桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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発心こそが供養の道なり



仏ほっとけ、神構うな!


よく世間には、「仏ほっとけ。神構うな。死んだ者より生きている者の方が大事だ」と言われるお方がおられます。

そう言われるのは、肉体の生死を人間の生死と考えておられるからだと思いますが、仏教的死生観から言えば、人間の生死を決めるのは、肉体の生死ではなく、仏性(仏の魂)が目覚めているか、眠っているかです。

この世には、肉体が生きているのに死んでいるお方もいれば、お釈迦様やお大師様や菩薩様のように、肉体が無いのに生きているお方もおられます。

肉体の生死が人間の生死でないという仏教的死生観に随えば、私たちとご先祖様が違う所は一ヶ所しかありません。つまり、生きる世界が、目に見える形のある世界か、目に見えない形のない世界かだけです。

仏性さえ目覚めていれば、生きる世界は違っても、それぞれの世界で生きている事に変わりはありません。

肉眼で見える世界しか信じられないお方は、生きている事を証明できる肉体が無くなれば、その人を死んだ人と見なしますが、肉体が無くなっても死んだ訳ではなく、目に見える世界から、目に見えない世界に、生きる場所を移しただけです。

ですから、「死んだ人間より、生きている人間の方が大事だ」というのは、「目に見えない世界に生きている人より、目に見える世界に生きている者の方が大事だ」と言っているのと同じで、根本的な誤りがあると言わねばなりません。

私たち子孫を枝葉に譬えれば、ご先祖様は根です。

目に見える地表に生きている私たち枝葉の命は、目に見えない地中で生きているご先祖様という根に支えられて生かされているのです。

そのご先祖様を、目に見える肉体が無くなったから死んだと思い込み、「死んだ人間より生きている人間の方が大事だ」と言うのは、「根より枝葉の方が大事だ」と言っているのと同じで、枝葉である自分が生きていく上で欠かせないご先祖という根を、自らの手で断ち切っている事になるのです。

これでは根無し草になってしまい、枝葉である子や孫が繁栄し、幸せに生きてゆける道理がありません。


ご先祖を生かし、自らを生かす道


御法歌『頼め彼岸へ法のふね』に、
  先祖供養は 生き供養
    死んだ供養じゃ ありませぬ
    生きた先祖を まつるのだ
 と詠われているように、いくらご先祖様が生きておられても、子々孫々がご先祖様を生きていると信じ、生かし続ける努力をしなければ、生き供養は出来ません。

生きておられるご先祖様を死んだ人とみなし、忘れてしまえば、生きておられるご先祖様を、心で殺す事になります。

そればかりか、自分自身の幸せの灯をも消す事になるのです。

心でご先祖様を殺し、自分をも殺せば、やがて降りかかってくる様々な災いや困難な問題に直面して苦しまなければなりません。

ご先祖様に対する生き供養の心が、親から子、子から孫へと受け継がれている家には、いつも笑顔が絶えず、子孫が繁栄しているのは、単なる偶然でも運がいいからでもありません。

ご先祖様が生かされ、その魂が喜びに満たされているから、その喜びが子々孫々の繁栄となって返ってくるのです。

もし家の中がうまくいかず、人生の苦難に遭うような事があれば、もう一度、ご先祖様への生き供養が為されているか否かを、自らに問うてみて下さい。


真の追善供養とは


追善供養と言う言葉をご存じでしょうか?

文字通り「追善」ですから、後に残ったご家族やご縁者の皆様が、ご先祖様に代わって功徳を積み、積んだ功徳をご先祖様に廻向する事を意味します。

廻向とは、積んだ功徳をご先祖様に廻らす(施す)事ですが、大地に深く根を張れば、枝葉がよく茂るように、功徳を廻向すれば、ご先祖様が喜ばれ、ご先祖様の喜びが、また私たちの喜びとなって返ってきます。

追善供養とは、追って善根功徳を積み、清い心を養い供える事ですから、善行を重ね、清い心を人に施し、その功徳をご先祖様に廻向しなければ意味がありません。

追善供養の有り難いところは、その気持ちさえあれば、いつでも、どこでも出来る事であり、時と場所を選ばない事です。

僧侶に来て頂いて、お経を唱えてもらわなければ追善供養は出来ないと思うお方もいるかも知れませんが、追善供養の主役は、お坊さんではなく、ご縁者の皆様ですから、ご縁者の皆様がしなければ、追善供養にはなりません。

ご先祖様は、あれも供えてほしい、これも供えて欲しいと願ってはおられません。

供えて欲しいものは、ご縁者の皆様の真心、信仰心、菩提心だけです。ご先祖様の願いは、「私の死を無駄にせず発心して下さい。」という一言に尽きます。

だからこそ、「死んでしまったらもうお終いだ」と言って、ご先祖様の事を忘れてしまうのではなく、肉体の死が人間の死でない事を悟り、ご先祖様にいつまでも生きて頂き、自らも菩提心に目覚めて善根功徳を積み、廻向する事が何より大切なのです。


発心即ち供養なり


ご縁者の皆様が発心して信仰の道に入れば、ご先祖はこれからも信仰の中で福に満たされながら生き続けていかれます。追善供養を通して、子や孫と共に、幸せに生き続けていく事が出来るのです。

その反対に、人を傷つけ、苦しめる事は、ご先祖を傷つけ、自らをも苦しめる事になり、追善供養にはなりません。

追善供養にとって大切な事は、速やかに信仰の心を起こす(発心する)事です。

信仰心に目覚め、発心すれば、自ずと人を想う菩提心も、人に親切を施す真心も芽生えて来ます。

その心が、ご先祖様への追善供養となり、ご先祖様の喜びが、こだまとなって自分に返って来るのです。

その意味で、追善供養は、ご先祖の為というより、自分自身の為にこそ必要な仏行と言っていいでしょう。

よく「年忌を問う」と言われます。

ご先祖様が、後に残った皆様の発心、菩提心を問いに帰って来られるという意味ですが、ご先祖様の年忌が三、四年置きに設けられているのは、年忌という仏縁を通して、ご先祖の問いかけに応える為です。

もし「これだけ先祖供養をしているのに、何故幸せになれないのだろう」と疑問に思うお方がいれば、一度、ご先祖様の問いかけに応えているか、追善供養がなされているかを自問自答してみて下さい。

そうすれば、きっと「ただ形だけの供養しかしていませんでした。ご先祖様の問いかけに応えていませんでした。」という答えが返って来る筈です。

発心する事が、何よりの追善供養となる事を、改めて深く心に刻んで頂きたいと思います。

合掌


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