桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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菩提の種を蒔く日かな(2)



決まっている事と決まっていない事


彼岸花は、秋のお彼岸が近づいてくると、まるでそれが自分の役目と自覚しているかのように、真っ赤な花を咲かせ、お彼岸の到来を知らせてくれますが、何故彼岸花は、自分の咲くべき時を忘れないのでしょうか?

それは、桜が春になると咲くのと同様、彼岸花にとっての約束事だからです。

決まっている事ですから、去年は咲いたけれど、今年は忘れて咲かなかったという事は決してありません。

時には、春先に咲くべき桜の花が、晩秋に開花したという珍現象が起きたりしますが、それは、春のような陽気が続き、春が来たと思い違いをするからで、春のような陽気が続けば咲くという決まり自体が変わった訳ではありません。

彼岸花が秋のお彼岸にしか咲かないのは、春のお彼岸に咲くという決まりがないからであり、春に咲く桜が秋に咲かないのも、秋に咲くという決まりがないからです。

もし桜の人生に秋に咲くという決まりが加われば、桜は春だけでなく秋にも咲くようになるでしょう。一年中咲くと決められていれば、一年中、桜の花を楽しむことができます。

大自然の中で生きている草花たちはみなそうして、決まりに従って咲くべき時に咲き、散るべき時に散っているのです。決まりに逆らっている草花は一つもありません。


三法印


すでに決まっている事ですから、そのこと自体には、幸不幸の概念も吉凶禍福も、縁起の良し悪しもありません。

春に咲くと決められている桜は幸せで、秋に咲くと決まっている彼岸花は不幸などという事は決してありません。

決まり事である以上、私たちは、ただそう決まっているものと受け止め、素直に頷くしかありません。大自然の草花たちはみな、そうした生き方をしているのです。

勿論、この世には、すでに決まっている事だけでなく、まだ決まっていない事も多々あります。

すでに決まっている事は、どんな事をしても変える事は出来ませんが、まだ決まっていない事は幾らでも変える事が出来ます。

大切な事は、変えられる事と変えられない事をしっかり見極め、生き方を間違えてはならないという事です。

例えば、大乗仏教の根本思想である「三法印」(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)は、この世の真理としてすでに決まっている事ですから、お釈迦様といえども、変える事は出来ません。

「諸行無常」とは、一切は絶えず変化し続け、変わらないものは何一つないというこの世の真理ですが、無常の中にいる以上、私たちもその真理に逆らう事は出来ません。

例えば、一秒前の私と今の私と一秒後の私は、外見上は何も変わっていないように見えますが、今の私から見れば、一秒前の私は常に一秒だけ若い私であり、一秒後の私は常に一秒だけ老いた私です。

自分と思っている私は、常に変化し続けていますから、変わらない固定的な私というものは存在しません。

これが、二つ目の「諸法無我」で、私は固定的な存在ではなく、常に流動的な私としてのみ存在しているに過ぎないのです。

まさに「有るようで無く、無いようで有る」存在と言っていいでしょうが、「諸法無我」には、流動性の他に、相互依存性という意味も含まれています。

相互依存性とは、自分ひとりで存在しているのではなく、他のすべてとつながって生きているという意味です。

私は自立して生きているように見えますが、実は他とつながって生かされている存在でもあります。

例えば、食べているもの、着ているものなど、私の周囲にあるものは、他の誰かの手によって作られ、運ばれてきたものです。

私はただそれらを譲ってもらい、食べたり、身に着けたり、利用したりしているに過ぎません。それらのすべてを、私一人の力で作らなければならないとすれば、私は生きていけません。

要するに、私は、私以外のすべての存在と密接につながって生きており、そのつながりを否定しては生きていけない相互依存的な存在でもあるのです。

この「諸行無常」「諸法無我」の真理を在るがまま受け入れて生きてゆくか、逆らって生きていくかは、人それぞれですが、真理に従って生きていくところに開けるのが、三つ目の「涅槃寂静」の世界です。


変えられない世界と変えられる世界


「涅槃寂静」も決まりですから、在るがまま真理に従って生きていくところに、自ずと開かれる世界ですが、だからと言って、誰も彼もがその境地に到達できる訳ではありません。

誰もが、真理を在るがまま受け入れ、従って生きていけるとは限らず、真理に逆らって生きようとする人々もいるからです。

真理に逆らって生きようとする人々が到達する世界が、お釈迦様の説かれた四苦八苦の世界です。

四苦八苦とは、生老病死苦(しょうろうびょうしく)の四苦に、愛する人と別れなければならない愛別離苦(あいべつりく)、会いたくない人と会わねばならない怨憎会苦(おんぞうえく)、求めても得られない求不得苦(ぐふとっく)、限りない煩悩から沸き起こる様々な苦しみである五陰盛苦(ごおんじょうく)の四苦を加えたものですが、これらはすべて、変えられない真理に抗おうとして作り出された苦しみの世界です。

つまり、四苦八苦の人生は、逆らえない真理でも、避けられない運命でもなく、この世の決まりに逆らい、在るがまま受け入れようとしない心が作り出した架空の産物に過ぎませんから、苦しみの人生はいくらでも変える事が出来るのです。

それに対し、諸行無常、諸法無我の真理は、この世での約束事ですから、幾ら老いたくない、死にたくないと願い、どれほど生に執着しても、逆らう事は出来ません。

中国全土を統一した秦の始皇帝が、徐福という道士に命じて、不老不死の仙薬を探し求めたと言う話は有名ですが、徐福はついに始皇帝の下に帰りませんでした。

帰らなかったのは、不老不死の仙薬を独り占めしたかったからではありません。不老不死の仙薬など有る筈がなく、もし手ぶらで帰れば命のない事が分っていますから、徐福は帰りたくても帰れなかったのです。

生に執着し、不老不死の仙薬を探し求めた秦の始皇帝は、結局、自らが作った生老病死の苦しみを乗り越えられぬまま亡くなりました。

万里の長城を築き、頂点に上り詰めた権力者でさえ、真理の前には、朝露よりも儚い存在に過ぎなかったのです。

合掌


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