桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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菩提の種を蒔く日かな(1)



彼岸を告げる花


お彼岸になると何処へ行っても目にするのが、彼岸花です。

法徳寺の境内の一角にも、ご同行のお方から頂いた彼岸花が、毎年綺麗な花を咲かせ、お参りの皆様の目を楽しませてくれています。

学名の「リコリス」は、ギリシャ神話の女神の「リコリアス」に由来する名前で、サンスクリット語の「manjusaka」を音写して「曼珠沙華」とも呼ばれています。

お彼岸が近づいてくると、田んぼの畦道や土手などでよく見かけますが、お墓の周辺に植えられている事も多い為、「死人花」「地獄花」「幽霊花」などと呼ばれて忌み嫌われたり、食べるとアルカロイドという有毒成分が吐き気や下痢を引き起こし、悪化すると中枢神経が麻痺して死に至る場合もある事から、不吉な花というイメージを抱いているお方もおられるのではないかと思います。

しかし、田んぼの畦道や土手に植えられているのは、穴を掘るモグラや野ネズミが、彼岸花に含まれる有毒成分を嫌って近づかないようにする為であり、また水にさらして有毒成分を抜けば、葛粉や片栗粉と同じ良質なデンプンが採れる為、食べるものがなくなった時の非常食にもなります。

仏教には、縁起の良い事が起こる前には赤い花が天から降ってくるという教えがあり、真っ赤な花を咲かせる彼岸花は、とてもお目出度い花とされています。

このように人間の役に立ち、お目出度い花とされている彼岸花が、不吉な花と思われているのは、私たち人間が、彼岸花の特徴の一面だけを見て、そのようなレッテルを貼っているからです。

これは何も彼岸花に限った事ではなく、人間が、吉凶禍福や縁起の良し悪しを分別し、嫌っているものは他にも沢山あります。


数字の吉凶


例えば、日本人は、数字の九を、苦につながるという理由から不吉な数字と見做し、避けようとします。

法徳寺では毎年十二月二十九日にお餅つきをしますが、その日にお餅つきをしない家が多いのは、二十九日についたお餅は「苦餅」と呼ばれ、縁起が悪いと考えられているからです。

しかし、二十九日についたお餅を食べて不吉な事に見舞われた経験はまだ一度もありませんし、そのような話を聞いた事もありません。

「九(苦)が付く」という語呂合わせから、二十九日を避けるのかも知れませんが、「九(苦)が尽く」(苦しみが尽きる)という語呂合わせなら、全く逆の意味になります。

更に二十九日を「ふくび(福日)」と読めば、その日に付いたお餅は、「苦餅」ではなく、福を招く「福餅」となり、二十九日は、お餅つきには又とないお目出度い日という事になります。

この例を見ても分るように、私たちは、語呂合わせや迷信によって、様々な出来事を吉凶禍福に色分けし、縁起の良し悪しを分別して、自由で在るべき人生を不自由なものにしているのです。

これでは、わざわざ自らの手で苦楽幸不幸の原因を作っているようなもので、全く割に合わない話と言わねばなりません。


ラッキーセブンか、ワーストセブンか?


ご承知のように、数字の七は、「ラッキーセブン」と呼ばれ、世間では縁起の良い数字と考えられています。

しかし、菩薩様がまだ信仰の道に入られる前の事ですが、経営しておられた会社が倒産し、その日が七月七日の七夕だった為、数字の七は縁起が悪いと言って、とても嫌っておられました。

七という数字そのものには、元々縁起が良いも悪いもないのですが、七が重なる七夕に倒産した為、そう思い込んでおられたのです。

ところが、信仰の道に入られ、倒産の真相が明らかになってから、七に対する思いが逆転したのです。

もし会社が倒産していなければ、信仰の道に目覚める事も、自己の使命に目覚める事もなかった筈であり、信仰に目覚める事が出来たのは、偏に会社が倒産したお陰であり、倒産は菩薩様を信仰に導く為のみ仏の手立て(方便)だったと悟られたのです。

それ以来、菩薩様は、「七月七日の倒産がなければ、今の私はいなかった。今の私があるのは、倒産のお陰だ」と言って、七月七日に手を合わせるようになったのです。


どちら側から見るか


私たちは、苦楽幸不幸、吉凶禍福、縁起の良し悪しを分別判断し、不吉な日や不都合な出来事を避けようとします。

その為に考え出されたのが様々な占いや、未来を予知する霊感、霊能、霊格、予知能力と言われるものですが、何が不吉で何が吉祥か、何が幸せで何が不幸か、何が縁起が悪くて何が縁起が良いのかは、実のところ、誰にもよく分らないのです。

何故なら、幸不幸も吉凶禍福も、未来の事はまだ何も決まっていないからです。

分るのは、すでに過ぎ去った過去の事だけであり、未来はまだ何も書かれていない白紙と同じです。

しかも、紙に裏表があるように、立ち位置が変われば、吉凶禍福も自ずと変わってきます。いまお話した菩薩様の例で言えば、七月七日は、会社が倒産した日という側面から見れば、縁起の悪い日となりますが、信仰に目覚めるきっかけとなった日という側面から見れば、これほど縁起の良い日はない事になります。

つまり、縁起の良し悪しは、立ち位置によって逆転するのです。

何故そんな事が起きるのかと言えば、吉凶禍福や縁起の良し悪しというものは、すでに決まったものではなく、立ち位置の違いによって、幾らでも変わり得る流動的なものだからです。

私たちは、その時々の自分の立ち位置から、好都合と不都合を分別し、これは不幸だ、これは縁起が悪いと言って、自らの手で自らを縛っているのです。

幸不幸も吉凶禍福も、縁起の良し悪しも、自らの分別心によって作り出した架空の産物に過ぎません。

勿論、それは、自己の立ち位置から見た吉凶禍福であって、別の立ち位置から見たものではありませんから、自分から見て不吉であっても、他の立ち位置から見れば、お目出度い事は幾らでもありますし、その逆もまたあり得るのです。


心の眼、悟りの眼を養おう


要するに、迷える人々は、自分が作り出した吉凶禍福や縁起の良し悪しに振り回されて自らを縛り、その人生を不自由なものにしているということです。

世間にはよく、自分の不幸の責任を、他人や社会や他の何かに転嫁しているる人がいますが、まさに本末転倒と言わねばなりません。

もし苦しみたくなければ、苦しみの原因を自ら作らなければいいだけであって、そうする以外に道はないのです。

その為には、分別心を捨て、あらゆる立ち位置から物事を在るがまま見極められる心の眼、悟りの眼を養わなければなりません。

その心の眼、悟りの眼を養う道(手立て)を説いているのがまさしく仏法であり、仏法以外に心の眼を養う事の出来るものなど何もありません。

ただ不都合な面だけを見て、忌み嫌ったり避けたりしているだけでは、物事の真相は見えてきませんし、問題も解決しません。

仮に占いや霊感で人生が上手くいっているように見えても、一時的に川の流れをせき止めているだけであって、大難の前兆と言わねばなりません。

問題は何も解決していませんから、ひとたび無常の縁起に遇えば、たちまち堰は崩れ、瞬く間に藻屑と化す砂上の楼閣に過ぎないのです。

合掌


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