桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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今年も一年ありがとう(2)



御詠歌本に込められた思い


何故沈む夕陽に手を合わせ、古いもの、去りゆくものに感謝しなければいけないのかと言えば、お互いが無常の中にいる身であり、自分もやがて、古いもの、去りゆくものとならねばならないからです。

一切が移り変わってゆく事が分かれば、限りあるいのちへの思いやりや、いのちをまっとうさせてあげたいという慈悲の心が湧いてきます。

以前、奈良に居た時、ある家のお逮夜参りに行かせて頂いた事があります。お勤めの後で御詠歌をお唱えするのですが、ご家族やご近所の皆さんの中に、お一人だけ、ボロボロの御詠歌本を持っておられるお方がいました。

表紙も中もボロボロで、あちこちに紙を貼って、継ぎはぎしてあったので、思わず「奥さん、その御詠歌本、大切に使っておられますね」と言うと、「そうなんです。お姑さんが使っていたもので、随分古いものなんですが、どうしても捨てられないんです。この御詠歌本が有り難くて、破れた所を継ぎはぎしながら使わせて頂いているんですが、私が使わなくなったら、娘に譲ろうと思っています」とおっしゃったのです。

その言葉を聞いて、この御詠歌本には、きっとお姑さんの思いや、お姑さんへの奥さんの思いがいっぱい詰まっているのだろうと思いましたが、驚いたのは、「私が使わなくなったら、娘に譲ります」とおっしゃった事です。

御詠歌本に込められたお姑さんとの思い出が捨てられないからという奥さんのお気持ちはよく分かりましたが、娘さんにまでその思いを伝えたいというお気持ちには、少なからず感動を覚えました。

このまま使い続ければ、やがていつか使えなくなる日が来る事は間違いありませんが、ボロボロになったこの御詠歌本には、きっとお姑さんからお嫁さんへ、お嫁さんから娘さんへと、親子三代に亘って受け継がれていく家族の思いや慈しみの心がいっぱい詰め込まれているに違いありません。


分身となったお経本


菩薩さまが、信仰に入って初めて買われたお経本がありますが、御詠歌本を大切にしておられた奥さんと同じように、そのお経本をとても大切にしておられました。

折れ曲がっている所から次第に破れてくるので、その部分に紙を貼って継ぎはぎし、何度も何度も修繕して使っておられました。

何故菩薩さまが、ボロボロのお経本を修繕しながら使い続けておられたのかと言えば、そのお経本が菩薩様の映しだったからです。

他人から見れば、使い古されたただのお経本に過ぎませんが、そのお経本には、菩薩さまが歩んでこられた苦難の道のりが深く刻まれていたに違いありません。

ボロボロになるまでお経本を大切に使っておられた菩薩様の思いの根底には、いかなるものであっても、最後までそのいのちをまっとうさせてあげたいという慈悲の心が流れています。

この慈悲心は、全てが移り変わっていくという諸行無常の真理を悟った時、沸々と湧き上がってくる心で、誰もが生まれながらに与えられているものです。

菩薩様も、このお経本も、生老病死という、生きとし生けるものすべてが避けて通れない道のりを共に生き、老い、病み、やがて死んでいく身である点において、何ら変わりありません。

だからこそ、このお経本は、ただのお経本ではなく、苦楽を共にする同志であり、分身そのものとなったのです。


生かせいのち


僧侶が身に着けるお袈裟を、別名「糞掃衣」(ふんぞうえ)と言いますが、雑巾に使うようなボロボロの布をつなぎ合わせると、この世の真理を教え、苦しむ人々を導く最も尊いお袈裟に生まれ変わります。

糞を掃く為に使うような汚れた布を、お袈裟として使う事は常識ではありえませんが、汚れた一枚の布を最も尊いお袈裟に生まれ変わらせるのは、諸行無常の真理を悟り、その物のいのちを生かし切ろうとする心です。

「生かせいのち」という言葉がありますが、まさにお袈裟は、「生かせいのち」の心の結晶なのです。

最近はもう見かけなくなりましたが、戦後の物のない時代には、着る服に継ぎを当てて着ていたものです。

物のない時代だから、そうせざるを得なかったという事情もありますが、それが当たり前でしたから、それが不幸とか、悲しいと思った事は一度もありません。

物が豊かになれば、それに比例して心も豊かになるだろうと思い、みんな必死に生きてきましたが、豊かさに慣れた心は、やがて感謝の心を忘れてしまいました。

すべてが当たり前になってしまったからです。

物のない時の方が感謝を忘れず、心も豊かだったと思いますが、その豊かさを支えていたのは、やはり、物のいのちを大切にし、慈しむ心でした。

物のいのちも人間のいのちも、やがていつか消えて無くなるからこそ、誰もが、いま生かされているこのいのちを大切にし、感謝しようという思いを共有していたのです。

まさに、「今日も一日ありがとう」の心を、誰もが体現していた時代でした。


わが身を慈しむ心


朝、東の空に昇る朝日は、やがて夕陽となって西の空に沈んでいきます。

人間を含め全てが、昇る朝日であると共に、沈む夕陽でもあります。残る桜も、やがて散る桜なのです。

やがて散り、沈まなければならないという真理が分れば、いま生かされているいのちの尊さが分かり、いのちを慈しみ、大切にしようという思いが湧いてきます。

私は、毎晩寝る前に必ず、「今日も一日有り難うございました、ご苦労をおかけしました」と心で念じながら、肩や腰や頭や体をお加持させて頂きます。

朝夕のお勤めの後に数珠でお加持させて頂き、寝る前にもう一度、「お大師さま、菩薩さま、今日も一日有り難うございました」とお礼を申し上げ、体にもお礼を申し上げ、お加持してから休ませて頂くのです。

この肉体が、永遠に滅びない肉体であれば、そんな気持ちも起きないでしょうが、毎日刻一刻と老いていく身だからこそ、愛おしく感じられるのです。

勿論、わが肉体と言っても、自分のものではなく、一時的にお預かりしている借り物に過ぎません。

しかし、だからこそ、お返しする日が来るまでは、粗相をしないよう心がけ、大切に使わせて頂きたいのです。

合掌


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