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菩提の種を蒔く日かな(6)



維摩居士の病気見舞い


前回、「福の神と親しくなりたければ、邪魔者の疫病神をも受け入れる心にならなければならない」と申しましたが、何故福の神は受け入られても疫病神は受け入れられないのでしょうか?

それは、私たちの分別心がそうさせているからです。

分別心とは、自分にとって好都合なものと不都合なものを色分けし、不都合なものを排除し拒絶する心ですが、この心を退治しなければ、いつまで経っても福の神の顔を拝む事は出来ません。

何故なら、私たちにとって本当の不幸とは、疫病神(苦しみ)の存在ではなく、自分にとって好都合(福の神)と不都合(疫病神)を色分けし、不都合なものだけを排除しようとする心(分別心)だからです。

分別心について詳しく説かれた『維摩経』というお経があります。

在家の身でありながらお釈迦様の弟子たちも太刀打ちできないほどの智慧を持つ在家の信者・維摩居士(ゆいまこじ)を主人公にした経典で、大乗仏教経典の中でも代表的な経典の一つですが、或る日、維摩居士が病気になります。

病気と言っても肉体の病気ではなく、已むに已まれぬ大慈悲心によって起こる病でない疾いなのですが、お釈迦様は、それを承知で、弟子たちに「誰か、維摩居士の病気見舞いに行ってくれませんか?」と尋ねます。

どころが、見舞いに行こうと申し出る弟子は一人もいません。

と言うのも、以前、維摩居士から、修行の在り方や説法の内容について忠告されたり、注意されたりして、やり込められた経験があるため、見舞いに行けば、またやり込められるのではないかと不安になり、行きたくても行けないのです。

例えば、釈迦十大弟子の中で「智慧第一」と言われる舎利弗(しゃりほつ)尊者は、悟りを開くには心を鎮めて瞑想するのが最も優れた修行だと信じていたので、ある日、静かに坐禅していました。すると、そこへ維摩居士が通りかかり、「舎利弗さん、何をしているのですか?本当の坐禅とは、ただ一人座って瞑想する事ではありませんよ。日常生活の中に、本当の坐禅があるのですよ」と諭された事があったので、素直に「病気見舞いに行きます」とは答えられないのです。

菩薩様は、『道歌集』の中に、
  へだてなく ひとりびとりが仏行を
    人に示すを 坐禅というなり

 と詠っておられますが、維摩居士もまた「真の坐禅とは何か」を、舎利弗に問うたのです。

また「論議第一」と言われた迦栴廷(かせんねん)や、その他の弟子たちも、舎利弗と同様、維摩居士にやり込められた経験があるため、「そのようなお方のお見舞いはとても荷が重すぎます」と言って、みんな病気見舞いに行こうとはしないのです。

申し出る者が一人もいないので、お釈迦様は文殊菩薩を名代として見舞いに行かせるのですが、文殊菩薩が訪ねていくと、維摩居士は、がらんとした部屋にベッドをおいて休んでいました。

文殊菩薩の姿を見ると、「文殊菩薩、よく来てくれました。去るものにも来るものにも執着することなく、また見るものに拘ることなく、在るがままを観ずる不動の境地におられる文殊菩薩に来て戴いて、有り難く思います」と言って、御礼を述べます。

文殊菩薩も、「丁重にお見舞いするようにというお釈迦様の心遣いを伝えるため、私が代表してお見舞いにまいりました」と答え、「居士の病の原因は何ですか?」と尋ねると、維摩居士は、「愚痴により道に迷い、愛着のために病は生じます。世間の人々が執着のために道に迷い、病んでいるために私も病むのです。人々の病が消滅すれば、私の病も消滅します。菩薩道を歩む者は、人々をこの愚痴から救い出すために生死の輪廻の世界へ生まれてきました。生や死にこだわれば病になります。人々が生死の病から離れることができれば、菩薩もまた病を離れられます。子供が病気になれば、両親も病むようなものです。その病気の原因は何かと言われれば、菩薩道を歩む者の病とは、大悲のもたらすものです」と答えます。

維摩居士はここで、「病気の原因は二つあります。一つは、煩悩から来る分別と執着(愛着)、もう一つは、衆生を救いたいという大慈悲心です。菩薩は、衆生を救わずにはいられないという大慈悲心に病むのです」と言っているのですが、代苦者となられた菩薩様が残された御法歌も、同じ境地を詠まれたものと言えましょう。
(普門法舟)
  代苦者と なりて衆生の苦を背負う
    これぞ菩薩の 悲願なりけり
  衆苦をば 背負う病の身なれど
    己が心を 知る人ぞなし
  人思い 汝が疾めばわれも疾む
    われ疾むゆえに 汝疾むなり


舎利弗尊者と花びら


この後、凡夫の病の原因である煩悩(分別と執着)について、舎利弗尊者が天女に諭される場面が出てきます。

六道(迷いの世界)の中の天上界に住む天女は、お釈迦様の弟子の中で最高位である阿羅漢(あらかん)となった舎利弗よりも低い位にいますから、本来なら上の位にいる舎利弗が天女から諭される筈はありません。

ところが、天女は仮の姿で、本当の正体は、人々を救う為に姿を変えた菩薩であるため、阿羅漢に過ぎない舎利弗は、天女の前にたじたじとなってしまうのです。

この菩薩は、いつでも維摩居士の教えが聞けるようにと、以前から天女に姿を変えて維摩居士の家に住み着いていたのですが、文殊菩薩と維摩居士の問答を聞いて感動し、天空から蓮の花びらを撒くのです。

ところが、この時、不思議な事が起こります。

撒かれた花びらは、文殊菩薩や維摩居士の体には一枚も付着せず、そのまま地面に落ちていくのに、お釈迦様の弟子たちには付着して離れないのです。

文殊菩薩や維摩居士に付着しなかった花びらが、自分たちの体に付着し、どんどん増えていくため、舎利弗たちは花びらを振り落とそうと焦り始めます。

その光景を見ていた天女は、笑いながらこう尋ねるのです。

天女ー舎利弗尊者、いかがなさいましたか?
 舎利弗ーいや、この花びらがくっついて離れないのです。
 天女ーなぜ、花びらを振り落とそうとなさるのですか?
 舎利弗ー出家者に花びらは相応しくありません。出家者は身を飾ってはいけないのです。
 天女ー舎利弗尊者、それはおかしいですね。
 舎利弗ーなぜですか。出家者は身を飾らぬのが戒律です。
 天女ー舎利弗尊者、この花びらは花びらに見えますが、真理そのものなのです。飾りではありません。
 舎利弗ーこの花びらが真理そのもの?
 天女ーそうです。この花びらは真理そのものです。花びらは、あなたにくっつこうなどとは考えていません。ただあるようにあるだけなのです。
 舎利弗尊者、あなたの方が「この花びらは出家者に相応しいか相応しくないか」などと分別をしているだけなのです。
 あなたたちが、勝手に良し悪しを判断しているから、花びらがくっつくのです。
 ただ在るがままに在るだけの世界を勝手に判断し、勝手に分類し区別することを、分別といいます。
 分別は妄想です。したがって、分別は真理から外れた行為です。
 そんな分別は捨てるべきです。見てごらんなさい。分別を捨て去った菩薩には花びらはつきませんよ。
 花びらだけではありません。恐怖は、ありもしない不安を抱えている人につくものであり、苦しみを恐れる人ほど快楽におぼれます
 分別から離れれば、美しいも醜いもなく、恐怖も安心もなく、苦も快楽もなく、おいしいもまずいもありません。すべては平等です。
 すべてを受け入れられれば、何の禍も恐怖もありません。
 この花びらは、物事をあるがままに見られず、分別し、執着する人にくっつき離れないのです。分別を去り、在るがままに物事を見ることができる人にはくっつかないのです。


欲も苦もなく我もなし


こう言って天女に姿を変えた菩薩は、あれこれと分別している舎利弗を諭し、分別や執着から離れる事の大切さを説いたのです。

先ほどもお話したように、分別するという事は、自分の立場から好都合と不都合を分別し、好ましくないものを否定し排除する事ですが、悟りの世界には、このような分別が一切ありません。在るがままの世界ですから、あれが良い、これが悪いというような分け隔てがないのは当然です。

そこにあるのは、苦もなければ楽もなく、生もなければ死もなく、一切を超越した世界と言っていいでしょう。

分別を離れた世界は、一切の執着がなく、在るがままの世界ですから、病んでいても、どんな不都合な状況にあっても、そのままが極楽となるのです。

菩薩様が、
  生死(しょうじ)なく 欲も苦もなく我もなく
    無常悟れば 涅槃に帰る

 と詠っておられるように、一切の分別心を離れ、執着を捨てれば、涅槃(彼岸極楽)の世界に帰る事が出来るのです。

合掌


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