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幸不幸を分ける「当たり前」の基準(4)

─新型コロナウイルス感染症に寄せて―



ねずみ講式の文明の限界


中国の武漢で新型コロナウイルス感染症が発生する前は、千年に一度と言われるの東日本大震災が日本を襲いました。更にその前は、百年に一度と言われる世界同時不況の嵐が全世界を駆け巡りました。

世界同時不況では、アメリカのビッグスリーのGMをはじめ、大手銀行や証券会社などが次々と倒産し、大勢の人々が職を失いました。

好景気と言えば、人間に利益をもたらす福の神のように持てはやされ、不景気と言えば、まるで人類を苦しめる疫病神のように恐れられてきましたが、好景気の正体は何かといえば、贅沢を奨励する世の中であり、不景気の正体は、無駄をなくして節約をする世の中なのです。

つまり、好景気とは、人々が新しい物を次々と買っては大量に消費し、古い物をどんどん捨てている浪費社会の姿であり、不景気とは、人々がいま使っている物を大切にし、欲しいものを我慢するようになった節約社会の姿なのです。

福の神のようにもてはやされる好景気とは、社会全体が贅沢になり、大量生産、大量消費、大量投棄によって成り立っている社会であり、疫病神のように恐れられる不景気とは、現在使っているもの、有るもので足りる事に気付いた節約社会の姿なのです。

どちらの社会がいいかと云えば、勿論、贅沢する社会より、無駄を省いて節約する社会の方がいいに決まっています。何故なら、自然の摂理に適っているからです。

では何故、社会が贅沢にならなければ景気がよくならないのかと言えば、今の文明が、贅沢を奨励し、大量消費、大量投棄によって成り立っているねずみ講式の文明だからです。

ねずみ講というのは、新規会員がどんどん増えている内は、新規会員から入ってくるお金を、他の会員に回していきますから破綻しません。しかし、いつまでも新規会員が増えていく筈がありませんから、やがて、新規会員が頭打ちになる時が来ます。そうすると、他の会員に回すお金がなくなり、一夜にして破綻するのです。

ねずみ講というのは、仕組みそのものが、最初から破綻するようになっているのですが、それにも拘らず犠牲になる人が一向になくならないのは、「必ず儲かります」という甘い文句に騙されるからです。

贅沢を奨励して、大量消費、大量投棄によって成り立っている今の文明も、物を大量に作り、大量に消費し、どんどん使い捨てていかなければ、好景気を維持していけない点では、ねずみ講と同じです。

百年に一度と言われた世界同時不況の前は、好景気が続いていましたが、それは人々が新しい物を次々と買っては、古い物を大量に捨てていたからです。

しかし、いつまでも大量消費が続く筈がなく、文明の仕組みそのものが、ねずみ講と同じですから、必ず破綻する時が来ます。

日本中がバブル景気に踊った後にやってきた不景気もそうですし、サブプライムローンに端を発した世界同時不況も、まさにその典型でした。

世界同時不況の直接的な引き金になったのは、アメリカのサブプライムローンの焦げ付きと、その後のリーマン・ショックですが、元々今の文明の仕組みそのものが、ねずみ講と同じですから、サブプライムローン問題やリーマン・ショックがなくても、遅かれ早かれ、破綻することは決まっていたのです。

あの世界同時不況は、今の文明が、贅沢による大量消費、大量投棄に支えられている以上、避ける事の出来ない宿命であり、当然の結果だったのです。

当時の新聞には、「今の金融の在り方を抜本的に変えなければ、これからも同じような事が起こる」と書かれていましたが、変えなければいけないのは、金融の在り方ではなく、贅沢を奨励して大量消費、大量投棄を続けなければ繁栄を維持していけない今のねずみ講式文明の在り方そのものであり、その根底にある人間の生き方、価値観、世界観なのです。

人間の飽くなき欲望の追求によって成り立っている今の文明の在り方を、根底から見直さない限り、これからも同じことが何度も繰り返され、大勢の人が犠牲になる事は間違いありません。

全世界を大混乱に陥れた大不況の嵐は、贅沢による大量消費、大量投棄に支えられている今の文明が、根本的に間違っている事を教える天地の慈悲の鞭と言ってもいいでしょう。

そして、今回の新型コロナウイルス感染症の背後にも、同じねずみ講式文明が横たわっている事は言うまでもありません。


感謝と知足の文明へ


「少欲知足」という言葉がありますが、今の文明は、この「少欲知足」に逆行する文明と言ってもいいでしょう。

つまり、「足りる事を知る文明」ではなく、いくら有ってもまだ欲しい、いくら作ってもまだ足りないという「足りる事を知らない貪りの文明」であり、「大自然の摂理に逆らっている文明」なのです。

世界同時不況も東日本大震災も、そして、今回の新型コロナウイルス感染症も、飽くなき欲望の追求に奔走してきた貪りの文明に対する大自然の厳しい慈悲の鞭である事は明らかで、その付けは、すでに地球温暖化という形で人類に跳ね返ってきています。

世界各地で、地球温暖化による深刻な影響が出始めている事は、すでに周知の事実です。

近年、世界各地で頻発するようになった異常気象、特に超大型の台風やハリケーンの相次ぐ発生による甚大な被害、熱波による森林火災の増加、大津波や大洪水、巨大地震による壊滅的な被害など、かつて経験した事のない未曾有の天変地異も、地球温暖化と無関係ではありません。

山梨へ来た十五年余り前は、よく雪が積もりましたが、最近はほとんど積もらなくなり、県内のスキー場は、お手上げの状態です。毎年この状態が続けば、やがて県内のスキー場は営業できなくなり、なくなるかも知れません。

今後更に地球温暖化が加速すれば、その影響がさらに拡大していく事は間違いなく、子々孫々が直面するであろう危機は想像を絶しますが、因をたどれば、今の文明が大量消費、大量投棄を続けてきた貪欲の付けが回ってきた結果なのです。

無駄を無くし、贅沢を離れ、足りる事を知り、大自然の摂理に従って生きる事の大切さを自覚しなければ、人類の未来も世界の平和もありません。

いくら電気自動車や太陽光発電が普及しても、限りある資源を湯水のように使い、飽くなき欲望の追求に奔走している今の文明の在り方が根本から変わらない限り、今まで繰り返してきた失敗を、これからも繰り返すだけです。

私たちの意識の奥底に、感謝と知足(節約)の心がしっかりと根を張り、それが生活の隅々にまで浸透した時、初めて電気自動車や太陽光発電が活きてくるのであり、その感謝と知足(節約)の心を他にして、真のエコなどあり得ません。

地球温暖化は、私たちが自ら蒔いた貪欲による大量消費と大量投棄が原因であることは間違いありませんが、その大きな付けを、子々孫々に残していくことだけは何としても防がねばなりません。

世界同時不況の時も、東日本大震災の時も繰り返し申し上げたように、今回の新型コロナウイルス感染症を一つの契機として、湯水のように浪費するのを当たり前のように考えてきた今までのライフスタイルを根本的に見直し、無駄と浪費をなくす感謝と知足(節約)を当たり前と考える生き方に舵を切っていかなければ、新型コロナウイルスよりも更に手強い第二、第三の感染症が人類の前に立ちはだかに違いありません。


世界に誇るべき「もったいない」精神


2004年に、アフリカ系女性で初めてノーベル平和賞を受賞された、ケニヤ共和国の環境副大臣をしておられたワンガリ・マータイさんと云うお方がおられます。

残念ながら、2011年、癌に侵されて、ケニヤの首都ナイロビの病院で亡くなられましたが、マータイさんは、リデュース(過剰生産の削減)、リユース(再利用)、リサイクル(再生利用)という「3つのR」を唱えて環境保護に取り組んでおられました。

そして、 その運動の根底にあったのが、「もったいない」という日本語でした。

マータイさんが提唱する「3つのR]の意味が、「もったいない」の一語に凝縮されている事を知ったマータイさんは深く感銘を受けられ、是非この言葉を世界の人々に伝えたいと、各国語に翻訳しようとしました。

ところが、この3つのRを一つの言葉で表現出来る「もったいない」という言葉に相当する言葉が、どこの国にもなかったことから、マータイさんは、「もったいない」という言葉をそのまま使い、世界中の人々に「もったいない精神」を広めながら、植林と環境保護活動に取り組まれたのです。

大自然の摂理に適った感謝と知足の心を、「もったいない」という一語に凝縮させた日本人の叡智に、日本人の一人として誇らしく思いますが、残念なのは、「もったいない」というどこの国にもない言葉を作った日本人が、いま最も忘れているのが、この「もったいない」という言葉に込められた感謝と知足の心なのです。

東日本大震災は、電気や水道やガスに囲まれた暮らしがいかに有り難いかを教えてくれましたが、二万人を越える人々の命と、数知れぬ人々の生活基盤のすべてを奪い去った大震災の体験を、「元の木阿弥」に終わらせないためにも、今までのような、有れば有るだけ使えばいいという浪費と贅沢に走る生活スタイルではなく、必要なだけを使わせて頂く感謝と知足の心が凝縮された「もったいない」の精神を、生活の隅々まで浸透させていく努力をしなければならないのです。

知足と感謝と節約の心を「もったいない」という一語に凝縮させ、世界のどこにもない大自然の摂理に叶った言葉を生み出した日本人だからこそ、先人の叡智を受け継ぎ、世界の人々の先頭に立って「もったいない精神」を実践し、範を示していかなければいけないのではないでしょうか。


豊かさと贅沢の違い


「世界で最も贅沢な国民は日本人だ」と言われるように、世間には、豊かさを享受することと、贅沢することを勘違いしている人がいますが、豊かさと贅沢は、似て非なるものです。

贅沢とは、感謝の心も知足の心もなく、全てを当たり前と考えながら、飽くなき欲望の追求に明け暮れて生きることであり、絶えず「足りない、足りない」と、餓鬼に攻め立てられられながら生きる「無い無い尽くし」の生き方です。

それに対し、豊かさとは、何事にも感謝を忘れず、少しでも無駄をなくしてゆこうという知足と感謝の心が備わって初めて体感できる生き方であり、「あれもある。これもある」というゆとりの心から生まれる「有る有る尽くし」の生き方と言えましょう。

水道の蛇口を捻れば、いつでも美味しい水がいただけ、スイッチを押せば、電気が点き、風呂が沸き、ご飯が炊けます。

ほんの百数十年前までは考えられなかった極楽のような生活を、私たちは当たり前のように享受していましたが、満たされた生活にどっぷり浸かっている内に、それを「当たり前」と錯覚するようになり、感謝の心をすっかり忘れてしまっていたのです。

東日本大震災は、今の生活が決して「当たり前」ではなく、「有ること難き」(有り難き)生活なのだという事実を、わたしたちに教えてくれましたが、すべてを当たり前と考えるようになったら、人間は傲慢な生き方しか出来ません。

たとえどれほど物質的に豊かになっても、感謝と知足の心を失くせば、真の豊かさを享受する事は不可能です。

日本人を含めて、人類全体が、飽くなき欲望の追求によってこの地球を汚し、地球温暖化という大きな重荷を、子々孫々に背負わせようとしている事に対し、もっと謙虚になって、反省すべきは反省し、改めるべきは改めてゆかなければ、とても豊かな暮らしは続けられないでしょう。

日本は、戦争に敗れはしたものの、焼け野原から見事に立ち直り、世界をリード出来る国にまで大きく成長しました。

一時は「エコノミックアニマル」と呼ばれ、日本人は金もうけだけに奔走する経済動物だと揶揄された時期もありましたが、当時は、そうしないと立ち直れなかった時代だったのです。

豊かになりたい、良い暮らしがしたいという思いで、みんな頑張ってきた甲斐があって、大勢の人々が豊かさを享受出来るようになりましたが、改めて振り返ってみますと、豊かになったのは物質面だけで、精神面はむしろ貧しくなってしまったのではないでしょうか。


幸不幸を分けるもの


改めて日本人のアイデンティティ(日本人らしさ)とは何かを考えた時、その日本人らしさを最もよく教えてくれているのが、先にお話した「ポツンと一軒家」に住む人々ではないかと思います。

大自然に囲まれ、大自然の恵みと日々の糧に感謝し、足ることを知る暮らしを続ける「ポツンと一軒家」の人々こそ、失ってしまった日本人のアイデンティティをいまも守り伝えてくれている人々なのです。

番組スタッフとの間に、次のような会話が交わされていました。

「幸せですか」
 「はい、幸せです」
 「不便なことはありませんか」
 「はい、これが、当たり前だから、不便と思ったことはありません」
 「欲しいものはありますか」
 「ありません。はやく畑に出て作物を作りたいです」

クルーズ船の乗客の一部の人たちが、対応のまずさや隔離されている事への不平不満の言葉をもらし、また一部野党の政治家やテレビのコメンテイターが、政府の対応を批判ばかりしているのと比べると、余りにも対照的です。

裕福とは無縁と思われる「ポツンと一軒家」に住む人たちが感謝の言葉を口にし、優雅な船旅を楽しみ、不平不満とは無縁と思われる人たちから、感謝の言葉が聞こえてこないのは何故でしょうか。

常識的に考えれば、優雅な船旅を楽しんでいる人たちから、感謝の言葉が聞かれ、不便と思われる「ポツンと一軒家」で暮らす人たちから、不平不満の言葉が出てきてもおかしくありませんが、出てきた言葉はその逆なのです。何故でしょうか。

それは、当たり前と考える基準が、根本的に違っているからです。

5を当たり前と考えている人にとっては、5が幸せの基準ですが、10を当たり前と考えている人にとって、5は不平不満の種でしかありません。

「ポツンと一軒家」の人たちと、優雅な船旅を楽しむクルーズ船の人たちを見て分かる事は、当たり前と考える基準が高ければ高いほど、その人が幸せになることは難しくなるという事です。

もし「ポツンと一軒家」に住む人たちが、クルーズ船の船旅を経験すれば、極楽のような暮らしと感じるでしょう。

しかし、クルーズ船の船旅が当たり前と考えている人たちを、「ポツンと一軒家」に連れていけば、こんな所には一日も住みたくないと感じるでしょう。

当たり前の基準が違っているのですから、「ポツンと一軒家」の人たちが福の神と感じることを、クルーズ船の人たちが疫病神としか感じられなかったとしても不思議ではありません。

「ポツンと一軒家」に住む人たちを見れば、人間の幸不幸を分けるものは、お金でも物でもなく、何を当たり前と考えるかの基準の違いであることがわかります。

今回、新型コロナウイルス感染症によって、大勢の人が不自由と感じている日々の暮らしさえも、「ポツンと一軒家」に住む人たちは、不自由とは感じないでしょう。何故なら、それが、「ポツンと一軒家」に住む人たちにとっての当たり前の暮らしだからです。

何を当たり前と考えるかによって、人は幸せにもなれば、不幸にもなります。

もし、今の暮らしに、不平不満の心しか起きないのであれば、今の暮らしがあなたを不幸にしているのではなく、今の暮らしに不平不満しか持てないあなたの当たり前の基準が、あなたを不幸にしているのです。

合掌


幸不幸を分ける「当たり前」の基準(1)
幸不幸を分ける「当たり前」の基準(2)
幸不幸を分ける「当たり前」の基準(3)
幸不幸を分ける「当たり前」の基準(4)
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