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病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(6)



欠かせない信心


病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(4)」で、「み仏とご一緒なら地獄へさえも行かせて頂けるようになります」と言いましたが、何故そんな事が出来るようになるのでしょうか?

例えば、お大師様、菩薩様から「苦労をかけますが、私と一緒に地獄へ行ってくれませんか」と言われた時、殆どのお方が、「極楽へならお供しますが、地獄行きはお断りします」と答えるでしょう。

何故なら、苦しみに苛まれる地獄へなど誰も行きたくないからです。

そこで「はい、行かせて頂きます」と即答できるお方は、お大師様、菩薩様を信じておられるお方だけです。

何が言いたいかと言いますと、「お大師様、菩薩様とご一緒なら喜んで地獄へお供させて頂きます」という言葉は、お大師様、菩薩様に対する信心に裏付けられて初めて出てくる言葉だという事です。

勿論、その信心は、好都合な事だけを受け入れる自分本位の信心ではなく、不都合な事を在るがまま受け入れ、何があっても決して揺るぐ事のない不動の信心でなければなりません。

菩薩様が、「お大師様はただ信じるのではなく、信じ切らなければならない。み仏はただ信じるのではなく、信じ切らなければならない。」とおっしゃった意味が、そこにあります。


「救われたいが、信仰はしたくない」という考え方


世の中には、よく「死の恐怖や苦しみからは救われたいが、信仰はしたくない」と言われるお方がいます。

それも一つの考え方、生き方であり、信仰がなくても、死の恐怖や死の苦しみを克服できるお方は、それでも構わないと思います。

大切な事は、死の恐怖を克服し、死の苦しみから救われる事であり、不都合な死を在るがまま受け入れられる全肯定の心を成就する事です。

信仰はあくまでその目的を達成する一手段に過ぎません。

信仰しなければ死の苦しみを克服出来ない訳ではありませんから、信仰の力を借りなくても苦しみを乗り越えられるお方はそれでいいのです。

問題は、自分の力だけでは死の恐怖や苦しみを克服できないお方です。

その方たちにとって、信仰が、苦しみを克服する大きな力と勇気と安心を与えてくれる頼もしい味方となり得る事は間違いありません。

私の拙い体験から申し上げれば、死の恐怖、死の苦しみを克服する道と、信仰とは切っても切れない関係にあります。

死の苦しみを克服する上について、お釈迦様もお大師様も道元禅師も良寛さんも菩薩様も、みな同じ事をおっしゃっておられるのは、不都合な死を在るがまま受けいれられる全肯定の心を養う上で、信仰の果たす役割が非常に大きいからです。

信仰は、全肯定の不動心を養う上で、心の支えとなるかけがえのないものであると言っても過言ではないでしょう。


信じるに値する心の依りどころ


勿論、ここにいう信仰とは、ある特定の宗教宗派の信者になるとか、特定の御本尊を信じるという意味ではありません。

あくまで、「これは好いが、あれは嫌いだ。極楽には行きたいが、地獄には行きたくない」という分別心や執着心を離れ、何事も在るがまま受け入れさせて頂ける全肯定の心を作らせて頂く為の信仰です。

言い換えれば、自らが心の依りどころとするに値するものを持つという意味での信仰です。

先ほど、「信仰がなくても、死の恐怖や死の苦しみを克服できるお方は、それでも構わない」と言いましたが、実は信仰をしないと言われるお方も、すでに依りどころとなるものを持っておられる筈なのです。

違うのは、その依りどころが、神仏への信仰ではなく、それ以外の何かであるという点です。

例えば、「お金しか頼れない」というお方は、お金を依りどころとし、信仰の対象として拝んでいるのです。

「家族しか頼れない」お方は、家族が信仰の対象であり、「わが子だけが頼りだ」というお方は、子供を心の依りどころとしているのです。

「信じるものも、心の依りどころも何も持たない」と言われるお方もまた、「信じるものも、心の依りどころも持たない」事を自己の信条とし、自己の判断を信じて生きている事に変わりはなく、何も信じていない訳ではありません。

こうして見てくると、信じるものも、心の依りどころも何も持たないというお方は、一人もいないと言っていいでしょう

要するに、お金であれ、家族であれ、子供であれ、自分自身であれ、他の何かであれ、神仏以外の何かを信じ、心の依りどころとして生きている事に変わりはないのです。


世間虚仮、唯仏是真


そうだとすれば、残る問題は、「果たしてそれらが心の依りどころとして信ずるに値するか?信じるに値する心の依りどころとは何か?」という事ですが、残念ながら、いま挙げたものはいずれも、心の依りどころとして信じるに値するものとは言えません。何故なら、それらはみな、移ろい易く、崩れ易いものだからです。

諸行無常の世の中にあって、形あるものは、自分であれ、お金であれ、家族であれ、子供であれ、親であれ、すべて移ろい易いものであり、真に信じるに値するものとはなり得ないのです。

例えば、子供を心の依りどころとしていても、親より先に死ぬかも知れませんし、親の面倒を見てくれるという保証もありません。

日蓮聖人は、「父母は常に子を念(おも)えども、子は父母を思わず、親は十人の子を養えども、子は一人の母を養うことなし」と嘆いておられますが、現代においても、頼りとしていた子供に裏切られ、泣いている親は数知れません。

その逆もしかりで、親に虐待されて亡くなったり大けがをする児童が後を絶たない現状を見れば、肉親といえども、信じるに値しない事が分ります。

ましてやお金が信頼できる筈もなく、遺産相続をめぐって、家族同士が醜い争いを繰り広げたり、お金にまつわる殺傷事件が日常茶飯事である事を見ても明らかでしょう。

勿論、自分以外に何も信じるものを持たないと言われるお方も例外ではありません。その自分もまた、一寸先も分らない迷い人であり、ひとたび無常の嵐が吹けば、為す術もなく消え去る朝露のような存在に過ぎないのです。

聖徳太子が「世間虚仮、唯仏是真(せけんこけ、ゆいぶつぜしん)」とおっしゃっておられるように、諸行無常の中にあって変わらないものは、仏(仏法)しかなく、真に心の依りどころとして信じるに値するものは、仏(仏法)以外にはあり得ません。


病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し


菩薩様が詠まれた道歌に、
  病むも好し 生きるも死ぬもみんな好し
    弥陀の救いの 中なればこそ

 という歌がありますが、何故「病むも生きるも死ぬもみんな好し」と頷けるのかと言えば、み仏の救いの中にいるからです。

今まで何度もお話しているように、地獄が地獄、極楽が極楽なのではありません。 「極楽は好いが、地獄は嫌だ」という分別心が地獄を作り、「地獄でも喜んで行かせて頂きます」という不動の信心が、極楽を見せてくれるのです。

地獄が極楽になったり、極楽が地獄になったりするのは、幸不幸というものが、私たちの思い方、受け止め方一つにかかっているからです。

私たちの心をおいて他に、地獄も極楽もありません。

お経には、「十万億土(注1)彼方に行かなければ極楽はない」と説かれていますが、何故そんな気の遠くなるような彼方まで行かなければいけないのでしょうか?

仮に宇宙の果てまで行けたとしても、残念ながらそこに極楽はありません。何故なら、極楽は、自分の中にあるからです。

お大師様が、『般若心経秘鍵』の中で、
  それ仏法 遥かに非ず 心中にして 即ち近し
  真如 外にあらず 身を棄てて 何んか求めん
    迷悟 我にあり 発心すれば 即ち到る
    明暗 他に非ず 信修すれば 忽ちに証す
(注2)
 と説いておられるように、わが身を棄てて、極楽(悟り、光明、救いの世界)を求めても、そんな理想郷はどこにもありません。   

自分の居る場所が、そのまま極楽になり、病気をしても、病気をしている六尺病床が、極楽になるのです。

地獄も極楽も、幸も不幸も、何処からもやって来ません。全て自分自身の中にあります。

菩薩様が代受苦行という苦しみの極みの中でおっしゃった「有り難い」というお言葉、そして、「お大師様は、ただ信じるのではなく、信じ切らなければいけない」というお言葉を見れば、何が地獄で、何が極楽であるかがよく分ります。


地獄極楽は己が心次第


「一緒に極楽へ行ってくれますか?」と言われたら、誰でも「はい」と答えます。極楽は好都合な所ですから、素直に「はい」と答えられるのです。

では、「一緒に地獄へ行ってくれませんか?」と言われたらどうでしょうか?誰も地獄へなど行きたくありませんから、素直に「はい」とは答えられません。

そこで「はい」と答えられるようになるには、誰も行きたくない地獄へ行ける心に変わらなければなりません。

つまり、「お大師様、菩薩様のお指図であれば、喜んで地獄へご一緒させて頂きます」と答えられるまで深く信じる心にならなければ、地獄へは行けないのです。

ここで大切な事は、「極楽へ行ってくれますか?」と言われ、「はい」と答えて行く極楽が本当の極楽ではなく、また「地獄へ行ってくれますか?」と言われ、「はい」と答えて行く地獄が本当の地獄ではないという事です。

何故なら、極楽へは、不動の信心がなくても行けますが、地獄へは、不動の信心がなければ行けないからです。

不動の信心を成就して行く地獄は、もはや地獄ではありません。譬え地獄の鬼であっても、不動の信心を成就したお方の心を苦しめたり、迷わせたりする事は出来ないからです。

お大師様、菩薩様の救いの御手の中にいれば、お大師様、菩薩様を信じ切っていれば、病む事も老いる事も、生きる事も死ぬ事もすべて好しと頷けるのはその為です。

「地獄へ行ってくれますか?」と言われて「はい」と答えられたあなたは、すでにみ仏と一体であり、極楽に居るお方です。

勿論、その反対もしかりで、お大師様、菩薩様を信じ切る心がなければ、極楽も地獄と何ら変わりありません。

地獄、極楽は私たちの心が作り出す世界であり、心と離れて地獄極楽がある訳ではない事がお分かり頂けたと思います。

地獄を見るか、極楽を見るかは、ひとえに私たちの心一つにかかっているのです。


かけがえのない糧


お大師様、菩薩様、み仏様のお指図に素直に従えるか否か、その心に到達しているか否かを自らの心に問い、その心が出来ていれば、あなたはすでに死の恐怖を克服しておられるお方と言っていいでしょう。

しかし、仮にまだその心に到達出来ていないとしても、がっかりする必要はありません。一日も早くその心に到達出来るよう、日々精進をしてゆけばよいのですから。

大切な事は、まず今の自分の姿を在りのままに知る事であり、それを認めた上で不動の信心を確立できるよう、自らを高めていく事です。

勿論、不動の信心を確立する道は、決して平坦な道のりではありません。

しかし、ただの原石が、磨き上げられて光り輝く宝石に生まれ変わるように、不動の信心も、様々な試練や、不都合な出来事に遭遇する中で培われていくものであり、ただ好都合な事だけを求め、不動の信心に到達できる日が来るのを何もせずに待っているだけでは、その日は永遠に訪れません。

不都合な不治の病も、不都合な出来事も、自らを高め、不動の信心を確立する為に与えられたかけがえのない糧であり、魂の研磨剤なのです。

菩薩様が、『道歌集』の中で、
  いつの日か 苦難な縁起にあうときは
    苦しむことが 菩提(ぼだい)への道
  苦しみを 悲しむことより喜べよ
    深き悩みが 菩提(さとり)となるなり
  人になれ 人になれよとみ仏は
    心苦しめ 人とならしむ
  苦しみに あいてこそ知るみ仏の
    法(のり)のみちびき 慈悲の深さよ
  苦しみが あるから菩提(ぼだい)の花が咲く
    苦をもつ人こそ しあわせなりけり

 と詠っておられるように、好都合で楽な道からは、不動の信心も死の恐怖を克服する力も勇気も安心も生まれません。

不都合極まりない、様々な悩み苦しみが待ち受けている道にこそ、美しい菩提(信心、悟り)の花は咲くのです。

合掌

平成28年7月18日


病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(1)
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(注1)『阿弥陀経』には、阿弥陀如来がおられる極楽浄土は、十万億の仏国土を通り過ぎた彼方にあると説かれている。
十万億土とは、人間が想像する事もできない無限の彼方にあるという意味の比喩的表現である。

 

(注2)そもそも、み仏の教え(悟り)は、遥か彼方にあるものではなく、わが心の中にあって、真に近いものである。真理はわが心の外にあるものではないから、わが身を棄ててどこに真理を求めようというのか。迷いと悟りは、自分にあるから、道を求める心を発せば、必ず悟りの境地に到達する事が出来るのである。光明の世界と無明の世界は、自分以外にあるのではないから、信じて精進すれば、たちどころに光明(悟り)の世界を実証する事が出来るのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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