桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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不変の立ち位置(2)

─いつでも、どこでも高野山法徳寺―



いつでも、どこでも高野山法徳寺


私の心が高野山法徳寺に留まっているという事実には、二つの意味があります。

一つは、肉体が高野山法徳寺以外のところに移動しても、心はいつも高野山法徳寺に留まっているという意味です。

例えば、東京スカイツリーに行っても、私の心は常に高野山法徳寺に留まっています。先ほど、皆さんの家に瞬間移動しても、心が高野山法徳寺に留まっていると言ったのは、その為です。

もう一つは、肉体が移動した場所がどこであろうと、すべて高野山法徳寺になるという意味です。

例えば、私が東京スカイツリーに行けば、東京スカイツリーが私にとって高野山法徳寺になります。皆さんの家に瞬間移動すれば、皆さんの家が、私にとって高野山法徳寺になります。

電車に乗っていれば電車が、車に乗っていれば車が高野山法徳寺となり、寝ていても、起きていても、私が高野山法徳寺から離れることはありません。

また、場所だけでなく、時間も問いませんから、明日になっても、明後日になっても、10年後になっても、死んでからも、私は高野山法徳寺から一歩も離れることなく、留まり続けます。

ドラえもんの「どこでもドア」になぞらえれば、私は、「いつでも、どこでも高野山法徳寺」に居るのです。

御承知のように、高野山法徳寺は、平成16年4月13日、若神子の聖地に発足いたしました。しかし、平成16年に発足した高野山法徳寺は、形ある世界に発足した仮の高野山法徳寺に過ぎません。

生じては滅し、滅しては生じる諸行無常の真理の下にあるものは、すべていつか無くなる定めにあり、高野山法徳寺と雖も、その例外ではありません。

ですから、私が「いつでも、どこでも高野山法徳寺」に居るという意味は、無常の世の中にある仮の高野山法徳寺ではなく、私の心の中にある、形のない高野山法徳寺に居るという意味です。

心の中にある高野山法徳寺は、お大師様、菩薩様の御手の中であり、私が帰るべき魂の故郷ですから、「いつでも、どこでも高野山法徳寺に居る」という意味は、「いつでも、どこでも、常にお大師さま、菩薩さまの御手の中に居る」という意味になります。


二つの故郷


自分の立ち位置を持つということは、自分の本当の正体を知ることでもあります。

お大師様が「秘蔵宝鑰」という書物の中で、
  生まれ生まれ生まれ生まれて
    生のはじめに暗く
  死に死に死に死んで
    死の終わりに暗し
 と説いておられるように、私たちは、永遠の昔から、生まれ変わり死に変わりしながら、流転生死の人生を繰り返してきました。

しかし、自分が何処から来て、何処へ帰っていくのか、魂の故郷は何処なのか、自分の本当の正体は何者なのかを、誰も知りません。

私たちには、故郷と呼べるものが二つあります。  一つは、母親のお腹に宿って生まれて来た肉身の故郷、もう一つは、母親のお腹に宿る前に居た魂の故郷です。

肉身の故郷は、自分がこの世に生まれた故郷ですから、百人居れば百人の故郷があります。私は三重県の松阪市で生まれたので、そこが私の肉身の故郷です。

しかし、肉身の故郷は、この世へ生まれてくる為の仮の故郷に過ぎず、いつかは無くなる定めにありますから、肉身が消滅して帰るべき故郷は別にあります。

わたしたちが帰るべき故郷は、肉身を与えられる前に居た、魂の故郷と呼ばれるところです。その故郷は、仏教で極楽浄土や彼岸や阿字の故郷など、様々な名前で呼ばれていますが、高野山法徳寺も魂の故郷に付けられた名前の一つです。この魂の故郷が、私たちが帰るべき本当の故郷なのです。

(弘法大師)
  阿字の子が 阿字の故郷立ち出でて
    また立ち帰る 阿字の故郷

「阿字の子」、仏の子が、「阿字の故郷」、極楽浄土をたち出でて、再び極楽浄土へ帰って行く有様を詠ったものですが、先ほどお話しした私の不変の立ち位置も、ここにあります。


自己の正体


白隠禅師の『座禅和讃』に、次のような一節があります。
  衆生本来仏なり
  水と氷のごとくにて
  水をはなれて氷なく
  衆生の外に仏なし
  衆生近きを知らずして
  遠く求むるはかなさよ
  長者の家の子となりて
  貧里に迷ふに異ならず

私たちは元々仏でありながら、本来の姿を忘れて、迷いの夢を見続けています。それは、譬えれば、水と氷のようなもので、氷が溶ければ水になるように、私たちも、いまは衆生の姿(氷)をしていても、自分の立ち位置さえ見つかれば、本来の仏の姿(水)に戻れるのです。

「長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず」とは、法華経に出てくる「長者窮子の譬え」を引用したものです。

幼い頃に親と生き別れ、乞食に身をやつして、流浪の旅を続けてきた長者の子供が、或る日、自分の家とも知らずに、物乞いにやって来ます。

召使いに咎められ、門のところで言い争いをしているところへ長者が通りかかり、その乞食が幼くして別れたわが子だと一瞬にして見抜きます。

長者は、すぐに親子の名乗りをしたいと思い、家の中へ招き入れようとするのですが、乞食に身をやつしている子供は、「自分が、こんな立派な長者の家の息子であるはずがない」と警戒し、家の中に入ろうとしません。

そこで、長者は一計を案じ、「生活に困っているようだから、暫くこの屋敷で働いてみないか。衣食住の面倒もみるし、給料も出そう」と言って誘い水を打つと、乞食は大喜びして、「それは有り難いことです。喜んで働かせていただきます」と云って、長者の屋敷で働くことになったのです。

その後、息子が、長者の片腕と云われるまでに成長したのを見計らい、改めて親子の名乗りをすると、息子の方も、自分の幼い頃のことを思い出し、自分の正体に目覚めて、無事長者の跡を継ぐことが出来たというお話ですが、ここに出てくる長者は仏を、乞食に身をやつした息子は、わたしたち衆生を現しています。

わたしたちもみな、本来仏の子なのですが、永年に亘って迷いの旅を続けてきたため、自分の正体をすっかり忘れ、愚かな凡夫(衆生)と思い込んでいるのです。

そこで、神仏は、長者が方便を使って息子を召使いとして雇ったように、「あの神さまは、こんなご利益がありますよ。この仏様は、こんなお力がありますよ」と云って、様々なご利益を示し、私たちの欲心を利用して、信仰の門に導こうとしておられるのです。

本来仏ですから、すでにご利益をいっぱい頂いているのですが、余りにも迷いの旅が永かったため、仏と云われてもすぐには信じられません。そこで、神仏は、あの手この手の方便を使って、信仰の門に入れて修行をさせ、自分の本当の姿に目覚めさせようとしておられるのです。


乗り越えなければならない幾多の試練


『阿弥陀経』というお経に、「極楽は十万億土彼方に在る」と説かれていますが、十万億土彼方とは、仏様の居る国を一仏国土として、その一仏国土を十万億個超えた彼方という意味ですから、宇宙の果ての果てに行かなければ極楽はないことになります。

しかし、十万億土とは、距離の長さではなく、迷いの深さの事であり、十万億土彼方へ行かなければならないほど、迷いが深いという意味です。

それほど深い迷いの夢から目覚めさせようと、あの手この手の方便を以て導いて下さっているのですから、み仏の御苦労は尋常ではありません。

それだけに、私たちも、与えられた様々な試練や厳しい行を有り難く受け止め、み仏の御苦労に報いなければなりません。

しかし、いくら頭では、自分の本当の正体が仏であるとわかっても、それで直ぐに、いま居るところが極楽になる訳ではありません。

乞食に身をやつした長者の息子と同じように、永年に亘って迷いの旅を続けている内に、自分の真の姿をすっかり忘れてしまっているからです。

もう一度、本来の自分の姿を思い出す為には、思い出すための様々な修行が必要なのです。修行ですから、楽な修行ばかりではなく、辛く厳しい修行もありますが、その厳しい修行も、魂の故郷に帰らせて頂く為の修行と思えば、有り難さもひとしおと、感謝しなければなりません。

合掌


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