桜紋の扉―自殺防止への取り組み、納骨堂「帰郷庵」へのご納骨、供養の意義などについてご紹介します。
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病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(5)



裸で生まれて裸で帰る


菩薩様は常々「無常の域という終着駅に到達しなければ救いはありません」とおっしゃっておられましたが、無常の域とは、真実の自己に目覚め、不都合な出来事を悟りに変え、死の恐怖や様々な人生苦を克服した大安心の境地と言い換えてもいいでしょう。

何故人は死ぬのか?何故私たちに死が与えられているのか?

これは非常に難しい問いですが、少なくとも、死が苦しむ為に与えられているのでない事だけは確かです。

何度もお話しているように、生も死も諸行無常の真理の中のひとこまに過ぎず、そこに苦の概念はありません。にも拘わらず、私たちはその死を苦しみと感じています。

死が、好都合な生を終わらせる不都合極まりないものだからですが、御法歌『無常教える花仏』の一番の歌詞に、
   どこから来るか 桜の花は
   春の縁で 咲くという
     裸で生まれて 裸で帰る
     無常教える花吹雪 花吹雪
 と詠われているように、死は、地位や名誉や財産の有無に拘わりなく、万人平等に訪れ、すべてをリセットし、裸で生まれてきた時と同じ状態に戻してくれます。

この世で見上げるような財の山を築いても、所詮、無常の風が吹けば、たちどころに崩れ去る砂上の楼閣に過ぎません。

目に見えない様々な功徳や数々の罪業を除き、この世で築いてきた形あるものは何ひとつ持っていけないというこの厳粛な事実こそ、死が与えられている意味を象徴する何よりの証と言っていいでしょう。


死を知っている草花たち


それだけではありません。死は、表裏一体である生を輝かしいものとしてくれるかけがえのない存在でもあります。

例えば、野辺に咲いている草花や、仏壇にお供えしてある生花は、やがて何日かすれば萎れ、枯れてゆきます。

何故枯れるのかと言えば、いのちがあるからです。生きているから、萎れ、枯れ、散ってゆくのです。

しかし、この草花たちは、ただ咲いているのではありません。やがて萎れ、枯れ、散ってゆかなければならない事を知って咲いているのです。

自らの死を知っているからこそ、限られた一瞬一瞬のいのちを懸命に生き、その晴れ姿を見せてくれているのです。

もしこの草花たちが、造花だったらどうでしょうか?

造花は萎れも、枯れも、散りもしません。造花にはいのちがありませんから、当たり前です。ですから、いのちのない造花にとって、死は何の意味も持ちません。これも当たり前です。

それに対し、限りあるいのちを生きる草花たちは、やがて萎れ、枯れ、散ってゆかねばなりませんから、死は草花たちにとって、とても大きな意味を持っています。


生花と造花の違い


その違いは、生花と造花の美しさの違いを比べてみれば、よく分かります。

私たちが野辺に咲く草花や仏壇にお供えしてある生花を見て、その美しさに心を癒されるのは、やがて萎れ、枯れ、散ってゆかねばならない限りある刹那のいのちを、精一杯生きているからです。

その美しさは、単なる草花の美しさと言うより、生きとし生けるものが持ついのちの美しさと言ってもいいでしょう。

勿論、造花には造花の美しさがあります。しかし、造花が草花や生花に及ばないのは、いのちの美しさを持っていないという事です。

造花が持つ美しさは、あくまで人間が人工的に作った、いのちのないものの美しさに過ぎません。

いのちのない造花は、どれほど美しく作られていても、所詮、いのちのある生花の美しさにはかなわないのです。

その代わり、造花は、病気もしないし、萎れも枯れも死にもしません。命がないのですから当たり前です。

しかし、いのちある草花や生花は、生きているからこそ、萎れ、枯れ、散ってゆかねばなりません。私たち人間も、生きているからこそ、病み、老い、死んでゆかねばならないのです。

それが、生きとし生けるものが必ず従わねばならない諸行無常(万物流転)の大原則です。


いのちある者だけが生き方を選べる


いのちあるものと、いのちなきもののこの決定的な違いは、美しさだけでなく、その生き方にも大きく影響します。

いのちのない造花は、どのように生きようとか、どのように生きれば美しくなれるかという事を考える必要がありませんし、考えても意味がありません。もうこれ以上、変りようがないからです。

しかし、草花や生花や私たち人間は、いのちがある故に、どのような姿にも変わり得る可能性を秘めています。美しくなる事もできれば、醜くもなる事もできるのです。

そして、より美しく咲きたい、より好く生きたいと願うなら、限りあるいのちをどのように生きれば、より美しく咲かせる事が出来るか、この世に生まれてきた目的は何なのかを考え、そのように生きようと努力しなければなりません。

日々刻々と変化し続けるいのちだからこそ、より好く生きる道をさがし求めなければならないのです。

これは、いのちある者の宿命であり、避けて通れない道なのです。

生と死は表裏一体ですから、より好く生きる道を求める事は、より好く死ぬ道を求める事でもあります。

その逆もまた然りで、生きている者が避けて通れない死を見つめる事は、より好く生きる道を見出す事にも通じています。

「そんな難しい事を考えなくても、生きてゆく事は出来ますよ」と言われるかも知れませんが、確かに生きてゆく事は出来るでしょう。

しかし、かけがえのない人生をより好く生きたいと思えば、ただ時間の流れるままに身を任せているだけでは、より好く生きる事は出来ません。

いのちあるものには必ず死があるからこそ、限られたいのちをいかに生きるかが、常に問われているのです。


死刑囚と無期囚


いのちの生き方、生かし方を考える上で決定的に重要な事は何でしょうか?

私は、いのちあるものには必ず死があるという当たり前の事実を自覚する事ではないかと思います。

菩薩様が、『道歌集』の中で、
  人よ人 死を見て悲しむことよりも
    死のあることを 忘れるな人

 と詠っておられるのは、自己の死に直面する事が、より好く生きる上で何よりも大切だからです。

死がまだ漠然としている状態で生きるいのちと、死を自覚して生きるいのちとでは、生きる意味が根本的に違ってきます。

生だけを見つめていては、生きる事の意味も、いのちの本当の尊さも分かりません。

死を自覚して初めて、生きる事の意味も尊さも、生かされている事の有難さも、身に沁みて分ってくるのです。

よく、死期がはっきり見えている末期がん患者は死刑囚に、まだ死期が見えていない一般人は無期囚に譬えられますが、死刑囚と無期囚のどちらが刑務所の中で生き生きとした生活をしているかと言えば、意外にも死刑囚なのだそうです。

何故かといえば、死期が確実に迫っている死刑囚は、残されたいのちを精一杯生きようとするのに対し、刑務所へ何年入っていなければならないかが決まっていない無期囚は、どうしても緊迫感がないため、生き生きとした生活が出来ない為です。

この事実を見ても、自己の死を自覚する事が、より好く生きていく上においていかに大切であるかがよく分ります。

合掌

平成28年6月11日


病むも好し生きるも死ぬもみんな好し(1)
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