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幸不幸を分ける「当たり前」の基準(2)

─新型コロナウイルス感染症に寄せて―



当たり前でない日常


山奥の一軒家に暮らしている人たちは、もともと不自由な所に住んでいて、しかも、それが当たり前になっているため、都会の人たちが不自由と感じることでも、不自由とは感じていません。

「不自由じゃないですか」と聞かれても、みな「不自由じゃないです」と答えているのです。

考えてみれば当然のことで、不自由と感じるのは、それが当たり前ではないからであって、不自由が当たり前であれば、それはもう不自由ではないのです。

一軒家に住む人たちが「不自由ではありません」と答えているのは、嘘偽りのない気持ちなのです。

この人たちを見ていると、人間にとって本当の幸せとは、お金や物ではなく、その人の生き方や、生きる環境にあることがわかってきます。

今回、世界中に拡がった新型コロナウイルス感染症も、一見すると疫病神のようにしか見えませんが、決してそうとばかりは言えず、人間の生き方に対する警鐘と言いましょうか、人間の本来の在るべき姿とは何かを問う天地の慈悲の声と受け止めれば、そこから福の神の顔が見えてくれるかも知れません。


喉元過ぎれば熱さを忘れる


今回の新型コロナウイルス感染症を前にして右往左往する人々の姿を見て思ったのは、東日本大震災の時も同じだったということです。

この大震災では、多くの人々が亡くなり、わたしたちは大きな犠牲を払いましたが、その犠牲をただ犠牲で終わらせてはいけないということで、多くのことも学びました。

ライフラインが寸断されて、水も電気もガスも使えなくなり、今まで当たり前に暮らしていた日常生活が、決して当たり前ではないことを学んだ筈です。

蛇口をひねれば、いつでも水が自由に使え、スイッチを入れれば、自動的にお米が炊き上がり、お風呂が沸き、エアコンが部屋を暖めてくれる快適な生活を、当たり前のように享受していたその日常生活が、東日本大震災によって突然壊され、今まで当たり前だと思っていたことが、当たり前ではなかったことに気付かされたのです。

ところが人間というのは悲しい生き物で、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という諺があるように、痛い目をした時は分かったと思っていても、再び快適な暮らしが戻ると、いつの間にか、痛い目をした時のことをすっかり忘れて、元に戻ってしまうのです。

わたしたちが危惧しなければいけないのは、「今回の新型コロナウイルス感染症でも同じことが繰り返されるのではないか」という事です。

例えば、我が国でも、連日、新型コロナウイルス感染症の拡大を予防するための方策として、国や自治体、マスコミがこぞって、手洗い、うがい、マスクの着用などの励行を訴えており、巷では、マスクが売り切れて店頭から消える現象が起きています。

これは、マスクの供給量が需要に追い付ていないことも原因ですが、みんなが予防のためにマスクを購入している証拠でもあり、予防という観点から言えば、売り切れるほど多くの人が購入していることは、結構なことと言わねばなりません。

この現象から推測すれば、恐らく、各家庭や職場では、手洗いやうがいが励行されているものと思われますが、心配なのは、「新型コロナウイルス感染症の拡大が収まれば、誰も手洗いやうがいをしなくなるのではないか」という事です。

わたしの拙い体験をお話すれば、かつては、毎年のように、インフルエンザに罹っていました。予防接種をしても、A型とB型の両方に罹った年もあり、インフルエンザとは生涯付き合っていかなければいけない相手と諦めていました。

ところが、或る年を境として、まったくインフルエンザに罹らなくなったのです。しかも、不思議なことに、罹らなくなった年から、予防接種も受けなくなったにも拘らず、まったく罹らなくなったのです。

それまでと何が変わったのかと言えば、手洗いとうがいを励行するようになったことです。

インフルエンザにかかっていた時は、予防接種をしたという安心感もあって、余り手洗いとうがいをしていませんでした。

手洗いとうがいの励行が、インフルエンザを予防する上で効果的であることは、前々から言われていましたが、それを励行していなかったのですから、インフルエンザにかかっても不思議ではありません。

最初は意識的に行っていた手洗いとうがいも、いまでは習慣となり、毎食前に、手洗いとうがいをするのが当たり前になっています。

毎年のように罹っていたインフルエンザと決別できたのは、わたしの意識が変わり、それが生活習慣をも変えたからです。

手洗いとうがいをするのが当たり前でなかった生活が、当たり前の生活に変わったからこそ、インフルエンザという疫病神を封じ込めることが出来たのです。

今回の新型コロナウイルス感染症も、ただ疫病神として終わらせるのではなく、福の神に変える好機と捉え、一人でも多くの人が、手洗いとうがいの励行が当たり前になるように生活習慣を変えることが出来れば、今後いかなる感染症が出てこようとも、恐れることはありません。


読売新聞のコラム


今回の新型コロナウイルス感染症は、先般の東日本大震災と同様、私たちに意識改革を迫る天地の慈悲と言っていいでしょう。

東日本大震災の時、読売新聞に、次のようなコラム記事が掲載されていました。

東日本巨大地震に沈む日本経済は復活できるのだろうか。原発事故は予断を許さず、計画停電などもあって、不安は募る。
 首都圏の店ではミネラルウオーターや即席めんが消え、ガソリンスタンドに行列ができた。買い占めに走れば、被災地に必要な物資がいっそう届きにくくなってしまうことがわかっていても。
 同時に、日本全体に自粛ムードが広がる。歓送迎会や旅行などは中止が相次ぎ、消費低迷が避けられそうにない。だれしも被災者の苦難を考えずにはいられないのだろう。
しかし、モノが売れなくなれば、それをつくる会社の経営は厳しくなり、雇用・所得環境の悪化につながる。
 第一生命経済研究所の熊野英生氏は「過度な節約志向が広がると経済活動を下押しする。こういう時代だからこそ普段通りの消費活動をしていくことが大事」と強調する。
 読売新聞社が避難所にいる被災者100人に聞いたところ48人が「町は復興できる」と答えた。被害はあまりにも甚大だが、希望は消えていない。
 確かにエネルギー供給や食の安全など難題も多い。それでも、日本経済が停滞していては被災地の復興はさらに難しくなる。経済活動を正常化させていくためには、普通の暮らしを心がけることが必要になりそうだ。


同じ事を繰り返している人間


過度な節約はかえって逆効果になるという内容のこのコラムを読まれた人たちの多くは、「その通りだ」と、うなづかれたことでしょう。

当時、関東、東北地方では、節電、節水、節約の呼びかけが行われていました。

山梨でも計画停電が実施され、不自由な生活が暫く続きましたが、被災地の皆さんや、関係者の方々が置かれている状況を考えれば、節電、節水、節約に努めるのは当然で、当時は、それが国民の責務と言っても過言ではありませんでした。

しかし、他方で、誰もが過度の節約に走り、物を買わなくなれば、企業業績が悪化し、それだけ経済が冷え込み、被災地の復興もままならなくなる恐れがあります。

企業が儲からなくなれば、そこで働く人々の仕事がなくなり、更に物が売れなくなるという悪循環に陥ります。こうした悪循環を断ち切るためにも、震災前の元の生活に戻ることが何より大切である事は、誰の眼にも明らかでした。

もうお気づきでしょうが、いま私たちが、新型コロナウイルスによって置かれている状況も、まさに大震災当時の状況と全く同じなのです。違うのは、相手が大震災から新型コロナウイルスに変わっただけで、不自由な自粛生活を余儀なくされていることにおいては、全く変わりありません。

これを見れば、私たち人間が、過去から現在に至るまで、同じことを一度ならず二度ならず、何度も何度も繰り返してきていることがお分かりになるでしょう。


元の木阿弥にしてはならない


当時、私がこのコラムを読んで一つ疑問に思ったことがあります。それは、コラムに書かれているように、ただ震災前の元の消費活動に戻る事が、私たちにとって必要な行動であるなら、何故天地(神仏)は、わざわざ日本経済が冷え込むような未曾有の大震災を起されたのかという事です。

もう一度、震災前の消費活動に戻った方がいいのであれば、日本経済が回復傾向を示していた時期に、わざわざ日本経済を冷え込ませるような大地震を起こさなくてもいいのです。

大震災が起これば、せっかく上昇しかけていた経済が再びダウンしてしまう事くらい、天地(神仏)はわかっていた筈です。

にも拘らず、あえて千年に一度と云われる未曾有の大震災を起こしたのだとすれば、そこには必ず天地(神仏)のみ心が隠されている筈であり、その深い天地のみ心を悟らなければ、何のために、このような試練が与えられ、二万人以上もの犠牲者を出したのか分からなくなります。

わたしたちが共有しなければいけないのは、一日も早い復興の実現もさることながら、二万人もの方々の犠牲が活かされずに終わってしまうことへの危機感です。

二万人を超える方々の命が犠牲になっているのに、そこから何も学ばず、ただ震災前の元の消費生活に戻るだけなら、二万人もの犠牲は何のためだったのかと言う事になります。それこそ、元の木阿弥と言わねばなりません。


便利で快適なだけの生活


経済的な観点から云えば、震災前の普通の生活に戻らなければいけないことは誰の目にも明らかです。

今回の新型コロナウイルスによる感染予防の為に、止む無く出された自粛要請により、多くの方が自宅待機を余儀なくされ、人の流れが途絶えて、様々な業種で、業績が悪化の一途をたどっています。

観光地からは人の姿が消え、人通りのなくなった町を見ていると、まるでゴーストタウンのようですが、これは、外出を自粛して感染の拡大をくいとめ、一刻も早く新型コロナウイルスを封じ込めたいという政府や学識経験者の呼びかけに応えて、全国民が協力しているからであって、早く元の暮らしを取り戻したいという国民の熱意の現われと言っていいでしょう。

しかし、外出の自粛と共に、私たちが考えなければいけない事は、「震災前の普通の生活」や「取り戻したい元の暮らし」とはどのような生活を指すのかと言う事です。

思うに、取り戻したい元の生活とは、次々と作った物を、次々と買い、次々と消費して次々と使い捨てていく飽くなき浪費生活なのではないでしょうか。

確かに、大震災の被災者の方々の苦難を思えば、一日も早く震災前の平常な暮らしが出来るよう、優先的に取り組まなければいけない事は言うまでもありませんし、新型コロナウイルスの感染防止の為、全国民が出来るだけ外出を自粛するのは当然で、自粛要請に応じないパチンコ店や、そこに行って遊興している人々の行動は、言語道断と言わざるを得ません。

しかし、私が案じるのは、「このまま先般の大震災や新型コロナウイスルから何も学ぶことなく、ただ元の暮らしに戻っていいのか」という事です。

何故かと云えば、某テレビ局で、ある被災地に水道が復旧した時の映像が映し出されたのを見て、何も学んでいないことを痛感させられたからです。

それまで被災者の方々が云っていたことは、「電気や水道がないと何も出来ません。電気や水道のある生活がこんなに有り難いとは思いませんでした」という言葉でした。

ところが、テレビに映し出されていた水道復旧時の映像を見ると、水道の蛇口を一杯に開けて、水をジャージャー出しっ放しにしながら、水を飲み、食器を洗っている光景でした。

「電気や水道のある生活がこんなに有り難いとは思いませんでした」と言っていた人々が、その有り難い筈の水を「復旧したのだから、使いたいだけ使えばいいのだ」と言わんばかりに、ジャージャー流しっ放しにしながら使っている光景を見た時、電気や水道がある普通の生活とは、「有り難い」のではなく、ただ「便利で快適なだけに過ぎないのだ」という事でした。

まさに「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の諺通りで、そのテレビ映像は、被災者の方々の姿を通して、元の生活に戻れば、すぐに電気や水道が使える事への感謝の心を忘れてしまう私たちの愚かさを、ありのまま映し出していたのです。

合掌


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