桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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心安らかに生きる為に(4)



億劫にも遇い難きは仏法なり


人間界に生まれた者は、みな同じスタートラインに立っていると申しましたが、だからといって、誰もがみな一斉に極楽へスタート出来る訳ではありません。

同じスタートラインに立てても、スタート出来ない人が、実は大勢いるのです。

お釈迦様が「縁なき衆生は度し難し」と喝破しておられるように、先ず仏縁のないお方はスタート出来ません。何故なら、極楽へ帰る道が分からないからです。

極楽へ帰る為には、人間の身を与えられるだけではなく、極楽へ帰る指南書ともいうべき仏法にご縁をいただかなければならないのです。

人の身を与えられ、更に仏法という指南書に遇わせていただかなければ、自分の正体が仏の子であることも、魂の故郷が極楽であることも、人の身を与えられたことの有り難さも、極楽へ帰る上で欠かせない菩提心を起こすことの大切さも分かりません。

これが、「億劫にも遇い難きは仏法なり」と言われる所以です。

いま皆様は、億劫にも遇い難き仏法に遇われたお陰で、自分の正体が仏の子であることも、魂の故郷が極楽であることも知ることが出来ましたが、世の中には、まだその事実をご存じない方が大勢おられます。

折角、極楽へ帰れる人の身を与えられておりながら、人間に生まれた有り難さも知らずに、無常の荒波に押し流されていく人々が大勢いるのです。

それに対し、私たちは、仏法に遇わせて頂いたお陰で、いよいよ極楽目指してスタートする千載一遇の好機に巡り合えたのです。

スタートするという事は、乞食に身をやつした長者の息子が、自分の姿に目覚めるまで長者の家の雇用人として働いたように、自分が極楽に居た時の事を思い出す為の訓練(修行)に入ることを意味します。

修行ですから易しくはありませんが、難しく考える必要もありません。二つの事を心に刻んで、励んでいただきたいと思います。


合掌の意味


そのお話をする前に、修行中に結ぶ合掌印の意味についてお話したいと思います。

古歌に、
  右ほとけ 左われと合わす手の
     内にゆかしき 南無の一声
 と詠われているように、合掌の右手は親様であるみ仏を、左手は仏の子である私たちを現しています。

合掌印は、み仏と私たちが、目と目を合わせて相互に拝み合っている極楽の有様を、形に現したものと言っていいでしょう。

修行中、常に合掌印を目の前で結びながら、み仏を拝むのは、合掌印を見ながら、極楽での姿を心(心眼)の奥底に強く焼き付ける為です。

残念ながら、今の私たちは、親様(光)に背を向けた状態で、六道輪廻の人生をさまよっています。これを両手で現わせば、右手の掌と左手の甲を合わせた形となり、合掌にはなりません。

つまり、もう一度、内側に向いた左手の甲を外側に向け、右手と左手の掌を合わせた合掌印に戻し、親様に目を向けなければならないのです。

これによって、極楽で暮らしていた私たちの本来の姿に戻ることが出来るのですが、その為には、これからお話しする二つの修行が欠かせません。


忘れてはならない菩提心


一つ目の修行は、菩提心の実践です。この菩提心について、お大師様は、四種の菩提心を挙げておられます。

第一は信心です。この信心は、菩薩様が、「み仏はただ信じるのではなく、信じ切らなければならない」とおっしゃっておられる信心で、どんな事があっても崩れない不動の信心(不動心)でなければなりません。

例えば、自分にとって不都合な事が起きた時、み仏を疑ったり、信仰を捨てるような信心は、不動の信心とは言えません。そのような半信半疑の信心ではなく、どんな不都合な出来事に遭遇しても、揺れ動かない信心です。

第二は大慈悲心です。これは、自分より先に他の人を極楽(彼岸)へ渡してあげようという心で、別名「行願心(ぎょうがんしん)」とも言います

道元禅師が、「菩提心を起こすというは、己れ未だ渡らざる先に、一切衆生を渡さんと発願し営むなり。たとえ在家にもあれ、たとえ出家にもあれ、或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも、楽にありというとも、早く自未得度先度佗の心を起こすべし」と説いておられる菩提心が、この大慈悲心です。

彼岸へ渡る時は、誰よりも早く行きたいのが人情です。しかし、全員がその心を起こせば、争いが起こり、誰も彼岸へ渡れなくなります。

狭い出口に大勢の人が先を争って殺到すれば、狭い通路はすし詰め状態となり、誰も出られなくなるのと同じように、早く彼岸へ渡りたければ、まず他の人を先に渡してあげようという心を、お互いが起こさなければなりません。この譲り合いの精神を忘れていては、極楽へは帰れません。

第三は勝義心(しょうぎしん)です。文字通り、劣った教えを捨てて、正しい教えに帰依する心で、別名「深般若心(じんはんにゃしん)」とも言います。

例えば、オウム真理教のように、殺す事がその人を救う事だと信じ込ませ、救う為には人を殺しても構わないと説く教えや、イスラム過激派組織ISIL(イスラム国)のように、神の名の下に無差別テロを正当化する教えには絶対に帰依してはならないと知る心が、勝義心です。

最後が大菩提心で、悟りを得て一日も早く極楽に戻り、一人でも多くの人を救いたいと深く念じ、実践する心です。

六度目の挑戦でようやく日本に渡航された鑑真和尚や、命がけで海を渡り、唐から真言密教を伝えられたお大師様の命がけの求道心は、まさにこの大菩提心の実践と言えましょう。


地獄と極楽の食事風景


この菩提心に関して、面白い話があります。

或る人が、地獄と極楽の食事風景を見に行ったところ、地獄では、みんな食卓を挟んで争ったり、罵り合ったりしているので、「どうしたのだろう?」と不思議に思って見ると、一メートルもある長い箸を使って、自分の目の前にあるお皿の食べ物を挟んで食べようとしていました。

しかし、箸が長すぎてうまくつかめないため、腹を立てて言い争ったり罵り合ったりしていたのです。

次に、極楽へ行ってみると、食卓の上には、地獄と同じように、美味しそうな食事と一メートルもある長い箸が置かれていました。

ところが、地獄とは違い、みんなニコニコ笑いながら、楽しそうに食事をしているのです。

よく見ると、極楽の人々は、その箸を使って、自分の前に座っている人のお皿の食べ物を挟んで、前の人の口に入れてあげていたのです。

その箸は、目の前に座っている人に食べさせてあげるのに、ちょうど良い長さのお箸だったのですが、地獄にいる人々は、菩提心を忘れて地獄へ堕ちたため、相手の為に使うことを知らなかったのです。

それに対し、極楽の人々は、相手の身になって考える菩提心を起こして極楽へ往けた人たちだったので、誰もが、長い箸は、相手の為に使うものだということを知っていたのです。

つまり、地獄と極楽を分けていたのは、同じ一メートルの箸を誰の為に使うか、何の為に使うか、菩提心を起こせるか否かという、たったそれだけの違いだったのです。


蜘蛛の糸


芥川龍之介の『蜘蛛の糸』という短編小説にも、菩提心に関する面白い話が書かれています。

或る時、極楽の蓮池のほとりを歩いておられたお釈迦様が、蓮の葉の間から地獄の有様をご覧になったところ、地獄の底でカンダタという男がもがき苦しんでいる姿が見えました。

カンダタは、様々な罪を犯して地獄へ堕ちた極悪人でしたが、お釈迦様がカンダタの生涯を見ると、一つだけ善い事をしていました。道端をはってゆく小さな蜘蛛の命を助けた事があったのです。

そこで、お釈迦様は、その功徳に免じて地獄から助けてあげようと、蜘蛛の糸をカンダタの頭上に下ろされました。

カンダタがふと上を見上げると、極楽から、銀色に輝く蜘蛛の糸がスルスルと下りてきたので、カンダタは、「有り難い。この糸を上っていけば極楽へ行ける」と思い、その糸を上り始めました。

ところが、途中まで来たところでふと下を見ると、地獄へ堕ちた大勢の亡者たちが、カンダタの後から次々と上ってくる姿が見えました。

それを見たカンダタは、「この蜘蛛の糸は俺のものだ。誰の許しを得て上ってくるのだ。みんな早く下りろ」と叫びながら、すぐ下の男の頭を蹴飛ばしたのです。

すると、その蜘蛛の糸は、カンダタの手元からプツリと切れ、カンダタも亡者たちも、蜘蛛の糸もろとも地獄の底へ真ッ逆さまに堕ちていきました。

お釈迦様は、その一部始終をご覧になられ、自分の事しか考えないカンダタの心根を哀れに思われたのですが、カンダタの一挙手一投足を見ていると、自分を救えるのも、自分を不幸にするのも、自分しかいないことがよく分かります。

自分が不幸になるのは、親のせいだ、子供のせいだ、誰々のせいだ、社会のせいだと言って、不幸の責任を自分以外の何かに転嫁している人をよく見かけますが、自分以外に自分を不幸に出来る人など一人もいません。

自分を救える者は自分しかいないからこそ、自分を救う菩提心を、いついかなる時も忘れてはならないのです。


蜘蛛の糸の正体


この短編小説を読んで、「何故あんなに大勢の人が上っても切れなかった蜘蛛の糸が、男の頭を蹴ったくらいで切れたのだろう?」と、不思議に思われたお方もいると思いますが、蜘蛛の糸の正体が分かれば、切れた理由が分かります。

お釈迦様が垂らされた、カンダタを極楽へ導く蜘蛛の糸の正体は、蜘蛛の命を救ったカンダタの菩提心だったです。

「この蜘蛛の糸が、お前を極楽へ導く菩提心だよ。さあ、この菩提心の糸を離さずに、極楽へ上ってきなさい」

ただの細い蜘蛛の糸であれば、すぐに切れてしまいますが、カンダタが上ってきた蜘蛛の糸は、カンダタの菩提心を象徴する蜘蛛の糸ですから、カンダタが菩提心を捨てない限り、幾ら細くても絶対に切れません。

ところが、自分の後から次々と上ってくる大勢の亡者を見た途端、カンダタは、自分さえ助かればいいという浅ましい心を起こし、菩提心を捨ててしまったのです。

切れたのは、ただの蜘蛛の糸ではなく、蜘蛛の糸に象徴されているカンダタの菩提心です。

カンダタは、菩提心によって、かろうじて極楽へつながっていただけですから、その菩提心が切れれば、菩提心を象徴する蜘蛛の糸が切れて地獄へ堕ちてゆくのは当たり前です。

表面的に見れば、蜘蛛の糸がカンダタの手元で切れたように見えますが、正確に言えば、切れたのではなく、カンダタが自ら切ったのです。

菩提心を起こすも捨てるもすべて、カンダタ自身の胸三寸にかかっていますから、カンダタ以外に、カンダタの菩提心を切れる者はいません。

もしカンダタに、自分と同じように地獄へ堕ちた人たちを少しでも憐れむ心があれば、「みんなも一緒に極楽へ往こう」と言えた筈であり、そうすればカンダタも他の亡者たちもみんな救われたのです。

この蜘蛛の糸は、幾ら細くても、菩提心を失くさない限り絶対に切れませんが、同時に、菩提心を失くせば、一瞬にして切れるもろい糸でもあります。

カンダタが再び地獄へ堕ちて行ったのは、自分さえ極楽へ行けたらいいという心を起こし、菩提心である蜘蛛の糸を自ら切ってしまったからです。

自分の幸せだけを考えていては、救われないことがよく分かります。他人のことを思える菩提心が、自らを救い、その心が極楽へ通じる蜘蛛の糸となるのです。お互いが支え合い、助け合っていかなければ、誰も幸せにはなれません。

そして、その当たり前のことを教えてくれているのが、先ほどお話した極楽の食事風景です。

極楽には、長い箸を使って、お互いに食べさせ合える心の持ち主しか帰れません。

菩提心を起こし、限りある人生を、みんなで支え合い、助け合って生きて行くことの出来る人だけが極楽へ帰れるのです。

合掌


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