桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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「福は内、鬼も内」に込められた願い(3)



不都合を避けたい人間の本性


そもそも何故、人間は様々な事柄について分別をするのかと言えば、やはり不都合な事を避け、苦しみを逃れたいからです。

自分にとって好都合と不都合を分別し、不都合な事を避けようとするのは、まさに人間の本性と言ってもいいでしょうが、何故人間の本性に反してまで不都合な事を在るがまま受け入れなければいけないのかと言えば、そこに、縁起というものが深く関わっているからです。

お釈迦様は、「一切諸法は因縁より生ず」と説いておられますが、どんなに不都合な境遇や出来事であっても、結果としてわが身に降りかかってきたからには、必ず過去にその原因を作っていると、悟らなければなりません。

「火のないところに煙は立たず」という諺があるように、何の原因もなしに、不都合な事がわが身に降りかかってくる事は決してありません。

「好都合な事は受け入れられるが、不都合な事は受け入れられないのが、人間の本性である」と申しましたが、これは、裏を返せば、自分が作ってきた因縁を否定するという事であり、縁起の理法に反していますから、根本的な解決にはなりません。


不都合な因縁を解く道


好都合な事だけでなく、不都合な事もすべて、縁起の結果であるという事は、言い換えれば、その縁起から逃れる事が出来ないという事です。

自らが過去にその原因を作っている以上、もう一度、自らの手でその因縁を解かない限り、因縁は、形を変えてどこまでも後を追いかけてきます。

古歌に、
  浪の音 嫌じゃと思うて山ごもり
    声色変えて 松風ぞ吹く
と詠われているように、波の音が煩くて不都合だから、海を避けて山奥へ入っても、自らが背負う因縁を解かない限り、波の音が松風の音に変わるだけで、問題は何も解決されていません。

ですから、先ずすべての縁起を在るがまま受け入れた上で、不都合な因縁を解いていかなければいけないのです。

因縁を解くという事は、不都合な因縁(疫病神)を、悟りの智慧によって好都合な因縁(福の神)に変えていくという事です。

不都合を好都合に変えるためには、自分の立ち位置、物の見方、考え方を変える以外にありません。

立ち位置が変われば、今まで不都合としか見えなかった因縁が、実は好都合な因縁であったという事の真相が見えてきます。

つまり、今まで不都合な因縁を拒み、「福は内、鬼は外」としか思えなかった心が、すべてを在るがまま受け入れ、「福は内、鬼も内」と思える心に変わるのです。


良寛さんのお悟り


物事の好都合、不都合を分別しているのが、他の誰でもなく、自分自身であるという事は、自分の立ち位置さえ変われば、不都合が好都合に変るかも知れない可能性を秘めているという事です。

つまり、まだ真相を見極める悟りの眼が開けていないから、好都合な部分が見えていないだけで、悟りの眼が開ければ、不都合が好都合に変りうるという事です。

良寛さんの言葉に、こんな言葉があります。

災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候」

「災難に遭わなければいけない時には、災難に遭いなさい。死ななければいけない時が来たら、素直に死を受け入れなさい。それが災難を逃れる不可思議な法(教え)ですよ」とおっしゃっておられるのですが、良寛さんとて、災難に遭いたくないし、死にたくはない筈です。

にも拘わらず、あえて良寛さんが、災難や死を在るがまま受け入れなさいと、おっしゃったのは、何故でしょうか?

先ほども言ったように、いくら不都合な事であっても、それが縁起の結果である以上、逃げたり避けたりしているだけでは、問題は何も解決しないからです。

不都合な事だからこそ、それから目を背けるのではなく、先ずそれを在るがまま受け入れて、不都合な因縁の裏に隠されている真相を悟り、不都合な因縁を解いていく事が大切なのです。

そうすれば、不都合な因縁が実は不都合ではなかったという事が分かってきます。

そう納得出来た時、「不都合な因縁が解けた」と言い、「心が救われた」と言い、菩薩様の言う「福は内、鬼も内」の心が成就出来た、と言うのです。


味方につけるか、敵に回すか


要するに、「不都合な相手を味方につけるか、敵に回すか」という事です。

先にお話した吉祥天と黒闇天の例で言えば、誰もが福の神である吉祥天を味方につけたいのです。しかし、吉祥天を味方につけたければ、一心同体の黒闇天も一緒に受け入れなければなりません。黒闇天を受け入れなければ、吉祥天を味方にする事は出来ません。

不都合な黒闇天を味方につけるか、敵に回すかの決断一つで、都合のよい吉祥天を味方につけるか、敵に回すかが決まるのですから、まさに人生の幸不幸を左右するほどの大きな決断と言ってもいいでしょう。

敵に回すという事は、不都合な相手を拒絶するという事です。「不都合なあなた(黒闇天)を受け入れる事は出来ません。私にとって、あなたは敵です」と言っているのと同じです。

味方につけるという事は、「あなたを受け入れます。あなたは私の仲間です」という事です。

不都合な黒闇天を不都合なまま拒絶して敵に回すか、それとも、悟りの智慧を開いて味方につけるかですが、黒闇天(鬼)の立場に立てば、誰からも嫌われている黒闇天を敵に回すより、味方に付けた方が得策である事が分ります。

黒闇天を味方につければ、吉祥天を味方につける事が出来るからです。

勿論、都合の悪い黒闇天を受け入れると言っても、嫌々受け入れたのでは、受け入れた事にはなりません。受け入れる以上は、有り難く、納得して、感謝の心で受け入れさせていただかなければなりません。

「災難が来てもこれでよし。お迎えが来てもこれでよし。どんな不都合な事に遭遇してもこれでよし」と頷けるようになって初めて、良寛さんがおっしゃるように、一切を在るがまま感謝して受け入れられるようになるのです。

「どうすれば一切を在るがまま、有り難く、納得して、感謝の心で受け入れられるか」と言えば、やはり不都合な因縁の裏に隠されているみ仏の本心を悟り、自分自身が「これでよし」と納得する以外にありません。


死もまた好きかな桜花


菩薩様が、こんな歌を遺しておられます。
  生も好し 死もまた好きかな桜花
    散れば咲きにと また帰りくる

「生だけではなく、不都合な死をも、在るがまま受け入れていこう」という事ですが、人間を含め、森羅万象(生きとし生けるもの)はすべて、生まれては死に、死んでは生まれ、咲いては散り、散っては咲きながら、流転生死を繰り返しています。

生も死も、止まる事のない時間の流れの一こまに過ぎませんが、その一コマに過ぎない生と死を分別し、生は都合がよいが、死は都合が悪いと言って拒んでいるのが、世間の人々であり、「福は内、鬼は外」としか思えない心なのです。

しかし、切り離すことの出来ない生と死を分別して、一方だけを不都合だと言うのは筋が通りませんし、不都合な因縁も解けていきません。

不都合な因縁を解くためには、どうしても菩薩様の言われる「福は内、鬼も内」と思える心を成就しなければならないのです。


地獄の中に仏あれば地獄なし


道元禅師も、分別心を離れる事の大切さを、次のように説いておられます。

生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし。ただ生死即ち涅槃と心得て、生死として厭(いと)うべくもなく、涅槃としてねがうべきもなし。この時初めて生死を離るる分あり

ここにいう「生死」とは、私たちにとって不都合な事柄、例えば、「鬼」「黒闇天」「地獄」「災難」「不幸」「苦しみ」などを象徴的に表現したもので、また「涅槃」とは、その反対に都合のよい事柄、例えば、「仏」「吉祥天」「極楽」「幸福」「喜び」などを現わしています。

この「生死」を「地獄」に置き換えてみると、こうなります。

地獄の中に仏あれば地獄なり、ただ地獄即ち涅槃と心得て、地獄として厭うべくもなく、涅槃としてねがうべきもなし。この時初めて地獄を離れる分あり。

誰も地獄へなど行きたくありませんし、極楽へ行きたいのが、万人共通の思いですが、実は、その「極楽へ行きたいが、地獄へ行きたくない」という分別心こそが、私たちを地獄へ引っ張っていく張本人である事に誰も気付いていません。

極楽へ行きたければ、その分別心を離れなければなりません。悟りの智慧を磨き、不都合な事をも在るがまま受け入れられる心を成就しなければならないのです。

これが、良寛さんの言う「災難を逃れる妙法」であり、道元禅師の言う「生死を離るる分」であり、菩薩様の言う「死もまた好きかな桜花」であり、「福は内、鬼も内」の心です。


道は二つに一つ


こうして見てくると、お釈迦様もお大師様も菩薩様も、良寛さんも道元禅師も、みな同じ事をおっしゃっておられる事が分かりますが、もしお釈迦様やお大師様から、「私と一緒に地獄へ行ってくれないか。地獄には、苦しむ人々が大勢いる。その人々を救う為に地獄へ行かなければいけない。私の手足となって、一緒に地獄へ行ってくれないか」と言われたら、皆さんはどう答えられるでしょうか?

「地獄へは行きたくありません」と答えるか、それとも「お釈迦様のお手伝いをさせて頂けるのであれば、喜んでお供をさせて頂きます」と答えるか?

それによって、自分が地獄と極楽のどちらへ行けるかが決まると言ってもいいでしょうが、地獄へ行きたい人は一人もいませんし、誰もが極楽へ導いて欲しい筈ですから、殆どの皆さんが、「地獄へは行きたくありません」と答えるのではないかと思います。

では、その逆に、「今から極楽へ行くけれども、一緒に来ますか?」と言われたらどうでしょうか?

今度は、殆どの皆さんが、「はい、喜んでお供します」と答える筈です。何故なら、極楽はよいが、地獄は嫌だという分別心が働いているからです。

「地獄へついてきて欲しい」と言われて、「はい」と答えられないのも、同じ理由からです。

しかし、その分別心に執着している限り、本当の極楽は見えてきません。求める極楽は、その分別心を超えたところにあるからです。

菩薩様の言われる「福は内、鬼も内」という言葉には、その分別心を超えて、本当の極楽を見て欲しいという願いが込められているのです。

合掌


「福は内、鬼も内」に込められた願い(1)
「福は内、鬼も内」に込められた願い(2)
「福は内、鬼も内」に込められた願い(3)
「福は内、鬼も内」に込められた願い(4)
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