空は大きな試練を乗り越えて心眼を開き、三蔵法師のお伴をして天竺へ向かうのですが、この孫悟空の話は、私たちにとって決して架空の物語ではありません。

孫悟空は、架空の物語の主人公ではなく、実は私たち自身の姿でもあるのです。

無限の大海原へ

このホームページを読まれ、「まだ湧いていない地下水が、歯ブラシ立てやグラスに溜る筈がない。作り話だ」と感じられたお方も、「自分も同じような不思議な体験をしているから、信じられる話だ」と頷かれたお方も、「自分には関係のない話だ」と思われたお方も、みなそのお方にしか出せない答えやご感想を出して下さったと思います。

そして、どのお方のご感想もみな、あなたがあなたとして生きて来られた証であり、それぞれの思い方、感じ方の中には、皆さんが今まで学び、教えられ、体験してきた事の全てが凝縮されているに違いありません。

しかし、それが、あなたがあなたである事の全てかと言えば、そうではないと思います。

あなたの心の奥底にはまだ、あなた自身も知らない、今まで一度も掘られていない無尽蔵の宝物が埋もれている筈です。あなたの目の前には、無限に広がる真理の大海原が広がっているのです。

そして、その無尽蔵の宝物を掘り当てるか否か、大海原に漕ぎ出すか否かを決めるのは、あなた自身です。

勿論、あなたの背後には、片時も離れずに、あなたを信じ、見守っておられるみ仏がおられます。たとえあなたがみ仏の気配を感じられなくても、み仏はあなたを信じ、その行く末を見守っておられます。あなたがみ仏から信じられている一人である事は、疑う余地がありません。いついかなる時も、その事を忘れないでいて下さい。

かく言う私も、皆さんと同じように、み仏から信じられている一人です。だからこそ、少しでもその願いにお応えしなければと思いつつも、まだ私には、無限に広がる大海原のほんの一滴しか観えていません。

しかし、お大師様、菩薩様という生き仏様のお導きによって、いま無限の大海原の真っ只中にいる事だけは間違いありません。

そして、この心眼に観えたものが、たとえ真理の大海のほんの一滴であったとしても、それは、想像を絶する素晴らしい感動の世界を垣間見せてくれる一滴である事もまた間違いありません。

このホームページを通して、どこまでその感動の一端をお伝え出来たかは分かりませんが、今日ご縁があってお参り下さった皆様が、一人でも二人でも、何かを感じて下さり、明日に向って生きる糧として下さるなら、これにまさる喜びはありません。

本日は、「救いの扉」へお参りいただき、有難うございました。またのお参りを心よりお待ちしております。

心拝

宗教成合の郷
   高野山法徳寺

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