桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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幸不幸を分ける「当たり前」の基準(3)

─新型コロナウイルス感染症に寄せて―



何を当たり前と考えるか


東日本大震災の発生直後、東京電力管内では、福島第一原発の事故の影響もあって、計画停電が実施され、それによって、多くの人々が不便を強いられました。

今まで10あった電力が半分の5になって、今までのように使えなくなれば、不便と感じるのは当然で、山梨も大規模な計画停電によって、不便を強いられました。

しかし、今まで10あったものが5になれば、その日から生活してゆけないのかと言えば、決してそんなことはありません。何故なら、人間は、10あれば10の暮らしを、5になれば5に見合った生活をするようになるからです。

10あったものが5になれば、当然、不便を感じるのは止むを得ませんが、5になっても、生きていけない訳ではありません。

要は、「もう今までのように10の生活は出来ないから、これからは5の生活をして下さい」と言われれば、5の生活に見合った生き方をしていけるよう、みんなで知恵を出し合って、節約の工夫をしていけばよいだけの話です。

と言うより、わたしたちは、すでにそうしていかなければいけない温暖化という大きな試練を迎えているのです。10が5になり「不自由だ。不便だ」と云って大騒ぎしている人たちは、まだその事に気付いていないのではないでしょうか。

その人たちの頭には、まだ浪費と贅沢が当たり前であった、かつての高度成長期の生活習慣が残っているのかも知れません。

世の中には、月に30万円あっても生活が苦しいという人もいれば、月に15万円あれば暮らしていけるという人もいます。

以前、某テレビで、年金生活をしている人で、月に30数万円あっても苦しいと云っている人がいましたが、30万円あっても苦しいという人は、30万円の生活が当たり前ですから、15万円の生活など考えられないでしょう。

しかし、月に15万円あれば暮らしていけるという人の立場に立てば、15万円の生活が当たり前ですから、30万円あれば、余裕のある暮らしが出来る事になります。

30万円の生活が苦しいという人と、30万円あれば余裕のある生活が出来ると考える人の違いは何かと云えば、何を当たり前と考えるかの違いなのです。

つまり、震災前の10の生活が当たり前の生活だから、これからも10の生活をしていかなければいけないと考えるのか、それとも震災によって節電、節水、節約を余儀なくされた5の生活を、これからの当たり前の生活と考えていかなければいけないのかということです。

もし、今までのように使いたいだけ使っていた浪費と贅沢が当たり前である10の暮らしが、日本経済を悪化させないために戻らなければいけない普通の生活だとすれば、東日本大震災で亡くなられた二万人以上もの方々の犠牲や、生活基盤のすべてを奪われた十数万人もの人々の苦しみ、そして、震災に伴って強いられていた不便な生活体験は、何の教訓にもならなかったということになるでしょう。


知足最富


社会全体が節電や節水や節約に走る事は、一日も早い復興を願う方々の眼には、まるで復興を阻害する疫病神のように映るかも知れません。

しかし、節水とは、今まで蛇口を一杯に開けて、流しっ放しにしながら使っていた生活を、蛇口を少し絞り、出来るだけ無駄な水を使わないようにしようという、無駄をなくす為の知恵なのです。

また、節電とは、無駄な照明を出来るだけ使わないようにしようという、浪費を減らす工夫であり、節約とは、大自然の摂理に適った感謝と知足の生活に戻ろうとする取り組みなのです。

つまり、感謝と足ることを知るという天地の摂理に添った生き方を自覚し、人間本来のあるべき姿に戻るという事です。

そして、それを今も愚直に実践しているのが、山奥に住む「ポツンと一軒家」の人々なのです。

もし節電、節水、節約によって経済がおかしくなるのであれば、節約しようとする人が悪いのではなく、節約によっておかしくなる経済の仕組みそのものが、天地の摂理に反しているのです。

言い換えれば、浪費や贅沢によって成り立っている経済の仕組みそのものを根本から見直さなければいけない時期に来ているという事です。

昔から、「腹八分に医者要らず」「知足最富」という言葉があるように、足る事を知る事が最も富める生き方であり、足ることを知らなければ、幾らあっても「まだ足りない、まだ足りない」と言いながら暮さなければなりません。

先ほどお話した「ポツンと一軒家」に住む方たちは、大自然の中で、大自然の摂理にしたがって、必要なだけの糧を得て、知足と感謝の心を持って日々の生活を営んでいます。

そこには、現代人が忘れてしまった人間本来の在るべき豊かで幸せな生き方が、まだ脈々と息づいているのです。

飽くなき欲望の追求によって、人類は今の文明社会を築いてきました。しかし、同時に、様々な弊害を生み、温暖化という副作用に苦しめられているのが現状です。これから更に温暖化が進めば、その悪影響は加速度的に世界全体を覆い、子々孫々に大きな災厄をもたらす事は間違いないでしょう。

飽くなき欲望は、肉体的にも精神的にも様々な災いを及ぼす元凶ですが、これだけは、自らが制御していかなければ、誰も制御してはくれません。


禁欲主義を否定している仏教


仏教はよく、禁欲主義の教えと誤解されますが、お釈迦様は、欲をしてはいけないとは、一言もおっしゃっておられません。

例えば、わたしたちが生きていく上で必要とされるのが、五欲と云われる食欲、睡眠欲、性欲、財産欲、名誉欲ですが、この五欲は、決して悪い欲ではありません。

例えば食欲は、生きていく上で必要だから、与えられているのです。もしお腹が減っても食欲が湧かなければ、栄養失調になり、やがて死んでしまいます。人間が生きていく上において、食欲は必要不可欠な欲なのです。

睡眠欲も同じです。何日間徹夜しても全然睡魔が襲ってこなければ、やがて体調を崩して死んでしまいます。睡眠欲がなく、眠らないままどんどん働き続けたら、生身の体がもちません。睡眠欲があるお陰で、体を休める事が出来るのです。

性欲も種の保存のためには欠かせません。この欲求がなかったら、人類はたちまち滅亡してしまいます。

財産欲と名誉欲は、悪い欲のように思われるかも知れませんが、名誉を得たい、地位を得たい、財を得たいという欲があるからこそ、人間は成長し、社会も発展していくのです。


腹八分の知恵


では何がいけないのかと云えば、節度を越えた欲、つまり貪欲がいけないのです。

昔から「過ぎたるは及ばざるが如し」と言われるように、人間の生命を支える欲であっても、度を越すと、人間を滅ぼす害毒に変わります。

「貪瞋痴(とんじんち)」、貪り、瞋り、愚痴嫉妬の三つを、三毒煩悩と言い、人間を滅ぼす恐ろしい毒素に譬えているのは、その為です。

お腹がいっぱいになると、「お腹がいっぱいになりましたから、もう要りません」という指令が脳に行き、満腹感を得られるのですが、この指令が行っているのに、どんどん食べ続けたら、体を壊してしまいます。

その好例が認知症の人で、認知症にかかった人は、脳の機能が失われているため、指令が行っても、満腹感が得られないため、食べても食べても満腹感が湧いてきません。

そのまま放置しておけば大変な事になるから、認知症の人には、どうしても介護が必要になります。

三大成人病と言われる癌、脳疾患、心臓疾患の主な要因は、高カロリーな食物を摂取する食生活の欧米化と、運動不足、食べ過ぎ(飽食)による肥満と言われています。糖尿病も、食べ過ぎが大きな一因と言っていいでしょう。

生きていく上に必要な欲はしても構いませんが、その欲を、人間に災いをもたらす貪りの悪魔に変身させてはいけないのです。

人間に害を及ぼす三毒煩悩を制御する方法を教えているのが仏教で、足ることを知る「腹八分」の生き方は、先人が自らの体験の中から悟った、人生を豊かに生きる智慧なのです。


三毒煩悩―三宝荒神の正体


物事にはすべて裏表があり、良い面と悪い面が必ず同居していますから、悪い面を裏側に封じ込め、良い面が表に出てくるようにしなければなりません。

奈良県野迫川村にある立里荒神の縁起に、「我は即ち一切衆生本有倶生の惑障、貪瞋痴の三毒にして、一切衆生の善根功徳を障うる神なり」と説かれているように、荒ぶる神、三宝荒神の正体は、貪瞋痴の三毒煩悩で、その悪さをする三毒煩悩を鎮めて、人間に幸せをもたらす福の神に変身させようとして祀ったのが、三宝荒神です。

三毒煩悩の象徴である三宝荒神は、私たちに災害をもたらす天変地異をも象徴しています。

わたしたちの御先祖は、地震によって、多大な犠牲を強いられてきました。今でも世界各地で地震が頻発し、多くの人が犠牲になっていますが、「地震の犠牲者が出ない様、何卒お鎮まり下さい」という願いを込めて、三宝荒神をお祀りしたのです。

三宝荒神の御真言「オンケンバヤケンバヤソワカ」の「ケンバ」は地震の事で、「オンケンバヤケンバヤソワカ」とは、「荒ぶる大地よ、お鎮まり下さい」という意味です。

三宝荒神と一緒にお祀りする水天と火天も、天変地異の象徴で、水天は、水による災害をもたらす洪水や津波、火天は、火による災害をもたらす山火事や火山の噴火を象徴しています。

大地と水と火を象徴しているのが、三宝荒神と水天と火天で、この三つは三位一体ですが、人間に恩恵をもたらす福の神の顔と、禍を及ぼす疫病神の顔を持っています。

大地が無ければお米もお野菜も出来ませんし、人間が生きていく事も出来ません。大地は、人間に様々な恩恵をもたらしてくれる福の神ですが、その大地が、地震や火山の噴火によって、人類に災害をもたらす疫病神の顔も持っているのです。

水も同じで、地球の六割が水で、人間の体内の六割も水分ですから、水はまさに命の源と云わねばなりません。ところが、その命の源である筈の水が、時に洪水や津波となって人間に襲い掛かり、大きな被害をもたらすのです。

火が無ければ、食べるものを調理する事も灰にすることも出来ません。しかし、その火が、山火事や火山の噴火によって大きな被害をもたらしているのです。

わたしたちの御先祖は、人間に幸せをもたらす福の神に表へ出て働いていただき、災いをもたらす疫病神に裏へ回って大人しくしていただくため、大地と水と火を神として祀り、鎮めようとしてきたのです。

今回の新型コロナウイルス感染症も、表面的に見れば、私たちにとって招かざる客であり、ただ災いを運んできただけの疫病神にしか見えませんが、それは、私たちが、苦しみをもたらす疫病神の顔しか見ていないからです。

表側から見れば、私たちに災難をもたらす疫病神の顔をしていても、裏側に回れば、私たちに福を運んできてくれる福の神の顔が隠されています。

疫病神が顔を出すか、福の神が顔を出すかは、わたしたち次第ですが、裏に隠れている福の神に表へ出てきてもらえるようにするには、一人一人が天地の摂理に適う生き方に目覚め、実践することが大切です。

合掌


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