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稲荷大明神勧請(2)



伏見稲荷大社にまつわる二つの伝承


京都の伏見稲荷大社へお参りさせていただく事に決まったものの、その時はまだ、何故、開創十三年目に入るや否や、伏見稲荷大社に導くお計らいがなされたのかについては、よく分かりませんでした。

そのお計らいの意味を知る為には、やはり伏見稲荷大社の起源について知る必要があったのです。

伏見稲荷大社の起源については、二つの伝承が伝えられています。

一つは、大陸から渡来し、日本に土着した秦(はた)氏一族に連なる「秦氏系の伊奈利(いなり)伝承」、もう一つは、荷田(にだ)氏に連なる「荷田氏系の稲荷伝承」と言われるものです。

秦氏も荷田氏も、代々、伏見稲荷大社の神官を勤めてきた社家の家柄ですから、伝承もそれほど違わないであろうと想像していたのですが、その予想は見事に裏切られ、二つの伝承の内容は大きく異なっていました。


秦氏系の伊奈利伝承


先ず「秦氏系の伊奈利伝承」の根拠となっている『山城国風土記逸文・伊奈利の社条(やましろのくにふどきいつぶん・いなりのしゃじょう)』によれば、稲や粟などの穀物で財をなした京都市深草の長者、秦伊呂具(はたのいろぐ)が、稲荷山に稲荷大明神を祀ったのが起源と言われています。

秦伊呂具は、秦氏の遠祖と言われている人物で、稲荷神社の『稲荷社神主家大西(秦)氏系図』(いなりしゃかんぬしけおおにし(はた)しけいず)によれば、賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)二十四世、賀茂県主久治良(かものあがたぬしくじら)の末子とされています。

賀茂建角身命は、神武東征の際、高木神(たかぎのかみ・注1)・天照大神の命を受けて日向(ひゅうが)の曾の峰(高千穂峰)に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏(やたがらす)に姿を変えて神武天皇を先導し、勝利に貢献したと言われている古代神話の神様で、秦伊呂具は、八咫烏二十四代目の人物の子孫という事になります。

秦氏は、大陸から渡来し、京都の太秦(うずまさ)を本拠地として活躍した有力豪族で、太秦の広隆寺は秦氏の氏寺、松尾大社は氏神としてよく知られています。

その秦氏を統率していたのが、秦都理(はたのとり)と言われる人物で、秦伊呂具は、秦都理の弟と言われていますので、秦氏の分家の長という事になります。

或る日、秦伊呂具が、餅を的にして矢を射たところ、その矢が餅に命中し、餅が白い鳥に変って稲荷山の頂上へ飛んで行き、そこに稲が生えたので、不思議に思った伊呂具がその地を霊地と感じ、稲の霊である稲荷大明神を祀り、「伊奈利社(いなりしゃ)」と名付けたのが、伏見稲荷大社の起源と言われています。

その日が、和銅四年(西暦711年)二月七日壬午(みずのえうま)の日であった事から、二月の初午が稲荷大明神の紋日とされています。

秦伊呂具が餅を的にして矢を射たら、餅が白鳥に変って稲荷山の山頂に飛んで行ったという伝承は、五穀豊穣をもたらす穀物の霊(穀霊)である餅を弓の的としたため、餅に潜んでいた穀霊が白鳥となって飛び去った事を暗示しています。

それによって災厄がもたらされる事を恐れた子孫が、餅を的にした先祖の過ちを悔い、社の木を根こそぎ引き抜いて家に植え、祀ったのですが、その木を植えて根付けば福が授かり、枯れると福はないと言われ、これが、今に伝わる稲荷神のご神木「験(しるし)の杉」の起源となっています。

イナリという名前は、山の頂上に稲が生えた事に由来しており、「イネナリ(稲生)」が「イナリ」に転じ、「稲荷」の漢字をあてて、社名としたものですが、何故、秦伊呂具が、本家の氏神とは別に、分家の氏神として新たに「伊奈利社」を創建し、稲荷大明神を祀ったのかについては、よく分かっていません。


荷田氏系の稲荷伝承


もう一つの伝承である「荷田氏系の稲荷伝承」の根拠となっているのが、『稲荷大明神流記(いなりだいみょうじんるき)』で、それによれば、弘法大師が、弘仁七年(816)、熊野詣での途中、紀伊田辺に滞在しておられた時、女性二人と子供二人を連れ、稲を担いで杉の杖をついた、身長二メートル四十センチもある白髭の老翁が訪ねて来られ、

私は稲荷の神である。あなたとはすでに唐土で面会している。これからあなたの仏法興隆事業をお手伝いしようと思う。

と言われたので、弘法大師は大変喜ばれ、

確かに貴方とは先年、私が唐に留学していた時にお会いしました。その時交わした誓約を、今でも忘れる事が出来ません。私には密教を日本に広め、仏法を隆盛させたいという願いがあります。その仏法興隆事業をお助け下さるのは大変有り難い事です。
 私は今、わが国に密教を興隆させたいと、京都の東寺で大事業に着手したところです。ぜひ貴方様のお力をお貸し願いたい。京都の東寺でお待ちしておりますので、是非お越しください。

と告げ、東寺での再会を約束して別れました。高山寺

伝承によれば、弘法大師と稲荷明神が出逢った場所は、紀伊田辺駅より西北へ数キロ行った田辺市稲成(いなり)町にある高山寺(真言宗御室派)のある場所とされており、現在お寺の正門には、「弘法大師稲荷明神 値遇の霊跡 高山寺」と刻まれた石柱が建っています。

弘法大師と稲荷明神が京都・東寺での再会を約束してから七年後の弘仁十四年(823)四月十三日、東寺の南大門に、二人の女性と二人の子供を連れ、稲を担いだ白髭の老翁が、紀伊田辺で別れた時の姿のまま訪ねてこられ、

お約束通りやって参りました。これから東寺とあなたの為にお手伝いさせていただきましょう。

と言われたので、弘法大師は、

お稲荷様、よく訪ねてくださいました。貴方様のお力をいただき、私の東寺の仕事も、密教興隆の仕事も、きっとうまく行くに違いありません。東寺には、お稲荷様ご家族をお泊めする場所がありませんので、すぐ近くの芝守り(柴守)長者の屋敷でしばらくご滞在下さい。

と言って、長者の屋敷へ案内され、お稲荷様ご一家を篤くもてなされました。

お稲荷様ご一家は、そこでしばらく滞在され、滞在期間中、弘法大師は、壇を組んで、十七日間の行に入り、お稲荷様を東寺の鎮守として祀り、後に稲荷山に勧請したのが、伏見稲荷の起源と言われています。

弘仁十四年(823)を伏見稲荷の起源とする「荷田氏系の稲荷伝承」と、和銅四年(711)を起源とする「秦氏系の伊奈利伝承」とでは、百年余りの開きがあり、どちらの伝承が正しいかは不明ですが、伏見稲荷大社では、平成二十三年(2011)に創建千三百年祭を催していますので、創建年代については、「秦氏の伊奈利伝承」の和銅四年(711)説を採用している事になります。


稲荷山の神・竜頭太と弘法大師のつながり


更に、東寺に伝わる『稲荷大明神縁起(いなりだいみょうじんえんぎ)』には、次のように記されています。

和銅年中(708〜715)より百年間、稲荷山の麓には、竜頭太(りゅうとうた)という山の神が住んでいた。
 稲荷山の山麓に草庵を結び、昼は田を耕し、夜は薪を集めていたが、その容貌は竜のようで、顔の上に光があたって夜を照らすほどであったという。
 稲を荷いでいたことから、姓を荷田(にだ)と言ったが、弘仁の頃、弘法大師がこの山で修行していると、竜頭太が現れ、「吾は稲荷山の神である。仏法を守護しようと願っているので、真言の教えを説いてほしい。そうすれば、当山をあなたに譲り渡そう」と言ったので、弘法大師は大層喜んで法を説き、その容貌を写して御神体とし、東寺の台所に安置したと言う。

この伝承によれば、竜頭太なる人物は、荷田氏の先祖であると同時に、秦伊呂具が稲荷山の頂上に「伊奈利社」を建てて稲荷明神を祀る以前から、山の神として稲荷山に鎮座し、弘法大師が修行の為にこの山へ来るのを待っていたのです。

そして、紀伊田辺で出会った白髭稲荷(しらひげいなり)大明神が東寺を訪ねて来られたのを機に、弘法大師が竜頭太から譲り受けた稲荷山に白髭稲荷大明神を勧請したのが、伏見稲荷大社の起源という事になります。

先ほど述べたように、秦伊呂具が、餅を的にして矢を射たところ、餅が白い鳥になって稲荷山の頂上に飛んでいき、そこに稲が生えた事から、その場所に「伊奈利社」を建てて稲荷大明神(稲荷三神)を祀り、秦氏の氏神としたという「秦氏系の伊奈利伝承」と、稲荷山の神である竜頭太が、弘法大師から仏法を授けられたお礼に稲荷山を授け、そこに白髭稲荷大明神を祀ったのが伏見稲荷の起源であるとする「荷田氏系の稲荷伝承」とでは、内容も創建年代も大きく異なっています。

いずれにしても、弘法大師と東寺が、伏見稲荷の創建に深くかかわっている事は間違いないでしょうが、竜頭太にまつわる伝承を聞いて思い出したのは、境内の一角で肩を並べて死んでいたモグラとネズミです。

モグラは、漢字で「土竜」と書きますが、靴やスリッパなどと一緒に、死んだモグラを、短期間の内に、一度ならず三度までも見た事が不思議でならなかったのですが、いまにして思えば、伏見稲荷へ導く為、「荷田氏系の稲荷伝承」に出てくる竜頭太との関連性を示唆していたのかも知れません。

またモグラと肩を並べて死んでいたネズミは、昔から大黒天の使いと言われていますが、大黒天は、稲荷大明神と同一視されているヒンズー教のダーキニー(荼吉尼天)に法を説き、仏教の守護神に生まれ変わらせた神で、ダーキニーにとっては、仏法に目覚めさせてくれた救世主ともいえる存在で、大黒天と稲荷大明神との間には深い因縁があります。

モグラとネズミが死んでいるのを見かけた時期と、足にまつわるスリッパや靴、鹿の角と足の一部が落ちていた時期が重なっていたのも、ただの偶然ではなく、伏見稲荷へ導くためのお計らいであったに違いありません。


伏見稲荷の五社明神


様々な謎に包まれている伏見稲荷大社ですが、現在、大社に祀られている伏見稲荷大明神は、「稲荷五社大神」「稲荷五社明神」とも言われるように、五柱の神様の総称であって、一柱の神様ではありません。

その五柱の神様も、時代によって変遷してきている為、異なる二つの稲荷伝承を含めて、伏見稲荷にまつわる謎を一層深める要因となっています。伏見稲荷本殿

現在、伏見稲荷大社には、宇迦之御魂大神(うかのみたまおおがみ)、左田彦大神(さたひこおおがみ)、大宮能女大神(おおみやのめおおがみ)、田中大神(たなかのおおがみ)、四大神(しのおおがみ)の五柱の神様が祀られていますが、稲荷三神の一柱である宇迦之御魂大神は、古事記に出てくる稲の神様で、日本書紀では、「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」として登場します。

稲荷山の麓の下社に鎮まる稲荷大社の主祭神で、本殿の中央座におられます。

五穀と養蚕を司る穀物霊で、宇迦之御魂の宇迦は、食物の古代語「ウケ、ウカ」で、ウカノミタマは、食物の霊を意味します。

稲荷は、「稲生り」が「イナリ」に転じ、「稲を荷う」という漢字が当てはめられた事は、先に述べた通りですが、伊勢神宮の外宮に祀られ、「天照大御神」の食物を司る「豊受大神(とようけおおがみ)」と同体視されています。

伏見稲荷大社は、明治の廃仏毀釈(注2)までは、愛染寺という真言密教の寺院として栄え、宇迦之御魂の本地仏(ほんぢぶつ)は如意輪観音とされていました。

稲荷三神の一柱である左田彦大神は、稲荷山の中腹にある中社に鎮まる神様で、本殿の北座(向かって左側)におられます。

道開きの神として知られる伊勢の猿田彦大神(さるたひこおおがみ)と同一視され、本地仏は千手観音とされています。

稲荷三神の一柱である大宮能女大神は、稲荷山の頂上にある上社に鎮まる神様で、本殿の南座(向かって右側)におられます。本地仏は、十一面観音とされています。

田中大神は、下社摂社に鎮まる神様で、本殿の最北座(向かって左端)におられます。大己貴神(おおなむちのかみ・注3)と同一視され、本地仏は不動明王とされています。

四大神は、中社摂社に鎮まる神様で、本殿の最南座(向かって右端)におられます。五十猛命(いたけるのみこと)、大屋姫(おおやつひめ)、抓津姫(つまつひめ)、事八十神(ことやそがみ)の四柱の神様で、本地仏は毘沙門天とされています。

合掌


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(注1)高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の別名。天地開闢の時、最初に天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が現れた後、神産巣日神(かみむすびのかみ)と共に、高天原(たかまがはら)に出現したとされる造化三神(そうかのさんしん)の一柱。天孫降臨の際には、高木神の名で登場する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注2)明治政府は神道を国家統合の基幹にしようと意図し、一部の国学者主導のもと、仏教を外来の宗教であるとして排斥し、それまでさまざまな特権を持っていた仏教勢力の財産や地位を剥奪した。
僧侶の下に置かれていた神官の一部には「廃仏毀釈」運動を起こし、寺院を破壊し、土地を接収する者もいた。
また、僧侶の中には神官や兵士となる者や、寺院の土地や宝物を売り逃げていく者もいた。
現在、国宝に指定されている興福寺の五重塔も、明治の廃仏毀釈の法難に遭い、25円で売りに出され、薪にされようとしていた。
大寺として広壮な伽藍を誇っていた内山永久寺に至っては破壊しつくされ、その痕跡すら残っていない。
安徳天皇陵と平家を祀る塚を境内に持ち、「耳なし芳一」の舞台としても知られる阿弥陀寺も廃され、赤間神宮となり現在に至る。
廃仏毀釈が徹底された薩摩藩では、寺院1616寺が廃され、還俗した僧侶は2966人にのぼった。そのうちの3分の1は軍属となったため、寺領から没収された財産や人員が強兵に回されたと言われている。

(注3)出雲大社の御祭神、大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名。

 

 


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