桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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大自然から学ぶ智慧(4)



死を覚悟した苦行


天台宗に伝わる千日回峰行という修行があります。

以前、テレビでも千日回峰行の特集を放送していましたので、ご覧になったお方もおられると思いますが、比叡山の峰々を歩き続ける非常に厳しい修行です。

千日回峰行とは、十年間比叡山に籠もって毎日修行に明け暮れる籠山行の中にある苦行の一つで、七年の内の千日間、ひたすら比叡山の峰々に祀られている260箇所ものお堂を廻って、仏様を拝み続ける修行です。

30キロの道のりを、平均6時間かけて廻るそうですが、一年目から三年目までは、一年に100日間、四年目、五年目が、一年に200日間、つまり、五年で700日間の回峰行があり、それが終わると、「堂入り」と言って、九日間にわたる断食・断水・断眠・断臥の行に入ります。

食べる事も、水を飲む事も、眠る事も、横になる事も出来ない大変な苦行です。

「堂入り」が終わって六年目からは、京都までの道のりが新たに加わり、60キロの道のりを、100日間歩き続けなければなりません。

七年目は更に倍の200日となり、最初の100日間は、「京都大回り」と呼ばれる83キロの行程を、残りの100日間は、再び比叡山中の30キロの道のりを歩く行に戻ります。

こうして、七年かけて千日間の回峰行が行われるのですが、厳しい回峰行の中でも最大の苦行が、九日間に及ぶ「堂入り」です。

九日間、食べず飲まず眠らず休まず、ただひたすら八万枚の護摩木を焚いて拝み続ける訳ですから、まさに死を覚悟しなければ出来ない行と言ってもいいでしょうが、行の中で、口を漱ぐだけの水を口に含ませていただけるそうです。

勿論、飲めませんし、飲んではいけません。ただ口を漱ぐだけです。

いままで四十七人の方が、千日回峰行を成し遂げられ、酒井雄哉というお方が、二度成満しておられますが、戦前の昭和の初め、この千日回峰行を三度成満なさったお方がおられます。

奥野順玄というお方で、今や伝説上のお方と言っていいでしょうが、この奥野師にこんなエピソードが伝えられています。


或る千日回峰行者の講演


奥野師の講演会が催され、大勢の聴衆が固唾を飲んで見守っている中、講演会場にしずしずと入ってこられたそうです。

体の小さなお方なのに、その時はとても大きく見えたそうですが、正面の演壇に立たれ、暫く合掌したまま数分間祈っておられたそうです。

どんなお話をされるのだろうと、固唾を呑んで見守っている聴衆に向かい、おもむろにこうおっしゃったと言います。

「私は今、お不動様にご懺悔の気持ちで一杯です」

九日間、食べず飲まず眠らず休まず、ただひたすら八万枚の護摩木を焚いてお不動様を拝み続けたお方が、開口一番、「お不動様にご懺悔の気持ちで一杯です」と告白されたのです。

「口を漱ぐためにいただいた水の一滴が、喉を通ってしまいました」

勿論、飲もうと思って飲んだ水ではありません。口を漱ぐために含んだ水ですが、その一滴が、たまたま喉を通ってしまったと、おっしゃったのです。

「その事を私は今でも悔やんでおります。悔いております。お不動様にご懺悔しております。これから一生、お不動様にご懺悔し続けていくでしょう」

こう告白された後、続けてこうおっしゃったそうです。

「しかし、喉を通った一滴の水の味わいは、今でも忘れません。一生忘れる事はないでしょう。それではこれで私の講演を終わります。」

そう言って、講演会場を出ていかれたそうです。

この話は、平成10年に御遷化された信貴山玉蔵院の野澤密厳管長猊下の御法話の中で伺った話ですので、奥野師の講演の詳細は分かりませんが、話を聞いた時の衝撃は、今でも忘れられません。

わずか数分という講演の短さも然ることながら、極限状態を体験された奥野師の赤裸々な告白が、魂の奥底まで響き渡り、衝撃が全身を貫いていきました。

この講演を聞かれた会場の聴衆も、私と同様、強烈な衝撃を受けたのではないでしょうか。


奥野阿闍梨の問いかけ


「九日間の不眠不休で八万枚の護摩を焚いた時、たまたま口を漱ぐ為に頂いた水の一滴が喉を通ってしまいました。飲もうと思って口に入れた水ではありませんが、たまたま入ってしまいました。その事を私は、今でも悔やんでいます。お不動様にご懺悔しております。これからも一生お不動様にご懺悔し続けていくでしょう。しかし、その一滴の水の味わいは今でも忘れません。その水の味わいも一生忘れる事がないでしょう」

そう言って会場を後にされた奥野大阿闍梨がこの講演で伝えたかった事は何だったのでしょうか?

一滴の水が喉を通ってしまった事に対するお不動様への懺悔の気持ちや、喉を通った水の味わいを一生忘れる事はないという事実だけを告白する為ではないと思います。

むしろ奥野師は、「私の体験から、皆さんそれぞれに何かを悟っていただければ結構です」と、会場にいる人々に問いを投げかけられたのではないでしょうか?

百人いれば百様の受け止め方があるのは当然ですが、数分という僅かな時間で講演を閉じられたのは、講演を聞いた人々が自ら何かを悟り、人生を生きる糧としなければ意味がない事を、誰よりも分かっておられたからかも知れません。


水一滴の味わい


「飲まず食わず眠らず休まない行の真っ直中で口に含んだ水の一滴であっても、喉を通ってしまった事は悔いても悔やみきれない。お不動様に申し訳ない。しかし、その一滴の水の味わいは、今でも忘れられない」と、ありのままの心情を告白されたその言葉には、悲壮感さえ漂っていますが、「水の味わいは一生忘れられない」という言葉からは、喉を通った一滴の水が、全身に活力をみなぎらせるほどの味わいだった事が、ひしひしと伝わってきます。

以前、私も断食をした経験がありますので、「一滴の水の味わいは一生忘れられない」とおっしゃった奥野師のお気持ちが、少し分るような気がいたします。

勿論、千日回峰行を三度も成満なさったお方の行とは比べるべくもありませんが、断食を終えて最初に口にした重湯の味わいは、とても言葉では言い表せません。

今まで眠っていた細胞が、一瞬にして目覚めるとでも言いましょうか、体中にみるみる活力がみなぎってくるのが手に取るように分るのです。

この時に悟ったのは、入れる事より出す事の大切さです。

断食は、体からすべての老廃物を出し切る行ですが、断食の真の目的は、出し切る事ではなく、新鮮なものと入れ替えて、体を作りかえる事にあります。その為には、まず体内に滞っている老廃物を出し切らなければなりません。

昔から「体調が悪くなったり、食欲がなくなったりした時は、断食をするとよい」と言われるのはその為で、断食は、体内に滞っている様々な老廃物を出し切って、体を根本から作りかえてくれます。

断食をしてみれば分りますが、出し切った後は、まるで乾ききったスポンジが水を吸収していくように、たった一滴の水でさえも、口に含めば細胞内にどんどん活力がみなぎってくるのが実感出来ます。

断食をする前は、一滴の水を飲んでも何も感じませんし、一滴の水の持つ力が如何に凄いかなど想像も出来ません。

しかし、断食をした後では、僅か一滴の水でさえ、命を蘇らせる力を持っているのがよく分ります。

キリスト教に「求めよ。さらば与えられん」という言葉がありますが、断食に教えられるのは、「出し切れ。与えよ。さらば与えられん」と言う真理です。

恐らく奥野師も同じ真理を悟られたのではないかと思いますが、信仰も同じです。

よく「信仰とは何の為にするのですか?」と尋ねられる事がありますが、世間には、信仰を、自分の願いを叶えてもらう為の手段と考えているお方が大勢おられます。

何か満たされないものがあり、それを神仏の力によって叶えてもらう為にするのが、世間の人々が考える信仰なのです。


信仰は取引ではない


しかし、本当の信仰は、願いを叶える為でも、欲望を充たす為でもありません。

勿論、願いを叶えてもらう為に神仏を拝むのも自由ですが、神仏は、私たちがこれだけお願いしたから、叶えてくれたり、お願いしないから叶えてくれないというような依存的存在ではありません。

神仏は、仏の子である私たちから見れば親様であり、私たちが願おうが願うまいが、何とか幸せにしたいと、私たち一人一人に応じて、一番良い手立てを以て導いて下さっているのです。

願ったから願いを叶えてくれ、願わないから叶えてくれないというのは、謂うならば取引であって、信仰ではありません。

「これだけお布施をしますから、これだけ信仰をしますから、これだけのご利益を与えて下さい」と言って何らかの見返りを求めるのは、信仰ではなく、近所の商店へ行って野菜や果物を買うのと同じです。

信仰を取引にしては、心を汚すだけでなく、六道輪廻の廻り舞台から飛び出す事も出来ません。

よく「何年信仰しても少しもよくならない」と言われるお方がいますが、このようなお方は、神仏を信仰しているのではなく、神仏と取引をしておられるのではないでしょうか?

大切な事は、最善最良の手立てを以て私たちを導き、必要なものを必要なだけ与えて下さっている神仏に対しどう応えていくか、という事です。

求める心しかないと、神仏のみ心は分からないでしょうが、神仏は、私たちが願おうが願うまいが、先々まで見通して、ありとあらゆる手立てを以て、私たちに一番良い方法を以って導いて下さっているのです。

ですから、願いが叶おうが叶うまいが、すでにありとあらゆる手立てを以て私たちを導き、守って下さっている神仏にお返しするものは、懺悔と感謝の心しかありません。

願いを叶えてもらったから、感謝の心をお返しするのではありません。願いが叶っても叶わなくても、常にお守り下さっているからこそ、感謝の心をお供えしなくてはいられないのです。

この感謝の心は、プラスを引き寄せる力を持っていますから、此方からお願いしなくても、ありとあらゆるプラスのお計らいが寄って来ます。断食は、その道理を悟るための行でもあるのです。

プラスとは、ただお金や物だけではありません。健康も、家族の平安も、様々な災難から逃れさせていただく事も、みなプラスです。

しかし、求めるばかりで、出す事を知らなければ、いつまで経ってもプラスは寄ってきません。

人間にはみなそれぞれ、目に見えない幸せを入れる徳の器というものがあり、器の大きさ以上のものは災いの原因になる為、余分なものが入っても、みな出ていくようになっています。

私たちの目には、マイナスとしか映らない為、真相を知らない人は損をしたように思うのですが、余分なものを出して、病気や事故や怪我など、様々な災いから救ってくれているのです。
 (法舟菩薩)
  施しすると いうことと
    神にとられる いうことの
    道理わかれば 悟りなり
  天は二物を 与えない
    これの道理が わかるなら
    施しせずには おれませぬ

合掌


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